「四 」二百 十 日 夏目 漱石
「おい これ から 曲がって いよいよ 登る んだろう 」と 圭 さん が 振り返る 。
「ここ を 曲がる か ね 」「何でも 突き当り に 寺 の 石段 が 見える から 、門 を 這入ら ず に 左 へ 廻れ と 教えた ぜ 」「饂飩屋 の 爺さん が か 」と 碌さん は しきりに 胸 を 撫で廻す 。
「そう さ 」「あの 爺さん が 、何 を 云う か 分った もんじゃない 」「なぜ 」「なぜって 、世の中 に 商売 も あろうに 、饂飩屋 に なる なんて 、第一 それから が 不了簡 だ 」「饂飩屋 だって 正業 だ 。 金 を 積んで 、貧乏人 を 圧迫 する の を 道楽 に する ような 人間 より 遥かに 尊 と い さ 」「尊 とい かも 知れない が 、どうも 饂飩屋 は 性 に 合わない 。
――しかし 、とうとう 饂飩 を 食わせられた 今 と なって 見る と 、いくら 饂飩屋 の 亭主 を 恨んで も 後の祭り だ から 、まあ 、我慢して 、ここ から 曲がって やろう 」「石段 は 見える が 、あれ が 寺 かなあ 、本堂 も 何も ない ぜ 」「阿蘇 の 火 で 焼け ちまった んだろう 。 だから 云 わない 事 じゃない 。
――おい 天気 が 少々 剣呑 に なって 来た ぜ 」「なに 、大丈夫 だ 。
天 祐 が ある んだ から 」「どこ に 」「どこ に でも ある さ 。
意思 の ある 所 に は 天祐 が ごろごろ している ものだ 」「どうも 君 は 自信家 だ 。
剛 健 党 に なる か と 思う と 、天 祐 派 に なる 。
この 次ぎ に は 天 誅組 に でも なって 筑波 山 へ 立て籠る つもり だろう 」「なに 豆腐 屋 時代 から 天 誅組 さ 。
―― 貧乏人 を いじめる ような ―― 豆腐 屋 だって人間 だ ―― いじめるって 、 何ら の 利害 もない ん だ ぜ 、 ただ 道楽 なんだ から 驚 ろく 」 「 いつ そんな 目 に 逢った ん だい 」 「 いつでも いい さ 。 桀紂 と 云えば 古来 から 悪人 として 通り者 だが 、二十世紀 は この 桀紂 で 充満している んだ ぜ 、しかも 文明 の 皮 を 厚く 被ってる から 小憎らしい 」「皮 ばかり で 中味 のない 方が いい くらい な もの か な 。
やっぱり 、金 が あり 過ぎて 、退屈だ と 、そんな 真似 が したく なる んだ ね 。
馬鹿 に 金 を 持たせる と 大概 桀紂 に なりたがる んだろう 。
僕 の ような 有徳 の 君子 は 貧乏 だ し 、彼ら の ような 愚劣 な 輩 は 、人 を 苦しめる ために 金銭 を 使っている し 、困った 世の中 だ なあ 。
いっそ 、どう だい 、そう 云う 、も もんが あを 十 把 一 と からげにして 、阿蘇 の 噴火口 から 真逆様に 地獄 の 下 へ 落しちまったら 」「今に 落としてやる 」と 圭さん は 薄黒く 渦巻く 煙り を 仰いで 、草鞋足 を うんと 踏張った 。
「大変な 権 幕 だ ね 。
君 、大丈夫 かい 。
十 把 一 と からげ を 放り込まない うちに 、君 が 飛び込んじゃいけない ぜ 」「あの 音 は 壮烈だ な 」「足 の 下 が 、もう 揺れている ようだ 。
――おい ちょっと 、地面 へ 耳 を つけて 聞いて 見た まえ 」「どんな だい 」「非常な 音 だ 。
たしかに 足 の 下 が うなってる 」「その 割に 煙り が こない な 」「風 の せい だ 。
北風 だ から 、右 へ 吹きつける んだ 」「樹 が 多い から 、方角 が 分らない 。
もう 少し 登ったら 見当 が つく だろう 」しばらく は 雑木林 の 間 を 行く 。
道 幅 は 三 尺 に 足らぬ 。
いくら 仲 が 善くて も 並んで 歩行く 訳 に は 行かぬ 。
圭 さん は 大きな 足 を 悠々と 振って 先 へ 行く 。
碌 さん は 小さな 体 躯 を すぼめて 、小 股 に 後 から 尾いて 行く 。
尾 いて 行き ながら 、圭 さん の 足跡 の 大きい の に 感心 して いる 。
感心 し ながら 歩行 いて 行く と 、だんだん おくれて しまう 。
路 は 左右 に 曲折 して 爪先 上り だ から 、三十 分 と 立た ぬ うち に 、圭 さん の 影 を 見失った 。
樹 と 樹 の 間 を すかして 見て も 何にも 見え ぬ 。
山 を 下りる 人 は 一 人 も ない 。
上る もの に も 全く 出合わ ない 。
ただ 所々 に 馬 の 足跡 が ある 。
たまに 草 鞋 の 切れ が 茨 に かかって いる 。
そのほか に 人 の 気色 は さらに ない 、饂飩 腹 の 碌 さん は 少々 心細く なった 。
きのう の 澄み切った 空 に 引き易えて 、今朝 宿 を 立つ 時 から の 霧 模様 に は 少し 掛念 も あった が 、晴れ さえ すれば と 、好い加減な 事 を 頼み にして 、とうとう 阿蘇 の 社 まで は 漕ぎつけた 。
