7.1或る 女
葉子 は その 朝 横浜 の 郵船 会社 の 永田 から 手紙 を 受け取った 。 漢学 者 らしい 風格 の 、上手な 字 で 唐紙 牋 に 書かれた 文句 に は 、自分 は 故 早月 氏 に は 格別の 交誼 を 受けて いた が 、あなた に 対して も 同様の 交際 を 続ける 必要の ない の を 遺憾に 思う 。 明晩 (すなわち その 夜 )の お 招き に も 出席 し かねる 、と 剣 も ほろ ろ に 書き連ねて 、追伸 に 、先日 あなた から 一言 の 紹介 も なく 訪問 してきた 素性 の 知れぬ 青年 の 持参した 金 は いらない から お返しする 。 良人 の 定まった 女 の 行動 は 、申す まで も ない が 慎む が 上に も ことに 慎む べき もの だ と 私 ども は 聞き 及んで いる 。 と きっぱり 書いて 、その 金額 だけ の 為替 が 同封 して あった 。 葉子 が 古藤 を 連れて 横浜 に 行った の も 、仮病 を つかって 宿屋 に 引きこもった の も 、実 を いう と 船 商売 を する 人 に は 珍しい 厳格な この 永田 に 会う めんどう を 避ける ため だった 。 葉子 は 小さく 舌打ち して 、為替 ごと 手紙 を 引き裂こう と した が 、ふと 思い返して 、丹念に 墨 を すりおろして 一字一字 考えて 書いた ような 手紙 だけ ずたずたに 破いて 屑 かご に 突っ込んだ 。 ・・
葉子 は 地味 な 他行 衣 に 寝衣 を 着かえて 二 階 を 降りた 。 朝食 は 食べる 気 が なかった 。 妹 たち の 顔 を 見る の も 気づまり だった 。 ・・
姉妹 三 人 の いる 二階 の 、すみ から すみ まで きちんと 小ぎれい に 片付いている のに 引きかえて 、叔母一家 の 住まう 下座敷 は 変に 油ぎって よごれていた 。 白痴 の 子 が 赤ん坊 同様な ので 、東 の 縁 に 干して ある 襁褓 から 立つ 塩 臭い におい や 、畳 の 上 に 踏みにじられた まま こびりついている 飯 粒 など が 、すぐ 葉子 の 神経 を いらいら させた 。 玄関 に 出て 見る と 、そこ に は 叔父 が 、襟 の まっ黒 に 汗じんだ 白い 飛白 を 薄寒 そうに 着て 、白痴 の 子 を 膝 の 上 に 乗せ ながら 、朝っぱら から 柿 を むいて あてがって いた 。 その 柿 の 皮 が あかあか と 紙くず と ごった に なって 敷き石 の 上 に 散って いた 。 葉子 は 叔父 に ちょっと 挨拶 を して 草履 を さがし ながら 、・・
「愛さ ん ちょっと ここ に おいで 。 玄関 が 御覧 、あんなに よごれて いる から ね 、きれいに 掃除 して おいて ちょうだい よ 。 ――今夜 は お客様 も ある んだ のに ……」・・
と 駆けて 来た 愛子 に わざと つんけん いう と 、叔父 は 神経 の 遠く の ほう で あてこすられた の を 感じた ふうで 、・・
「 お ゝ 、 それ は わし が した ん じゃ で 、 わし が 掃除 し とく 。 構う て くださる な 、おい お 俊 ――お 俊 という に 、何 しとる ぞい 」・・
