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悪人 (Villain) (1st Book), 第二章 彼は誰に会いたかったか?【2】

第二章 彼は誰に会いたかったか?【2】

平たい ドラム缶 に 溜 め た 水 で 、 熱心に 指 の 汚れ を 洗い 落として いる 祐一 の 背中 を 、 矢島 憲夫 は たばこ を 吸い ながら 眺めて いた 。

ドラム缶 は コンクリ を こねる とき に 使わ れる もの で 、 いくら 真水 が 入って いる と は いえ 、 洗った 手 が 乾けば 蛇 の ような 模様 が 皮膚 に 浮かぶ 。

すでに 夕方 の 六 時 を 回り 、 作業 場 の あちこち で 各 組 の 人 夫 たち が 帰り 支度 を 始めて いた 。

さっき まで 外壁 を 壊して いた 数 台 の 重機 も 、 今では 一 カ所 に おとなしく 並んで いる 。

元 産婦人科 の 病棟 だった ビル も 、 作業 を 始めて すでに 四 日 目 、 その 三 分 の 二 が 無惨に 取り壊されて いる 。 こういう 大きな 現場 の 場合 、 憲夫 の 会社 は 下請け に 回る 。 いちおう 自社 でも 15 m ロング の 重機 を 一 台 所有 して いる のだ が 、 鉄筋 の 三 階建て と も なる と 一 台 で は どうにも なら ず 、 大手 の 解体 業者 の 下請け に 回る しか ない 。

ドラム缶 の 水 で 洗った 手 を 、 首 に かけた タオル で 拭き 始めた 祐一 に 、「 お前 も 、 そろそろ 重機 の 免許 取ったら どう や ? 」 と 憲夫 は 声 を かけ 、 吸って いた たばこ を 灰皿 に 押しつけた 。

憲夫 の 言葉 に 振り返った 祐一 が 、

「 は ぁ 」

と なんとも やる 気 の ない 返事 を し 、 今度 は 顔 を ゴシゴシ と タオル で こする 。

こすれば こする ほど 、 顔 の 汚れ が 目立つ 。

「 来月 、 一 週間 くらい 休んで よ かけ ん 、 免許 取り に 行か ん か ? 憲夫 の 言葉 に 、 行きたい と いう 意味 な の か 、 行き たく ない と いう 意味 な の か 、 祐一 が 口 を 尖 がら せ ながら も 小さく 頷く 。 正直な ところ 、 祐一 の ほう から この 話 を 言い出して くれ ない もの か と 、 憲夫 は ずっと 待って いる のだ が 、 いくら 待って も 祐一 が 積極 的に なる こと は なかった 。

ゴム 手袋 など を 自分 の バッグ に しまい 始めた 祐一 に 、「 ところで 気分 は もう よか と か ? と 憲夫 は 声 を かけた 。 今朝 、 車 の 中 で とつぜん 顔色 を 変えて 吐き そうに なった わりに 、 現場 に 着く と いつも と 変わら ず おとなしく 働いて いた 。 ただ 、 いつも 持参 して くる 弁当 に 、 ほとんど 手 を つけ なかった こと を 憲夫 は 知っている 。

「 今日 帰ったら すぐ 、 じいさん 、 病院 に 連れて 行く と やろ ? 」 と 憲夫 は 訊 いた 。

「 たぶん メシ 食う て から 」

埃っぽい 寒風 の 中 、 バッグ を 抱えて 立ち上がった 祐一 が 、 ぼ そっと 答える 。 憲夫 は 、 いつも の ように 倉 見 、 吉岡 、 そして 祐一 を ワゴン 車 に 乗せた 。

夕日 に 赤く 染まった 長崎 湾 を 眺め ながら 国道 を 走って いる と 、 また いつも の 如く 倉 見 が 焼酎 の ワンカップ を 飲み 始める 。

