5. 走れ メロス - 太 宰 治
メロス は 馬 の ように 大きな 胴 震い を 一 つ して 、 すぐに また 先 き を 急いだ 。 一刻 と いえ ども 、 むだに は 出来 ない 。 陽 は 既に 西 に 傾き かけて いる 。 ぜい ぜい 荒い 呼吸 を し ながら 峠 を のぼり 、 のぼり 切って 、 ほっと した 時 、 突然 、 目の前 に 一 隊 の 山賊 が 躍り出た 。
「 待て 。」
「 何 を する のだ 。 私 は 陽 の 沈ま ぬ うち に 王 城 へ 行か なければ なら ぬ 。 放せ 。」
「 どっこい 放さ ぬ 。 持ちもの 全部 を 置いて 行け 。」
「 私 に は いのち の 他 に は 何も 無い 。 その 、 たった 一 つ の 命 も 、 これ から 王 に くれて やる のだ 。」
「 その 、 いのち が 欲しい のだ 。」
「 さては 、 王 の 命令 で 、 ここ で 私 を 待ち伏せ して いた のだ な 。」
山賊 たち は 、 もの も 言わ ず 一斉に 棍棒 を 振り 挙げた 。 メロス は ひょいと 、 からだ を 折り曲げ 、 飛鳥 の 如く 身近 か の 一 人 に 襲いかかり 、 その 棍棒 を 奪い取って 、
「 気の毒だ が 正義 の ため だ ! 」 と 猛然 一撃 、 たちまち 、 三 人 を 殴り 倒し 、 残る 者 の ひるむ 隙 に 、 さっさと 走って 峠 を 下った 。 一気に 峠 を 駈 け 降りた が 、 流石 に 疲労 し 、 折から 午後 の 灼熱 の 太陽 が まともに 、 かっと 照って 来て 、 メロス は 幾 度 と なく 眩暈 を 感じ 、 これ で は なら ぬ 、 と 気 を 取り 直して は 、 よ ろ よ ろ 二 、 三 歩 あるいて 、 ついに 、 がくり と 膝 を 折った 。 立ち上る 事 が 出来 ぬ のだ 。 天 を 仰いで 、 くやし 泣き に 泣き出した 。 ああ 、 あ 、 濁流 を 泳ぎ 切り 、 山賊 を 三 人 も 撃ち 倒し 韋駄天 、 ここ まで 突破 して 来た メロス よ 。 真 の 勇者 、 メロス よ 。 今 、 ここ で 、 疲れ切って 動け なく なる と は 情 無い 。 愛する 友 は 、 おまえ を 信じた ばかりに 、 やがて 殺さ れ なければ なら ぬ 。 おまえ は 、 稀 代 の 不信 の 人間 、 まさしく 王 の 思う 壺 だ ぞ 、 と 自分 を 叱って みる のだ が 、 全身 萎えて 、 もはや 芋虫 ほど に も 前進 かなわ ぬ 。 路傍 の 草原 に ごろり と 寝 ころがった 。 身体 疲労 すれば 、 精神 も 共に やられる 。 もう 、 どうでも いい と いう 、 勇者 に 不似合いな 不貞腐れた 根性 が 、 心 の 隅 に 巣 喰った 。 私 は 、 これほど 努力 した のだ 。 約束 を 破る 心 は 、 みじんも 無かった 。 神 も 照 覧 、 私 は 精一ぱい に 努めて 来た のだ 。 動け なく なる まで 走って 来た のだ 。 私 は 不信 の 徒 で は 無い 。 ああ 、 できる 事 なら 私 の 胸 を 截 ち 割って 、 真 紅 の 心臓 を お 目 に 掛けたい 。 愛 と 信 実の 血液 だけ で 動いて いる この 心臓 を 見せて やりたい 。 けれども 私 は 、 この 大事な 時 に 、 精 も 根 も 尽きた のだ 。 私 は 、 よくよく 不幸な 男 だ 。 私 は 、 きっと 笑われる 。 私 の 一家 も 笑われる 。 私 は 友 を 欺いた 。 中途 で 倒れる の は 、 はじめ から 何も し ない の と 同じ 事 だ 。 ああ 、 もう 、 どうでも いい 。 これ が 、 私 の 定った 運命 な の かも 知れ ない 。 セリヌンティウス よ 、 ゆるして くれ 。 君 は 、 いつでも 私 を 信じた 。 私 も 君 を 、 欺か なかった 。 私 たち は 、 本当に 佳 い 友 と 友 であった のだ 。 いち ど だって 、 暗い 疑惑 の 雲 を 、 お互い 胸 に 宿した こと は 無かった 。 いま だって 、 君 は 私 を 無心に 待って いる だろう 。 ああ 、 待って いる だろう 。 ありがとう 、 セリヌンティウス 。 よくも 私 を 信じて くれた 。 それ を 思えば 、 たまらない 。 友 と 友 の 間 の 信 実は 、 この世 で 一ばん 誇る べき 宝 な のだ から な 。 セリヌンティウス 、 私 は 走った のだ 。 君 を 欺く つもり は 、 みじんも 無かった 。 信じて くれ ! 私 は 急ぎ に 急いで ここ まで 来た のだ 。 濁流 を 突破 した 。 山賊 の 囲み から も 、 す るり と 抜けて 一気に 峠 を 駈 け 降りて 来た のだ 。 私 だ から 、 出来た のだ よ 。 ああ 、 この上 、 私 に 望み 給う な 。 放って 置いて くれ 。 どうでも 、 いい のだ 。 私 は 負けた のだ 。 だ らし が 無い 。 笑って くれ 。 王 は 私 に 、 ちょっと おくれて 来い 、 と 耳打ち した 。 おくれたら 、 身代り を 殺して 、 私 を 助けて くれる と 約束 した 。 私 は 王 の 卑劣 を 憎んだ 。 けれども 、 今に なって みる と 、 私 は 王 の 言う まま に なって いる 。 私 は 、 おくれて 行く だろう 。 王 は 、 ひと り 合点 して 私 を 笑い 、 そうして 事 も 無く 私 を 放 免 する だろう 。 そう なったら 、 私 は 、 死ぬ より つらい 。 私 は 、 永遠に 裏 切 者 だ 。 地上 で 最も 、 不名誉 の 人種 だ 。 セリヌンティウス よ 、 私 も 死ぬ ぞ 。 君 と 一緒に 死な せて くれ 。 君 だけ は 私 を 信じて くれる に ちがい無い 。 いや 、 それ も 私 の 、 ひとりよがり か ? ああ 、 もう いっそ 、 悪徳 者 と して 生き 伸びて やろう か 。 村 に は 私 の 家 が 在る 。 羊 も 居る 。 妹 夫婦 は 、 まさか 私 を 村 から 追い出す ような 事 は し ない だろう 。 正義 だの 、 信 実 だの 、 愛 だの 、 考えて みれば 、 くだらない 。 人 を 殺して 自分 が 生きる 。 それ が 人間 世界 の 定 法 で は なかった か 。 ああ 、 何もかも 、 ばかばかしい 。 私 は 、 醜い 裏切り者 だ 。 どう と も 、 勝手に する が よい 。 や ん ぬる 哉 。