白木 の 宮 に 禰宜 の 鳴らす 柏手 が 、森閑 と 立つ 杉 の 梢 に 響いた 時 、見上げる 空 から 、ぽつり と 何やら 額 に 落ちた 。
饂飩 を 煮る 湯気 が 障子 の 破れ から 、吹いて 、白く 右 へ 靡いた 頃 から 、午 過ぎ は 雨 か な とも 思われた 。
雑木林 を 小 半 里 ほど 来たら 、怪しい 空 が とうとう 持ち 切れなく なった と 見えて 、梢 に したたる 雨 の 音 が 、さあ と 北 の 方 へ 走る 。
あと から 、すぐ 新しい 音 が 耳 を 掠めて 、翻える 木 の 葉 と 共に また 北 の 方 へ 走る 。
碌 さん は 首 を 縮めて 、えっと 舌打ち を した 。 一 時間 ほど で 林 は 尽きる 。
尽きる と 云 わん より は 、 一度に 消える と 云 う 方 が 適当であろう 。
ふり返る 、後 は 知らず 、貫いて 来た 一筋道 の ほか は 、東 も 西 も 茫々たる 青草 が 波 を 打って 幾段と なく 連なる 後 から 、むくむく と 黒い 煙り が 持ち上がって くる 。
噴火 口 こそ 見え ない が 、煙り の 出る のは 、つい 鼻 の 先 である 。
林 が 尽きて 、青い 原 を 半丁 と 行かぬ 所 に 、大入道 の 圭さん が 空 を 仰いで 立って いる 。
蝙蝠 傘 は 畳んだ まま 、帽子 さえ 、被ら ずに 毬栗 頭 を ぬっく と 草 から 上 へ 突き出して 地形 を 見廻して いる 様子 だ 。 「 おうい 。
少し 待って くれ 」「おうい 。
荒れて 来た ぞ 。
荒れて 来た ぞう う 。
しっかり しろう 」「しっかり する から 、少し 待って くれえ 」と 碌さん は 一生懸命に 草 の なか を 這い上がる 。
ようやく 追いつく 碌 さん を 待ち受けて 、「おい 何 を ぐずぐず している んだ 」と 圭 さん が 遣っつける 。 「だから 饂飩 じゃ 駄目だ と 云った んだ 。 ああ 苦しい 。
――おい 君 の 顔 は どうした ん だ 。
真 黒 だ 」「そう か 、君 の も 真 黒 だ 」圭 さん は 、無雑作 に 白地 の 浴衣 の 片袖 で 、頭 から 顔 を 撫で廻す 。
碌 さん は 腰 から 、ハンケチ を 出す 。
「なるほど 、拭く と 、着物 が どす黒く なる 」「僕 の ハンケチ も 、こんな だ 」「ひどい もの だ な 」と 圭 さん は 雨 の なか に 坊主頭 を 曝し ながら 、空模様 を 見廻す 。
「よ な だ 。
よなが 雨 に 溶けて 降って くるんだ 。
そら 、その 薄 の 上 を 見た まえ 」と 碌 さん が 指 を さす 。
長い 薄 の 葉 は 一面に 灰 を 浴びて 濡れ ながら 、靡く 。
「なるほど 」「困った な 、こりゃ 」「なあ に 大丈夫 だ 。
つい そこ だ もの 。
あの 煙 り の 出る 所 を 目当 に して 行けば 訳 は ない 」「訳 は なさそうだ が 、これ じゃ 路 が 分らない ぜ 」「だから 、さっき から 、待っていた の さ 。
ここ を 左 り へ 行く か 、右 へ 行く か と 云う 、ちょうど 股 の 所 なんだ 」「なるほど 、両方 共 路 に なってる ね 。
―― しかし 煙り の 見当 から 云 う と 、 左 り へ 曲がる 方 が よ さ そうだ 」 「 君 は そう 思う か 。
僕 は 右 へ 行く つもりだ 」「どうして 」「どうしてって 、右の方 に は 馬 の 足跡 が ある が 、左の方 に は 少しも ない 」「そうかい 」と 碌さん は 、身躯 を 前 に 曲げ ながら 、蔽いかかる 草 を 押し分けて 、五六歩 、左の方へ 進んだ が 、すぐに 取って返して 、「駄目のようだ 。 足跡 は 一 つ も 見当ら ない 」と 云った 。 「ない だろう 」「そっち に は ある かい 」「うん 。
たった 二 つ ある 」「二 つ ぎり かい 」「そう さ 。
たった 二 つ だ 。
そら 、 ここ と ここ に 」 と 圭 さん は 繻子 張 の 蝙蝠 傘 の 先 で 、 かぶさる 薄 の 下 に 、 幽 か に 残る 馬 の 足跡 を 見せる 。
「これ だけ かい 心細い な 」「なに 大丈夫 だ 」「天祐 じゃない か 、君 の 天祐 は あてに ならない 事 夥しい よ 」「なに これ が 天祐 さ 」と 圭さん が 云い 了らぬ うちに 、雨 を 捲いて 颯と おろす 一陣 の 風 が 、碌さん の 麦藁帽 を 遠慮なく 、吹き込めて 、五六間 先 まで 飛ばして 行く 。
眼 に 余る 青 草 は 、風 を 受けて 一度に 向う へ 靡いて 、見る うちに 色 が 変る と思う と 、また 靡き 返して もと の 態 に 戻る 。
「痛快 だ 。
風 の 飛んで 行く 足跡 が 草 の 上 に 見える 。
あれ を 見た まえ 」と 圭 さん が 幾重 と なく 起伏 する 青い 草 の 海 を 指す 。
「痛快 で も ない ぜ 。
帽子 が 飛ん じまった 」「帽子 が 飛んだ ?
