38.1 或る 女
「 何 を そう 怯 ず 怯 ず して いる の かい 。 その ボタン を 後ろ に はめて くれ さえ すれば それ で いい のだ に 」・・
倉地 は 倉地 に して は 特に やさしい 声 で こういった 、 ワイシャツ を 着よう と した まま 葉子 に 背 を 向けて 立ち ながら 。 葉子 は 飛んで も ない 失策 でも した ように 、 シャツ の 背 部 に つける カラーボタン を 手 に 持った まま おろおろ して いた 。 ・・
「 つい シャツ を 仕 替える 時 それ だけ 忘れて しまって ……」・・
「 いい わけな ん ぞ は い いわ い 。 早く 頼む 」・・
「 はい 」・・
葉子 は しとやかに そう いって 寄り添う ように 倉地 に 近寄って その ボタン を ボタン 孔 に 入れよう と した が 、 糊 が 硬い の と 、 気 おくれ が して いる ので ちょっと は はいり そうに なかった 。 ・・
「 すみません が ちょっと 脱いで ください ましな 」・・
「 めんどうだ な 、 このまま で できよう が 」・・
葉子 は もう 一 度 試みた 。 しかし 思う ように は 行か なかった 。 倉地 は もう 明らかに いらいら し 出して いた 。 ・・
「 だめ か 」・・
「 まあ ちょっと 」・・
「 出せ 、 貸せ おれ に 。 なんでもない 事 だに 」・・
そう いって くるり と 振り返って ちょっと 葉子 を にらみつけ ながら 、 ひったくる ように ボタン を 受け取った 。 そして また 葉子 に 後ろ を 向けて 自分 で それ を はめよう と かかった 。 しかし なかなか うまく 行か なかった 。 見る見る 倉地 の 手 は はげしく 震え 出した 。 ・・
「 おい 、 手伝って くれて も よかろう が 」・・
葉子 が あわてて 手 を 出す と はずみ に ボタン は 畳 の 上 に 落ちて しまった 。 葉子 が それ を 拾おう と する 間もなく 、 頭 の 上 から 倉地 の 声 が 雷 の ように 鳴り響いた 。 ・・
「 ばか ! 邪魔 を しろ と いい や せんぞ 」・・
葉子 は それ でも どこまでも 優しく 出よう と した 。 ・・
「 御免 ください ね 、 わたし お邪魔 なん ぞ ……」・・
「 邪魔 よ 。 これ で 邪魔で なくて なんだ …… え ゝ 、 そこ じゃ ありゃ せ ん よ 。 そこ に 見え とる じゃ ない か 」・・
倉地 は 口 を とがらして 顎 を 突き出し ながら 、 ど しんと 足 を あげて 畳 を 踏み鳴らした 。 ・・
葉子 は それ でも 我慢 した 。 そして ボタン を 拾って 立ち上がる と 倉地 は もう ワイシャツ を 脱ぎ捨てて いる 所 だった 。 ・・
「 胸 くそ の 悪い …… おい 日本 服 を 出せ 」・・
「 襦袢 の 襟 が かけ ず に あります から …… 洋服 で 我慢 して ください まし ね 」・・ 葉子 は 自分 が 持って いる と 思う ほど の 媚 び を ある 限り 目 に 集めて 嘆願 する ように こういった 。 ・・
「 お前 に は 頼ま ん まで よ …… 愛 ちゃん 」・・
倉地 は 大きな 声 で 愛子 を 呼び ながら 階下 の ほう に 耳 を 澄ました 。 葉子 は それ でも 根かぎり 我慢 しよう と した 。 階子 段 を しとやかに のぼって 愛子 が いつも の ように 柔 順に 部屋 に は いって 来た 。 倉地 は 急に 相好 を くずして にこやかに なって いた 。 ・・
「 愛 ちゃん 頼む 、 シャツ に その ボタン を つけて おくれ 」・・
愛子 は 何事 の 起こった か を 露 知ら ぬ ような 顔 を して 、 男 の 肉 感 を そそる ような 堅 肉 の 肉体 を 美しく 折り曲げて 、 雪 白 の シャツ を 手 に 取り上げる のだった 。 葉子 が ちゃんと 倉地 に かし ず いて そこ に いる の を 全く 無視 した ような ずうずうしい 態度 が 、 ひがんで しまった 葉子 の 目 に は 憎 々 しく 映った 。 ・・
「 よけいな 事 を おし で ない 」・・
