40.1 或る 女
六 月 の ある 夕方 だった 。 もう たそがれ 時 で 、 電灯 が ともって 、 その 周囲 に おびただしく 杉森 の 中 から 小さな 羽 虫 が 集まって うるさく 飛び回り 、 やぶ 蚊 が すさまじく 鳴きたてて 軒先 に 蚊 柱 を 立てて いる ころ だった 。 しばらく 目 で 来た 倉地 が 、 張り出し の 葉子 の 部屋 で 酒 を 飲んで いた 。 葉子 は やせ細った 肩 を 単 衣 物 の 下 に とがらして 、 神経 的に 襟 を ぐっと かき 合わせて 、 きちんと 膳 の そば に すわって 、 華車 な 団 扇 で 酒 の 香 に 寄り たかって 来る 蚊 を 追い払って いた 。 二 人 の 間 に は もう 元 の ように 滾々 と 泉 の ごとく わき出る 話題 は なかった 。 たまに 話 が 少し はずんだ と 思う と 、 どちら か に 差し さわる ような 言葉 が 飛び出して 、 ぷ つんと 会話 を 杜 絶やして しまった 。 ・・
「 貞 ちゃん やっぱり 駄々 を こねる か 」・・
一口 酒 を 飲んで 、 ため息 を つく ように 庭 の ほう に 向いて 気 を 吐いた 倉地 は 、 自分 で 気分 を 引き立て ながら 思い出した ように 葉子 の ほう を 向いて こう 尋ねた 。 ・・
「 え ゝ 、 しようがなく なっち まいました 。 この 四五 日ったら ことさら ひどい んです から 」・・
「 そうした 時期 も ある んだろう 。 まあ たん と いびら ないで 置く が いい よ 」・・
「 わたし 時々 ほんとうに 死に たく なっち まいます 」・・
葉子 は 途 轍 も なく 貞 世 の うわさ と は 縁 も ゆかり も ない こんな ひょんな 事 を いった 。 ・・
「 そうだ おれ も そう 思う 事 が ある て ……。 落ち目 に なったら 最後 、 人間 は 浮き上がる が めんどうに なる 。 船 でも が 浸水 し 始めたら 埒 は あか ん から な 。 …… した が 、 おれ は まだ もう 一 反り 反って みて くれる 。 死んだ 気 に なって 、 やれ ん 事 は 一 つ も ない から な 」・・
「 ほんとうです わ 」・・
そういった 葉子 の 目 は いらいら と 輝いて 、 にらむ ように 倉地 を 見た 。 ・・
「 正井 の やつ が 来る そう じゃ ない か 」・・
倉地 は また 話題 を 転ずる ように こういった 。 葉子 が そう だ と さえ いえば 、 倉地 は 割合 に 平気で 受けて 「 困った やつ に 見込ま れた もの だ が 、 見込ま れた 以上 は しかたがない から 、 空腹 がら ない だけ の 仕向け を して やる が いい 」 と いう に 違いない 事 は 、 葉子 に よく わかって は いた けれども 、 今 まで 秘密に して いた 事 を なんとか いわ れ や し ない か と の 気づかい の ため か 、 それとも 倉地 が 秘密 を 持つ の なら こっち も 秘密 を 持って 見せる ぞ と いう 腹 に なりたい ため か 、 自分 に も はっきり と は わから ない 衝動 に 駆られて 、 何という 事 なし に 、・・
「 い ゝ え 」・・
と 答えて しまった 。 ・・
「 来 ない ? …… そりゃ お前 いいかげんじゃ ろう 」・・
と 倉地 は たしなめる ような 調子 に なった 。 ・・
「 い ゝ え 」・・
葉子 は 頑固に いい張って そっぽ を 向いて しまった 。 ・・
「 おい その 団 扇 を 貸して くれ 、 あおが ず に いて は 蚊 で たまら ん …… 来 ない 事 が ある もの か 」・・
「 だれ から そんな ばかな 事 お 聞き に なって ? 」・・
「 だれ から でも いい わ さ 」・・
葉子 は 倉地 が また 歯 に 衣 着せた 物 の 言い かた を する と 思う と かっと 腹 が 立って 返 辞 も し なかった 。 ・・
「 葉 ちゃん 。 おれ は 女 の きげん を 取る ため に 生まれて 来 は せんぞ 。 いいかげん を いって 甘く 見くびる と よく は ない ぜ 」・・
葉子 は それ でも 返事 を し なかった 。 倉地 は 葉子 の 拗ね かた に 不快 を 催した らしかった 。 ・・
「 おい 葉子 ! 正井 は 来る の か 来 ん の か 」・・