「 家 に 着く まで 、 たかが 三十 分 くらい 我慢 でき ん と や ? 憲夫 は 鼻先 へ 流れて きた 焼酎 の 臭い に 顔 を しかめた 。

「 仕事 が 終わる 一 時間 も 前 から 我慢 し とる と に 、 それ から また 三十 分 も 我慢 できる もん ね 」

倉 見 が 呆れた と ばかり に 笑って 、 カップ から こぼれ そうな 焼酎 に 口 を つけ 、 濃い 無 精 髭 が とろっと した 液体 に 濡れる 。 窓 を 開けて いる に も かかわら ず 、 焼酎 と 乾いた 土 の に おい が 車 内 で 混じる 。

「 そう 言えば 、 きのう 、 福岡 の 三瀬 峠 で 女の子 が 殺さ れたら しか な 」

窓 の 外 を 眺めて いた 吉岡 が 、 ふと 思い出した ように 言った 。

「 保険 の 勧誘 し とる 女の子 らし か けど 、 あげ ん こと さ れたら 親 は たまった もん じゃ なか ねえ 」

同じ 年頃 の 娘 を 持つ 倉 見 が そう 言って 、 焼酎 で 濡れた 指 を 舐める 。

内縁 の 妻 と 二 人 で 暮らして いる 吉岡 に は 、 被害 者 の 親 の 気持ち は 実感 でき ない ようで 、「 三瀬って 言えば 、 俺 が 、 前 に トラック 運転 し よる とき 、 よう 使い よった 道 や もん ね 」 と 話 を 変える 。 吉岡 本人 が 詳しく 話す こと は ない が 、 県営 住宅 で 一緒に 暮らして いる 女 は 、 もう 十 年 に なる と いう のに 、 まだ 前 の 旦那 と の 籍 を 抜いて いない らしい 。 「 祐一 、 お前 も 三瀬 の 峠 と か 、 よう ドライブ する と やろ が ? 吉岡 に 声 を かけ られて 、 一 番 後ろ に 座って いる 祐一 が 窓 の 外 から 車 内 に 視線 を 戻した 。

その 様子 が ルームミラー に 映る 。

市 内 へ 向かう 反対 車線 が 渋滞 し 始めて いた 。

造船 所 で 一 日 働いた 男 たち の 車 が 、 数珠 繋ぎ に 街道 を 伸びて いる 。 夕日 を 浴びた 男 たち の 顔 は 、 どこ か 般若 の 面 の ように 見える 。

「 なぁ 、 三瀬 峠 と か 、 よう ドライブ する と やろ が ? 返事 を し ない 祐一 に 、 改めて 吉岡 が 訊 いた 。

「 三瀬 は …… あんまり 好か ん 。

あそこ 、 夜 走る と 気色 悪 か 」

ぼ そっと 答えた 祐一 の 言葉 が 、 なぜ か ハンドル を 握る 憲夫 の 耳 に 残った 。

倉 見 と 吉岡 を 順番 に 降ろす と 、 憲夫 は 祐一 の 実家 へ と 車 を 走ら せた 。

国道 から 狭い 路地 に 入り 、 軒先 の 表札 が サイドミラー に 触れて しまう ような 道 が 、 くねくね と 漁港 の ほう へ 伸びる 。

埋め立て で ほとんど の 海岸 線 を 奪わ れた あと 、 辛うじて 残った 小さな 漁港 に は 、 小型の 漁船 が 数 艘 停泊 して いる 。 波 止め で 囲ま れた 湾 内 は おだやかで 、 漁船 を 繋ぐ ロープ の 軋む 音 だけ が 、 ときどき 思い出した ように 辺り に 響く 。

漁港 の 周囲 に は いく つ か シャッター を 下ろした 倉庫 が ある 。

一見 、 漁業 関係 の 倉庫 に 見える が 、 中 に は ペーロン と 呼ば れる 競技 用 ボート が 収納 されて いる 。 この 地域 は ペーロン が 盛んで 、 毎年 夏 に なる と 各 地区 対抗 の 大会 が 開か れる 。

十 数 人 の 男 たち が 一斉に 櫂 を 漕ぐ 姿 は 勇壮で 、 毎年 数 多く の 見物 客 も 集まって くる 。

「 来年 も 、 ペーロン 出る と やろ ? たまたま 半分 ほど シャッター の 開いて いる 倉庫 を 目 に して 、 憲夫 は 祐一 に 声 を かけた 。

