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こころ - 夏目漱石, Section 007 - Kokoro - Soseki Project

Section 007 - Kokoro - Soseki Project

私 は 月 の 末 に 東京 へ 帰った 。 先生 の 避暑 地 を 引き上げた の は それ より ずっと 前 であった 。 私 は 先生 と 別れる 時 に 、「 これ から 折々 お宅 へ 伺って も 宜 ご ざん す か 」 と 聞いた 。 先生 は 単 簡 に ただ 「 ええ いらっしゃい 」 と いった だけ であった 。 その 時分 の 私 は 先生 と よほど 懇意に なった つもりで いた ので 、 先生 から もう 少し 濃 か な 言葉 を 予期 して 掛った のである 。 それ で この 物足りない 返事 が 少し 私 の 自信 を 傷めた 。

私 は こういう 事 で よく 先生 から 失望 さ せられた 。 先生 は それ に 気 が 付いて いる ようで も あり 、 また 全く 気 が 付か ない ようで も あった 。 私 は また 軽微な 失望 を 繰り返し ながら 、 それ が ため に 先生 から 離れて 行く 気 に は なれ なかった 。 むしろ それ と は 反対で 、 不安に 揺 か さ れる たび に 、 もっと 前 へ 進み たく なった 。 もっと 前 へ 進めば 、 私 の 予期 する ある もの が 、 いつか 眼 の 前 に 満足に 現われて 来る だろう と 思った 。 私 は 若かった 。 けれども すべて の 人間 に 対して 、 若い 血 が こう 素直に 働こう と は 思わ なかった 。 私 は なぜ 先生 に 対して だけ こんな 心 持 が 起る の か 解ら なかった 。 それ が 先生 の 亡くなった 今日 に なって 、 始めて 解って 来た 。 先生 は 始め から 私 を 嫌って いた ので は なかった のである 。 先生 が 私 に 示した 時々 の 素 気 ない 挨拶 や 冷淡に 見える 動作 は 、 私 を 遠ざけよう と する 不快 の 表現 で は なかった のである 。 傷ま し い 先生 は 、 自分 に 近づこう と する 人間 に 、 近づく ほど の 価値 の ない もの だ から 止せ と いう 警告 を 与えた のである 。 他の 懐かしみ に 応じ ない 先生 は 、 他 を 軽蔑 する 前 に 、 まず 自分 を 軽蔑 して いた もの と みえる 。

私 は 無論 先生 を 訪ねる つもりで 東京 へ 帰って 来た 。 帰って から 授業 の 始まる まで に は まだ 二 週間 の 日数 が ある ので 、 その うち に 一 度 行って おこう と 思った 。 しかし 帰って 二 日 三 日 と 経つ うち に 、 鎌倉 に いた 時 の 気分 が 段々 薄く なって 来た 。 そうして その 上 に 彩ら れる 大 都会 の 空気 が 、 記憶 の 復活 に 伴う 強い 刺 戟 と 共に 、 濃く 私 の 心 を 染め 付けた 。 私 は 往来 で 学生 の 顔 を 見る たび に 新しい 学年 に 対する 希望 と 緊張 と を 感じた 。 私 は しばらく 先生 の 事 を 忘れた 。


Section 007 - Kokoro - Soseki Project section|kokoro|soseki|project Abschnitt 007 - Kokoro - Soseki-Projekt Section 007 - Kokoro - Soseki Project Sekcja 007 - Kokoro - Projekt Soseki

私 は 月 の 末 に 東京 へ 帰った 。 わたくし||つき||すえ||とうきょう||かえった I returned to Tokyo at the end of the month. 先生 の 避暑 地 を 引き上げた の は それ より ずっと 前 であった 。 せんせい||ひしょ|ち||ひきあげた||||||ぜん| It was long before the teacher raised the summer resort. 私 は 先生 と 別れる 時 に 、「 これ から 折々 お宅 へ 伺って も 宜 ご ざん す か 」 と 聞いた 。 わたくし||せんせい||わかれる|じ||||おりおり|おたく||うかがって||むべ||||||きいた When I broke up with my teacher, I asked, "Is it okay to visit your house from time to time?" 先生 は 単 簡 に ただ 「 ええ いらっしゃい 」 と いった だけ であった 。 せんせい||ひとえ|かん|||||||| その 時分 の 私 は 先生 と よほど 懇意に なった つもりで いた ので 、 先生 から もう 少し 濃 か な 言葉 を 予期 して 掛った のである 。 |じぶん||わたくし||せんせい|||こんいに|||||せんせい|||すこし|こ|||ことば||よき||かかった| At that time, I thought I was very friendly with the teacher, so I expected a slightly deeper word from the teacher. それ で この 物足りない 返事 が 少し 私 の 自信 を 傷めた 。 |||ものたりない|へんじ||すこし|わたくし||じしん||いためた So this unsatisfactory reply hurt my confidence a little.