正井 の 来る 来 ない は 大事で は ない が 、 葉子 の 虚 言 を 訂正 さ せ ず に は 置か ない と いう ように 、 倉地 は 詰め 寄せて きびしく 問い 迫った 。 葉子 は 庭 の ほう に やって いた 目 を 返して 不思議 そうに 倉地 を 見た 。 ・・
「 い ゝ え と いったら い ゝ えと より いい よう は ありません わ 。 あなた の 『 い ゝ え 』 と わたし の 『 い ゝ え 』 は 『 い ゝ え 』 が 違い で も します かしら 」・・
「 酒 も 何も 飲める か …… おれ が 暇 を 無理に 作って ゆっくり くつろごう と 思う て 来れば 、 いら ん 事 に 角 を 立てて …… 何の 薬 に なる かい それ が 」・・
葉子 は もう 胸 いっぱい 悲しく なって いた 。 ほんとう は 倉地 の 前 に 突っ伏して 、 自分 は 病気 で 始終 から だ が 自由に なら ない の が 倉地 に 気の毒だ 。 けれども どう か 捨て ないで 愛し 続けて くれ 。 からだ が だめに なって も 心 の 続く 限り は 自分 は 倉地 の 情 人 で いたい 。 そう より でき ない 。 そこ を あわれんで せめて は 心 の 誠 を ささげ さ して くれ 。 もし 倉地 が 明 々 地 に いって くれ さえ すれば 、 元 の 細 君 を 呼び 迎えて くれて も 構わ ない 。 そして せめて は 自分 を あわれんで なり 愛して くれ 。 そう 嘆願 が し たかった のだ 。 倉地 は それ に 感激 して くれる かも しれ ない 。 おれ は お前 も 愛する が 去った 妻 も 捨てる に は 忍びない 。 よく いって くれた 。 それ なら お前 の 言葉 に 甘えて 哀れな 妻 を 呼び 迎えよう 。 妻 も さぞ お前 の 黄金 の ような 心 に は 感ずる だろう 。 おれ は 妻 と は 家庭 を 持とう 。 しかし お前 と は 恋 を 持とう 。 そう いって 涙ぐんで くれる かも しれ ない 。 もし そんな 場面 が 起こり 得たら 葉子 は どれほど うれしい だろう 。 葉子 は その 瞬間 に 、 生まれ 代わって 、 正しい 生活 が 開けて くる のに と 思った 。 それ を 考えた だけ で 胸 の 中 から は 美しい 涙 が にじみ 出す のだった 。 けれども 、 そんな ばか を いう もの で は ない 、 おれ の 愛して いる の は お前 一 人 だ 。 元 の 妻 など に おれ が 未練 を 持って いる と 思う の が 間違い だ 。 病気 が ある の なら さっそく 病院 に は いる が いい 、 費用 は いくら でも 出して やる から 。 こう 倉地 が いわ ない と も 限ら ない 。 それ は あり そうな 事 だ 。 その 時 葉子 は 自分 の 心 を 立ち 割って 誠 を 見せた 言葉 が 、 情け も 容赦 も 思いやり も なく 、 踏みにじら れ けがされて しまう の を 見 なければ なら ない のだ 。 それ は 地獄 の 苛責 より も 葉子 に は 堪え がたい 事 だ 。 た とい 倉地 が 前 の 態度 に 出て くれる 可能 性 が 九十九 あって 、 あと の 態度 を 採り そうな 可能 性 が 一 つ しか ない と して も 、 葉子 に は 思いきって 嘆願 を して みる 勇気 が 出 ない のだ 。 倉地 も 倉地 で 同じ ような 事 を 思って 苦しんで いる らしい 。 なんとか して 元 の ような かけ 隔て の ない 葉子 を 見いだして 、 だんだん と 陥って 行く 生活 の 窮 境 の 中 に も 、 せめて は しばらく なり と も 人間 らしい 心 に なりたい と 思って 、 葉子 に 近づいて 来て いる のだ 。 それ を どこまでも 知り 抜き ながら 、 そして 身 に つまされて 深い 同情 を 感じ ながら 、 どうしても 面 と 向かう と 殺したい ほど 憎ま ないで はいら れ ない 葉子 の 心 は 自分 ながら 悲しかった 。 ・・
葉子 は 倉地 の 最後 の 一言 で その 急所 に 触れられた のだった 。 葉子 は 倉地 の 目の前 で 見る見る しおれて しまった 。 泣く まい と 気張り ながら 幾 度 も 雄々しく 涙 を 飲んだ 。 倉地 は 明らかに 葉子 の 心 を 感じた らしく 見えた 。 ・・