荷物 を 膝 に 抱え 、 祐一 は すでに 車 を 降りる 準備 を して いた 。

「 練習 は いつごろ から 始まる と か ? ルームミラー 越し に 尋ねる と 、「 いつも と 一緒 やろ 」 と 、 祐一 が 答える 。

高校 生 だった 祐一 が 初めて ペーロン に 参加 した とき 、 地区 の リーダー を 務めた の が 憲夫 だった 。

練習 中 、 ぶつ くさ と 文句 ばかり 言う 他 の 少年 たち と 違い 、 黙々と 櫂 を 漕ぐ の は いい のだ が 、 祐一 は 加減 と いう もの を 知ら ず 、 手のひら の 皮 が 剥ける まで 練習 して しまい 、 結局 、 大会 当日 に は 使い物 に なら なかった 。

あれ から 十 年 近く 経つ が 、 祐一 は 毎年 ペーロン 大会 に 参加 して いる 。

「 好きな の か ? 」 と 問えば 、「 別に 」 と 答える くせ に 、 毎年 練習 が 始まる と 、 誰 より も 先 に 倉庫 に 現れる らしい 。

「 ちょっと 寄って 行こう か な 」

祐一 の 家 の 前 で 車 を 停める と 、 憲夫 は そう 言って エンジン を 切った 。

すでに 降りよう と して いた 祐一 が 、 ちらっと 憲夫 へ 目 を 向ける 。

「 今日 は 何時ごろ 、 じいさん 、 病院 に 連れて 行く と か ? 」 と 憲夫 は また 訊 いた 。

「 晩 メシ 食う て から 」

祐一 が また ぼ そっと 呟いて 車 を 降りる 。

祐一 の あと を 追って 玄関 に 入る と 、 病人 が いる 家 特有 のに おい が した 。

祐一 が 一緒に 暮らして いる と は いえ 、 元 は 老 夫婦 の 家 な ので 、 一 歩 足 を 踏み入れた だけ で 、 視界 から 色 が 抜け落ちて しまった ような 感覚 に 襲わ れる 。 祐一 が 脱ぎ捨てた 赤い スニーカー だけ が 、 汚れて は いて も 、 唯一 、 そこ に 明るい 色 を 残す 。

「 おばさん ! さっさと 廊下 を 歩いて いく 祐一 に 呆れ ながら 、 憲夫 は 奥 へ 声 を かけた 。

靴 を 脱いで いる と 、「 あら 、 憲夫 が 来た と ね ?

珍 しか 」 と 祐一 に 尋ねる 房枝 の 声 が 聞こえた 。

「 じいさん 、 これ から 病院 に 行くって ? 靴 を 脱いで 廊下 に 上がる と 、 台所 に いた らしい 房枝 が 出て きて 、「 この前 、 退院 した か と 思う たら 、 また 入院 よ 」 と 言い ながら 濡れた 手 を 首 に かけた 手ぬぐい で 拭く 。

「 うん 、 祐一 が そう 言う けんさ ……」

憲夫 は 気兼ね なく 廊下 を 進み 、 勝治 の 寝て いる 部屋 の 障子 を 開けた 。

「 じいさん 、 また 入院 するって ? 病院 より 家 の ほう が よか やろ が ? 障子 を 開けた 途端 に 、 かすかに し もの に おい が した 。

畳 に 差し込んで いる 街灯 が 、 古い 畳 の 上 で 点滅 する 蛍光 灯 と 混じって いる 。

「 病院 に 行けば 、 家 に 帰りたいって 言う し 、 家 に 連れて くれば 、 病院 の ほう が よかって 言う し 、 ほんと 、 もう どうにも なら ん よ 、 この 人 は 」 房枝 が そう 言い ながら 蛍光 灯 を つけ 直す 。 布団 の 中 で 、 勝治 の 濁った 咳 が こもる 。