いい じゃ ない か 帽子 が 飛んだ って 。 取って くる さ 。
取って 来て やろう か 」圭 さん は 、いきなり 、自分 の 帽子 の 上 へ 蝙蝠 傘 を 重し に 置いて 、颯 と 、薄 の 中 に 飛び込んだ 。
「おい この 見当 か 」「もう 少し 左 り だ 」圭 さん の 身躯 は 次第に 青い もの の 中 に 、深く はまって 行く 。
しまい に は 首 だけ に なった 。
あと に 残った 碌 さん は また 心配に なる 。
「 おうい 。
大丈夫 か 」「何 だ あ 」と 向う の 首 から 声 が 出る 。
「大丈夫 かよう 」やがて 圭 さん の 首 が 見え なく なった 。
「おうい 」鼻 の 先 から 出る 黒煙 り は 鼠色 の 円柱 の 各 部 が 絶間なく 蠕動 を 起し つつ ある ごとく 、むくむく と 捲き上がって 、半空 から 大気 の 裡 に 溶け込んで 碌さん の 頭 の 上 へ 容赦なく 雨 と 共に 落ちてくる 。
碌 さん は 悄然 と して 、首 の 消えた 方角 を 見つめて いる 。
しばらく する と 、まるで 見当 の 違った 半丁 ほど 先 に 、圭 さん の 首 が 忽然 と 現われた 。
「 帽子 は ないぞう 」 「 帽子 は いらない よう 。
早く 帰って こうい 」圭 さん は 坊主 頭 を 振り 立て ながら 、薄 の 中 を 泳いで くる 。
「おい 、どこ へ 飛ばし たんだい 」「どこ だ か 、相談 が 纏らない うちに 飛ばし ちまったんだ 。
帽子 は いい が 、 歩 行く の は 厭 に なった よ 」 「 もう いやに なった の か 。
まだ ある かない じゃない か 」「あの 煙 と 、この 雨 を 見る と 、何だか 物凄くって 、あるく 元気 が なくなる ね 」「今 から 駄々 を 捏ねちゃ 仕方 が ない 。 ――壮快 じゃ ない か 。
あの むくむく 煙 の 出て くる ところ は 」「その むくむく が 気味 が 悪るい んだ 」「冗談 云っちゃ 、いけない 。 あの 煙 の 傍 へ 行く んだ よ 。
そうして 、あの 中 を 覗き込む んだ よ 」「考える と 全く 余計な 事 だ ね 。
そうして 覗き込んだ 上 に 飛び込めば 世話 は ない 」「ともかくも あるこう 」「ハハハハ ともかくも か 。
君 が ともかくも と 云い出す と 、つい 釣り込まれる よ 。
さっき も ともかくも で 、とうとう 饂飩 を 食っちまった 。 これ で 赤痢 に でも 罹 かれば 全く ともかくも の 御蔭 だ 」「 いい さ 、 僕 が 責任 を 持つ から 」「 僕 の 病気 の 責任 を 持ったって 、 しようが ない じゃない か 。 僕 の 代理 に 病気 に なれ も しまい 」「まあ 、いい さ 。
僕 が 看病 を して 、僕 が 伝染 して 、本人 の 君 は 助ける ように して やる よ 」「そう か 、それ じゃ 安心 だ 。
まあ 、少々 あるく か な 」「そら 、天気 も だいぶ よく なって 来た よ 。
やっぱり 天 祐 が ある んだ よ 」「ありがたい 仕合せ だ 。
あるく 事 は あるく が 、今夜 は 御馳走 を 食わせ なくっちゃ 、いやだ ぜ 」「また 御馳走 か 。
あるき さえ すれば きっと 食わせる よ 」「それ から ……」「まだ 何か 注文 が ある の かい 」「うん 」「何 だい 」「君 の 経歴 を 聞かせる か 」「僕 の 経歴 って 、君 が 知ってる 通り さ 」「僕 が 知ってる 前の さ 。 君 が 豆腐屋 の 小僧 であった 時分 から ……」「小僧 じゃない ぜ 、これ でも 豆腐屋 の 伜 なんだ 」「その 伜 の 時 、寒磬寺 の 鉦 の 音 を 聞いて 、急に 金持 が にくらしく なった 、因縁 話し を さ 」「ハハハハ そんなに 聞きたければ 話す よ 。
その代り 剛健 党 に なら なくちゃ いけない ぜ 。
君 なん ざ あ 、金持 の 悪党 を 相手 に した 事 が ない から 、そんなに 呑気 な んだ 。
君 は ディッキンス の 両 都 物語り と 云う 本 を 読んだ 事 が ある か 」「ない よ 。
伊賀 の 水月 は 読んだ が 、ディッキンス は 読まない 」「それ だ から なお 貧民 に 同情 が 薄い んだ 。
――あの 本 の ね しまい の 方 に 、御医者さん の 獄中 で かいた 日記 が ある がね 。
