40.2 或る 女
葉子 は 縫い物 を し ながら 多少 の 不安 を 感じた 。 あの なん の 技巧 も ない 古藤 と 、 疳癖 が 募り 出して 自分 ながら 始末 を し あぐねて いる ような 倉地 と が まともに ぶつかり合ったら 、 どんな 事 を しでかす かも しれ ない 。 木村 を 手 の 中 に 丸めて おく 事 も きょう 二 人 の 会見 の 結果 で だめに なる かも わから ない と 思った 。 しかし 木村 と いえば 、 古藤 の いう 事 など を 聞いて いる と 葉子 も さすが に その 心根 を 思いやら ず に は いられ なかった 。 葉子 が このごろ 倉地 に 対して 持って いる ような 気持ち から は 、 木村 の 立場 や 心持ち が あからさま 過ぎる くらい 想像 が できた 。 木村 は 恋する もの の 本能 から とうに 倉地 と 葉子 と の 関係 は 了解 して いる に 違いない のだ 。 了解 して 一 人 ぽっち で 苦しめる だけ 苦しんで いる に 違いない のだ 。 それ に も 係わら ず その 善良な 心 から どこまでも 葉子 の 言葉 に 信用 を 置いて 、 いつか は 自分 の 誠意 が 葉子 の 心 に 徹する の を 、 あり う べき 事 の ように 思って 、 苦しい 一 日一日 を 暮らして いる に 違いない 。 そして また 落ち込もう と する 窮 境 の 中 から 血 の 出る ような 金 を 欠かさ ず に 送って よこす 。 それ を 思う と 、 古藤 が いう ように その 金 が 葉子 の 手 を 焼か ない の は 不思議 と いって いい ほど だった 。 もっとも 葉子 であって みれば 、 木村 に 醜い エゴイズム を 見いださ ない ほど のんき で は なかった 。 木村 が どこまでも 葉子 の 言葉 を 信用 して かかって いる 点 に も 、 血 の 出る ような 金 を 送って よこす 点 に も 、 葉子 が 倉地 に 対して 持って いる より は もっと 冷静な 功利 的な 打算 が 行なわれて いる と 決める 事 が できる ほど 木村 の 心 の 裏 を 察して いない で は なかった 。 葉子 の 倉地 に 対する 心持ち から 考える と 木村 の 葉子 に 対する 心持ち に は まだ すき が ある と 葉子 は 思った 。 葉子 が もし 木村 であったら 、 どうして おめおめ 米 国三 界 に い 続けて 、 遠く から 葉子 の 心 を 翻す 手段 を 講ずる ような のんきな ま ね が して 済まして いられよう 。 葉子 が 木村 の 立場 に いたら 、 事業 を 捨てて も 、 乞食 に なって も 、 すぐ 米国 から 帰って 来 ない じゃ いられ ない はずだ 。 米国 から 葉子 と 一緒に 日本 に 引き返した 岡 の 心 の ほう が どれ だけ 素直で 誠 しや か だ か しれ やしない 。 そこ に は 生活 と いう 問題 も ある 。 事業 と いう 事 も ある 。 岡 は 生活 に 対して 懸念 など する 必要 は ない し 、 事業 と いう ような もの は てんで 持って は いない 。 木村 と は なんといっても 立場 が 違って は いる 。 と いった ところ で 、 木村 の 持つ 生活 問題 なり 事業 なり が 、 葉子 と 一緒に なって から 後 の 事 を 顧慮 して されて いる 事 だ と して みて も 、 そんな 気持ち で いる 木村 に は 、 なんといっても 余裕 が あり 過ぎる と 思わ ないで はいら れ ない 物足りな さ が あった 。 よし 真 裸 に なるほど 、 職業 から 放れて 無一文に なって いて も いい 、 葉子 の 乗って 帰って 来た 船 に 木村 も 乗って 一緒に 帰って 来たら 、 葉子 は あるいは 木村 を 船 の 中 で 人知れず 殺して 海 の 中 に 投げ込んで いよう と も 、 木村 の 記憶 は 哀しく なつかしい もの と して 死ぬ まで 葉子 の 胸 に 刻みつけられて いたろう もの を 。 …… それ は そう に 相違 ない 。 それにしても 木村 は 気の毒な 男 だ 。 自分 の 愛しよう と する 人 が 他人 に 心 を ひかれて いる …… それ を 発見 する 事 だけ で 悲惨 は 充分だ 。 