憲夫 は 枕元 に 腰 を 下ろす と 、 乱暴に 布団 を 捲った 。

固 そうな 枕 に 染み だらけ の 勝治 の 顔 が のって いる 。

「 じいさん 」

憲夫 は 声 を かけ ながら 、 勝治 の 額 に 手のひら を のせた 。

自分 の 手 が 熱かった の か 、 一瞬 、 ぞっと する ほど 冷たかった 。

「 祐一 は ? 痰 を からま せる ように 勝治 が 尋ね 、 額 に のせ られた 憲夫 の 手 を 払う 。

ちょうど その とき 、 祐一 が 階段 を 上がって いく 足音 が 聞こえ 、 家 全体 が 揺れた 。

「 なんでもかんでも 祐一 に 頼っとったら 駄目 ばい 」 憲夫 は 寝て いる 勝治 だけ で は なく 、 背後 に 立つ 房枝 に も 伝わる ように 言った 。 「 なん も 頼って ばっかり おる もん ね 」

蛍光 灯 の 下 で 房枝 が 口 を 尖ら せる 。

「 いや 、 そりゃ そう やろう けど 、 祐一 も まだ 若っか 男 よ 。 じいさん 、 ばあさん の 世話 ばっかり さ せ とっても 、 それ こそ 嫁 も もらえ んたい 」 憲夫 は わざと ふざけた 口調 で 言い返した 。 おかげ で 房枝 の 険しい 表情 が 少し だけ 弛 む 。

「 そい で も さ 、 正直 、 祐一 が おら ん やったら 、 それ こそ 、 じいさん ば 、 風呂 に 入れる こと も でき ん と よ 」

「 それ こそ 、 ホーム ヘルパー でも 頼めば よかろう に 」

「 あんた も 簡単に 言う ねぇ 、 ヘルパー さん に 来て もらう と に 、 いくら お 金 が かかる か 知ら ん と やろ ? 「 高い と ね ? 「 そりゃ 、 あんた 、 そこ の 岡崎 の ばあさん なんて ……」

房枝 が そこ まで 言った とき 、 布団 の 中 で 、「 うるさい ! 」 と 勝治 が 怒鳴り 、 苦し そうに 咳き込んだ 。

「 ごめん 、 ごめん 」

憲夫 は 布団 を 軽く 叩いて 立ち上がり 、 房枝 の 背中 を 押して 部屋 を 出た 。

台所 の まな板 に 活 き の 良 さ そうな ブリ が のって いた 。

どす黒い 血 が 濡れた まな板 に 広がって いる 。 天井 に 向け られた 眼 と 半 開き の 口 が 、 何 か を 訴え かけて いる ように 見える 。

