11.2或る 女
葉子 は 思い余った その場のがれ から 、箪笥 の 上 に 興録 から 受け取った まま 投げ捨てて 置いた 古藤 の 手紙 を 取り上げて 、白い 西洋 封筒 の 一端 を 美しい 指 の 爪 で 丹念に 細く 破り取って 、手筋 は 立派 ながら まだ どこか たどたどしい 手跡 で ペン で 走り書き した 文句 を 読み下して 見た 。 ・・
「あなた は おさんどん に なる と いう 事 を 想像 して みる 事 が できます か 。 おさん どん と いう 仕事 が 女 に ある と いう 事 を 想像 して みる 事 が できます か 。 僕 は あなた を 見る 時 は いつでも そう 思って 不思議な 心持ち に なって しまいます 。 いったい 世の中 に は 人 を 使って 、人 から 使われる と いう 事 を 全く しないで いい と いう 人 が ある もの でしょうか 。 そんな 事 が でき うる もの でしょう か 。 僕 は それ を あなた に 考えて いただきたい のです 。 ・・
あなた は 奇 態 な 感じ を 与える 人 です 。 あなた の なさる 事 は どんな 危険な 事 でも 危険 らしく 見えません 。 行きづまった 末 に は こう という 覚悟 が ちゃんと できて いる ように 思われる から でしょうか 。 ・・
僕 が あなた に 始めて お目にかかった の は 、 この 夏 あなた が 木村 君 と 一緒に 八幡 に 避暑 を して おられた 時 です から 、 あなた に ついて は 僕 は 、 なんにも 知らない と いって いい くらい です 。 僕 は 第 一 一般的に 女 と いう もの に ついて なんにも 知りません 。 しかし 少し でも あなた を 知った だけ の 心持ち から いう と 、女 の 人 と いう もの は 僕 に 取って は 不思議な 謎 です 。 あなた は どこ まで 行ったら 行きづまる と 思って いる んです 。 あなた は すでに 木村 君 で 行きづまって いる 人 なんだ と 僕 に は 思われる のです 。 結婚 を 承諾 した 以上 は その 良人 に 行きづまる の が 女 の 人 の 当然 な 道 で は ない でしょう か 。 木村 君 で 行きづまって ください 。 木村 君 に あなた を 全部 与えて ください 。 木村 君 の 親友 と して これ が 僕 の 願い です 。 ・・
全体 同じ 年齢 で ありながら 、あなた から は 僕 など は 子供 に 見える のでしょう から 、僕 の いう 事 など は 頓着 なさらない か と 思います が 、子供 に も 一つ の 直覚 は あります 。 そして 子供 は きっぱり した 物 の 姿 が 見たい のです 。 あなた が 木村 君 の 妻 に なる と 約束 した 以上 は 、僕 の いう 事 に も 権威 が ある はず だ と 思います 。 ・・
僕 は そう は いい ながら 一面に は あなた が うらやましい ように も 、憎い ように も 、かわいそうな ように も 思います 。 あなた の なさる 事 が 僕 の 理性 を 裏切って 奇怪な 同情 を 喚び 起こす ように も 思います 。 僕 は 心 の 底 に 起こる こんな 働き を も しいて 押しつぶして 理屈 一方 に 固まろう と は 思いません 。 それほど 僕 は 道 学者 で は ない つもりです 。 それ だからといって 、今 の まま の あなた で は 、僕 に は あなた を 敬親 する 気 は 起こりません 。 木村 君 の 妻 と して あなた を 敬親 したい から 、僕 は あえて こんな 事 を 書きました 。 そういう 時 が 来る ように して ほしい のです 。 ・・
木村 君 の 事 を ――あなた を 熱愛して あなたのみに 希望 を かけている 木村 君 の 事 を 考える と 僕 は これだけの 事 を 書かずに は いられなく なります 。 ・・
古藤 義一 ・・
木村 葉子 様 」・・
