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有島武郎 - 或る女(アクセス), 11.1 或る女

11.1或る 女

絵 島 丸 が 横浜 を 抜錨 して から もう 三 日 たった 。 東京 湾 を 出 抜ける と 、黒潮 に 乗って 、金華山 沖 あたり から は 航路 を 東北 に 向けて 、まっしぐらに 緯度 を 上って 行く ので 、気温 は 二日目 あたり から 目立って 涼しく なって 行った 。 陸 の 影 は いつのまにか 船 の どの 舷 から も ながめる 事 は でき なく なって いた 。 背 羽根 の 灰色 な 腹 の 白い 海鳥 が 、時々 思い出した ように さびしい 声 で なき ながら 、船 の 周囲 を 群れ 飛ぶ ほか に は 、生き物 の 影 とて は 見る 事 も できない ように なっていた 。 重い 冷たい 潮 霧 が 野火 の 煙 の ように 濛々 と 南 に 走って 、それ が 秋 らしい 狭 霧 と なって 、船体 を 包む か と思う と 、たちまち からっと 晴れた 青空 を 船 に 残して 消えて 行ったり した 。 格別 の 風 も ない のに 海面 は 色 濃く 波打ち 騒いだ 。 三 日 目 から は 船 の 中 に 盛んに スティーム が 通り 始めた 。 ・・

葉子 は この 三 日 と いう もの 、一度 も 食堂 に 出 ず に 船室 に ばかり 閉じこもって いた 。 船 に 酔った から で は ない 。 始めて 遠い 航海 を 試みる 葉子 に しては 、それ が 不思議な くらい たやすい 旅 だった 。 ふだん 以上 に 食欲 さえ 増して いた 。 神経 に 強い 刺激 が 与えられて 、とかく 鬱 結 しやすかった 血液 も 濃く 重たい なりに も なめらかに 血管 の 中 を 循環し 、海 から 来る 一種 の 力 が からだ の すみずみ まで 行きわたって 、うずうずする ほど な 活力 を 感じ させた 。 もらし 所 の ない その 活気 が 運動 も せ ず に いる 葉子 の からだ から 心 に 伝わって 、一種 の 悒鬱 に 変わる ように さえ 思えた 。 ・・

葉子 は それ でも 船室 を 出よう と は し なかった 。 生まれて から 始めて 孤独に 身 を 置いた ような 彼女 は 、子供 の ように それ が 楽しみ たかった し 、また 船中 で 顔見知り の だれ かれ が できる 前 に 、これまで の 事 、これから の 事 を 心に しめて 考えて もみたい とも 思った 。 しかし 葉子 が 三日 の 間 船室 に 引きこもり 続けた 心持ち に は 、もう 少し 違った もの も あった 。 葉子 は 自分 が 船客 たち から 激しい 好奇 の 目 で 見られよう と して いる の を 知っていた 。 立 役 は 幕 明き から 舞台 に 出て いる もの で は ない 。 観客 が 待ち に 待って 、待ち くたぶれ そうに なった 時分 に 、しずしず と 乗り出して 、舞台 の 空気 を 思う さま 動かさねば ならぬ のだ 。 葉子 の 胸 の 中 に は こんな ずるがしこい いたずらな 心 も 潜んで いた のだ 。 ・・

