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【朗読】声を便りに、声を頼りに, 萩原朔太郎、猫町(2)

萩原 朔 太郎 、猫 町(2)

その 時 私 は 、 未知の 錯覚 した 町 の 中 で 、 或る 商店 の 看板 を 眺めて いた 。 その 全く 同じ 看板 の 絵 を 、 かつて 何 所 か で 見た こと が ある と 思った 。 そして 記憶 が 回復 さ れた 一 瞬時 に 、 すべて の 方角 が 逆転 した 。 すぐ 今 まで 、 左側 に あった 往来 が 右側 に なり 、 北 に 向って 歩いた 自分 が 、 南 に 向って 歩いて いる こと を 発見 した 。 その 瞬間 、 磁石 の 針 が くるり と 廻って 、 東西 南北 の 空間 地位 が 、 すっかり 逆に 変って しまった 。 同時に 、 すべて の 宇宙 が 変化 し 、 現象 する 町 の 情 趣 が 、 全く 別の 物 に なって しまった 。 つまり 前 に 見た 不思議 の 町 は 、 磁石 を 反対に 裏返した 、 宇宙 の 逆 空間 に 実在 した のであった 。

この 偶然 の 発見 から 、 私 は 故意 に 方位 を 錯覚 さ せて 、 しばしば この ミステリイ の 空間 を 旅行 し 廻った 。 特に また この 旅行 は 、 前 に 述べた ような 欠陥 に よって 、 私 の 目的 に 都合 が よかった 。 だが 普通の 健全な 方角 知覚 を 持って る 人 でも 、 時に は やはり 私 と 同じく 、 こうした 特殊の 空間 を 、 経験 に よって 見た であろう 。 たとえば 諸君 は 、 夜 おそく 家 に 帰る 汽車 に 乗って る 。 始め 停車場 を 出発 した 時 、 汽車 は レール を 真 直 に 、 東 から 西 へ 向って 走って いる 。 だが しばらく する 中 に 、 諸君 は うたた寝 の 夢 から 醒 め る 。 そして 汽車 の 進行 する 方角 が 、 いつのまにか 反対に なり 、 西 から 東 へ と 、 逆に 走って る こと に 気 が 付いて くる 。 諸君 の 理性 は 、 決して そんな はず が ない と 思う 。 しかも 知覚 上 の 事実 と して 、 汽車 は たしかに 反対 に 、 諸君 の 目的 地 から 遠ざかって 行く 。 そうした 時 、 試みに 窓 から 外 を 眺めて 見 給え 。 いつも 見慣れた 途中 の 駅 や 風景 や が 、 すっかり 珍しく 変って しまって 、 記憶 の 一片 さえ も 浮ば ない ほど 、 全く 別の ちがった 世界 に 見える だろう 。 だが 最後に 到着 し 、 いつも の プラットホーム に 降りた 時 、 始めて 諸君 は 夢 から 醒 め 、 現実 の 正しい 方位 を 認識 する 。 そして 一旦 それ が 解れば 、 始め に 見た 異常 の 景色 や 事物 や は 、 何でもない 平常 通り の 、 見慣れた 詰ら ない 物 に 変って しまう 。 つまり 一 つ の 同じ 景色 を 、 始め に 諸君 は 裏側 から 見 、 後 に は 平常 の 習慣 通り 、 再度 正面 から 見た のである 。 このように 一 つ の 物 が 、 視線 の 方角 を 換える こと で 、 二 つ の 別々の 面 を 持って る こと 。 同じ 一 つ の 現象 が 、 その 隠さ れた 「 秘密の 裏側 」 を 持って いる と いう こと ほど 、 メタフィジック の 神秘 を 包んだ 問題 は ない 。 私 は 昔 子供 の 時 、 壁 に かけた 額 の 絵 を 見て 、 いつも 熱心に 考え 続けた 。 いったい この 額 の 景色 の 裏側 に は 、 どんな 世界 が 秘密に 隠されて いる のだろう と 。 私 は 幾 度 か 額 を はずし 、 油絵 の 裏側 を 覗いたり した 。 そして この 子供 の 疑問 は 、 大人 に なった 今日 でも 、 長く 私 の 解き がたい 謎 に なって る 。

次に 語る 一 つ の 話 も 、 こうした 私 の 謎 に 対して 、 或る 解答 を 暗示 する 鍵 に なって る 。 読者 に して も し 、 私 の 不思議な 物語 から して 、 事物 と 現象 の 背後 に 隠れて いる ところ の 、 或る 第 四 次元 の 世界 ―― 景色 の 裏側 の 実在 性 ―― を 仮想 し 得る と せば 、 この 物語 の 一切 は 真実である 。 だが 諸君 に して 、 もし それ を 仮想 し 得 ない と する ならば 、 私 の 現実 に 経験 した 次の 事実 も 、 所詮 は モルヒネ 中毒 に 中枢 を 冒さ れた 一 詩人 の 、 取りとめ も ない デカダンス の 幻覚 に しか 過ぎ ない だろう 。 とにかく 私 は 、 勇気 を 奮って 書いて 見よう 。 ただ 小説 家 で ない 私 は 、 脚色 や 趣向 に よって 、 読者 を 興 がら せる 術 を 知ら ない 。 私 の 為 し 得る こと は 、 ただ 自分 の 経験 した 事実 だけ を 、 報告 の 記事 に 書く だけ である 。


萩原 朔 太郎 、猫 町(2) はぎはら|さく|たろう|ねこ|まち Sakutaro Hagiwara, Ciudad de Gatos (2).