それ は 葉子 に 取って は ほんとうの 子供っぽい 言葉 と しか 響か なかった 。 しかし 古藤 は 妙に 葉子 に は 苦手だった 。 今 も 古藤 の 手紙 を 読んで 見る と 、ばかばかしい 事 が いわれている と は 思い ながら も 、いちばん 大事な 急所 を 偶然 の ように しっかり 捕えている ように も 感じられた 。 ほんとうに こんな 事 を して いる と 、子供 と 見くびって いる 古藤 に も あわれまれる はめ に なりそうな 気 が して ならなかった 。 葉子 は なんという 事 なく 悒鬱 に なって 古藤 の 手紙 を 巻き おさめ も せず 膝 の 上 に 置いた まま 目 を すえて 、じっと 考える と も なく 考えた 。 ・・
それにしても 、新しい 教育 を 受け 、新しい 思想 を 好み 、世 事 に うとい だけに 、世の中 の 習俗 から も 飛び離れて 自由でありげに 見える 古藤 さえ が 、葉子 が 今 立っている 崕 の きわ から 先 に は 、葉子 が 足 を 踏み出す のを 憎み 恐れる 様子 を 明らかに 見せている のだ 。 結婚 と いう もの が 一人 の 女 に 取って 、どれほど 生活 と いう 実際 問題 と 結び付き 、女 が どれほど その 束縛 の 下 に 悩んで いる か を 考えて みる 事 さえ しよう と は しない のだ 。 そう 葉子 は 思って も みた 。 ・・
これ から 行こう と する 米国 という 土地 の 生活 も 葉子 は ひとりでに いろいろ と 想像 し ない で は いられ なかった 。 米国 の 人 たち は どんなふうに 自分 を 迎え入れよう と は する だろう 。 とにかく 今 まで の 狭い 悩ましい 過去 と 縁 を 切って 、何の 関り も ない 社会 の 中 に 乗り込む のは おもしろい 。 和服 より も はるかに 洋服 に 適した 葉子 は 、そこ の 交際 社会 でも 風俗 で は 米国 人 を 笑わ せない 事 が できる 。 歓楽 でも 哀傷 でも しっくり と 実 生活 の 中 に 織り込まれて いる ような 生活 が そこ に は ある に 違いない 。 女 の チャーム と いう もの が 、習慣的な 絆 から 解き放されて 、その 力 だけ に 働く 事 の できる 生活 が そこ に は ある に 違いない 。 才能 と 力量 さえ あれば 女 でも 男 の 手 を 借り ず に 自分 を まわり の 人 に 認め さす 事 の できる 生活 が そこ に は ある に 違いない 。 女 でも 胸 を 張って 存分 呼吸 の できる 生活 が そこ に は ある に 違いない 。 少なくとも 交際 社会 の どこ か で は そんな 生活 が 女 に 許されて いる に 違いない 。 葉子 は そんな 事 を 空想 する と むずむず する ほど 快活に なった 。 そんな 心持ち で 古藤 の 言葉 など を 考えて みる と 、まるで 老人 の 繰り言 の ように しか 見えなかった 。 葉子 は 長い 黙想 の 中 から 活々 と 立ち上がった 。 そして 化粧 を すます ため に 鏡 の ほう に 近づいた 。 ・・
木村 を 良 人 と する のに なんの 屈託 が あろう 。 木村 が 自分 の 良 人 である の は 、自分 が 木村 の 妻 である と いう ほど に 軽い 事 だ 。 木村 という 仮面 ……葉子 は 鏡 を 見 ながら そう 思って ほほえんだ 。 そして 乱れ かかる 額 ぎ わ の 髪 を 、振り 仰いで 後ろ に なで つけたり 、両方 の 鬢 を 器用に かき上げたり して 、良 工 が 細工 物 でも する ように 楽しみ ながら 元気 よく 朝 化粧 を 終えた 。 ぬれた 手ぬぐい で 、鏡 に 近づけた 目 の まわり の 白 粉 を ぬぐい 終わる と 、口びる を 開いて 美しく そろった 歯並み を ながめ 、両方 の 手 の 指 を 壺 の 口 の ように 一所 に 集めて 爪 の 掃除 が 行き届いて いる か 確かめた 。 