三 日 目 の 朝 電 燈 が 百合 の 花 の しぼむ よう に 消える ころ 葉子 は ふと 深い 眠り から 蒸し暑 さ を 覚えて 目 を さました 。 スティーム の 通って 来る ラディエター から 、真空 に なった 管 の 中 に 蒸汽 の 冷えた したたり が 落ちて 立てる 激しい 響き が 聞こえて 、部屋 の 中 は 軽く 汗ばむ ほど 暖まって いた 。 三日 の 間 狭い 部屋 の 中 ばかり に いて すわり 疲れ 寝 疲れ のした 葉子 は 、狭苦しい 寝台 の 中 に 窮屈に 寝 ちぢまった 自分 を 見いだす と 、下 に なった 半身 に 軽い しびれ を 覚えて 、からだ を 仰向け に した 。 そして 一 度 開いた 目 を 閉じて 、美しく 円 味 を 持った 両 の 腕 を 頭 の 上 に 伸ばして 、寝 乱れた 髪 を もてあそび ながら 、さめ ぎわ の 快い 眠り に また 静かに 落ちて 行った 。 が 、ほど も なく ほんとうに 目 を さます と 、大きく 目 を 見開いて 、あわてた ように 腰 から 上 を 起こして 、ちょうど 目通り の ところ に ある いちめんに 水気 で 曇った 眼 窓 を 長い 袖 で 押し ぬぐって 、ほてった 頬 を ひやひや する その 窓 ガラス に すりつけ ながら 外 を 見た 、夜 は ほんとうに は 明け 離れて いないで 、窓 の 向こう に は 光 の ない 濃い 灰色 が どんより と 広がっている ばかりだった 。 そして 自分 の からだ が ずっと 高まって やがて また 落ちて 行く な と 思わしい ころ に 、窓 に 近い 舷 に ざあっと あたって 砕けて 行く 波 濤 が 、単調な 底力 の ある 震動 を 船室 に 与えて 、船 は かすかに 横 に かし いだ 。 葉子 は 身動き も せず に 目 に その 灰色 を ながめ ながら 、かみしめる ように 船 の 動揺 を 味わって 見た 。 遠く 遠く 来た と いう 旅情 が 、さすがに しみじみ と 感ぜられた 。 しかし 葉子 の 目 に は 女らしい 涙 は 浮かば なかった 。 活気 の ずんずん 回復 しつつ あった 彼女 に は 何 か パセティック な 夢 でも 見ている ような 思い を させた 。 ・・

葉子 は そうした まま で 、過 ぐる 二 日 の 間 暇 に まかせて 思い 続けた 自分 の 過去 を 夢 の ように 繰り返して いた 。 連絡 の ない 終わり の ない 絵巻 が つぎつぎ に 広げられたり 巻か れたり した 。 キリスト を 恋い 恋うて 、夜 も 昼 も やみがたく 、十字架 を 編み込んだ 美しい 帯 を 作って 献げよう と 一心に 、日課 も 何も そっちのけ に して 、指 の 先 が ささくれる まで 編み針 を 動かした 可憐な 少女 も 、その 幻想 の 中 に 現われ出た 。 寄宿舎 の 二 階 の 窓 近く 大きな 花 を 豊かに 開いた 木蘭 の 香 いま で が そこ いらに 漂っている ようだった 。 国分寺 跡 の 、武蔵野 の 一角 らしい 櫟 の 林 も 現われた 。 すっかり 少女 の ような 無邪気な 素直な 心 に なって しまって 、孤 の 膝 に 身 も 魂 も 投げかけ ながら 、涙 と ともに ささやかれ る 孤 の 耳 うち の ように 震えた 細い 言葉 を 、ただ 「はいはい 」と 夢心地 に うなずいて のみ 込んだ 甘い 場面 は 、今 の 葉子 と は 違った 人 の ようだった 。 そう か と 思う と 左岸 の 崕 の 上 から 広瀬川 を 越えて 青葉山 を いちめんに 見渡した 仙台 の 景色 が するする と 開け 渡った 。 夏 の 日 は 北国 の 空 に も あふれ 輝いて 、白い 礫 の 河原 の 間 を まっさおに 流れる 川 の 中 に は 、赤裸 な 少年 の 群れ が 赤々 と した 印象 を 目 に 与えた 。 草 を 敷か ん ばかりに 低く うずくまって 、はなやかな 色合い の パラソル に 日 を よけ ながら 、黙って 思い に ふける 一人 の 女 ――その 時 に は 彼女 は どの 意味 から も 女 だった ――どこまでも 満足 の 得られ ない 心 で 、だんだん と 世間 から 埋もれて 行か ねば ならない ような 境遇 に 押し込められよう と する 運命 。 確かに 道 を 踏み ちがえた と も 思い 、踏み ちがえた のは 、だれ が さした 事 だ と 神 を すら なじって みたい ような 思い 。 暗い 産 室 も 隠れて は い なかった 。 そこ の 恐ろしい 沈黙 の 中 から 起こる 強い 快い 赤児 の 産声 ――やみがたい 母性 の 意識 ――「われ すでに 世に 勝てり 」と でも いって みたい 不思議な 誇り ――同時に 重く 胸 を 押えつける 生 の 暗い 急変 。 かかる 時 思い も 設け ず 力強く 迫って 来る 振り捨てた 男 の 執着 。 あす を も 頼み 難い 命 の 夕闇 に さまよい ながら 、切れ切れな 言葉 で 葉子 と 最後 の 妥協 を 結ぼう と する 病床 の 母 ――その 顔 は 葉子 の 幻想 を 断ち切る ほど の 強さ で 現われ出た 。 思い 入った 決心 を 眉 に 集めて 、日ごろ の 楽天的な 性情 に も 似ず 、運命 と 取り組む ような 真剣な 顔つき で 大事の 結着 を 待つ 木村 の 顔 。 母 の 死 を あわれむ と も 悲しむ と も 知れない 涙 を 目 に は たたえ ながら 、 氷 の よう に 冷え切った 心 で 、 うつむいた まま 、 口 一 つ きか ない 葉子 自身 の 姿 …… そんな 幻 像 が あるいは つぎつぎ に 、 あるいは 折り重なって 、 灰色 の 霧 の 中 に 動き 現われた 。 そして 記憶 は だんだん と 過去 から 現在 の ほう に 近づいて 来た 。 と 、事務長 の 倉地 の 浅黒く 日 に 焼けた 顔 と 、その 広い 肩 と が 思い出さ れた 。 葉子 は 思い も かけない もの を 見いだした よう に はっと なる と 、 その 幻 像 は たわ い も なく 消えて 、 記憶 は また 遠い 過去 に 帰って 行った 。 それ が また だんだん 現在 の ほう に 近づいて 来た と 思う と 、最後に は きっと 倉地 の 姿 が 現われ 出た 。 ・・