葉子 は ほんとう は 、 倉地 は 葉子 以外 の 人 に 心 を ひかれて いる と は 思って は いない のだ 。 ただ 少し 葉子 から 離れて 来た らしい と 疑い 始めた だけ だ 。 それ だけ でも 葉子 は すでに 熱 鉄 を の まさ れた ような 焦 躁 と 嫉妬 と を 感ずる のだ から 、 木村 の 立場 は さぞ 苦しい だろう 。 …… そう 推察 する と 葉子 は 自分 の あまり と いえば あまり に 残虐な 心 に 胸 の 中 が ちく ちく と 刺さ れる ように なった 。 「 金 が 手 を 焼く ように 思い は しません か 」 と の 古藤 の いった 言葉 が 妙に 耳 に 残った 。 ・・
そう 思い思い 布 の 一方 を 手早く 縫い 終わって 、 縫い目 を 器用に しごき ながら 目 を あげる と 、 そこ に は 貞 世 が さっき の まま 机 に 両 肘 を ついて 、 たかって 来る 蚊 も 追わ ず に ぼんやり と 庭 の 向こう を 見 続けて いた 。 切り下げ に した 厚い 黒 漆 の 髪 の 毛 の 下 に のぞき 出した 耳たぶ は 霜焼け でも した ように 赤く なって 、 それ を 見た だけ でも 、 貞 世 は 何 か 興奮 して 向こう を 向き ながら 泣いて いる に 違いなく 思わ れた 。 覚え が ない で は ない 。 葉子 も 貞 世 ほど の 齢 の 時 に は 何か知ら ず 急に 世の中 が 悲しく 見える 事 が あった 。 何事 も ただ 明るく 快く 頼もしく のみ 見える その 底 から ふっと 悲しい もの が 胸 を えぐって わき出る 事 が あった 。 取り分けて 快活で は あった が 、 葉子 は 幼い 時 から 妙な 事 に 臆病 がる 子 だった 。 ある 時 家族 じゅう で 北国 の さびしい 田舎 の ほう に 避暑 に 出かけた 事 が あった が 、 ある 晩 がらんと 客 の 空いた 大きな 旅 籠 屋 に 宿った 時 、 枕 を 並べて 寝た 人 たち の 中 で 葉子 は 床の間 に 近い いちばん 端に 寝かさ れた が 、 どうした かげん で か 気味 が 悪くて たまらなく なり 出した 。 暗い 床の間 の 軸 物 の 中 から か 、 置き 物 の 陰 から か 、 得 体 の わから ない もの が 現われ 出て 来 そうな ような 気 が して 、 そう 思い出す と ぞくぞく と 総身 に 震え が 来て 、 とても 頭 を 枕 に つけて は いられ なかった 。 で 、 眠り かかった 父 や 母 に せがんで 、 その 二 人 の 中 に 割りこま して もらおう と 思った けれども 、 父 や 母 も そんなに 大きく なって 何 を ばか を いう のだ と いって 少しも 葉子 の いう 事 を 取り上げて は くれ なかった 。 葉子 は しばらく 両親 と 争って いる うち に いつのまにか 寝入った と 見えて 、 翌日 目 を さまして 見る と 、 やはり 自分 が 気味 の 悪い と 思った 所 に 寝て いた 自分 を 見いだした 。 その 夕方 、 同じ 旅 籠 屋 の 二 階 の 手摺 から 少し 荒れた ような 庭 を 何の 気 なし に じっと 見入って いる と 、 急に 昨夜 の 事 を 思い出して 葉子 は 悲しく なり 出した 。 父 に も 母 に も 世の中 の すべて の もの に も 自分 は どうかして 見放されて しまった のだ 。 親切 らしく いって くれる 人 は みんな 自分 に 虚 事 を して いる のだ 。 いいかげん の 所 で 自分 は どん と みんな から 突き放さ れる ような 悲しい 事 に なる に [#「 なる に 」 は 底 本 で は 「 ある に 」] 違いない 。 どうして それ を 今 まで 気づか ず に いた のだろう 。 そう なった 暁 に 一 人 で この 庭 を こうして 見守ったら どんなに 悲しい だろう 。 小さい ながら に そんな 事 を 一 人 で 思い ふけって いる と もう とめど なく 悲しく なって 来て 父 が なんといっても 母 が なんといっても 、 自分 の 心 を 自分 の 涙 に ひたし きって 泣いた 事 を 覚えて いる 。 ・・