葉子 は とうとう かっと なって 愛子 を たしなめ ながら いきなり 手 に ある シャツ を ひったくって しまった 。 ・・
「 き さま は …… おれ が 愛 ちゃん に 頼んだ に なぜ よけいな 事 を し くさる んだ 」・・
と そう いって 威 丈 高 に なった 倉地 に は 葉子 は もう目 も くれ なかった 。 愛子 ばかり が 葉子 の 目 に は 見えて いた 。 ・・
「 お前 は 下 に いれば それ で いい 人間 な んだ よ 。 おさん どん の 仕事 も ろくろく でき は し ない くせ に よけいな 所 に 出しゃ ば る もん じゃ ない 事 よ 。 …… 下 に 行って おいで 」・・
愛子 は こう まで 姉 に たしなめられて も 、 さからう でも なく 怒る でも なく 、 黙った まま 柔 順に 、 多 恨 な 目 で 姉 を じっと 見て 静々 と その 座 を はずして しまった 。 ・・
こんな もつれ 合った いさかい が ともすると 葉子 の 家 で 繰り返さ れる ように なった 。 ひと り に なって 気 が しずまる と 葉子 は 心 の 底 から 自分 の 狂暴な 振る舞い を 悔いた 。 そして 気 を 取り 直した つもりで どこまでも 愛子 を いたわって やろう と した 。 愛子 に 愛情 を 見せる ため に は 義理 に も 貞 世に つらく 当たる の が 当然だ と 思った 。 そして 愛子 の 見て いる 前 で 、 愛する もの が 愛する 者 を 憎んだ 時 ばかり に 見せる 残虐な 呵責 を 貞 世に 与えたり した 。 葉子 は それ が 理不尽 きわまる 事 だ と は 知ってい ながら 、 そう 偏 頗 に 傾いて 来る 自分 の 心持ち を どう する 事 も でき なかった 。 それ のみ なら ず 葉子 に は 自分 の 鬱憤 を もらす ため の 対象 が ぜひ 一 つ 必要に なって 来た 。 人 で なければ 動物 、 動物 で なければ 草木 、 草木 で なければ 自分 自身 に 何 か なし に 傷害 を 与えて い なければ 気 が 休ま なく なった 。 庭 の 草 など を つかんで いる 時 でも 、 ふと 気 が 付く と 葉子 は しゃがんだ まま 一 茎 の 名 も ない 草 を たった 一 本 摘みとって 、 目 に 涙 を いっぱい ため ながら 爪 の 先 で 寸 々 に 切り さいなんで いる 自分 を 見いだしたり した 。 ・・
同じ 衝動 は 葉子 を 駆って 倉地 の 抱擁 に 自分 自身 を 思う存分 しいたげよう と した 。 そこ に は 倉地 の 愛 を 少し でも 多く 自分 に つなぎたい 欲求 も 手伝って は いた けれども 、 倉地 の 手 で 極度の 苦痛 を 感ずる 事 に 不満足 きわまる 満足 を 見いだそう と して いた のだ 。 精神 も 肉体 も はなはだしく 病 に 虫ばま れた 葉子 は 抱擁 に よって の 有頂天な 歓楽 を 味わう 資格 を 失って から かなり 久しかった 。 そこ に は ただ 地獄 の ような 呵責 が ある ばかりだった 。 すべて が 終わって から 葉子 に 残る もの は 、 嘔吐 を 催す ような 肉体 の 苦痛 と 、 しいて 自分 を 忘我 に 誘おう と もがき ながら 、 それ が 裏切られて 無益に 終わった 、 その後 に 襲って 来る 唾 棄 す べき 倦怠 ばかり だった 。 倉地 が 葉子 の その 悲惨な 無 感覚 を 分け前 して たとえ よう も ない 憎悪 を 感ずる の は もちろん だった 。 葉子 は それ を 知る と さらに いい 知れ ない たよりな さ を 感じて また はげしく 倉地 に いどみ かかる のだった 。 倉地 は 見る見る 一歩一歩 葉子 から 離れて 行った 。 そして ますます その 気分 は すさんで 行った 。 ・・
「 き さま は おれ に 厭 きた な 。 男 で も 作り おった んだろう 」・・
そう 唾 でも 吐き捨てる ように いまいまし げ に 倉地 が あらわに いう ような 日 も 来た 。 ・・
「 どう すれば いい んだろう 」・・
そう いって 額 の 所 に 手 を やって 頭痛 を 忍び ながら 葉子 は ひとり 苦しま ねば なら なかった 。