「 そうい や 、 祐一 は 昨日 、 遅かった と やろ ? 包丁 を 握った 房枝 の 背中 に 、 憲夫 は 何気なく 声 を かけた 。

今朝 、 現場 へ 向かう 途中 に 顔色 を 変えて 車 を 飛び降り 、 苦し そうに え ず いた こと を 思い出した のだ 。

「 さ ぁ 、 知ら ん 。 出かけ とった と やろ か ? 「 珍しゅう 、 二日酔い やった ばい 」

「 二日酔い ? 祐一 が ね ? 「 今朝 、 顔 真っ青 させて ……」

「 へ ぇ 、 どこ で 飲んだ と やろ か 、 車 で 出かけた と やろう に 」

年季 の 入った 包丁 で 、 房枝 が ブリ の 身 を 切り分けて いく 。

グツッ 、 グツッ と 包丁 が 骨 を 砕く 。

「 あんた 、 ブリ 一 匹 、 実千代 さん に 持って 帰ら ん ね 。

今朝 、 漁協 の 森下 さん に もろう た と やけど 、 うち じゃ 、 祐一 くらい しか おら ん けん 」

房枝 が 包丁 を 握った まま 振り返り 、 テーブル の 下 を 指す 。

濡れた 包丁 から 水 が 一 滴 、 黒 光り した 床 に 落ちる 。

テーブル の 下 を 覗き込む と 、 発泡 スチロール の ケース に ブリ が 一 匹 入って いた 。

房枝 に もらった ブリ を ケース ごと 玄関 へ 運んで 、 憲夫 は 横 の 階段 を 二 階 へ 上がった 。

上がる と すぐに 祐一 の 部屋 の ドア が ある 。

ノック する の も 気恥ずかしく 、 憲夫 は 、「 おい 」 と 声 を かけ ながら 勝手に ドア を 開けた 。

風呂 に でも 向かう つもりだった の か 、 パンツ 一 枚 で 立って いた 祐一 が 、 開けた ドア に ぶつかり そうに なる 。

「 今 から 風呂 か ? 筋肉 に 薄い 皮膚 が 貼り ついた ような 祐一 の 上半身 を 眺め ながら 憲夫 は 言った 。

「…… 風呂 入って 、 メシ 食 うて 、 病院 」

祐一 が 頷いて 部屋 を 出て 行こう と する 。

憲夫 は からだ を 躱 して 祐一 を 通した 。

一緒に 下りる つもりだった が 、 部屋 の 床 に 「 クレーン 免許 」 と 書か れた パンフレット が 落ちて いる の が 目 に ついた 。

「 ほう 、 一応 、 取る つもり は ある とたい 」 返事 は なく 、 すでに 階段 を 下りて いく 足音 が 高く なる 。 憲夫 は なんとなく 部屋 に 入って 床 から パンフレット を 拾い上げた 。

階段 を 下りた 祐一 の 足音 が 今度 は 廊下 を 遠ざかって いく 。

潰れた 座布団 に 腰 を 下ろす と 、 憲夫 は 部屋 の 中 を ぐるり と 見渡した 。

古い 土 壁 に は 、 すっかり 黄ばんで しまった セロハンテープ で 、 いく つ か 車 の ポスター が 貼って あり 、 床 に は 同じく 車 関係 の 雑誌 が あちこち に 積まれて いる 。 正直 、 それ 以外 、 何も ない 部屋 だった 。

若い 女 の ポスター が ある わけで も なし 、 テレビ も 、 ラジカセ も ない 。

ある とき 房枝 が 、「 祐一 の 部屋 は ここ じゃ なくて 、 自分 の 車 の 中 や もん 」 と 言って いた が 、 この 部屋 を 見る と 、 房枝 の 言葉 が 大げさで は なかった の が よく 分かる 。

捲ろう と した パンフレット を 投げ出して 、 憲夫 は 低い テーブル に 置か れた 給料 袋 を 手 に 取った 。

先週 、 自分 が 渡した 袋 だった が 、 手 に した 瞬間 、 中 に 何も 入って いない の が 分かる 。 封筒 の 横 に ガソリン スタンド の レシート が あった 。

見る つもり も なかった のだ が 、 やはり なんとなく 手 に 取る と 、5990 円 と 記さ れた 金額 の 下 に 、 佐賀 大和 の 地名 が ある 。

「 昨日 か 」

憲夫 は レシート の 日付 を 口 に した 。

口 に して すぐ 、「『 昨日 は どこ に も 行っと らん よ 』って 言い よった のに なぁ 」 と 首 を 傾げた 。 ボトッ と 重い 音 が シンク に 響いて 、 半 開き の 口 を こちら に 向けた 頭 が 、 排水 口 へ 滑って いく 。

廊下 を 歩いて くる 足音 に 振り返る と 、 パンツ 一 枚 の 祐一 が 、 テーブル に あった かまぼこ を 一 つ くわえて 風呂 場 へ 向かう 。