悲惨な もの だ よ 」「へえ 、どんな もの だい 」「そりゃ 君 、仏国 の 革命 の 起る 前 に 、貴族 が 暴威 を 振って 細民 を 苦しめた 事 が かいて あるんだ が 。
――それ も 今夜 僕 が 寝 ながら 話して やろう 」「うん 」「なあ に 仏国 の 革命 なんて えの も 当然 の 現象 さ 。
あんなに 金持ち や 貴族 が 乱暴 を すりゃ 、ああ なる の は 自然の 理窟 だ から ね 。
ほら 、あの 轟々 鳴って 吹き出す の と 同じ 事 さ 」と 圭さん は 立ち留まって 、黒い 煙 の 方 を 見る 。
濛々 と 天地 を 鎖 す 秋雨 を 突き 抜いて 、 百 里 の 底 から 沸き 騰 る 濃い もの が 渦 を 捲 き 、 渦 を 捲 いて 、 幾 百 噸 ( トン ) の 量 と も 知れ ず 立ち上がる 。
その 幾 百 噸 の 煙り の 一分子 が ことごとく 震動 して 爆発 する か と 思わるる ほど の 音 が 、遠い 遠い 奥 の 方 から 、濃い もの と 共に 頭 の 上 へ 躍り上がって 来る 。
雨 と 風 の なか に 、毛虫 の ような 眉 を 攅めて 、余念 も なく 眺めて いた 、圭さん が 、非常な 落ちついた 調子 で 、「雄大 だろう 、君 」と 云った 。 「全く 雄大 だ 」と 碌 さん も 真面目 で 答えた 。
「恐ろしい くらい だ 」しばらく 時 を きって 、碌 さん が 付け加えた 言葉 は これ である 。
「僕 の 精神 は あれ だ よ 」と 圭 さん が 云う 。
「 革命 か 」 「 うん 。
文明 の 革命 さ 」「文明 の 革命 と は 」「血 を 流さ ない の さ 」「刀 を 使わ なければ 、何 を 使う のだい 」圭 さん は 、何にも 云わず に 、平手 で 、自分 の 坊主頭 を ぴしゃぴしゃ と 二 返 叩いた 。
「頭 か 」「うん 。
相手 も 頭 で くる から 、 こっち も 頭 で 行く ん だ 」「 相手 は 誰 だい 」「 金 力 や 威力 で 、 たより のない 同胞 を 苦しめる 奴 ら さ 」「 うん 」「 社会 の 悪徳 を 公然 商売 に して いる 奴 ら さ 」「 うん 」「 商売 なら 、 衣食 の ため と 云 う 言い訳 も 立つ 」「 うん 」「 社会 の 悪徳 を 公然 道楽 に して いる 奴 ら は 、 どうしても 叩きつけ なければ なら ん 」「 うん 」「 君 も やれ 」「 うん 、 やる 」 圭 さん は 、 のっそ り と 踵 を めぐらした 。 碌 さん は 黙然 と して 尾いて 行く 。
空 に ある もの は 、煙り と 、雨 と 、風 と 雲 である 。
地 に ある もの は 青い 薄 と 、女郎花 と 、所々 に わびしく 交る 桔梗 のみ である 。
二 人 は 煢々 と して 無人の 境 を 行く 。
薄 の 高さ は 、腰 を 没する ほど に 延びて 、左右 から 、幅 、尺足らず の 路 を 蔽うて いる 。
身 を 横 に しても 、草 に 触れず に 進む 訳 に は 行かぬ 。
触れれば 雨 に 濡れた 灰 が つく 。
圭 さん も 碌 さん も 、白地 の 浴衣 に 、白 の 股引 に 、足袋 と 脚絆 だけ を 紺 に して 、濡れた 薄 を がさつかせて 行く 。
腰 から 下 は どぶ 鼠 の ように 染まった 。
腰 から 上 と いえども 、降る 雨 に 誘われて 着く 、よな を 、一面に 浴びた から 、ほとんど 下水 へ 落ち込んだ と 同様の 始末 である 。 ただ さえ 、うねり 、くねっている 路 だ から 、草 が なくっても 、どこ へ どう 続いている か 見極めのつく もの で は ない 。
草 を かぶれば なおさら である 。
地 に 残る 馬 の 足跡 さえ 、ようやく 見つけた くらい だ から 、あと の 始末 は 無論 天 に 任せて 、あるいている と 云わねばならぬ 。
最初の うち こそ 、立ち 登る 煙り を 正面 に 見て 進んだ 路 は 、いつの間にやら 、折れ曲って 、次第に 横 から よな を 受くる ように なった 。
横 に 眺める 噴火 口 が 今度 は 自然に 後ろ の 方 に 見え だした 時 、圭 さん は ぴたり と 足 を 留めた 。
「どうも 路 が 違う ようだ ね 」「うん 」と 碌 さん は 恨めしい 顔 を して 、同じく 立ち 留った 。 「何だか 、情 ない 顔 を している ね 。
苦しい かい 」「実際 情けない んだ 」「どこ か 痛む かい 」「豆 が 一面に 出来て 、たまらない 」「困った な 。
