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有島武郎 - 或る女(アクセス), 9.2 或る女

9.2或る 女

葉子 は 階子 の 上がり 口 まで 行って 二人 に 傘 を かざして やって 、一段 一段 遠ざかって 行く 二人 の 姿 を 見送った 。 東京 で 別れ を 告げた 愛子 や 貞世 の 姿 が 、雨 に ぬれた 傘 の へん を 幻影 と なって 見えたり 隠れたり した ように 思った 。 葉子 は 不思議な 心 の 執着 から 定子 に は とうとう 会わ ないで しまった 。 愛子 と 貞世 と は ぜひ 見送り が したい と いう の を 、葉子 は しかりつける ように いって とめて しまった 。 葉子 が 人力車 で 家 を 出よう と する と 、なんの 気 なし に 愛子 が 前髪 から 抜いて 鬢 を かこう と した 櫛 が 、もろくも ぽきり と 折れた 。 それ を 見る と 愛子 は 堪え 堪えて いた 涙 の 堰 を 切って 声 を 立てて 泣き出した 。 貞 世 は 初め から 腹 でも 立てた ように 、燃える ような 目 から とめどなく 涙 を 流して 、じっと 葉子 を 見つめて ばかり いた 。 そんな 痛々しい 様子 が その 時 まざまざ と 葉子 の 目の前 に ちらついた のだ 。 一 人 ぽっち で 遠い 旅 に 鹿島 立って 行く 自分 という もの が あじ き なく も 思いやられた 。 そんな 心持ち に なる と 忙しい 間 に も 葉子 は ふと 田川 の ほう を 振り向いて 見た 。 中学校 の 制服 を 着た 二 人 の 少年 と 、髪 を お下げ に して 、帯 を おはさみ にしめた 少女 と が 、田川 と 夫人 との 間 に からまって ちょうど 告別 を している ところ だった 。 付き添い の 守り の 女 が 少女 を 抱き上げて 、田川 夫人 の 口 びる を その 額 に 受け さして いた 。 葉子 は そんな 場面 を 見せつけられる と 、他人事 ながら 自分 が 皮肉で むちうたれ る ように 思った 。 竜 を も 化して 牝豚 に する の は 母 と なる 事 だ 。 今 の 今まで 焼く ように 定子 の 事 を 思っていた 葉子 は 、田川 夫人 に 対して すっかり 反対の 事 を 考えた 。 葉子 は その いまいましい 光景 から 目 を 移して 舷梯 の ほう を 見た 。 しかし そこ に は もう 乳母 の 姿 も 古藤 の 影 も なかった 。 ・・

たちまち 船首 の ほう から けたたましい 銅 鑼 の 音 が 響き 始めた 。 船 の 上下 は 最後 の どよめき に 揺らぐ ように 見えた 。 長い 綱 を 引きずって 行く 水夫 が 帽子 の 落ち そうに なる の を 右 の 手 で ささえ ながら 、あたり の 空気 に 激しい 動揺 を 起こす ほど の 勢い で 急いで 葉子 の かたわら を 通りぬけた 。 見送り 人 は 一斉に 帽子 を 脱いで 舷梯 の ほう に 集まって 行った 。 その 際 に なって 五十川 女史 は はたと 葉子 の 事 を 思い出した らしく 、田川 夫人 に 何か いって おいて 葉子 の いる 所 に やって 来た 。 ・・

「いよいよ お 別れ に なった が 、いつぞや お 話し した 田川 の 奥さん に お ひきあわせ しよう から ちょっと 」・・

葉子 は 五十川 女史 の 親切 ぶり の 犠牲 に なる の を 承知 し つつ 、一種 の 好奇心 に ひかされて 、その あと に ついて行こう と した 。 葉子 に 初めて 物 を いう 田川 の 態度 も 見て やりたかった 。 その 時 、・・

「葉子 さん 」・・

と 突然 いって 、葉子 の 肩 に 手 を かけた もの が あった 。 振り返る と ビール の 酔い の に おい が むせかえる ように 葉子 の 鼻 を 打って 、目 の 心 まで 紅く なった 知らない 若者 の 顔 が 、近々 と 鼻先 に あらわれて いた 。 はっと 身 を 引く 暇 も なく 、葉子 の 肩 は びしょぬれ に なった 酔いどれ の 腕 で がっしり と 巻かれていた 。 ・・