と のろま らしく 呼び 立てた 。 帯 しろ 裸 の 叔母 が そこ に やって 来て 、また くだらぬ 口論 を する のだ と 思う と 、泥 の 中 で いがみ合う 豚 か なんぞ を 思い出して 、葉子 は 踵 の 塵 を 払わん ばかりに そこそこ 家 を 出た 。 細い 釘 店 の 往来 は 場所柄 だけに 門 並み きれいに 掃除 されて 、打ち水 を した 上を 、気のきいた 風体 の 男女 が 忙しそうに 往き来していた 。 葉子 は 抜け毛 の 丸めた の や 、 巻 煙草 の 袋 の ちぎれた の が 散らばって 箒 の 目 一 つない 自分 の 家 の 前 を 目 を つぶって 駆けぬけたい ほど の 思い を して 、 つい そば の 日本 銀行 に は いって ありったけ の 預金 を 引き出した 。 そして その 前 の 車屋 で 始終 乗りつけ の いちばん 立派な 人力車 を 仕立て さ して 、その 足 で 買い物 に 出かけた 。 妹 たち に 買い 残して おく べき 衣服地 や 、外国人 向き の 土産品 や 、新しい どっしり した トランク など を 買い入れる と 、引き出した 金 は いくらも 残って は いなかった 。 そして 午後 の 日 が やや 傾き かかった ころ 、大塚 窪町 に 住む 内田 という 母 の 友人 を 訪れた 。 内田 は 熱心な キリスト教 の 伝道者 として 、憎む 人 から は 蛇蝎 の ように 憎まれる し 、好きな 人 から は 予言者 の ように 崇拝されている 天才 肌 の 人 だった 。 葉子 は 五 つ 六 つ の ころ 、 母 に 連れられて 、 よく その 家 に 出入り した が 、 人 を 恐れ ず に ぐんぐん 思った 事 を かわいらしい 口 もと から いい出す 葉子 の 様子 が 、 始終人 から 距 て を おか れ つけた 内田 を 喜ば した ので 、 葉子 が 来る と 内田 は 、 何 か 心 の こだわった 時 でも きげん を 直して 、 窄った 眉 根 を 少し は 開き ながら 、「 また 子 猿 が 来た な 」 と いって 、 その つやつや した おかっぱ を なで 回したり なぞ した 。 その うち 母 が キリスト教 婦人 同盟 の 事業 に 関係 して 、 たちまち の うち に その 牛 耳 を 握り 、 外国 宣教師 だ と か 、 貴婦人 だ と か を 引き入れて 、 政略 が ま しく 事業 の 拡張 に 奔走 する よう に なる と 、 内田 は すぐ きげん を 損じて 、 早月 親 佐 を 責めて 、 キリスト の 精神 を 無視 した 俗悪な 態度 だ と いきまいた が 、 親 佐 が いっこうに 取り合う 様子 が ない ので 、 両 家 の 間 は 見る見る 疎 々 しい もの に なって しまった 。 それ でも 内田 は 葉子 だけ に は 不思議に 愛着 を 持って いた と 見えて 、よく 葉子 の うわさ を して 、「子猿 」だけ は 引き取って 子供 同様に 育てて やって も いい なぞ と いったり した 。 内田 は 離縁 した 最初の 妻 が 連れて 行って しまった たった 一人 の 娘 に いつまでも 未練 を 持って いる らしかった 。 どこ でも いい その 娘 に 似た らしい 所 の ある 少女 を 見る と 、内田 は 日ごろ の 自分 を 忘れた ように 甘々しい 顔つき を した 。 人 が 怖れる 割合 に 、葉子 に は 内田 が 恐ろしく 思えなかった ばかりか 、その 峻烈 な 性格 の 奥 に とじこめられて 小さく よどんだ 愛情 に 触れる と 、ありきたりの 人間 から は 得られない ような なつかしみ を 感ずる 事 が あった 。 葉子 は 母 に 黙って 時々 内田 を 訪れた 。 内田 は 葉子 が 来る と 、どんな 忙しい 時 でも 自分 の 部屋 に 通して 笑い話 など を した 。 時に は 二人 だけ で 郊外 の 静かな 並み 木道 など を 散歩 したり した 。 ある 時 内田 は もう 娘 らしく 生長 した 葉子 の 手 を 堅く 握って 、「お前 は 神様 以外 の 私 の ただ 一人 の 道伴れ だ 」など と いった 。 葉子 は 不思議な 甘い 心持ち で その 言葉 を 聞いた 。 その 記憶 は 長く 忘れ 得 なかった 。 ・・