よっぽど 痛い かい 。
僕 の 肩 へ つらまったら 、どう だ ね 。
少し は 歩行き 好い かも 知れない 」「うん 」と 碌 さん は 気のない 返事 を した まま 動かない 。
「宿 へ ついたら 、僕 が 面白い 話 を する よ 」「全体 いつ 宿 へ つく ん だい 」「五 時 に は 湯元 へ 着く 予定 なんだ が 、どうも 、あの 煙り は 妙だ よ 。
右 へ 行って も 、左 り へ 行って も 、鼻 の 先 に ある ばかりで 、遠く も ならなければ 、近く も ならない 」「上りたて から 鼻 の 先 に ある ぜ 」「そう さな 。
もう 少し この 路 を 行って 見ようじゃないか 」「うん 」「それとも 、少し 休む か 」「うん 」「どうも 、急に 元気 が なくなった ね 」「全く 饂飩 の 御蔭 だよ 」「ハハハハ 。
その代り 宿 へ 着く と 僕 が 話し の 御馳走 を する よ 」「話し も 聞き たく なく なった 」「それ じゃ また ビール で ない 恵比寿 でも 飲む さ 」「ふ ふん 。
この 様子 じゃ 、とても 宿 へ 着け そう も ない ぜ 」「なに 、大丈夫 だ よ 」「だって 、もう 暗く なって 来た ぜ 」「どれ 」と 圭 さん は 懐中時計 を 出す 。
「四時 五分 前 だ 。
暗い の は 天気 の せい だ 。
しかし こう 方角 が 変って 来る と 少し 困る な 。
山 へ 登って から 、もう 二三 里 は あるいた ね 」「豆 の 様子 じゃ 、十 里 くらい あるいてる よ 」「ハハハハ 。
あの 煙 り が 前 に 見えた んだ が 、もう ずっと 、後ろ に なって しまった 。
すると 我々 は 熊本 の 方 へ 二三 里 近付いた 訳 かね 」「つまり 山 から それ だけ 遠ざかった 訳 さ 」「そう 云えば そう さ 。
――君 、あの 煙 り の 横 の 方 から また 新しい 煙 が 見え だした ぜ 。
あれ が 多分 、新しい 噴火 口 な んだろう 。
あの むくむく 出る ところ を 見る と 、つい 、そこ に ある ようだ が な 。
どうして 行か れ ない だろう 。
何でも この 山 の つい 裏 に 違いない んだ が 、路 が ない から 困る 」「路 が あったって 駄目だ よ 」「どうも 雲 だか 、煙り だか 非常に 濃く 、頭 の 上 へ やってくる 。 壮 んな もの だ 。
ねえ 、君 」「うん 」「どう だい 、こんな 凄い 景色 は とても 、こう云う 時 で なけりゃ 見られない ぜ 。 うん 、非常に 黒い もの が 降って 来る 。
君 あたま が 大変 だ 。
僕 の 帽子 を 貸して やろう 。
――こう 被って ね 。
それ から 手拭 が ある だろう 。
飛ぶ と いけない から 、上 から 結わい つける んだ 。
――僕 が しばって やろう 。
――傘 は 、畳む が いい 。
どうせ 風 に 逆らう ぎり だ 。
そうして 杖 に つく さ 。
杖 が 出来る と 、 少し は 歩 行ける だろう 」 「 少し は 歩行 きよく なった 。
――雨 も 風 も だんだん 強く なる ようだ ね 」「そう さ 、さっき は 少し 晴れ そうだった が な 。
雨 や 風 は 大丈夫 だが 、足 は 痛む か ね 」「痛い さ 。
登る とき は 豆 が 三 つ ばかり だった が 、一面に なった んだ もの 」「晩 に ね 、僕 が 、煙草 の 吸殻 を 飯粒 で 練って 、膏薬 を 製って やろう 」「宿 へ つけば 、どうで も なる んだ が ……」「あるいてる うち が 難義 か 」「うん 」「困った な 。 ――どこ か 高い 所 へ 登る と 、人 の 通る 路 が 見える んだ が な 。
―― うん 、 あす こ に 高い 草山 が 見える だろう 」 「 あの 右 の 方 かい 」 「 ああ 。
あの 上 へ 登ったら 、噴火 孔 が 一 と 眼 に 見える に 違ない 。
そう したら 、 路 が 分 る よ 」 「 分 るって 、 あす こ へ 行く まで に 日 が 暮れて しまう よ 」 「 待ち たまえ ちょっと 時計 を 見る から 。 四 時 八 分 だ 。
まだ 暮れ やしない 。
君 ここ に 待って いた まえ 。
僕 が ちょっと 物見 を して くる から 」「待ってる が 、帰り に 路 が 分らなくなる と 、それ こそ 大変だ ぜ 。
