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有島武郎 - 或る女(アクセス), 2. 或る 女

2. 或る 女

葉子 は 木部 が 魂 を 打ちこんだ 初恋 の 的だった 。 それ は ちょうど 日 清 戦争 が 終局 を 告げて 、 国民 一般 は だれ かれ の 差 別なく 、 この 戦争 に 関係 の あった 事柄 や 人物 やに 事実 以上 の 好奇心 を そそられて いた ころ であった が 、 木部 は 二十五 と いう 若い 齢 で 、 ある 大新聞 社 の 従軍 記者 に なって シナ に 渡り 、 月並みな 通信 文 の 多い 中 に 、 きわだって 観察 の 飛び 離れた 心 力 の ゆらいだ 文章 を 発表 して 、 天才 記者 と いう 名 を 博して めでたく 凱旋 した のであった 。 そのころ 女流 キリスト 教徒 の 先覚者 と して 、 キリスト教 婦人 同盟 の 副 会長 を して いた 葉子 の 母 は 、 木部 の 属して いた 新聞 社 の 社長 と 親しい 交際 の あった 関係 から 、 ある 日 その 社 の 従軍 記者 を 自宅 に 招いて 慰労 の 会食 を 催した 。 その 席 で 、 小柄で 白 皙 で 、 詩吟 の 声 の 悲壮な 、 感情 の 熱烈な この 少 壮 従軍 記者 は 始めて 葉子 を 見た のだった 。

葉子 は その 時 十九 だった が 、 すでに 幾 人 も の 男 に 恋 を し向けられて 、 その 囲み を 手ぎわ よく 繰り ぬけ ながら 、 自分 の 若い 心 を 楽しま せて 行く タクト は 充分に 持って いた 。 十五 の 時 に 、 袴 を ひも で 締める 代わり に 尾 錠 で 締める くふう を して 、 一 時 女 学生 界 の 流行 を 風靡 した の も 彼女 である 。 その 紅 い 口 び る を 吸わ して 首席 を 占めた んだ と 、 厳格で 通って いる 米国 人 の 老 校長 に 、 思い も よら ぬ 浮き 名 を 負わ せた の も 彼女 である 。 上野 の 音楽 学校 に は いって ヴァイオリン の けいこ を 始めて から 二 か月 ほど の 間 に めきめき 上達 して 、 教師 や 生徒 の 舌 を 巻か した 時 、 ケー べ ル 博士 一 人 は 渋い 顔 を した 。 そして ある 日 「 お前 の 楽器 は 才 で 鳴る のだ 。 天才 で 鳴る ので は ない 」 と 無愛想に いって のけた 。 それ を 聞く と 「 そう で ございます か 」 と 無造作に いい ながら 、 ヴァイオリン を 窓 の 外 に ほうりなげて 、 そのまま 学校 を 退学 して しまった の も 彼女 である 。 キリスト教 婦人 同盟 の 事業 に 奔走 し 、 社会 で は 男 まさり の しっかり者 と いう 評判 を 取り 、 家内 で は 趣味 の 高い そして 意志 の 弱い 良 人 を 全く 無視 して 振る舞った その 母 の 最も 深い 隠れた 弱点 を 、 拇指 と 食指 と の 間 に ちゃんと 押えて 、 一 歩 も ひけ を 取ら なかった の も 彼女 である 。 葉子 の 目 に は すべて の 人 が 、 ことに 男 が 底 の 底 まで 見すか せる ようだった 。 葉子 は それ まで 多く の 男 を かなり 近く まで 潜り込ま せて 置いて 、 もう 一 歩 と いう 所 で 突っ放した 。 恋 の 始め に は いつでも 女性 が 祭り上げられて いて 、 ある 機会 を 絶頂 に 男性 が 突然 女性 を 踏みにじる と いう 事 を 直 覚 の ように 知っていた 葉子 は 、 どの 男 に 対して も 、 自分 と の 関係 の 絶頂 が どこ に ある か を 見ぬいて いて 、 そこ に 来 かかる と 情け 容赦 も なく その 男 を 振り捨てて しまった 。 そうして 捨てられた 多く の 男 は 、 葉子 を 恨む より も 自分 たち の 獣 性 を 恥じる ように 見えた 。 そして 彼ら は 等しく 葉子 を 見誤って いた 事 を 悔いる ように 見えた 。 なぜ と いう と 、 彼ら は 一 人 と して 葉子 に 対して 怨恨 を いだいたり 、 憤怒 を もらしたり する もの は なかった から 。 そして 少し ひがんだ 者 たち は 自分 の 愚 を 認める より も 葉子 を 年 不 相当に ませた 女 と 見る ほう が 勝手だった から 。

