36.2 或る 女
一 時間 ほど の 後 に は 葉子 は しかし たった今 ひき起こさ れた 乱脈 騒ぎ を けろりと 忘れた もの の ように 快活で 無邪気に なって いた 。 そして 二 人 は 楽しげに 下宿 から 新 橋 駅 に 車 を 走ら した 。 葉子 が 薄暗い 婦人 待合室 の 色 の はげた モロッコ 皮 の ディバン に [#「 ディバン に 」 は 底 本 で は 「 デイバン に 」] 腰かけて 、 倉地 が 切符 を 買って 来る の を 待って る 間 、 そこ に 居合わせた 貴婦人 と いう ような 四五 人 の 人 たち は 、 すぐ 今 まで の 話 を 捨てて しまって 、 こそこそ と 葉子 に ついて 私 語 きか わす らしかった 。 高慢 と いう ので も なく 謙遜 と いう ので も なく 、 きわめて 自然に 落ち着いて まっすぐ に 腰かけた まま 、 柄 の 長い 白 の 琥珀 の パラソル の 握り に 手 を 乗せて い ながら 、 葉子 に は その 貴婦人 たち の 中 の 一 人 が どうも 見 知り 越し の 人 らしく 感ぜられた 。 あるいは 女学校 に いた 時 に 葉子 を 崇拝 して その 風俗 を すら まねた 連中 の 一 人 である か と も 思わ れた 。 葉子 が どんな 事 を うわさ されて いる か は 、 その 婦人 に 耳打ち されて 、 見る ように 見 ない ように 葉子 を ぬすみ 見る 他 の 婦人 たち の 目 色 で 想像 さ れた 。 ・・
「 お前たち は あきれ返り ながら 心 の 中 の どこ か で わたし を うらやんで いる のだろう 。 お前たち の 、 その 物おじ し ながら も 金目 を かけた 派 手作り な 衣装 や 化粧 は 、 社会 上 の 位置 に 恥じ ない だけ の 作り な の か 、 良 人 の 目 に 快く 見えよう ため な の か 。 それ ばかり な の か 。 お前たち を 見る 路傍 の 男 たち の 目 は 勘定 に 入れて いない の か 。 …… 臆病 卑怯 な 偽善 者 ども め ! 」・・
葉子 は そんな 人間 から は 一 段 も 二 段 も 高い 所 に いる ような 気位 を 感じた 。 自分 の 扮 粧 が その 人 たち の どれ より も 立ち まさって いる 自信 を 十二分に 持って いた 。 葉子 は 女王 の ように 誇り の 必要 も ない と いう 自ら の 鷹 揚 を 見せて すわって いた 。 ・・
そこ に 一 人 の 夫人 が はいって 来た 。 田川 夫人 ―― 葉子 は その 影 を 見る か 見 ない か に 見て取った 。 しかし 顔色 一 つ 動かさ なかった ( 倉地 以外 の 人 に 対して は 葉子 は その 時 でも かなり すぐれた 自制 力 の 持ち主 だった ) 田川 夫人 は 元 より そこ に 葉子 が い よう など と は 思い も かけ ない ので 、 葉子 の ほう に ちょっと 目 を やり ながら も いっこうに 気づか ず に 、・・
「 お 待た せ いたし まして すみません 」・・
と いい ながら 貴婦人 ら の ほう に 近寄って 行った 。 互い の 挨拶 が 済む か 済まない うち に 、 一同 は 田川 夫人 に よりそって ひそひそ と 私 語 いた 。 葉子 は 静かに 機会 を 待って いた 。 ぎょっと した ふうで 、 葉子 に 後ろ を 向けて いた 田川 夫人 は 、 肩 越し に 葉子 の ほう を 振り返った 。 待ち 設けて いた 葉子 は 今 まで 正面 に 向けて いた 顔 を しとやかに 向け かえて 田川 夫人 と 目 を 見 合わした 。 葉子 の 目 は 憎む ように 笑って いた 。 田川 夫人 の 目 は 笑う ように 憎んで いた 。 「 生意気な 」…… 葉子 は 田川 夫人 が 目 を そらさ ない うち に 、 すっくと 立って 田川 夫人 の ほう に 寄って 行った 。 この 不意打ち に 度 を 失った 夫人 は ( 明らかに 葉子 が まっ紅 に なって 顔 を 伏せる と ばかり 思って いた らしく 、 居合わせた 婦人 たち も その さま を 見て 、 容貌 でも 服装 でも 自分 ら を 蹴落とそう と する 葉子 に 対して 溜 飲 を おろそう と して いる らしかった ) 少し 色 を 失って 、 そっぽ を 向こう と した けれども もう おそかった 。 葉子 は 夫人 の 前 に 軽く 頭 を 下げて いた 。 夫人 も やむ を 得 ず 挨拶 の まね を して 、 高飛車に 出る つもり らしく 、・・