それ が 葉子 を いらいら させて 、葉子 は 始めて 夢現 の 境 から ほんとうに 目ざめて 、うるさい もの でも 払いのける ように 、眼 窓 から 目 を そむけて 寝台 を 離れた 。 葉子 の 神経 は 朝 から ひどく 興奮 して いた 。 スティーム で 存分に 暖まって 来た 船室 の 中 の 空気 は 息 気 苦しい ほど だった 。 ・・

船 に 乗って から ろくろく 運動 も せず に 、野菜 気 の 少ない 物 ばかり を むさぼり 食べた ので 、身内 の 血 に は 激しい 熱 が こもって 、毛 の さき へ まで も 通う ようだった 。 寝台 から 立ち上がった 葉子 は 瞑眩 を 感ずる ほど に 上気 して 、氷 の ような 冷たい もの でも ひしと 抱きしめたい 気持ち に なった 。 で 、ふらふら と 洗面台 の ほう に 行って 、ピッチャー の 水 を なみなみ と 陶器製 の 洗面盤 に あけて 、ずっぷり ひたした 手ぬぐい を ゆるく 絞って 、ひやっと する の を 構わず 、胸 を あけて 、それ を 乳房 と 乳房 との 間 に ぐっと あてがって みた 。 強い はげしい 動 悸 が 押えて いる 手のひら へ 突き返して 来た 。 葉子 は そうした まま で 前 の 鏡 に 自分 の 顔 を 近づけて 見た 。 まだ 夜 の 気 が 薄暗く さまよって いる 中 に 、頬 を ほてらし ながら 深い 呼吸 を している 葉子 の 顔 が 、自分 に すら 物すごい ほど なまめかしく 映っていた 。 葉子 は 物好き らしく 自分 の 顔 に 訳 の わからない 微笑 を たたえて 見た 。 ・・