「 葉子 ! お前 は なんで このごろ そう 他 所 他 所 しく して い なければ なら ん のだ 。 え ? 」・・
と いい ながら 葉子 の 手 を 取ろう と した 。 その 瞬間 に 葉子 の 心 は 火 の ように 怒って いた 。 ・・
「 他 所 他 所 し い の は あなた じゃ ありません か 」・・
そう 知らず知らず いって しまって 、 葉子 は 没 義道 に 手 を 引っ込めた 。 倉地 を にらみつける 目 から は 熱い 大粒の 涙 が ぼろぼろ と こぼれた 。 そして 、・・
「 あ ゝ …… あ 、 地獄 だ 地獄 だ 」・・
と 心 の 中 で 絶望 的に 切なく 叫んだ 。 ・・
二 人 の 間 に は またもや いまわしい 沈黙 が 繰り返さ れた 。 ・・
その 時 玄関 に 案内 の 声 が 聞こえた 。 葉子 は その 声 を 聞いて 古藤 が 来た の を 知った 。 そして 大急ぎで 涙 を 押し ぬぐった 。 二 階 から 降りて 来て 取り次ぎ に 立った 愛子 が やがて 六 畳 の 間 に は いって 来て 、 古藤 が 来た と 告げた 。 ・・
「 二 階 に お 通し して お茶 でも 上げて お 置き 、 なん だって 今ごろ …… 御飯 時 も 構わ ないで ……」・・
と めんどうくさ そうに いった が 、 あれ 以来 来た 事 の ない 古藤 に あう の は 、 今 の この 苦しい 圧迫 から のがれる だけ でも 都合 が よかった 。 このまま 続いたら また 例 の 発作 で 倉地 に 愛想 を 尽かさ せる ような 事 を しでかす に きまって いた から 。 ・・
「 わたし ちょっと 会って みます から ね 、 あなた 構わ ないで いらっしゃい 。 木村 の 事 も 探って おきたい から 」・・
そう いって 葉子 は その 座 を はずした 。 倉地 は 返事 一 つ せ ず に 杯 を 取り上げて いた 。 ・・
二 階 に 行って 見る と 、 古藤 は 例の 軍服 に 上等 兵 の 肩 章 を 付けて 、 あぐら を かき ながら 貞 世 と 何 か 話 を して いた 。 葉子 は 今 まで 泣き 苦しんで いた と は 思え ぬ ほど 美しい きげん に なって いた 。 簡単な 挨拶 を 済ます と 古藤 は 例 の いう べき 事 から 先 に いい 始めた 。 ・・
「 ごめん どう です が ね 、 あす 定期 検閲 な 所 が 今度 は 室 内 の 整頓 な んです 。 ところが 僕 は 整頓 風呂敷 を 洗濯 して おく の を すっかり 忘れて しまって ね 。 今 特別に 外出 を 伍長 に そっと 頼んで 許して もらって 、 これ だけ 布 を 買って 来た んです が 、 縁 を 縫って くれる 人 が ない んで 弱って 駆けつけた んです 。 大急ぎで やって いただけ ない でしょう か 」・・
「 お やすい 御用 です と も ね 。 愛さ ん ! 」・・
大きく 呼ぶ と 階下 に いた 愛子 が 平生 に 似合わ ず 、 あたふた と 階子 段 を のぼって 来た 。 葉子 は ふと また 倉地 を 念頭 に 浮かべて いやな 気持ち に なった 。 しかし その ころ 貞 世 から 愛子 に 愛 が 移った か と 思わ れる ほど 葉子 は 愛子 を 大事に 取り扱って いた 。 それ は 前 に も 書いた とおり 、 しいて も 他人 に 対する 愛情 を 殺す 事 に よって 、 倉地 と の 愛 が より 緊 く 結ばれる と いう 迷信 の ような 心 の 働き から 起こった 事 だった 。 愛して も 愛し 足りない ような 貞 世に つらく 当たって 、 どうしても 気 の 合わ ない 愛子 を 虫 を 殺して 大事に して みたら 、 あるいは 倉地 の 心 が 変わって 来る かも しれ ない と そう 葉子 は 何 が なし に 思う のだった 。 で 、 倉地 と 愛子 と の 間 に どんな 奇怪な 徴候 を 見つけ出そう と も 、 念 に かけて も 葉子 は 愛子 を 責め まい と 覚悟 を して いた 。 ・・
「 愛さ ん 古藤 さん が ね 、 大急ぎで この 縁 を 縫って もらいたい と おっしゃる んだ から 、 あなた して 上げて ちょうだいな 。 古藤 さん 、 今 下 に は 倉地 さん が 来て いらっしゃる んです が 、 あなた は お きらい ね お あい なさる の は …… そう 、 じゃ こちら で お 話 でも します から どうぞ 」・・
