7.2或る 女
内田 の 細 君 は 自分 より はるか 年下 の 葉子 の 言葉 を しみじみ と 聞いて いる らしかった 。 葉子 は 葉子 で しみじみ と 細 君 の 身なり を 見 ないで は いられ なかった 。 一昨日 あたり 結った まま の 束 髪 だった 。 癖 の ない 濃い 髪 に は 薪 の 灰 らしい 灰 が たかって いた 。 糊 気 の ぬけ きった 単 衣 も 物さびしかった 。 その 柄 の 細かい 所 に は 里 の 母 の 着古し と いう ような 香い が した 。 由緒 ある 京都 の 士族 に 生まれた その 人 の 皮膚 は 美しかった 。 それ が なおさら その 人 を あわれに して 見せた 。 ・・
「他人 の 事 なぞ 考えて いられ やしない 」しばらく する と 葉子 は 捨てばち に こんな 事 を 思った 。 そして 急に はずんだ 調子 に なって 、・・
「 わたし あす アメリカ に 発 ちます の 、 ひと り で 」・・ と 突 拍子 も なく いった 。 あまり の 不意に 細 君 は 目 を 見張って 顔 を あげた 。 ・・
「まあ ほんとうに 」・・
「は あ ほんとうに ……しかも 木村 の 所 に 行く ように なりました の 。 木村 、御存じ でしょう 」・・
細 君 が うなずいて なお 仔細 を 聞こう と する と 、葉子 は 事もなげに さえぎって 、・・
「だから きょう は お 暇乞い の つもり でした の 。 それ でも そんな 事 は どうでも よう ございます わ 。 おじさん が お 帰り に なったら よろしく おっしゃって ください まし 、葉子 は どんな 人間 に なり下がる かも しれません って ……あなた どうぞ お からだ を お大事に 。 太郎 さん は まだ 学校 で ございます か 。 大きく お なり でしょう ね 。 なん ぞ 持って 上がれば よかった のに 、用 が こんな もの です から 」・・
と いい ながら 両手 で 大きな 輪 を 作って 見せて 、若々しく ほほえみ ながら 立ち上がった 。 ・・
玄関 に 送って 出た 細 君 の 目 に は 涙 が たまって いた 。 それ を 見る と 、人 は よく 無意味な 涙 を 流す もの だ と 葉子 は 思った 。 けれども あの 涙 も 内田 が 無理 無 体 に しぼり出させる ような もの だ と 思い直す と 、心臓 の 鼓動 が 止まる ほど 葉子 の 心 は かっと なった 。 そして 口 び る を 震わし ながら 、・・
「もう 一言 おじさん に おっしゃって ください まし 、七 度 を 七十 倍 は なさら ず とも 、せめて 三 度 ぐらい は 人 の 尤も 許して 上げて ください ましって 。 ……もっとも これ は 、あなた の お ため に 申します の 。 わたし は だれ に あやまって いただく の も いや です し 、 だれ に あやまる の も いやな 性分 な ん です から 、 おじさん に 許して いただこう と は 頭から 思って など い は しません の 。 それ も ついでに おっしゃって ください まし 」・・
口 の はた に 戯談 らしく 微笑 を 見せ ながら 、そう いって いる うち に 、大 濤 が どすんどすん と 横隔膜 に つきあたる ような 心地 が して 、鼻血 でも 出 そうに 鼻 の 孔 が ふさがった 。 門 を 出る 時 も 口 びる は なお くやし そうに 震えて いた 。 日 は 植物園 の 森 の 上 に 舂いて 、暮れがた 近い 空気 の 中 に 、けさ から 吹き出していた 風 は なぎた 。 葉子 は 今 の 心 と 、けさ 早く 風 の 吹き始めた ころ に 、土蔵 わき の 小部屋 で 荷造り を した 時 の 心 と を くらべて 見て 、自分 ながら 同じ 心 と は 思い得 なかった 。 そして 門 を 出て 左 に 曲がろう と して ふと 道ばた の 捨て石 に け つまずいて 、はっと 目 が さめた ように あたり を 見回した 。 やはり 二十五 の 葉子 である 。 い ゝ え 昔 たしかに 一 度 け つまずいた 事 が あった 。 そう 思って 葉子 は 迷信 家 の ように もう 一度 振り返って 捨て石 を 見た 。 その 時 に 日 は ……やはり 植物園 の 森 の あの へん に あった 。 そして 道 の 暗さ も この くらい だった 。 