それ は 恋 に よろしい 若葉 の 六 月 の ある 夕方 だった 。 日本橋 の 釘 店 に ある 葉子 の 家 に は 七八 人 の 若い 従軍 記者 が まだ 戦 塵 の 抜け きら ない ような ふう を して 集まって 来た 。 十九 で いながら 十七 に も 十六 に も 見れば 見られる ような 華奢 な 可憐な 姿 を した 葉子 が 、 慎み の 中 に も 才 走った 面影 を 見せて 、 二 人 の 妹 と 共に 給仕 に 立った 。 そして しいられる まま に 、 ケーベル 博士 から ののしら れた ヴァイオリン の 一 手 も 奏でたり した 。 木部 の 全 霊 は ただ 一目 で この 美しい 才気 の みなぎり あふれた 葉子 の 容姿 に 吸い込まれて しまった 。 葉子 も 不思議に この 小柄な 青年 に 興味 を 感じた 。 そして 運命 は 不思議な いたずら を する もの だ 。 木部 は その 性格 ばかり で なく 、 容貌 ―― 骨 細 な 、 顔 の 造作 の 整った 、 天才 風 に 蒼白 い なめらかな 皮膚 の 、 よく 見る と 他の 部分 の 繊麗 な 割合 に 下顎 骨 の 発達 した ―― まで どこ か 葉子 の それ に 似て いた から 、 自 意識 の 極度に 強い 葉子 は 、 自分 の 姿 を 木部 に 見つけ出した ように 思って 、 一種 の 好奇心 を 挑発 せられ ず に は い なかった 。 木部 は 燃え やすい 心 に 葉子 を 焼く ように かき いだいて 、 葉子 は また 才 走った 頭 に 木部 の 面影 を 軽く 宿して 、 その 一夜 の 饗宴 は さりげなく 終わり を 告げた 。

木部 の 記者 と して の 評判 は 破天荒 と いって も よかった 。 いやしくも 文学 を 解する もの は 木部 を 知ら ない もの は なかった 。 人々 は 木部 が 成熟 した 思想 を ひっさげて 世の中 に 出て 来る 時 の 華々し さ を うわさ し 合った 。 ことに 日 清 戦 役 と いう 、 その 当時 の 日本 に して は 絶大な 背景 を 背負って いる ので 、 この 年少 記者 は ある 人々 から は 英雄 の 一 人 と さえ して 崇拝 さ れた 。 この 木部 が たびたび 葉子 の 家 を 訪れる ように なった 。 その 感傷 的な 、 同時に どこ か 大望 に 燃え 立った ような この 青年 の 活気 は 、 家 じゅう の 人々 の 心 を 捕え ないで は 置か なかった 。 ことに 葉子 の 母 が 前 から 木部 を 知っていて 、 非常に 有為 多 望 な 青年 だ と ほめそやしたり 、 公衆 の 前 で 自分 の 子 と も 弟 と も つか ぬ 態度 で 木部 を も てあつかったり する の を 見る と 、 葉子 は 胸 の 中 で せ せら 笑った 。 そして 心 を 許して 木部 に 好意 を 見せ 始めた 。 木部 の 熱意 が 見る見る 抑え がたく 募り 出した の は もちろん の 事 である 。

か の 六 月 の 夜 が 過ぎて から ほど も なく 木部 と 葉子 と は 恋 と いう 言葉 で 見られ ねば なら ぬ ような 間柄 に なって いた 。 こういう 場合 葉子 が どれほど 恋 の 場面 を 技巧 化 し 芸術 化 する に 巧みであった か は いう に 及ば ない 。 木部 は 寝て も 起きて も 夢 の 中 に ある ように 見えた 。 二十五 と いう そのころ まで 、 熱心な 信者 で 、 清 教徒 風 の 誇り を 唯一 の 立場 と して いた 木部 が この 初恋 に おいて どれほど 真剣に なって いた か は 想像 する 事 が できる 。 葉子 は 思い も かけ ず 木部 の 火 の ような 情熱 に 焼か れよう と する 自分 を 見いだす 事 が しばしば だった 。