私 は こういう 事 で よく 先生 から 失望 さ せられた 。 わたくし|||こと|||せんせい||しつぼう||せら れた I was often disappointed by my teacher because of this. 先生 は それ に 気 が 付いて いる ようで も あり 、 また 全く 気 が 付か ない ようで も あった 。 せんせい||||き||ついて||||||まったく|き||つか|||| The teacher seemed to be aware of it, and also seemed to be completely unaware of it. 私 は また 軽微な 失望 を 繰り返し ながら 、 それ が ため に 先生 から 離れて 行く 気 に は なれ なかった 。 わたくし|||けいびな|しつぼう||くりかえし||||||せんせい||はなれて|いく|き|||| I was also repetitive with minor disappointments, which made me unwilling to leave my teacher. むしろ それ と は 反対で 、 不安に 揺 か さ れる たび に 、 もっと 前 へ 進み たく なった 。 ||||はんたいで|ふあんに|よう|||||||ぜん||すすみ|| Rather, on the contrary, every time I was shaken by anxiety, I wanted to move forward. もっと 前 へ 進めば 、 私 の 予期 する ある もの が 、 いつか 眼 の 前 に 満足に 現われて 来る だろう と 思った 。 |ぜん||すすめば|わたくし||よき||||||がん||ぜん||まんぞくに|あらわれて|くる|||おもった I thought that if I went further, something I expected would someday appear satisfactorily in front of my eyes. 私 は 若かった 。 わたくし||わかかった I was young. けれども すべて の 人間 に 対して 、 若い 血 が こう 素直に 働こう と は 思わ なかった 。 |||にんげん||たいして|わかい|ち|||すなおに|はたらこう|||おもわ| But for all humans, I didn't think that young blood would work obediently. 私 は なぜ 先生 に 対して だけ こんな 心 持 が 起る の か 解ら なかった 。 わたくし|||せんせい||たいして|||こころ|じ||おこる|||わから| I didn't understand why this kind of feeling happened only to the teacher. それ が 先生 の 亡くなった 今日 に なって 、 始めて 解って 来た 。 ||せんせい||なくなった|きょう|||はじめて|わかって|きた It wasn't until today, when the teacher died, that I realized it for the first time. 先生 は 始め から 私 を 嫌って いた ので は なかった のである 。 せんせい||はじめ||わたくし||きらって||||| The teacher didn't hate me from the beginning. 先生 が 私 に 示した 時々 の 素 気 ない 挨拶 や 冷淡に 見える 動作 は 、 私 を 遠ざけよう と する 不快 の 表現 で は なかった のである 。 せんせい||わたくし||しめした|ときどき||そ|き||あいさつ||れいたんに|みえる|どうさ||わたくし||とおざけよう|||ふかい||ひょうげん|||| The occasional casual greetings and cold-looking movements that the teacher showed me were not expressions of discomfort trying to keep me away. 傷ま し い 先生 は 、 自分 に 近づこう と する 人間 に 、 近づく ほど の 価値 の ない もの だ から 止せ と いう 警告 を 与えた のである 。 いたま|||せんせい||じぶん||ちかづこう|||にんげん||ちかづく|||かち||||||よせ|||けいこく||あたえた| The hurtful teacher warned humans trying to approach him to stop because it was of no value to approach. 他の 懐かしみ に 応じ ない 先生 は 、 他 を 軽蔑 する 前 に 、 まず 自分 を 軽蔑 して いた もの と みえる 。 たの|なつかしみ||おうじ||せんせい||た||けいべつ||ぜん|||じぶん||けいべつ||||| The teacher, who does not respond to other nostalgia, seems to have first looked down on himself before looking down on others.

私 は 無論 先生 を 訪ねる つもりで 東京 へ 帰って 来た 。 わたくし||むろん|せんせい||たずねる||とうきょう||かえって|きた Of course, I came back to Tokyo with the intention of visiting my teacher. 帰って から 授業 の 始まる まで に は まだ 二 週間 の 日数 が ある ので 、 その うち に 一 度 行って おこう と 思った 。 かえって||じゅぎょう||はじまる|||||ふた|しゅうかん||にっすう|||||||ひと|たび|おこなって|||おもった There are still two weeks between the time I return and the beginning of the class, so I decided to go there once. しかし 帰って 二 日 三 日 と 経つ うち に 、 鎌倉 に いた 時 の 気分 が 段々 薄く なって 来た 。 |かえって|ふた|ひ|みっ|ひ||たつ|||かまくら|||じ||きぶん||だんだん|うすく||きた そうして その 上 に 彩ら れる 大 都会 の 空気 が 、 記憶 の 復活 に 伴う 強い 刺 戟 と 共に 、 濃く 私 の 心 を 染め 付けた 。 ||うえ||いろどら||だい|とかい||くうき||きおく||ふっかつ||ともなう|つよい|とげ|げき||ともに|こく|わたくし||こころ||しめ|つけた Then, the air of the big city, which was colored on it, deeply dyed my heart with the strong stimulus that accompanies the resurrection of memory. 私 は 往来 で 学生 の 顔 を 見る たび に 新しい 学年 に 対する 希望 と 緊張 と を 感じた 。 わたくし||おうらい||がくせい||かお||みる|||あたらしい|がくねん||たいする|きぼう||きんちょう|||かんじた Every time I saw the student's face in the traffic, I felt hope and tension for the new school year. 私 は しばらく 先生 の 事 を 忘れた 。 わたくし|||せんせい||こと||わすれた I forgot about the teacher for a while.