二 人 離れ離れに なっちまう よ 」「大丈夫 だ 。 どうしたって 死ぬ 気遣 は ない んだ 。 どうかしたら 大きな 声 を 出して 呼ぶ よ 」「うん 。
呼んで くれた まえ 」圭 さん は 雲 と 煙 の 這い廻る なか へ 、猛然と して 進んで 行く 。
碌 さん は 心細く も ただ 一人 薄 の なか に 立って 、頼み に する 友 の 後姿 を 見送って いる 。
しばらく する うち に 圭 さん の 影 は 草 の なか に 消えた 。
大きな 山 は 五 分 に 一 度 ぐらい ずつ 時 を きって 、普段 より は 烈しく 轟 と なる 。
その 折 は 雨 も 煙り も 一度に 揺れて 、余勢 が 横なぐり に 、悄然 と 立つ 碌さん の 体躯 へ 突き当る ように 思われる 。
草 は 眼 を 走らす 限り を 尽くして ことごとく 煙り の なか に 靡く 上 を 、さあさあ と 雨 が 走って 行く 。
草 と 雨 の 間 を 大きな 雲 が 遠慮 も なく 這い 廻 わる 。
碌 さん は 向う の 草山 を 見つめ ながら 、顫えて いる 。
よ な の しずく は 、碌 さん の 下腹 まで 浸み 透る 。
毒々しい 黒煙 り が 長い 渦 を 七 巻 まいて 、むくり と 空 を 突く 途端 に 、碌さん の 踏む 足 の 底 が 、地震 の ように 撼いた と 思った 。
あと は 、山鳴り が 比較的 静まった 。
すると 地面 の 下 の 方 で 、「おおおい 」と 呼ぶ 声 が する 。
碌 さん は 両手 を 、耳 の 後ろ に 宛てた 。
「お おおい 」たしかに 呼んで いる 。
不思議な 事 に その 声 が 妙に 足 の 下 から 湧いて 出る 。
「お おおい 」碌 さん は 思わず 、声 を しるべ に 、飛び出した 。
「お おおい 」と 癇 の 高い 声 を 、肺 の 縮む ほど 絞り出す と 、太い 声 が 、草 の 下 から 、「おおおい 」と 応える 。
圭 さん に 違ない 。
碌 さん は 胸 まで 来る 薄 を むやみに 押し分けて 、ずんずん 声 の する 方 に 進んで 行く 。
「 お おおい 」 「 お おおい 。
どこ だ 」「お おおい 。
ここ だ 」「どこ だ ああ 」「ここ だ ああ 。
むやみに くる と あぶない ぞう 。
落ちる ぞう 」「どこ へ 落ちた んだ ああ 」「ここ へ 落ちた んだ ああ 。
気 を つけろ う 」「気 は つける が 、どこ へ 落ちた んだ ああ 」「落ちる と 、足 の 豆 が 痛い ぞう う 」「大丈夫だ ああ 。
どこ へ 落ちた んだ ああ 」「ここ だ あ 、もう それ から 先 へ 出る んじゃない よ う 。
おれ が そっち へ 行く から 、そこ で 待って いる んだ よ う 」圭 さん の 胴間声 は 地面 の なか を 通って 、だんだん 近づいて 来る 。
「おい 、落ちた よ 」「どこ へ 落ちたんだい 」「見えない か 」「見えない 」「それじゃ 、もう 少し 前 へ 出た 」「おや 、何 だい 、こりゃ 」「草 の なか に 、こんな もの が ある から 剣呑 だ 」「どうして 、こんな 谷 が ある んだろう 」「火熔石 の 流れた あと だよ 。
見た まえ 、なか は 茶色 で 草 が 一 本 も 生えて いない 」「なるほど 、厄介 な もの が ある んだ ね 。 君 、上がれる かい 」「上がれる もの か 。
高さ が 二 間 ばかり ある よ 」「弱った な 。
どう しよう 」「僕 の 頭 が 見える かい 」「毬栗 の 片割れ が 少し 見える 」「君 ね 」「ええ 」「薄 の 上 へ 腹這 に なって 、顔 だけ 谷 の 上 へ 乗り出して 見た まえ 」「よし 、今 顔 を 出す から 待っていたまえ よ 」「うん 、待ってる 、ここ だ よ 」と 圭 さん は 蝙蝠 傘 で 、崖 の 腹 を とんとん 叩く 。
碌 さん は 見当 を 見 計って 、ぐしゃり と 濡れ 薄 の 上 へ 腹 を つけて 恐る恐る 首 だけ を 溝 の 上 へ 出して 、「おい 」「おい 。
どう だ 。
豆 は 痛む か ね 」「豆 なんざ どうでも いい から 、早く 上がって くれた まえ 」「ハハハハ 大丈夫だ よ 。
下 の 方 が 風 が あたら なくって 、かえって 楽だ ぜ 」「楽 だって 、もう 日 が 暮れる よ 、早く 上がらない と 」「君 」「ええ 」「ハンケチ は ない か 」「ある 。 何 に する ん だい 」「落ちる 時 に 蹴 爪 ずい て 生爪 を 剥がした 」「生爪 を ?