それ でも その うち に 葉子 の 不思議な 心 の どよめき は しずまって 行った 。 しずまって 行く に つれ 、葉子 は 今 まで の 引き続き で また 瞑想的な 気分 に 引き入れられて いた 。 しかし その 時 は もう 夢想家 で は なかった 。 ごく 実際 的な 鋭い 頭 が 針 の ように 光って とがって いた 。 葉子 は ぬれ 手ぬぐい を 洗面 盤 に ほうりなげて おいて 、静かに 長 椅子 に 腰 を おろした 。 ・・

笑い事 で は ない 。 いったい 自分 は どう する つもり で いる んだろう 。 そう 葉子 は 出発 以来 の 問い を もう 一度 自分 に 投げかけて みた 。 小さい 時 から まわり の 人 たち に はばかられる ほど 才 はじけて 、同じ 年ごろ の 女の子 と は いつでも 一調子 違った 行きかた を 、する でも なくして 来なければならなかった 自分 は 、生まれる 前 から 運命 に でも 呪われている のだろうか 。 それ か と いって 葉子 は なべて の 女 の 順々に 通って 行く 道 を 通る 事 は どうしても できなかった 。 通って 見よう と した 事 は 幾 度 あった か わから ない 。 こう さえ 行けば いい のだろう と 通って 来て 見る と 、いつでも 飛んで も なく 違った 道 を 歩いている 自分 を 見いだしてしまっていた 。 そして つまずいて は 倒れた 。 まわり の 人 たち は 手 を 取って 葉子 を 起こして やる 仕方 も 知ら ない ような 顔 を して ただ ばからしく あざわらって いる 。 そんなふうに しか 葉子 に は 思え なかった 。 幾 度 も の そんな 苦い 経験 が 葉子 を 片意地な 、少しも 人 を たよろう と し ない 女 に して しまった 。 そして 葉子 は いわば 本能 の 向かせる ように 向いて どんどん 歩く より しかたがなかった 。 葉子 は 今さら の ように 自分 の まわり を 見回して 見た 。 いつのまにか 葉子 は いちばん 近しい はずの 人 たち から も かけ離れて 、たった 一人 で 崕 の きわ に 立って いた 。 そこ で ただ 一 つ 葉子 を 崕 の 上 に つないでいる 綱 に は 木村 と の 婚約 と いう 事 が ある だけ だ 。 そこ に 踏みとどまれば よし 、さもなければ 、世の中 と の 縁 は たちどころに 切れて しまう のだ 。 世の中 に 活き ながら 世の中 と の 縁 が 切れて しまう のだ 。 木村 と の 婚約 で 世の中 は 葉子 に 対して 最後 の 和睦 を 示そう と している のだ 。 葉子 に 取って 、この 最後 の 機会 を も 破り 捨てよう と いう の は さすがに 容易で は なかった 。 木村 と いふ 首 桎 を 受け ないで は 生活 の 保障 が 絶え 果て なければ ならない のだ から 。 葉子 の 懐中 に は 百五十 ドル の 米貨 が ある ばかりだった 。 定子 の 養育 費 だけ でも 、米国 に 足 を おろす や 否 や 、すぐに 木村 に たよら なければ ならない の は 目の前 に わかっていた 。 後 詰め と なって くれる 親類 の 一人 も ない の は もちろん の 事 、やや ともすれば 親切 ごかし に 無い もの まで せびり 取ろう と する 手合い が 多い のだ 。 たまたま 葉子 の 姉妹 の 内実 を 知って 気の毒だ と 思って も 、葉子 で は という ように 手出し を 控える もの ばかり だった 。 木村 ――葉子 に は 義理 に も 愛 も 恋 も 起こり得ない 木村 ばかり が 、葉子 に 対する ただ 一人 の 戦士 なのだ 。 あわれな 木村 は 葉子 の 蠱惑 に 陥った ばかりで 、早月 家 の 人々 から 否応 なしに この 重い 荷 を 背負わされて しまっている のだ 。 ・・

どうして やろう 。

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