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有島武郎 - 或る女(アクセス), 13.2 或る女

13.2或る 女

目 は まざまざ と 開いて いた けれども 葉子 は まだ 夢心地 だった 。 事務長 の いる のに 気づいた 瞬間 から また 聞こえ出した 波 濤 の 音 は 、前 の ように 音楽的な 所 は 少しも なく 、ただ 物狂おしい 騒音 と なって 船 に 迫っていた 。 しかし 葉子 は 今 の 境界 が ほんとうに 現実 の 境界 な の か 、さっき 不思議な 音楽的 の 錯覚 に ひたって いた 境界 が 夢 幻 の 中 の 境界 な の か 、自分 ながら 少しも 見さかい が つか ない くらい ぼんやり して いた 。 そして あの 荒唐 な 奇怪な 心 の adventure を かえって まざまざと した 現実 の 出来事 でも ある かのように 思いなして 、目の前に 見る 酒 に 赤らんだ 事務長 の 顔 は 妙に 蠱惑的な 気味の悪い 幻像 と なって 、葉子 を 脅かそう と した 。 ・・

「少し 飲み 過ぎた ところ に ため といた 仕事 を 詰めて やった んで 眠れ ん 。 で 散歩 の つもり で 甲板 の 見回り に 出る と 岡さん 」・・

と いい ながら もう 一 度 後ろ に 振り返って 、・・

「この 岡 さん が この 寒い に 手 欄 から からだ を 乗り出して ぽかん と 海 を 見とる んです 。 取り押えて ケビン に 連れて 行こう と 思う とる と 、今度 は あなた に 出っく わす 。 物好き も あった もん です ねえ 。 海 を ながめて 何 が おもしろい か な 。 お 寒 か ありません か 、ショール なんぞ も 落ちて しまった 」・・どこ の 国 なまり と も わからぬ 一種 の 調子 が 塩 さびた 声 で あやつられる のが 、事務長 の 人となり に よく そぐって 聞こえる 。 葉子 は そんな 事 を 思い ながら 事務長 の 言葉 を 聞き終わる と 、始めて はっきり 目 が さめた ように 思った 。 そして 簡単に 、・・

「 い ゝ え 」・・

と 答え ながら 上目づかい に 、夢 の 中 から でも 人 を 見る ように うっとり と 事務長 の しぶとそうな 顔 を 見やった 。 そして そのまま 黙って いた 。 ・・

事務長 は 例の insolent な 目つき で 葉子 を 一目 に 見くるめ ながら 、・・

「 若い 方 は 世話 が 焼ける …… さあ 行きましょう 」・・ と 強い語調 で いって 、 から から と 傍若無人に 笑い ながら 葉子 を せき立てた 。 海 の 波 の 荒涼たる お めき の 中 に 聞く この 笑い声 は diabolic な もの だった 。 「若い 方 」……老成 ぶった 事 を いう と 葉子 は 思った けれども 、しかし 事務長 に は そんな 事 を いう 権利 でも あるか の ように 葉子 は 皮肉な 竹篦返し も せずに 、おとなしく ショール を 拾い上げて 事務長 の いう ままに その あと に 続こう と して 驚いた 。 ところ が 長い 間 そこ に たたずんで いた もの と 見えて 、磁石 で 吸い 付けられた ように 、両足 は 固く 重く なって 一寸 も 動き そうに は なかった 。 寒気 の ため に 感覚 の 痲痺 しか かった 膝 の 関節 は しいて 曲げよう と する と 、筋 を 絶つ ほど の 痛み を 覚えた 。 不用意に 歩き 出そう と した 葉子 は 、思わず のめり 出さ した 上体 を からく 後ろ に ささえて 、情けなげ に 立ちすくみ ながら 、・・

「ま 、ちょっと 」・・

と 呼びかけた 。 事務 長 の 後ろ に 続こう と した 岡 と 呼ばれた 青年 は これ を 聞く と いち早く 足 を 止めて 葉子 の ほう を 振り向いた 。 ・・

「始めて お 知り合い に なった ばかりです のに 、すぐ お 心安だて を して ほんとうに なんで ございます が 、ちょっと お 肩 を 貸して いただけません でしょうか 。 なん です か 足 の 先 が 凍った よう に なって しまって ……」・・

と 葉子 は 美しく 顔 を しかめて 見せた 。 岡 は それ ら の 言葉 が 拳 と なって 続け さまに 胸 を 打つ と でも いった ように 、しばらく の 間 どぎまぎ 躊躇 していた が 、やがて 思い切った ふうで 、黙った まま 引き返して 来た 。 身のたけ も 肩 幅 も 葉子 と そう 違わ ない ほど な 華車 な からだ を わなわな と 震わせている のが 、肩 に 手 を かけない うち から よく 知れた 。 事務長 は 振り向き も しないで 、靴 の かかと を こつこつと 鳴らし ながら 早 二三 間 の かなた に 遠ざかって いた 。 ・・