その 時 私 は 、 未知の 錯覚 した 町 の 中 で 、 或る 商店 の 看板 を 眺めて いた 。 |じ|わたくし||みちの|さっかく||まち||なか||ある|しょうてん||かんばん||ながめて| その 全く 同じ 看板 の 絵 を 、 かつて 何 所 か で 見た こと が ある と 思った 。 |まったく|おなじ|かんばん||え|||なん|しょ|||みた|||||おもった そして 記憶 が 回復 さ れた 一 瞬時 に 、 すべて の 方角 が 逆転 した 。 |きおく||かいふく|||ひと|しゅんじ||||ほうがく||ぎゃくてん| すぐ 今 まで 、 左側 に あった 往来 が 右側 に なり 、 北 に 向って 歩いた 自分 が 、 南 に 向って 歩いて いる こと を 発見 した 。 |いま||ひだりがわ|||おうらい||みぎがわ|||きた||むかい って|あるいた|じぶん||みなみ||むかい って|あるいて||||はっけん| その 瞬間 、 磁石 の 針 が くるり と 廻って 、 東西 南北 の 空間 地位 が 、 すっかり 逆に 変って しまった 。 |しゅんかん|じしゃく||はり||||まわって|とうざい|なんぼく||くうかん|ちい|||ぎゃくに|かわって| 同時に 、 すべて の 宇宙 が 変化 し 、 現象 する 町 の 情 趣 が 、 全く 別の 物 に なって しまった 。 どうじに|||うちゅう||へんか||げんしょう||まち||じょう|おもむき||まったく|べつの|ぶつ||| つまり 前 に 見た 不思議 の 町 は 、 磁石 を 反対に 裏返した 、 宇宙 の 逆 空間 に 実在 した のであった 。 |ぜん||みた|ふしぎ||まち||じしゃく||はんたいに|うらがえした|うちゅう||ぎゃく|くうかん||じつざい||