見返る と 船 に 乗る 時 着て 来た 単 衣 の じみな 着物 は 、世捨て人 の ように だらり と 寂しく 部屋 の すみ の 帽子 かけ に かかった まま に なっていた 。 葉子 は 派手な 袷 を トランク の 中 から 取り出して 寝衣 と 着かえ ながら 、それ に 目 を やる と 、肩 に しっかり と しがみ付いて 、泣き おめいた 彼 の 狂気じみた 若者 の 事 を 思った 。 と 、すぐ その そば から 若者 を 小 わき に かかえた 事務長 の 姿 が 思い出さ れた 。 小雨 の 中 を 、 外套 も 着 ず に 、 小 荷物 でも 運んで 行った よう に 若者 を 桟橋 の 上 に おろして 、 ちょっと 五十川 女史 に 挨拶 して 船 から 投げた 綱 に すがる や 否 や 、 静かに 岸 から 離れて ゆく 船 の 甲板 の 上 に 軽々 と 上がって 来た その 姿 が 、 葉子 の 心 を くすぐる よう に 楽しま せて 思い出された 。 ・・
夜 は いつのまにか 明け 離れて いた 。 眼窓 の 外 は 元 の まま に 灰色 は している が 、活々 とした 光 が 添い 加わって 、甲板 の 上 を 毎朝 規則正しく 散歩する 白髪 の 米人 と その 娘 との 足音 が こつこつ 快活らしく 聞こえていた 。 化粧 を すました 葉子 は 長椅子 に ゆっくり 腰 を かけて 、両足 を まっすぐに そろえて 長々と 延ばした まま 、うっとり と 思う とも なく 事務長 の 事 を 思っていた 。 ・・
その 時 突然 ノック を して ボーイ が コーヒー を 持って はいって 来た 。 葉子 は 何 か 悪い 所 でも 見つけられた ように ちょっと ぎょっと して 、延ばして いた 足 の 膝 を 立てた 。 ボーイ は いつも の ように 薄 笑い を して ちょっと 頭 を 下げて 銀色 の 盆 を 畳 椅子 の 上 に おいた 。 そして きょう も 食事 は やはり 船室 に 運ぼう か と 尋ねた 。 ・・
「今晩 から は 食堂 に して ください 」・・
葉子 は うれしい 事 でも いって 聞かせる ように こういった 。 ボーイ は まじめ くさって 「はい 」と いった が 、ちらり と 葉子 を 上目 で 見て 、急ぐ ように 部屋 を 出た 。 葉子 は ボーイ が 部屋 を 出て どんな ふう を して いる か が はっきり 見える ようだった 。 ボーイ は すぐに にこにこ と 不思議な 笑い を もらし ながら ケーク ・ウォーク の 足 つき で 食堂 の ほう に 帰って 行った に 違いない 。 ほど も なく 、・・
「え 、いよいよ 御来迎 ? 」・・
「来た ね 」・・
と いう ような 野卑 な 言葉 が 、ボーイ らしい 軽薄な 調子 で 声高に 取りかわさ れる の を 葉子 は 聞いた 。 ・・
葉子 は そんな 事 を 耳 に しながら やはり 事務長 の 事 を 思って いた 。 「三日 も 食堂 に 出ないで 閉じこもっている のに 、なんという 事務長 だろう 、一ぺん も 見舞い に 来ない と は あんまり ひどい 」こんな 事 を 思っていた 。 そして その 一方で は 縁 も ゆかり も ない 馬 の ように ただ 頑丈な 一人 の 男 が なんで こう 思い出さ れ る のだろう と 思っていた 。 ・・
葉子 は 軽い ため息 を ついて 何げなく 立ち上がった 。 そして また 長 椅子 に 腰かける 時 に は 棚 の 上 から 事務 長 の 名刺 を 持って 来て ながめて いた 。 「日本 郵船 会社 絵 島 丸 事務 長 勲 六 等 倉地 三吉 」と 明朝 で はっきり 書いて ある 。 葉子 は 片手 で コーヒー を すすり ながら 、名刺 を 裏返して その 裏 を ながめた 。 そして まっ白 な その 裏 に 何 か 長い 文句 でも 書いである かのように 、二重に なる 豊かな 顎 を 襟 の 間 に 落として 、少し 眉 を ひそめ ながら 、長い 間 まじろぎ も せず 見つめて いた 。