痛む かい 」「少し 痛む 」「あるける かい 」「あるける と も 。
ハンケチ が ある なら 抛げて くれた まえ 」「裂いて やろう か 」「なに 、僕 が 裂く から 丸めて 抛げて くれた まえ 。
風 で 飛ぶ と 、いけない から 、堅く 丸めて 落す んだ よ 」「じくじく 濡れてる から 、大丈夫 だ 。
飛ぶ 気遣 は ない 。
いい か 、抛げる ぜ 、そら 」「だいぶ 暗く なって 来た ね 。
煙 は 相変らず 出ている かい 」「うん 。
空中 一面 の 煙 だ 」「いやに 鳴る じゃないか 」「さっき より 、烈しく なった ようだ 。
――ハンケチ は 裂ける かい 」「うん 、裂けた よ 。
繃帯 は もう でき上がった 」「大丈夫 かい 。
血 が 出 やしない か 」「足袋 の 上 へ 雨 と いっしょに 煮 染んでる 」「痛 そうだ ね 」「なあに 、痛い たって 。
痛い の は 生きてる 証拠 だ 」「僕 は 腹 が 痛く なった 」「濡れた 草 の 上 に 腹 を つけている から だ 。
もう いい から 、立ち たまえ 」「立つ と 君 の 顔 が 見え なく なる 」「困る な 。
君 いっその事 に 、ここ へ 飛び込ま ない か 」「飛び込んで 、どうするんだい 」「飛び 込め ない かい 」「飛び込めない 事 も ない が ――飛び込んで 、どうするんだい 」「いっしょに あるく の さ 」「そうして どこ へ 行く つもり だい 」「どうせ 、噴火口 から 山 の 麓 まで 流れた 岩 の あと なんだ から 、この 穴 の 中 を あるいて いたら 、どこか へ 出る だろう 」「だって 」「だって 厭 か 。
厭 じゃ 仕方 が ない 」「 厭 じゃない が ―― それ より 君 が 上がれる と 好 いんだ が な 。
君 どうかして 上がって 見 ない か 」「それ じゃ 、君 は この 穴 の 縁 を 伝って 歩行く さ 。
僕 は 穴 の 下 を あるく から 。
そう したら 、上下 で 話 が 出来る から いい だろう 」「縁 にゃ 路 は ありゃ しない 」「草 ばかり かい 」「うん 。
草 が ね ……」「うん 」「胸 くらい まで 生えて いる 」「ともかくも 僕 は 上がれ ない よ 」「上がれないって 、それ じゃ 仕方 が ない な ――おい 。 ―― おい 。
――おい って 云う のに おい 。 なぜ 黙って る んだ 」「ええ 」「大丈夫 かい 」「何が 」「口 は 利ける かい 」「利ける さ 」「それじゃ 、なぜ 黙って るんだ 」「ちょっと 考えて いた 」「何を 」「穴 から 出る 工夫を さ 」「全体 何だって 、そんな 所 へ 落ちたんだい 」「早く 君に 安心 させよう と 思って 、草山 ばかり 見つめて いた もんだ から 、つい 足元が 御留守に なって 、落ちてしまった 」「それじゃ 、僕の ために 落ちた ような ものだ 。
気の毒だ な 、どうかして 上がって 貰え ない か な 、君 」「そう さな 。
――なに 僕 は 構わ ない よ 。
それ より か 。
君 、早く 立ち たまえ 。
そう 草 で 腹 を 冷やしちゃ 毒 だ 」「腹 なんか どうでも いい さ 」「痛む んだろう 」「痛む 事 は 痛む さ 」「だ から 、ともかくも 立ち たまえ 。
その うち 僕 が ここ で 出る 工夫 を 考えて 置く から 」「考えたら 、呼ぶ んだ ぜ 。
僕 も 考える から 」「よし 」会話 は しばらく 途切れる 。
草 の 中 に 立って 碌 さん が 覚束なく 四方 を 見渡す と 、向う の 草山 へ ぶつかった 黒雲 が 、峰 の 半腹 で 、どっと 崩れて 海 の ように 濁った もの が 頭 を 去る 五六 尺 の 所 まで 押し寄せて くる 。
時計 は もう 五 時 に 近い 。
山 の なかば は ただ さえ 薄暗く なる 時分 だ 。
ひゅう ひゅう と 絶間 なく 吹き 卸ろす 風 は 、吹く たび に 、黒い 夜 を 遠い 国 から 持ってくる 。
刻々 と 逼る 暮色 の なか に 、嵐 は 卍 に 吹き すさむ 。
噴火 孔 から 吹き出す 幾 万 斛 の 煙り は 卍 の なか に 万遍なく 捲き込まれて 、嵐 の 世界 を 尽くして 、どす黒く 漲り 渡る 。 「 おい 。
いるか 」「いる 。
何 か 考えついた かい 」「いい や 。
山 の 模様 は どう だい 」「だんだん 荒れる ばかり だ よ 」「今日 は 何 日 だっけ かね 」「今日 は 九月 二日 さ 」「こと に よる と 二百十日 かも 知れない ね 」会話 は また 切れる 。 二百十 日 の 風 と 雨 と 煙り は 満 目 の 草 を 埋め尽くして 、一丁 先 は 靡く 姿 さえ 、判然と 見え ぬ ように なった 。