「葉子 さん 、覚えて います か わたし を ……あなた は わたし の 命 なんだ 。 命 なんです 」・・

と いう うち に も 、その 目 から は ほろほろ と 煮える ような 涙 が 流れて 、まだ うら若い なめらかな 頬 を 伝った 。 膝 から 下 が ふらつく の を 葉子 に すがって 危うく ささえ ながら 、・・

「結婚 を なさる んです か ……おめでとう ……おめでとう ……だが あなた が 日本 に いなく なる と 思う と ……いたたまれない ほど 心細い んだ ……わたし は ……」・・

もう 声 さえ 続か なかった 。 そして 深々と 息 気 を ひいて しゃくり上げ ながら 、葉子 の 肩 に 顔 を 伏せて さめざめと 男泣き に 泣き出した 。 ・・

この 不意な 出来事 は さすが に 葉子 を 驚かし もし 、きまり も 悪く させた 。 だれ だ とも 、いつ どこ であった とも 思い出す 由 が ない 。 木部 孤 と 別れて から 、何という 事 なしに 捨てばち な 心地 に なって 、だれ かれ の 差別 も なく 近寄って 来る 男 たち に 対して 勝手気まま を 振る舞った その 間 に 、偶然に 出あって 偶然に 別れた 人 の 中 の 一人 で も あろう か 。 浅い 心 で もてあそんで 行った 心 の 中 に この 男 の 心 も あった であろう か 。 とにかく 葉子 に は 少しも 思い当たる 節 が なかった 。 葉子 は その 男 から 離れたい 一心に 、手 に 持った 手鞄 と 包み物 と を 甲板 の 上 に ほうりなげて 、若者 の 手 を やさしく 振りほどこう と して 見た が 無益だった 。 親類 や 朋輩 たち の 事 あれ が しな 目 が 等しく 葉子 に 注がれて いる の を 葉子 は 痛い ほど 身 に 感じて いた 。 と 同時に 、男 の 涙 が 薄い 単衣 の 目 を 透して 、葉子 の 膚 に しみこんで 来る の を 感じた 。 乱れた つやつや しい 髪 の におい も つい 鼻 の 先 で 葉子 の 心 を 動かそう と した 。 恥 も 外聞 も 忘れ 果てて 、大空 の 下 で すすり泣く 男 の 姿 を 見ている と 、そこ に は かすかな 誇り の ような 気持ち が わいて 来た 。 不思議な 憎しみ と いとしさ が こんがらかって 葉子 の 心 の 中 で 渦巻いた 。 葉子 は 、・・

「さ 、もう 放して ください まし 、船 が 出ます から 」・・

と きびしく いって 置いて 、かんで 含める ように 、・・

「だれ でも 生きて る 間 は 心細く 暮らす んです の よ 」・・

と その 耳 もと に ささやいて 見た 。 若者 は よく わかった と いう ふうに 深々と うなずいた 。 しかし 葉子 を 抱く 手 は きびしく 震え こそ すれ 、ゆるみ そうな 様子 は 少しも 見え なかった 。 ・・

物々しい 銅 鑼 の 響き は 左舷 から 右舷 に 回って 、また 船首 の ほう に 聞こえて 行こう と していた 。 船員 も 乗客 も 申し 合わした ように 葉子 の ほう を 見守って いた 。 先刻 から 手持ちぶさた そうに ただ 立って 成り行き を 見て いた 五十川 女史 は 思いきって 近寄って 来て 、若者 を 葉子 から 引き離そう と した が 、若者 は むずかる 子供 の ように 地 だんだ を 踏んで ますます 葉子 に 寄り添う ばかりだった 。 船首 の ほう に 群がって 仕事 を し ながら 、この 様子 を 見守って いた 水夫 たち は 一斉に 高く 笑い声 を 立てた 。 そして その 中 の 一人 は わざと 船 じゅう に 聞こえ 渡る ような くさめ を した 。 抜 錨 の 時刻 は 一 秒 一 秒 に 逼っていた 。 物笑い の 的に なって いる 、そう 思う と 葉子 の 心 は いとしさ から 激し いい と わし さに 変わって 行った 。 ・・

「さ 、お 放し ください 、さ 」・・

と きわめて 冷酷に いって 、葉子 は 助け を 求める ように あたり を 見回した 。 ・・

田川 博士 の そば に いて 何か 話 を して いた 一人 の 大兵 な 船員 が いた が 、葉子 の 当惑 しきった 様子 を 見る と 、いきなり 大股 に 近づいて 来て 、・・