鋭敏な 馬 の 皮膚 の よう に だ ち だ ち と 震える 青年 の 肩 に お ぶい かかり ながら 、 葉子 は 黒い 大きな 事務 長 の 後ろ姿 を 仇 か たきで も ある か の よう に 鋭く 見つめて そろそろ と 歩いた 。 西 洋酒 の 芳醇 な 甘い 酒 の 香 が 、まだ 酔い から さめ きらない 事務長 の 身のまわり を 毒々しい 靄 と なって 取り巻いて いた 。 放 縦 と いう 事務 長 の 心 の 臓 は 、今 不 用心 に 開かれて いる 。 あの 無頓着 そうな 肩 の ゆすり の 陰に すさまじい desire の 火 が 激しく 燃えて いる はずである 。 葉子 は 禁断 の 木 の 実 を 始めて くい かいだ 原人 の ような 渇 欲 を われ に も なく あおり たてて 、 事務 長 の 心 の 裏 を ひっくり返して 縫い目 を 見 窮めよう と ばかり して いた 。 おまけに 青年 の 肩 に 置いた 葉子 の 手 は 、華車 と は いい ながら 、男性的な 強い 弾力 を 持つ 筋肉 の 震え を まざまざと 感ずる ので 、これら の 二人 の 男 が 与える 奇怪な 刺激 は ほしいままに からまりあって 、恐ろしい 心 を 葉子 に 起こさせた 。 木村 ……何 を うるさい 、よけいな 事 は いわず と 黙って 見ている が いい 。 心 の 中 を ひらめき 過ぎる 断片的 な 影 を 葉子 は 枯れ葉 の よう に 払いのけ ながら 、 目の前 に 見る 蠱惑 に おぼれて 行こう と のみ した 。 口 から 喉 は あえぎたい ほど に ひからびて 、岡 の 肩 に 乗せた 手 は 、生理的な 作用 から 冷たく 堅く なって いた 。 そして 熱 を こめて うるんだ 目 を 見張って 、事務長 の 後ろ姿 ばかり を 見つめ ながら 、五 体 は ふらふら と たわいもなく 岡 の ほう に よりそった 。 吐き出す 気 息 は 燃え 立って 岡 の 横顔 を なでた 。 事務 長 は 油断 なく 角 燈 で 左右 を 照らし ながら 甲板 の 整頓 に 気 を 配って 歩いて いる 。 ・・

葉子 は いたわる ように 岡 の 耳 に 口 を よせて 、・・

「あなた は どちら まで 」・・

と 聞いて みた 。 その 声 は いつも の ように 澄んで は い なかった 。 そして 気 を 許した 女 から ばかり 聞か れる ような 甘たるい 親しさ が こもっていた 。 岡 の 肩 は 感激 の ため に 一 入 震えた 。 頓に は 返事 も し 得 ないで いた ようだった が 、やがて 臆病 そうに 、・・

「あなた は 」・・

と だけ 聞き返して 、熱心に 葉子 の 返事 を 待つ らしかった 。 ・・

「シカゴ まで 参る つもりです の 」・・

「僕 も ……わたし も そう です 」・・

岡 は 待ち 設けた ように 声 を 震わし ながら きっぱり と 答えた 。 ・・

「シカゴ の 大学 に でも いらっしゃいます の 」・・岡 は 非常に あわてた ようだった 。 なんと 返事 を した もの か 恐ろしく ためらう ふうだった が 、やがて あいまいに 口 の 中 で 、・・

「え ゝ 」・・

と だけ つぶやいて 黙って しまった 。 その お ぼこさ ……葉子 は 闇 の 中 で 目 を かがやかして ほほえんだ 。 そして 岡 を あわれんだ 。 ・・

しかし 青年 を あわれむ と 同時に 葉子 の 目 は 稲妻 の ように 事務長 の 後ろ姿 を 斜めに かすめた 。 青年 を あわれむ 自分 は 事務 長 に あわれまれて いる ので は ない か 。 始終 一 歩 ずつ 上手 を 行く ような 事務 長 が 一種 の 憎しみ を もって ながめ やられた 。 かつて 味わった 事 の ない この 憎しみ の 心 を 葉子 は どう する 事 も でき なかった 。 ・・

二 人 に 別れて 自分 の 船室 に 帰った 葉子 は ほとんど delirium の 状態 に あった 。 眼睛 は 大きく 開いた まま で 、盲目 同様に 部屋 の 中 の 物 を 見る 事 を し なかった 。 冷えきった 手先 は おどおど と 両 の 袂 を つかんだり 離したり して いた 。 葉子 は 夢中 で ショール と ボア と を かなぐり捨て 、もどかしげ に 帯 だけ ほどく と 、髪 も 解かず に 寝台 の 上 に 倒れかかって 、横 に なった まま 羽根 枕 を 両手 で ひしと 抱いて 顔 を 伏せた 。 なぜ と 知ら ぬ 涙 が その 時 堰 を 切った ように 流れ出した 。 そして 涙 は あと から あと から みなぎる ように シーツ を 湿し ながら 、充血 した 口 びる は 恐ろしい 笑い を たたえて わなわな と 震えて いた 。 ・・

一 時間 ほど そうして いる うち に 泣き 疲れ に 疲れて 、葉子 は かける もの も かけず に そのまま 深い 眠り に 陥って 行った 。 けばけばしい 電 燈 の 光 は その 翌日 の 朝 まで この なまめかしく も ふしだらな 葉子 の 丸 寝姿 を 画いた ように 照らして いた 。

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