それ が あの 木部 と の 結婚 問題 が 持ち上がる と 、内田 は 否応 なし に ある 日 葉子 を 自分 の 家 に 呼びつけた 。 そして 恋人 の 変心 を 詰り 責める 嫉妬 深い 男 の ように 、火 と 涙 と を 目 から ほとばしらせて 、打ち も すえ かねぬ までに 狂い 怒った 。 その 時 ばかり は 葉子 も 心から 激昂 させられた 。 「だれ が もう こんな わがままな 人 の 所 に 来て やる もの か 」そう 思い ながら 、生垣 の 多い 、家並み の まばらな 、轍 の 跡 の めいり こんだ 小石川 の 往来 を 歩き 歩き 、憤怒 の 歯ぎしり を 止め かねた 。 それ は 夕闇 の 催した 晩秋 だった 。 しかし それ と 同時に なんだか 大切な もの を 取り 落とした ような 、自分 を この世 に つり上げてる 糸 の 一つ が ぷつんと 切れた ような 不思議な さびしさ の 胸 に 逼る のを どうする 事も できなかった 。 ・・
「 キリスト に 水 を やった サマリヤ の 女 の 事 も 思う から 、 この上 お前 に は 何も いう まい ―― 他人 の 失望 も 神 の 失望 もちっと は 考えて みる が いい 、…… 罪 だ ぞ 、 恐ろしい 罪 だ ぞ 」・・ そんな 事 が あって から 五 年 を 過ぎた きょう 、郵便局 に 行って 、永田 から 来た 為替 を 引き出して 、定子 を 預かって くれている 乳母 の 家 に 持って行こう と 思った 時 、葉子 は 紙幣 の 束 を 算え ながら 、ふと 内田 の 最後 の 言葉 を 思い出した のだった 。 物 の ない 所 に 物 を 探る ような 心持ち で 葉子 は 人力車 を 大塚 の ほう に 走らした 。 ・・
五 年 たって も 昔 の まま の 構え で 、まばらに さし 代えた 屋根 板 と 、めっきり 延びた 垣添い の 桐 の 木 と が 目立つ ばかりだった 。 砂 きし み の する 格子戸 を あけて 、帯 前 を 整え ながら 出て来た 柔和な 細君 と 顔 を 合わせた 時 は 、さすがに 懐旧 の 情 が 二人 の 胸 を 騒がせた 。 細 君 は 思わず 知らず 「まあ どうぞ 」と いった が 、その 瞬間 に はっと ためらった ような 様子 に なって 、急いで 内田 の 書斎 に は いって 行った 。 しばらく する と 嘆息 し ながら 物 を いう ような 内田 の 声 が 途切れ途切れ に 聞こえた 。 「上げる の は 勝手 だ が おれ が 会う 事 は ない じゃないか 」と いった か と 思う と 、はげしい 音 を 立てて 読みさし の 書物 を ぱたん と 閉じる 音 が した 。 葉子 は 自分 の 爪先 を 見つめ ながら 下 くちびる を かんで いた 。 ・・
やがて 細 君 が おどおど し ながら 立ち 現われて 、まず と 葉子 を 茶の間 に 招じ入れた 。 それ と 入れ 代わり に 、書斎 で は 内田 が 椅子 を 離れた 音 が して 、やがて 内田 は ずかずか と 格子戸 を あけて 出て 行って しまった 。 ・・
葉子 は 思わず ふらふら ッと 立ち上がろう と する の を 、何気ない 顔 で じっと こらえた 。 せめて は 雷 の ような 激しい その 怒り の 声 に 打たれたかった 。 あわよくば 自分 も 思いきり い いたい 事 を いって のけ たかった 。 どこ に 行って も 取りあい も せ ず 、鼻 で あしらい 、鼻 で あしらわれ 慣れた 葉子 に は 、何か 真味 な 力 で 打ちくだかれ る なり 、打ちくだく なり して 見たかった 。 それ だった のに 思い 入って 内田 の 所 に 来て 見れば 、内田 は 世 の 常 の 人々 より も いっそう 冷ややかに 酷く 思われた 。 ・・