この 偶然 の 発見 から 、 私 は 故意 に 方位 を 錯覚 さ せて 、 しばしば この ミステリイ の 空間 を 旅行 し 廻った 。 |ぐうぜん||はっけん||わたくし||こい||ほうい||さっかく|||||||くうかん||りょこう||まわった 特に また この 旅行 は 、 前 に 述べた ような 欠陥 に よって 、 私 の 目的 に 都合 が よかった 。 とくに|||りょこう||ぜん||のべた||けっかん|||わたくし||もくてき||つごう|| だが 普通の 健全な 方角 知覚 を 持って る 人 でも 、 時に は やはり 私 と 同じく 、 こうした 特殊の 空間 を 、 経験 に よって 見た であろう 。 |ふつうの|けんぜんな|ほうがく|ちかく||もって||じん||ときに|||わたくし||おなじく||とくしゅの|くうかん||けいけん|||みた| たとえば 諸君 は 、 夜 おそく 家 に 帰る 汽車 に 乗って る 。 |しょくん||よ||いえ||かえる|きしゃ||のって| 始め 停車場 を 出発 した 時 、 汽車 は レール を 真 直 に 、 東 から 西 へ 向って 走って いる 。 はじめ|ていしゃば||しゅっぱつ||じ|きしゃ||れーる||まこと|なお||ひがし||にし||むかい って|はしって| だが しばらく する 中 に 、 諸君 は うたた寝 の 夢 から 醒 め る 。 |||なか||しょくん||うたたね||ゆめ||せい|| そして 汽車 の 進行 する 方角 が 、 いつのまにか 反対に なり 、 西 から 東 へ と 、 逆に 走って る こと に 気 が 付いて くる 。 |きしゃ||しんこう||ほうがく|||はんたいに||にし||ひがし|||ぎゃくに|はしって||||き||ついて| 諸君 の 理性 は 、 決して そんな はず が ない と 思う 。 しょくん||りせい||けっして||||||おもう しかも 知覚 上 の 事実 と して 、 汽車 は たしかに 反対 に 、 諸君 の 目的 地 から 遠ざかって 行く 。 |ちかく|うえ||じじつ|||きしゃ|||はんたい||しょくん||もくてき|ち||とおざかって|いく そうした 時 、 試みに 窓 から 外 を 眺めて 見 給え 。 |じ|こころみに|まど||がい||ながめて|み|たまえ いつも 見慣れた 途中 の 駅 や 風景 や が 、 すっかり 珍しく 変って しまって 、 記憶 の 一片 さえ も 浮ば ない ほど 、 全く 別の ちがった 世界 に 見える だろう 。 |みなれた|とちゅう||えき||ふうけい||||めずらしく|かわって||きおく||いっぺん|||うかば|||まったく|べつの||せかい||みえる| だが 最後に 到着 し 、 いつも の プラットホーム に 降りた 時 、 始めて 諸君 は 夢 から 醒 め 、 現実 の 正しい 方位 を 認識 する 。 |さいごに|とうちゃく||||ぷらっとほーむ||おりた|じ|はじめて|しょくん||ゆめ||せい||げんじつ||ただしい|ほうい||にんしき| そして 一旦 それ が 解れば 、 始め に 見た 異常 の 景色 や 事物 や は 、 何でもない 平常 通り の 、 見慣れた 詰ら ない 物 に 変って しまう 。 |いったん|||わかれば|はじめ||みた|いじょう||けしき||じぶつ|||なんでもない|へいじょう|とおり||みなれた|なじら||ぶつ||かわって| つまり 一 つ の 同じ 景色 を 、 始め に 諸君 は 裏側 から 見 、 後 に は 平常 の 習慣 通り 、 再度 正面 から 見た のである 。 |ひと|||おなじ|けしき||はじめ||しょくん||うらがわ||み|あと|||へいじょう||しゅうかん|とおり|さいど|しょうめん||みた| このように 一 つ の 物 が 、 視線 の 方角 を 換える こと で 、 二 つ の 別々の 面 を 持って る こと 。 |ひと|||ぶつ||しせん||ほうがく||かえる|||ふた|||べつべつの|おもて||もって|| 同じ 一 つ の 現象 が 、 その 隠さ れた 「 秘密の 裏側 」 を 持って いる と いう こと ほど 、 メタフィジック の 神秘 を 包んだ 問題 は ない 。 おなじ|ひと|||げんしょう|||かくさ||ひみつの|うらがわ||もって||||||||しんぴ||つつんだ|もんだい|| 私 は 昔 子供 の 時 、 壁 に かけた 額 の 絵 を 見て 、 いつも 熱心に 考え 続けた 。 わたくし||むかし|こども||じ|かべ|||がく||え||みて||ねっしんに|かんがえ|つづけた いったい この 額 の 景色 の 裏側 に は 、 どんな 世界 が 秘密に 隠されて いる のだろう と 。 ||がく||けしき||うらがわ||||せかい||ひみつに|かくさ れて||| 私 は 幾 度 か 額 を はずし 、 油絵 の 裏側 を 覗いたり した 。 わたくし||いく|たび||がく|||あぶらえ||うらがわ||のぞいたり| そして この 子供 の 疑問 は 、 大人 に なった 今日 でも 、 長く 私 の 解き がたい 謎 に なって る 。 ||こども||ぎもん||おとな|||きょう||ながく|わたくし||とき||なぞ|||

次に 語る 一 つ の 話 も 、 こうした 私 の 謎 に 対して 、 或る 解答 を 暗示 する 鍵 に なって る 。 つぎに|かたる|ひと|||はなし|||わたくし||なぞ||たいして|ある|かいとう||あんじ||かぎ||| 読者 に して も し 、 私 の 不思議な 物語 から して 、 事物 と 現象 の 背後 に 隠れて いる ところ の 、 或る 第 四 次元 の 世界 ―― 景色 の 裏側 の 実在 性 ―― を 仮想 し 得る と せば 、 この 物語 の 一切 は 真実である 。 どくしゃ|||||わたくし||ふしぎな|ものがたり|||じぶつ||げんしょう||はいご||かくれて||||ある|だい|よっ|じげん||せかい|けしき||うらがわ||じつざい|せい||かそう||える||||ものがたり||いっさい||しんじつである だが 諸君 に して 、 もし それ を 仮想 し 得 ない と する ならば 、 私 の 現実 に 経験 した 次の 事実 も 、 所詮 は モルヒネ 中毒 に 中枢 を 冒さ れた 一 詩人 の 、 取りとめ も ない デカダンス の 幻覚 に しか 過ぎ ない だろう 。 |しょくん||||||かそう||とく|||||わたくし||げんじつ||けいけん||つぎの|じじつ||しょせん||もるひね|ちゅうどく||ちゅうすう||おかさ||ひと|しじん||とりとめ|||||げんかく|||すぎ|| とにかく 私 は 、 勇気 を 奮って 書いて 見よう 。 |わたくし||ゆうき||ふるって|かいて|みよう ただ 小説 家 で ない 私 は 、 脚色 や 趣向 に よって 、 読者 を 興 がら せる 術 を 知ら ない 。 |しょうせつ|いえ|||わたくし||きゃくしょく||しゅこう|||どくしゃ||きょう|||じゅつ||しら| 私 の 為 し 得る こと は 、 ただ 自分 の 経験 した 事実 だけ を 、 報告 の 記事 に 書く だけ である 。 わたくし||ため||える||||じぶん||けいけん||じじつ|||ほうこく||きじ||かく||