その うち に 二 人 の 間柄 は すぐ 葉子 の 母 に 感づか れた 。 葉子 に 対して かねて から ある 事 で は 一種 の 敵意 を 持って さえ いる ように 見える その 母 が 、 この 事件 に 対して 嫉妬 と も 思わ れる ほど 厳重な 故障 を 持ち出した の は 、 不思議で ない と いう べき 境 を 通り越して いた 。 世 故 に 慣れ きって 、 落ち付き 払った 中年 の 婦人 が 、 心 の 底 の 動揺 に 刺激 されて たくらみ 出す と 見える 残虐な 譎計 は 、 年 若い 二 人 の 急所 を そろそろ と うかがい よって 、 腸 も 通れ と 突き刺して くる 。 それ を 払い かねて 木部 が 命 限り に もがく の を 見る と 、 葉子 の 心 に 純粋な 同情 と 、 男 に 対する 無 条件 的な 捨て身 な 態度 が 生まれ 始めた 。 葉子 は 自分 で 造り出した 自分 の 穽 に たわ い も なく 酔い 始めた 。 葉子 は こんな 目 も くらむ ような 晴れ晴れ しい もの を 見た 事 が なかった 。 女 の 本能 が 生まれて 始めて 芽 を ふき 始めた 。 そして 解剖 刀 の ような 日ごろ の 批判 力 は 鉛 の ように 鈍って しまった 。 葉子 の 母 が 暴力 で は 及ば ない の を 悟って 、 す かしつ なだめ つ 、 良 人 まで を 道具 に つかったり 、 木部 の 尊 信 する 牧師 を 方便 に したり して 、 あらん限り の 知力 を しぼった 懐柔 策 も 、 なんの かい も なく 、 冷静な 思慮 深い 作戦 計画 を 根気 よく 続ければ 続ける ほど 、 葉子 は 木部 を 後ろ に かばい ながら 、 健 気 に も か弱い 女 の 手 一 つ で 戦った 。 そして 木部 の 全身 全 霊 を 爪 の 先 想い の 果て まで 自分 の もの に しなければ 、 死んで も 死ね ない 様子 が 見えた ので 、 母 も とうとう 我 を 折った 。 そして 五 か月 の 恐ろしい 試練 の 後 に 、 両親 の 立ち会わ ない 小さな 結婚 の 式 が 、 秋 の ある 午後 、 木部 の 下宿 の 一 間 で 執り 行なわ れた 。 そして 母 に 対する 勝利 の 分捕り 品 と して 、 木部 は 葉子 一 人 の もの と なった 。

木部 は すぐ 葉山 に 小さな 隠れ家 の ような 家 を 見つけ出して 、 二 人 は むつまじく そこ に 移り 住む 事 に なった 。 葉子 の 恋 は しかしながら そろそろ と 冷え 始める のに 二 週間 以上 を 要し なかった 。 彼女 は 競争 すべ から ぬ 関係 の 競争 者 に 対して みごとに 勝利 を 得て しまった 。 日 清 戦争 と いう もの の 光 も 太陽 が 西 に 沈む たび ごと に 減じて 行った 。 それ ら は それ と して いちばん 葉子 を 失望 さ せた の は 同棲 後 始めて 男 と いう もの の 裏 を 返して 見た 事 だった 。 葉子 を 確実に 占領 した と いう 意識 に 裏書き さ れた 木部 は 、 今 まで おくび に も 葉子 に 見せ なかった 女々しい 弱点 を 露骨に 現わし 始めた 。 後ろ から 見た 木部 は 葉子 に は 取り 所 の ない 平凡な 気 の 弱い 精力 の 足りない 男 に 過ぎ なかった 。 筆 一 本 握る 事 も せ ず に 朝 から 晩 まで 葉子 に 膠着 し 、 感傷 的な くせ に 恐ろしく わがままで 、 今日 今日 の 生活 に さえ 事欠き ながら 、 万事 を 葉子 の 肩 に なげかけて それ が 当然な 事 で も ある ような 鈍感な お 坊ちゃん じみ た 生活 の しかた が 葉子 の 鋭い 神経 を いらいら さ せ 出した 。 始め の うち は 葉子 も それ を 木部 の 詩人 らしい 無邪気 さ から だ と 思って みた 。 そして せっせ せっせと 世話 女房 らしく 切り回す 事 に 興味 を つないで みた 。 しかし 心 の 底 の 恐ろしく 物質 的な 葉子 に どうして こんな 辛抱 が いつまでも 続こう ぞ 。 結婚 前 まで は 葉子 の ほう から 迫って みた に も 係わら ず 、 崇高 と 見える まで に 極端な 潔癖 屋 だった 彼 であった のに 、 思い も かけ ぬ 貪婪 な 陋劣 な 情欲 の 持ち主 で 、 しかも その 欲求 を 貧弱な 体質 で 表わそう と する の に 出っく わす と 、 葉子 は 今 まで 自分 でも 気 が つか ず に いた 自分 を 鏡 で 見せつけられた ような 不快 を 感ぜ ず に は いられ なかった 。 夕食 を 済ます と 葉子 は いつでも 不満 と 失望 と で いらいら し ながら 夜 を 迎え ねば なら なかった 。 木部 の 葉子 に 対する 愛着 が 募れば 募る ほど 、 葉子 は 一生 が 暗く なり まさる ように 思った 。 こうして 死ぬ ため に 生まれて 来た ので は ない はずだ 。 そう 葉子 は くさくさし ながら 思い 始めた 。 その 心持ち が また 木部 に 響いた 。 木部 は だんだん 監視 の 目 を もって 葉子 の 一挙一動 を 注意 する ように なって 来た 。 同棲 して から 半 か月 も たた ない うち に 、 木部 は ややもすると 高圧 的に 葉子 の 自由 を 束縛 する ような 態度 を 取る ように なった 。 木部 の 愛情 は 骨 に しみる ほど 知り 抜き ながら 、 鈍って いた 葉子 の 批判 力 は また 磨き を かけられた 。 その 鋭く なった 批判 力 で 見る と 、 自分 と 似 よった 姿 なり 性格 なり を 木部 に 見いだす と いう 事 は 、 自然 が 巧妙な 皮肉 を やって いる ような もの だった 。 自分 も あんな 事 を 想い 、 あんな 事 を いう の か と 思う と 、 葉子 の 自尊心 は 思う存分 に 傷つけられた 。