「もう 日 が 暮れる よ 。
おい 。
いる かい 」谷 の 中 の 人 は 二百十 日 の 風 に 吹き 浚われた もの か 、うんと も 、すんと も 返事 が ない 。
阿蘇 の 御山 は 割れる ばかりに ごうう と 鳴る 。
碌 さん は 青く なって 、また 草 の 上 へ 棒 の ように 腹這 に なった 。
「お おおい 。
おら ん の か 」 「 お おおい 。
こっち だ 」薄暗い 谷底 を 半 町 ばかり 登った 所 に 、ぼんやり と 白い 者 が 動いて いる 。
手招き を している らしい 。
「なぜ 、そんな 所 へ 行った んだ ああ 」「ここ から 上がる んだ ああ 」「上がれる の か ああ 」「上がれる から 、早く 来 おおい 」碌 さん は 腹 の 痛い の も 、足 の 豆 も 忘れて 、脱兎 の 勢 で 飛び出した 。
「 おい 。
ここ いらか 」「そこ だ 。
そこ へ 、ちょっと 、首 を 出して 見てくれ 」「こう か 。
――なるほど 、こりゃ 大変 浅い 。
これ なら 、僕 が 蝙蝠 傘 を 上 から 出したら 、それ へ 、取っ捕らまって 上がれる だろう 」「傘 だけ じゃ 駄目だ 。 君 、気の毒 だ が ね 」「うん 。
ちっとも 気の毒 じゃ ない 。
どう する んだ 」「兵児帯 を 解いて 、その 先 を 傘 の 柄 へ 結びつけて ――君 の 傘 の 柄 は 曲ってる だろう 」「曲ってる とも 。
大いに 曲って る 」「その 曲って る 方 へ 結びつけて くれ ない か 」「結びつける とも 。
すぐ 結びつけて やる 」「結びつけたら 、その 帯 の 端 を 上 から ぶら下げて くれた まえ 」「ぶら下げる とも 。
訳 は ない 。
大丈夫 だ から 待って いた まえ 。
――そう ら 、長い の が 天竺 から 、ぶら下がったろう 」「君 、しっかり 傘 を 握って いなくっちゃ いけない ぜ 。
僕 の 身体 は 十七 貫 六百 目 ある んだ から 」「何 貫 目 あったって 大丈夫 だ 、安心 して 上がり たまえ 」「いい かい 」「いい とも 」「そら 上がる ぜ 。 ――いや 、いけない 。
そう 、ずり 下がって 来て は ……」「今度 は 大丈夫 だ 。
今 の は 試して 見た だけ だ 。
さあ 上がった 。
大丈夫 だ よ 」「 君 が 滑 べ る と 、 二人 共 落ちて しまう ぜ 」「 だから 大丈夫 だ よ 。
今 の は 傘 の 持ち よう が わるかった んだ 」「君 、薄 の 根 へ 足 を かけて 持ち 応えて いた まえ 。
――あんまり 前 の 方 で 蹈ん張る と 、崖 が 崩れて 、足 が 滑べる よ 」「よし 、大丈夫 。
さあ 上がった 」「足 を 踏ん張った かい 。
どうも 今度 も あぶない ようだ な 」「おい 」「何 だい 」「君 は 僕 が 力 が ない と 思って 、大 に 心配 する が ね 」「うん 」「僕 だって 一人前 の 人間 だよ 」「無論 さ 」「無論 なら 安心 して 、僕 に 信頼 したら よかろう 。
からだ は 小さい が 、朋友 を 一人 谷底 から 救い出す ぐらい の 事 は 出来る つもりだ 」「じゃ 上がる よ 。
そらっ……」 「 そらっ…… もう 少し だ 」 豆 で 一面に 腫れ上がった 両足 を 、 うんと 薄 の 根 に 踏ん張った 碌 さん は 、 素肌 を 二百十 日 の 雨 に 曝した まま 、 海老 の よう に 腰 を 曲げて 、 一生懸命に 、 傘 の 柄 に かじりついて いる 。 麦藁 帽子 を 手拭 で 縛りつけた 頭 の 下 から 、真赤 に いきんだ 顔 が 、八分 通り 阿蘇 卸ろし に 吹きつけられて 、喰い締めた 反っ歯 の 上 には よなが 容赦なく 降ってくる 。 毛 繻子 張り 八 間 の 蝙蝠 の 柄 に は 、幸い 太い 瘤 だらけ の 頑丈な 自然 木 が 、付けて ある から 、折れる 気遣 は まず ある まい 。
その 自然 木 の 彎曲 した 一端 に 、鳴海 絞り の 兵児帯 が 、薩摩 の 強 弓 に 新しく 張った 弦 の ごとく ぴんと 薄 を 押し分けて 、先 は 谷 の 中 に かくれている 。
その 隠れて いる あたり から 、しばらく する と 大きな 毬栗 頭 が ぬっと 現われた 。 やっと 云う 掛声 と 共に 両手 が 崖 の 縁 に かかる が 早い か 、大 入道 の 腰 から 上 は 、斜め に 尻 に 挿した 蝙蝠 傘 と 共に 谷 から 上 へ 出た 。
同時に 碌 さん は 、ど さん と 仰向き に なって 、薄 の 底 に 倒れた 。