「 憲夫 は もう 帰った と ね ? 房枝 は その 背中 に 尋ねた 。

くちゃ くちゃ と かまぼこ を 噛み ながら 振り返った 祐一 が 、 黙って 自分 の 部屋 を 指さす 。

「 お前 の 部屋 で 何 し よる と ? 「 さ ぁ 」

祐一 は 首 を 傾げて 風呂 場 の ドア を 開けた 。

木枠 に ガラス を はめ込んだ ドア が 、 まるで 薄い トタン の ように 大きく し なり 、 大げさな 音 を 立てる 。

脱衣 所 が ない ので 、 祐一 は その場で パンツ を さっと おろし 、 身 を 震わせ ながら 風呂 場 へ 駆け込んだ 。

白い 尻 が すっと 残像 の ように 流れて いく 。 再び 閉め られた ドア が 、 割れ そうな ほど ガシャン と 音 を 立てた 。

房枝 は 包丁 を 持ち 直して 、 ブリ の 身 を 切り分け 始めた 。

階段 を 下りて くる 足音 が 響き 、「 おばさん 、 帰る けん 」 と 憲夫 の 声 が 聞こえた とき 、 房枝 は 鍋 の 中 に みそ を といて いた 。

手 が 離せ ず 、「 ああ 、 また おいで よ 」 と 声 を 返した 。

立て付け の 悪い 玄関 が ガラガラ と 音 を 立て 、 家 全体 が 軋む ように ドア が 閉まる 。

遠ざかる 憲夫 の 足音 が 消えて しまう と 、 一瞬 、 台所 に は 鍋 の 音 だけ が 残る 。

静かな もん だ 、 と 房枝 は 思う 。

ほとんど 寝たきり と は いえ 勝治 が おり 、 年 を とった と は いえ 自分 が いる 。 その 上 、 若い 盛り の 祐一 が すぐ そこ で 風呂 に 入って いる に も かかわら ず 、 恐ろしい ほど 静かな 家 だった 。

みそ の 香り を 嗅ぎ ながら 、 房枝 は 風呂 場 の 祐一 に 声 を かけた 。

「 今朝 、 二日酔い やったって ? と 訊 く と 、 返事 の 代わり に 、 ザブン と 湯 から 出る 水音 が する 。

「 どこ で 飲 ん どった と ね ? 返事 は なく 、 お 湯 を かぶる 音 が 返って くる 。

「 車 で 出かけた と やろう に 、 危な か ねぇ 」

房枝 は もう 返事 を 期待 して い なかった 。

沸騰 し そうな 鍋 の 火 を 消し 、 魚 の 血 で 汚れた まな板 を 水 に つけた 。

風呂 から 出た 祐一 が すぐに 食べられる ように 、 ブリ の 刺身 を 盛りつけ 、 夕方 の うち に 揚げて おいた すり身 と 一緒に 食卓 に 並べた 。 炊飯 器 を 開ける と 、 米 も ふっくら 炊き あがって おり 、 肌寒い 台所 に 濃い 湯気 が 立つ 。

勝治 が 病 に 臥 す 前 は 、 朝 三 合 、 夕方 五 合 の 米 を 毎日 炊いた 。

男 二 人 の 胃袋 を 満たす のに 、 この 十五 年 、 ずっと 米 を 研いで いた ような 気 さえ する 。

子供 の ころ から 、 祐一 は よく ごはん を 食べた 。

沢庵 一 切れ 与えれば 、 それ で 軽々 と 茶碗 一 杯 の ごはん を 食べる ほど 、 炊き たて の 米 が 好きだった 。

食べた もの は 全部 身 に なった 。

中学 に 入学 した ぐらい から 、 毎朝 、 祐一 の 身長 が ちょっと ずつ 伸びて いる ので は ない か と 思う ほど だった 。

房枝 は 自分 が 作り 与える 食事 で 、 一 人 の 少年 が 一端 の 男 に 成長 して いく 姿 を 、 呆れ ながら も 感嘆 の 思い で 眺めて きた 。

男の子 に 恵まれ なかった こと も ある が 、 娘 たち の とき に は 味わえ なかった 何 か 、 女 の 本能 の ような もの を 、 孫 を 育てて いく うち に 感じて いる 自分 に 気づいた 。

もちろん 当初 は 、 実の 親 である 次女 の 依子 に どこ か 遠慮 して いた ところ も あった 。

しかし 、 その 依子 が まだ 小学生 の 祐一 を 置いて 、 男 と 姿 を 消して から は 、 これ で 自分 が 祐一 を 育てられる のだ と 、 娘 の 不 貞 を 嘆き ながら も 、 力 の 漲って くる 思い が あった 。 房枝 は 、 五十 歳 に なろう と して いた 。