葉子 は 貞 世 の 後ろ姿 を 見る に つけて ふと その 時 の 自分 を 思い出した 。 妙な 心 の 働き から 、 その 時 の 葉子 が 貞 世に なって そこ に 幻 の ように 現われた ので は ない か と さえ 疑った 。 これ は 葉子 に は 始終 ある 癖 だった 。 始めて 起こった 事 が 、 どうしても いつか の 過去 に そのまま 起こった 事 の ように 思われて なら ない 事 が よく あった 。 貞 世 の 姿 は 貞 世 で は なかった 。 苔 香 園 は 苔 香 園 で は なかった 。 美人 屋敷 は 美人 屋敷 で は なかった 。 周囲 だけ が 妙に もやもや して 心 の ほう だけ が 澄みきった 水 の ように はっきり した その 頭 の 中 に は 、 貞 世 の と も 、 幼い 時 の 自分 の と も 区別 の つか ない はかな さ 悲し さ が こみ上げる ように わいて いた 。 葉子 は しばらく は 針 の 運び も 忘れて しまって 、 電灯 の 光 を 背 に 負って 夕闇 に 埋もれて 行く 木立 ち に ながめ 入った 貞 世 の 姿 を 、 恐ろし さ を 感ずる まで に なり ながら 見 続けた 。 ・・
「 貞 ちゃん 」・・
とうとう 黙って いる の が 無気味に なって 葉子 は 沈黙 を 破りたい ばかりに こう 呼んで みた 。 貞 世 は 返事 一 つ し なかった 。 …… 葉子 は ぞっと した 。 貞 世 は ああした まま で 通り 魔 に でも 魅 いられて 死んで いる ので は ない か 。 それとも もう 一 度 名前 を 呼んだら 、 線香 の 上 に たまった 灰 が 少し の 風 で くずれ落ちる ように 、 声 の 響き で ほろほろ と かき消す ように あの いたいけな 姿 は なく なって しまう ので は ない だろう か 。 そして その あと に は 夕闇 に 包ま れた 苔 香 園 の 木立 ち と 、 二 階 の 縁側 と 、 小さな 机 だけ が 残る ので は ない だろう か 。 …… ふだん の 葉子 ならば なんという ばかだろう と 思う ような 事 を おどおど し ながら まじめに 考えて いた 。 ・・
その 時 階下 で 倉地 の ひどく 激昂 した 声 が 聞こえた 。 葉子 は はっと して 長い 悪夢 から でも さめた ように われ に 帰った 。 そこ に いる の は 姿 は 元 の まま だ が 、 やはり ま ごうか た なき 貞 世 だった 。 葉子 は あわてて いつのまにか 膝 から ず り 落として あった 白 布 を 取り上げて 、 階下 の ほう に きっと 聞き 耳 を 立てた 。 事態 は だいぶ 大事 らしかった 。 ・・
「 貞 ちゃん 。 …… 貞 ちゃん ……」・・
葉子 は そう いい ながら 立ち上がって 行って 、 貞 世 を 後ろ から 羽 がい に 抱きしめて やろう と した 。 しかし その 瞬間 に 自分 の 胸 の 中 に 自然に 出来上がら して いた 結 願 を 思い出して 、 心 を 鬼 に し ながら 、・・
「 貞 ちゃん と いったら お 返事 を なさい な 。 なんの 事 です 拗ねた ま ね を して 。 台所 に 行って あと の すすぎ 返し でも して おいで 、 勉強 も し ないで ぼんやり して いる と 毒 です よ 」・・
「 だって おね え 様 わたし 苦しい んです もの 」・・
「 うそ を お 言い 。 このごろ は あなた ほんとうに いけなく なった 事 。 わがまま ばかし して いる と ねえさん は ききません よ 」・・
貞 世 は さびし そうな 恨めし そうな 顔 を まっ赤 に して 葉子 の ほう を 振り向いた 。 それ を 見た だけ で 葉子 は すっかり 打ちくだかれて いた 。 水落 の あたり を すっと 氷 の 棒 で も 通る ような 心持ち が する と 、 喉 の 所 は もう 泣き かけて いた 。 なんという 心 に 自分 は なって しまった のだろう …… 葉子 は その 上 その 場 に は いたたまれない で 、 急いで 階下 の ほう へ 降りて 行った 。 ・・
倉地 の 声 に まじって 古藤 の 声 も 激し て 聞こえた 。