そう いって 古藤 を 妹 たち の 部屋 の 隣 に 案内 した 。 古藤 は 時計 を 見 い 見 い せわし そうに して いた 。 ・・
「 木村 から たより が あります か 」・・
木村 は 葉子 の 良 人 で は なく 自分 の 親友 だ と いった ような ふうで 、 古藤 は もう 木村 君 と は いわ なかった 。 葉子 は この 前 古藤 が 来た 時 から それ と 気づいて いた が 、 きょう は ことさら その 心持ち が 目立って 聞こえた 。 葉子 は たびたび 来る と 答えた 。 ・・
「 困って いる ようです ね 」・・
「 え ゝ 、 少し は ね 」・・
「 少し どころ じゃ ない ようです よ 僕 の 所 に 来る 手紙 に よる と 。 なんでも 来年 に 開か れる はずだった 博覧 会 が 来 々 年 に 延びた ので 、 木村 は また この前 以上 の 窮 境 に 陥った らしい のです 。 若い うち だ から いい ような もの の あんな 不運な 男 も すくない 。 金 も 送って は 来 ない でしょう 」・・
なんという ぶしつけな 事 を いう 男 だろう と 葉子 は 思った が 、 あまり いう 事 に わだかまり が ない ので 皮肉で も いって やる 気 に は なれ なかった 。 ・・
「 い ゝ え 相変わらず 送って くれます こと よ 」・・
「 木村って いう の は そうした 男 な んだ 」・・
古藤 は 半ば は 自分 に いう ように 感激 した 調子 で こういった が 、 平気で 仕送り を 受けて いる らしく 物 を いう 葉子 に は ひどく 反感 を 催した らしく 、・・
「 木村 から の 送金 を 受け取った 時 、 その 金 が あなた の 手 を 焼き ただ ら かす ように は 思いません か 」・・
と 激しく 葉子 を まともに 見つめ ながら いった 。 そして 油 で よごれた ような 赤い 手 で 、 せわし なく 胸 の 真鍮 ぼたん を はめたり はずしたり した 。 ・・
「 なぜ です の 」・・
「 木村 は 困り きって る んです よ 。 …… ほんとうに あなた 考えて ごらん なさい ……」・・
勢い 込んで なお いい 募ろう と した 古藤 は 、 襖 を 明け 開いた まま の 隣 の 部屋 に 愛子 たち が いる の に 気づいた らしく 、・・
「 あなた は この 前 お目にかかった 時 から する と 、 また ひどく やせました ねえ 」・・
と 言葉 を そらした 。 ・・
「 愛さ ん もう できて ? 」・・
と 葉子 も 調子 を かえて 愛子 に 遠く から こう 尋ね 「 い ゝ えま だ 少し 」 と 愛子 が いう の を しお に 葉子 は そちら に 立った 。 貞 世 は ひどく つまらな そうな 顔 を して 、 机 に 両 肘 を 持た せた まま 、 ぼんやり と 庭 の ほう を 見 やって 、 三 人 の 挙動 など に は 目 も くれ ない ふうだった 。 垣根 添い の 木 の 間 から は 、 種々な 色 の 薔薇 の 花 が 夕闇 の 中 に も ちらほら と 見えて いた 。 葉子 は このごろ の 貞 世 は ほんとうに 変だ と 思い ながら 、 愛子 の 縫い かけ の 布 を 取り上げて 見た 。 それ は まだ 半分 も 縫い上げられて は い なかった 。 葉子 の 疳癪 は ぎりぎり 募って 来た けれども 、 しいて 心 を 押し しずめ ながら 、・・
「 これっぽっち …… 愛子 さんどう した と いう んだろう 。 どれ ねえさん に お 貸し 、 そして あなた は …… 貞 ちゃん も 古藤 さん の 所 に 行って お 相手 を して おいで ……」・・
「 僕 は 倉地 さん に あって 来ます 」・・
突然 後ろ向き の 古藤 は 畳 に 片手 を ついて 肩 越し に 向き 返り ながら こういった 。 そして 葉子 が 返事 を する 暇 も なく 立ち上がって 階子 段 を 降りて 行こう と した 。 葉子 は すばやく 愛子 に 目 くば せ して 、 下 に 案内 して 二 人 の 用 を 足して やる ように と いった 。 愛子 は 急いで 立って 行った 。