男 に 捨て られた 依子 に 連れ られて 、 この 家 に やってきた とき 、 祐一 は すでに 母親 を 信じて いない ように 見えた 。 口 で は 、「 お母さん 、 お母さん 」 と 甘えて み せる のだ が 、 その 目 は もう 依子 を 見て い なかった 。 当時 、 依子 の 目 を 盗んで 、 房枝 は 孫 の 祐一 に こっそり と 昔 の 写真 を 見せ 、「 お母さん より 、 おばあ ちゃん の ほう が 美人 やろ が ? 」 と 冗談 半分 に 訊 いた こと が ある 。

自分 で は 冗談 の つもり だった のだ が 、 埃 を 被った 結婚 式 の アルバム を 押し入れ から 取り出す とき 、 どこ か 緊張 して いる 自分 に 気づいて も いた 。

祐一 は 差し出さ れた 写真 を 見て 、 しばらく 黙り 込んで いた 。

その 小さな 後 頭部 を 見下ろして いる うち に 、 自分 が とんでもない こと を して いる ような 気 が とつぜん して きた 。

房枝 は 思わず アルバム を 閉じ 、「 おばあ ちゃん が 美人 な もんか ね 、 あー 、 恥ずかし 、 恥ずかし 」 と 年 甲斐 も なく 顔 を 赤らめた 。

初めて 入院 した とき に 買った 合 革 の バッグ だった が 、 どうせ 一 度 使う だけ だろう と 安物 を 選んだ のに 、 入 退院 の 繰り返し で 、 今では 縫い目 まで 綻び 始めて いる 。

「 お茶 やら 、 ふり かけ は 、 明日 、 私 が 持っていく けん 」

口 の 中 が 渇く らしく 、 音 を 立てて 唾 を 呑み込んで いる 勝治 に 、 房枝 は 声 を かけた 。

「 祐一 は もう メシ 食 うた と か ? 時間 を かけて 寝返り を 打った 勝治 が 、 這う ように 布団 を 出て 、 房枝 が 運んで きた 夕食 の 盆 へ 近づいて いく 。

「 ブリ の 刺身 、 食べる なら 持ってくる よ 」

野菜 の 煮物 と おかゆ だけ の 食事 に 、 勝治 が ため息 を ついた ので 、 房枝 は 慌てて そう 言った 。

「 刺身 は いら ん 。 それ より 病院 の 看護 婦 たち に 、 ちょっと 渡し とけよ 」

勝治 が かすかに 震える 手 で 箸 を 握る 。

「 渡し と けって 、 何 を ? 「 何って 、 金 に 決 まっとる やろ 」 「 金 ? また ぁ 、 そげ ん こと 言い出して 、 今どき 、 そんな もん 受け取って くれる 看護 婦 さん が おる もん ね 」

いつも の ように 房枝 は 撥ねつけ ながら 、 こういう ところ が 、 勝治 と いう か 、 男 の 悪い ところ だ と ほとほと 嫌に なる 。

体裁 を 気 に する の は いい が 、 その ため の 金 が 空 から 降って くる と でも 思って いる のだ 。

「 今どき 、 そんな もん もらったって サービス なんて よう なら ん と よ 。 立派な 仕事 し とる のに 、 そんな もん もらったら 、 逆に バカに さ れた ように 思う に 決 まっとるたい ね 」 房枝 は そこ まで 言う と 、「 ヨイショ 」 と 声 を かけて 立ち上がった 。 最近 、 注意 し ない と 、 立ち上がる とき に 膝 に 痛み が 走る 。