「 あなた は どなた ? 」・・
いかにも 横柄に さきがけて 口 を きった 。 ・・
「 早月 葉 で ございます 」・・
葉子 は 対等の 態度 で 悪びれ も せ ず こう 受けた 。 ・・
「 絵 島 丸 で は いろいろ お 世話 様 に なって ありがとう 存じました 。 あの う …… 報 正 新報 も 拝見 さ せて いただきました 。 ( 夫人 の 顔色 が 葉子 の 言葉 一 つ ごと に 変わる の を 葉子 は 珍しい もの でも 見る ように まじまじ と ながめ ながら )たいそう おもしろう ございました 事 。 よく あんなに くわしく 御 通信 に なり まして ねえ 、 お 忙しく いらっしゃいましたろう に 。 …… 倉地 さん も おりよく ここ に 来 合わせて いらっしゃいます から …… 今 ちょっと 切符 を 買い に …… お 連れ 申しましょう か 」・・
田川 夫人 は 見る見る まっさおに なって しまって いた 。 折り返して いう べき 言葉 に 窮して しまって 、 拙 くも 、・・
「 わたし は こんな 所 で あなた と お 話し する の は 存じ がけません 。 御用 でしたら 宅 へ おいで を 願いましょう 」・・
と いい つつ 今にも 倉地 が そこ に 現われて 来る か と ひたすら それ を 怖 れる ふうだった 。 葉子 は わざと 夫人 の 言葉 を 取り違えた ように 、・・
「 い ゝ え どう いたし まして わたし こそ …… ちょっと お 待ち ください すぐ 倉地 さん を お 呼び 申して 参ります から 」・・
そう いって どんどん 待 合 所 を 出て しまった 。 あと に 残った 田川 夫人 が その 貴婦人 たち の 前 で どんな 顔 を して 当惑 した か 、 それ を 葉子 は 目 に 見る ように 想像 し ながら いたずら 者 らしく ほくそ笑んだ 。 ちょうど そこ に 倉地 が 切符 を 買って 来 かかって いた 。 ・・
一 等 の 客室 に は 他 に 二三 人 の 客 が いる ばかりだった 。 田川 夫人 以下 の 人 たち は だれ か の 見送り か 出迎え に でも 来た のだ と 見えて 、 汽車 が 出る まで 影 も 見せ なかった 。 葉子 は さっそく 倉地 に 事 の 始終 を 話して 聞か せた 。 そして 二 人 は 思い 存分 胸 を すかして 笑った 。 ・・
「 田川 の 奥さん かわいそうに まだ あす こ で 今にも あなた が 来る か と もじもじ して いる でしょう よ 、 ほか の 人 たち の 手前 ああ いわれて こそ こそ と 逃げ出す わけに も 行か ない し 」・・
「 おれ が 一 つ 顔 を 出して 見せれば また おもしろかった に な 」・・
「 きょう は 妙な 人 に あって しまった から また きっと だれ か に あいます よ 。 奇妙 ねえ 、 お 客 様 が 来た と なる と 不思議に たて 続く し ……」・・
「 不 仕 合わせ な ん ぞ も 来 出す と 束 に なって 来 くさる て 」・・
倉地 は 何 か 心 あり げ に こう いって 渋い 顔 を し ながら この 笑い話 を 結んだ 。 ・・
葉子 は けさ の 発作 の 反動 の ように 、 田川 夫人 の 事 が あって から ただ 何となく 心 が 浮き浮きして しようがなかった 。 もし そこ に 客 が い なかったら 、 葉子 は 子供 の ように 単純な 愛嬌 者 に なって 、 倉地 に 渋い 顔 ばかり は さ せて おか なかったろう 。 「 どうして 世の中 に は どこ に でも 他人 の 邪魔に 来ました と いわんばかり に こう たくさん 人 が いる んだろう 」 と 思ったり した 。 それ すら が 葉子 に は 笑い の 種 と なった 。 自分 たち の 向こう 座 に しかつめらしい 顔 を して 老年 の 夫婦 者 が すわって いる の を 、 葉子 は しばらく まじまじ と 見 やって いた が 、 その 人 たち の しかつめらしい の が 無性に グロテスクな 不思議な もの に 見え 出して 、 とうとう 我慢 が しき れ ず に 、 ハンケチ を 口 に あてて き ゅっき ゅっと ふき出して しまった 。