「どれ 、わたし が 下 まで お 連れ しましょう 」・・ と いう や 否 や 、葉子 の 返事 も 待た ず に 若者 を 事 も なく 抱きすくめた 。 若者 は この 乱暴に かっと なって 怒り狂った が 、その 船員 は 小さな 荷物 でも 扱う ように 、若者 の 胴 の あたり を 右 わき に かいこんで 、やすやす と 舷梯 を 降りて 行った 。 五十川 女史 は あたふた と 葉子 に 挨拶 も せ ず に その あと に 続いた 。 しばらく する と 若者 は 桟橋 の 群集 の 間 に 船員 の 手 から おろされた 。 ・・

けたたましい 汽笛 が 突然 鳴り はためいた 。 田川 夫妻 の 見送り 人 たち は この 声 で 活 を 入れられた ように なって 、どよめき 渡り ながら 、田川 夫妻 の 万歳 を もう 一度 繰り返した 。 若者 を 桟橋 に 連れて 行った 、かの 巨大な 船員 は 、大きな 体躯 を 猿 の ように 軽く もてあつかって 、音 も 立てず に 桟橋 から ずしずしと 離れて 行く 船 の 上に ただ 一条 の 綱 を 伝って 上がって 来た 。 人々 は また その 早業 に 驚いて 目 を 見張った 。 ・・

葉子 の 目 は 怒気 を 含んで 手欄 から しばらく の 間 か の 若者 を 見据えて いた 。 若者 は 狂気 の ように 両手 を 広げて 船 に 駆け寄ろう と する の を 、近所 に 居合わせた 三四人 の 人 が あわてて 引き留める 、それ を また すり抜けよう と して 組み 伏せられて しまった 。 若者 は 組み 伏せられた まま 左 の 腕 を 口 に あてがって 思いきり かみ しばり ながら 泣き 沈んだ 。 その 牛 の うめき声 の ような 泣き声 が 気疎く 船 の 上 まで 聞こえて 来た 。 見送り 人 は 思わず 鳴り を 静めて この 狂暴な 若者 に 目 を 注いだ 。 葉子 も 葉子 で 、姿 も 隠さ ず 手 欄 に 片手 を かけた まま 突っ立って 、同じく この 若者 を 見据えて いた 。 と いって 葉子 は その 若者 の 上 ばかり を 思って いる ので は なかった 。 自分 でも 不思議 だ と 思う ような 、うつろな 余裕 が そこ に は あった 。 古藤 が 若者 の ほう に は 目 も くれ ず に じっと 足 もと を 見つめて いる の に も 気 が 付いて いた 。 死んだ 姉 の 晴れ着 を 借り 着して いい 心地 に なって いる ような 叔母 の 姿 も 目 に 映って いた 。 船 の ほう に 後ろ を 向けて (おそらく それ は 悲しみ から ばかり で は なかったろう 。 その 若者 の 挙動 が 老いた 心 を ひしい だに 違いない )手ぬぐい を しっかり と 両眼 に あてている 乳母 も 見のがしては いなかった 。 ・・

いつのまに 動いた と も なく 船 は 桟橋 から 遠ざかって いた 。 人 の 群れ が 黒 蟻 の ように 集まった そこ の 光景 は 、葉子 の 目の前 に ひらけて行く 大きな 港 の 景色 の 中 景 に なる までに 小さく なって行った 。 葉子 の 目 は 葉子 自身 に も 疑わ れ る ような 事 を して いた 。 その 目 は 小さく なった 人影 の 中 から 乳母 の 姿 を 探り出そう と せず 、一種 の なつかしみ を 持つ 横浜 の 市街 を 見納め に ながめよう と せず 、凝然 として 小さく うずくまる 若者 の のらしい 黒点 を 見つめていた 。 若者 の 叫ぶ 声 が 、桟橋 の 上 で 打ち 振る ハンケチ の 時々 ぎらぎら と 光る ごとに 、葉子 の 頭 の 上 に 張り 渡さ れた 雨 よけ の 帆布 の 端 から 余滴 が ぽつりぽつり と 葉子 の 顔 を 打つ たびに 、断続 して 聞こえて 来る ように 思われた 。 ・・

「葉子 さん 、あなた は 私 を 見殺し に する んです か ……見殺し に する ん ……」

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