「こんな 事 を いって は 失礼です けれども ね 葉子さん 、あなた の 事 を いろいろに いって 来る 人 が ある もんですから ね 、あの とおりの 性質 でしょう 。 どうも わたし に は なんとも いい なだめ ようが ない のです よ 。 内田 が あなた を お 上げ 申した の が 不思議な ほど だ と わたし 思います の 。 このごろ は ことさら だれ に も いわれない ような ごたごた が 家 の 内 に ある もん ですから 、よけい むしゃくしゃ していて 、ほんとうに わたし どう したら いい か と 思う 事 が あります の 」・・ 意地 も 生地 も 内田 の 強烈な 性格 の ために 存分に 打ち砕かれた 細 君 は 、上品な 顔立て に 中世紀 の 尼 に でも 見る ような 思い あきらめた 表情 を 浮かべて 、捨て身の 生活 の どん底 に ひそむ さびしい 不足 を ほのめかした 。 自分 より 年下 で 、しかも 良人 から さんざん 悪評 を 投げられている はずの 葉子 に 対して まで 、すぐ 心 が 砕けてしまって 、張り の ない 言葉 で 同情 を 求める か と思う と 、葉子 は 自分 の 事 の ように 歯がゆかった 。 眉 と 口 と の あたり に むごたらしい 軽蔑 の 影 が 、まざまざ と 浮かび上がる の を 感じ ながら 、それ を どう する 事 も できなかった 。 葉子 は 急に 青 味 を 増した 顔 で 細君 を 見やった が 、その 顔 は 世故 に 慣れきった 三十 女 の ようだった 。 (葉子 は 思う まま に 自分 の 年 を 五 つ も 上 に したり 下 に したり する 不思議な 力 を 持って いた 。 感情 次第 で その 表情 は 役者 の 技巧 の ように 変わった )・・
「歯がゆく は いらっしゃら なくって 」・・ と 切り返す ように 内田 の 細 君 の 言葉 を ひったくって 、・・
「わたし だったら どう でしょう 。 すぐ おじさん と けんか して 出て しまいます わ 。 それ は わたし 、おじさん を 偉い 方 だ と は 思って います が 、わたし こんなに 生まれ ついた んです から どうしようも ありません わ 。 一 から 十 まで おっしゃる 事 を は いはい と 聞いて いられません わ 。 おじさん も あんまり で いらっしゃいます の ね 。 あなた みたいな 方 に 、そう 笠 に かからず とも 、わたし でも お相手 に なされば いい のに ……でも あなた が いらっしゃれば こそ おじさん も ああ やって お仕事 が おでき に なるんです のね 。 わたし だけ は 除け 物 です けれども 、世の中 は なかなか よく いって います わ 。 ……あ 、それ でも わたし は もう 見放されて しまった んです もの ね 、いう 事 は ありゃ しません 。 ほんとうに あなた が いらっしゃる ので おじさん は お 仕 合わせ です わ 。 あなた は 辛抱 なさる 方 。 おじさん は わがまま で お通し に なる 方 。 もっとも おじさん に は それ が 神様 の 思し召し な んでしょう けれども ね 。 ……わたし も 神様 の 思し召し か なんか で わがままで 通す 女 な んです から おじさん と は どうしても 茶碗 と 茶碗 です わ 。 それ でも 男 は ようご ざんす の ね 、わがまま が 通る んです もの 。 女 の わがまま は 通す より しかたがない んです から ほんとうに 情けなく なります の ね 。 何も 前世 の 約束 な んでしょう よ ……」・・