ほか の 原因 も ある 。 しかし これ だけ で 充分だった 。 二 人 が 一緒に なって から 二 か月 目 に 、 葉子 は 突然 失踪 して 、 父 の 親友 で 、 いわゆる 物事 の よく わかる 高山 と いう 医者 の 病室 に 閉じこもら して もらって 、 三 日 ばかり は 食う 物 も 食わ ず に 、 浅ましく も 男 の ため に 目 の くらんだ 自分 の 不覚 を 泣き 悔やんだ 。 木部 が 狂気 の ように なって 、 ようやく 葉子 の 隠れ 場所 を 見つけて 会い に 来た 時 は 、 葉子 は 冷静な 態度 で しらじらしく 面会 した 。 そして 「 あなた の 将来 の お ため に きっと なりません から 」 と 何げな げ に いって のけた 。 木部 が その 言葉 に 骨 を 刺す ような 諷刺 を 見いだし かねて いる の を 見る と 、 葉子 は 白く そろった 美しい 歯 を 見せて 声 を 出して 笑った 。

葉子 と 木部 と の 間柄 は こんな たわ い も ない 場面 を 区切り に して はかなく も 破れて しまった 。 木部 は あらんかぎり の 手段 を 用いて 、 なだめたり 、 すかしたり 、 強迫 まで して みた が 、 すべて は 全く 無益だった 。 いったん 木部 から 離れた 葉子 の 心 は 、 何者 も 触れた 事 の ない 処女 の それ の ように さえ 見えた 。

それ から 普通の 期間 を 過ぎて 葉子 は 木部 の 子 を 分娩 した が 、 もとより その 事 を 木部 に 知らせ なかった ばかり で なく 、 母 に さえ ある 他 の 男 に よって 生んだ 子 だ と 告白 した 。 実際 葉子 は その後 、 母 に その 告白 を 信じ さす ほど の 生活 を あえて して いた のだった 。 しかし 母 は 目ざとく も その 赤ん坊 に 木部 の 面影 を 探り 出して 、 キリスト 信徒 に あるまじき 悪意 を この あわれな 赤ん坊 に 加えよう と した 。 赤ん坊 は 女 中 部屋 に 運ば れた まま 、 祖母 の 膝 に は 一 度 も 乗ら なかった 。 意地 の 弱い 葉子 の 父 だけ は 孫 の かわい さ から そっと 赤ん坊 を 葉子 の 乳母 の 家 に 引き取る ように して やった 。 そして その みじめな 赤ん坊 は 乳母 の 手 一 つ に 育てられて 定子 と いう 六 歳 の 童 女 に なった 。

その後 葉子 の 父 は 死んだ 。 母 も 死んだ 。 木部 は 葉子 と 別れて から 、 狂瀾 の ような 生活 に 身 を 任せた 。 衆議院 議員 の 候補 に 立って も みたり 、 純 文学 に 指 を 染めて も みたり 、 旅僧 の ような 放浪 生活 も 送ったり 、 妻 を 持ち 子 を 成し 、 酒 に ふけ り 、 雑誌 の 発行 も 企てた 。 そして その すべて に 一 々 不満 を 感ずる ばかりだった 。 そして 葉子 が 久しぶりで 汽車 の 中 で 出あった 今 は 、 妻子 を 里 に 返して しまって 、 ある 由緒 ある 堂 上 華族 の 寄食者 と なって 、 これ と いって する 仕事 も なく 、 胸 の 中 だけ に は いろいろな 空想 を 浮かべたり 消したり して 、 とかく 回想 に ふけ り やすい 日 送り を して いる 時 だった 。

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