自分 は その 時 、内田 の 奥さん に 内田 の 悪口 を いって 、ペテロ と キリスト と の 間 に 取りかわさ れた 寛恕 に 対する 問答 を 例 に 引いた 。 い ゝ え 、 それ は きょうした 事 だった 。 きょう 意味 の ない 涙 を 奥さん が こぼした ように 、その 時 も 奥さん は 意味 の ない 涙 を こぼした 。 その 時 に も 自分 は 二十五 ……そんな 事 は ない 。 そんな 事 の あろう はず が ない ……変な ……。 それにしても あの 捨て石 に は 覚え が ある 。 あれ は 昔 から あす こ に ちゃんと あった 。 こう 思い 続けて 来る と 、葉子 は 、いつか 母 と 遊び に 来た 時 、何 か 怒って その 捨て石 に かじり付いて 動か なかった 事 を まざまざ と 心 に 浮かべた 。 その 時 は 大きな 石 だ と 思って いた のに これ ん ぼっち の 石 な の か 。 母 が 当惑 して 立った 姿 が はっきり 目先 に 現われた 。 と 思う と やがて その 輪郭 が 輝き 出して 、目 も 向けられ ない ほど 耀いた が 、すっと 惜しげ も なく 消えて しまって 、葉子 は 自分 の からだ が 中 有 から どっしり 大地 に おり立った ような 感じ を 受けた 。 同時に 鼻血 が どくどく 口 から 顎 を 伝って 胸 の 合わせ目 を よごした 。 驚いて ハンケチ を 袂 から 探り 出そう と した 時 、・・
「どうか なさ いました か 」・・と いう 声 に 驚か されて 、葉子 は 始めて 自分 の あと に 人力車 が ついて 来て いた のに 気 が 付いた 。 見る と 捨て石 の ある 所 は もう 八九 町 後ろ に なって いた 。 ・・
「鼻血 なの 」・・
と 応え ながら 葉子 は 初めて の ように あたり を 見た 。 そこ に は 紺 暖簾 を 所 せまく かけ渡した 紙屋 の 小 店 が あった 。 葉子 は 取りあえず そこ に は いって 、人目 を 避け ながら 顔 を 洗わ して もらおう と した 。 ・・
四十 格好 の 克明 らしい 内儀 さん が わが 事 の ように 金盥 に 水 を 移して 持って 来て くれた 。 葉子 は それ で 白 粉 気 の ない 顔 を 思う存分 に 冷やした 。 そして 少し 人心地 が ついた ので 、帯 の 間 から 懐中鏡 を 取り出して 顔 を 直そう と する と 、鏡 が いつのまにか ま 二つ に 破れて いた 。 先刻 け つまずいた 拍子 に 破れた の かしら ん と 思って みた が 、それ くらい で 破れる はず は ない 。 怒り に 任せて 胸 が かっと なった 時 、破れた のだろう か 。 なんだか そう らしく も 思えた 。 それとも あす の 船出 の 不吉 を 告げる 何か の 業 かも しれない 。 木村 と の 行く末 の 破滅 を 知らせる 悪い 辻占 かも しれない 。 また そう 思う と 葉子 は 襟元 に 凍った 針 でも 刺さ れる ように 、ぞくぞく と わけのわからない 身ぶるい を した 。 いったい 自分 は どう なって 行く のだろう 。 葉子 は これ まで の 見 窮められない 不思議な 自分 の 運命 を 思う に つけ 、これ から 先 の 運命 が 空恐ろしく 心 に 描かれた 。 葉子 は 不安な 悒鬱 な 目つき を して 店 を 見回した 。 帳場 に すわり込んだ 内 儀 さん の 膝 に もたれて 、七 つ ほど の 少女 が 、じっと 葉子 の 目 を 迎えて 葉子 を 見つめて いた 。 やせぎす で 、痛々しい ほど 目 の 大きな 、そのくせ 黒 目 の 小さな 、青白い 顔 が 、薄暗い 店 の 奥 から 、香料 や 石鹸 の 香 に つつまれて 、ぼんやり 浮き出た ように 見える のが 、何か 鏡 の 破れた のと 縁 で も ある らしく ながめられた 。 葉子 の 心 は 全く ふだん の 落ち付き を 失って しまった よう に わくわく して 、 立って も すわって も いられない よう に なった 。 ばかな と 思い ながら こわい もの に でも 追いすがられ る ようだった 。 ・・
しばらく の 間 葉子 は この 奇怪な 心 の 動揺 の ために 店 を 立ち去る 事 も しないで たたずんでいた が 、ふと どうにでもなれ という 捨てばち な 気 に なって 元気 を 取り直し ながら 、いくらかの 礼 を して そこ を 出た 。 出る に は 出た が 、もう 車 に 乗る 気 に も なれ なかった 。 これ から 定子 に 会い に 行って よそ ながら 別れ を 惜しもう と 思っていた その 心 組み さえ 物 憂 かった 。 定子 に 会った ところ が どう なる もの か 。 自分 の 事 すら 次の 瞬間 に は 取りとめ も ない もの を 、他人 の 事 ――それ は よし 自分 の 血 を 分けた 大切な 独子 であろう とも ――など を 考える だけ が ばかな 事 だ と 思った 。 そして もう 一 度 そこ の 店 から 巻紙 を 買って 、硯箱 を 借りて 、男 恥ずかしい 筆跡 で 、出発 前 に もう 一 度 乳母 を 訪れる つもりだった が 、それ が でき なく なった から 、この 後 とも 定子 を よろしく 頼む 。 当座 の 費用 と して 金 を 少し 送って おく と いう 意味 を 簡単に したためて 、永田 から 送って よこした 為替 の 金 を 封入して 、その 店 を 出た 。 そして いきなり そこ に 待ち 合わして いた人力車 の 上 の 膝 掛け を はぐって 、 蹴 込み に 打ち付けて ある 鑑札 に しっかり 目 を 通して おいて 、・・ 「 わたし は これ から 歩いて 行く から 、 この 手紙 を ここ へ 届けて おくれ 、 返事 は いらない のだ から …… お 金 です よ 、 少し どっさり ある から 大事に して ね 」・・ と 車 夫 に いいつけた 。 車 夫 は ろくに 見 知り も ない もの に 大金 を 渡して 平気で いる 女 の 顔 を 今さら のように きょときょと と 見やり ながら 空 俥 を 引いて 立ち去った 。 大八車 が 続け さま に 田舎 に 向いて 帰って 行く 小石川 の 夕暮れ の 中 を 、葉子 は 傘 を 杖 に し ながら 思い に ふけって 歩いて 行った 。 ・・
こもった 哀愁 が 、発し ない 酒 の ように 、葉子 の こめかみ を ちかちか と 痛めた 。 葉子 は 人力車 の 行く え を 見失って いた 。 そして 自分 で は まっすぐに 釘 店 の ほう に 急ぐ つもりで いた 。 ところが 実際 は 目 に 見え ぬ 力 で人力車 に 結び付けられ でも した よう に 、 知らず知らず人力車 の 通った とおり の 道 を 歩いて 、 はっと 気 が ついた 時 に は いつのまにか 、 乳母 が 住む 下谷 池 の 端 の 或る 曲がり角 に 来て 立って いた 。 ・・
そこ で 葉子 は ぎょっと して 立ちどまって しまった 。 短く なり まさった 日 は 本郷 の 高台 に 隠れて 、往来 に は 厨 の 煙 と も 夕靄 と も つかぬ 薄い 霧 が ただよって 、街頭 の ランプ の 灯 が ことに 赤く ちらほら ちらほら と ともっていた 。 通り 慣れた この 界隈 の 空気 は 特別な 親しみをもって 葉子 の 皮膚 を なでた 。 心 より も 肉体 の ほう が よけいに 定子 の いる 所 に ひき付けられる ように さえ 思えた 。 葉子 の 口 びる は 暖かい 桃 の 皮 の ような 定子 の 頬 の 膚 ざわり に あこがれた 。 葉子 の 手 は も うめ れんす の 弾力 の ある 軟らかい 触感 を 感じて いた 。 葉子 の 膝 は ふう わりと した 軽い 重み を 覚えて いた 。 耳 に は 子供 の アクセント が 焼き付いた 。 目 に は 、曲がり角 の 朽ちかかった 黒板 塀 を 透して 、木部 から 稟けた 笑窪 の できる 笑顔 が 否応なしに 吸い付いて 来た 。 ……乳房 はくす むったかった 。 葉子 は 思わず 片 頬 に 微笑 を 浮かべて あたり を ぬすむ ように 見回した 。 と ちょうど そこ を 通りかかった 内儀さん が 、何か を 前掛け の 下 に 隠し ながら じっと 葉子 の 立ち姿 を 振り返って まで 見て 通る のに 気 が ついた 。 ・・
葉子 は 悪事 でも 働いて いた 人 の ように 、急に 笑顔 を 引っ込めて しまった 。 そして こそ こそ と そこ を 立ちのいて 不忍 の 池 に 出た 。 そして 過去 も 未来 も 持たない 人 の ように 、池 の 端 に つくねん と 突っ立った まま 、池 の 中 の 蓮 の 実の 一つ に 目 を 定めて 、身動き も せずに 小半時 立ち尽くしていた 。