背中 を 丸めて おかゆ を 掻き 込む 勝治 を 、 房枝 は 眺めた 。

その 背中 に 、 一昨年 夫 を 亡くした 岡崎 の ばあさん の 声 が 重なる 。

「 二 月 に 一 回 、 年金 が 振り込ま れる たんび に 、『 ああ 、 あの 人 は もう 死んだ と や ねぇ 』って 思わさ れる よ 」 最初 、 房枝 は この 言葉 を 聞いて 、 ばあさん も ばあさん なり に 、 旦那 を 愛して いた のだろう と 思って いた 。 ただ 、 勝治 が からだ を 壊し 、 日に日に 衰えて いく 姿 を 見る に つけ 、 この 言葉 が まったく 違った 意味 を 持って いた こと に 気 が ついた 。 夫婦 の どちら か が 亡くなれば 、 生活 費 も また 半分 なくなる と いう こと な のだ 。

風呂 上がり の 祐一 が 椅子 に あぐら を かいて 、 ごはん を 掻き 込んで いた 。

よほど 腹 が 減って いた の か 、 みそ汁 も つが ず に 、 ブリ の 刺身 一 切れ に 対して 、 ごはん を さ さっと 二 、 三 口 、 掻き 込む 。

「 大根 の みそ汁 が ある と よ 」

房枝 は 声 を かけ ながら 、 ひっくり返して 置か れた まま だった お 椀 に 、 みそ汁 を ついで やった 。

渡せば すぐに 手 に とって 、 熱い ながら も 音 を 立てて 旨 そうに 啜 る 。

「 ばあちゃん も 一緒に 行った ほう が いい や ろか ? 房枝 は 椅子 に 座る と 、 顎 に 米粒 を 一 つ つけた 祐一 に 尋ねた 。

「 来 ん で いい よ 。 五 階 の ナースステーション に 連れて け ば いい と やろ ? 九州 特有 の 甘い 刺身 醤油 に 、 祐一 が ねり わさび を といて いく 。

「 七 時 から そこ の 公民 館 で 、 また 寄り合い が ある と や もん ね 。

ほら 、 健康 食品 の 説明 会 。 …… いや 、 買う つもり は ない と よ 。 でも 、 ほら 、 話 ば 聞く だけ なら 無料 タダ やけん 」

房枝 は 魔法 瓶 から 急須 に お 湯 を 入れた 。

残り が 少なかった らしく 、 二 、 三 度 押す と 、 ゴボゴボ と 嫌な 音 が 立つ 。

湯 を 足そう と 椅子 から 立ち上がった とき だった 。

たった今 まで 旨 そうに 刺身 や すり身 揚げ を 口 に 入れて いた 祐一 が 、 とつぜん 、「 うっ」 と 唸って 口 を 押さえた 。 「 どうした ? 房枝 は 慌てて 祐一 の 背後 に 回る と 、 その 広い 背中 を 強く 叩いた 。

何 か 喉 に 詰まら せた と 思った のだ が 、 房枝 を 押しのける ように 立ち上がった 祐一 が 、 口 を 押さえた まま 便所 へ 駆け込んで いく 。

房枝 は 呆 気 に とられて 立ちすくんだ 。 便所 から すぐに 嘔吐 する 声 が 聞こえた 。

房枝 は 慌てて 食卓 に 並んだ 刺身 や すり身 揚げ の に おい を 嗅いだ が 、 もちろん 腐って いる もの など ない 。

しばらく 苦し そうに え ず いた あと 、 顔 を 真っ青に した 祐一 が 出て きた 。

「 どうした と ね ? 房枝 が 顔 を 覗き込もう と する と 、 その 肩 を 押しのけた 祐一 が 、「 なんでもない 。 …… ちょっと 喉 に 詰まった 」 と 見え透いた 言い訳 を する 。

「 喉 に つまったって 、 あんた ……」 房枝 は 床 に 落ちた 箸 を 拾った 。 目の前 に 祐一 の 脚 が あった 。 風呂 から 出た ばかりで 、 寒い わけで も ない だろう に 、 その 脚 が 小刻みに 震えて いた


第二章 彼は誰に会いたかったか?【2】 だい ふた しょう|かれ は だれ に あい たかった か Kapitel 2: Wen wollte er treffen? [2 Chapter 2 Who Did He Want to See? [2 Capítulo 2: ¿A quién quería conocer? [2 Chapitre 2 : Qui voulait-il rencontrer ? [2 제2장 그는 누구를 만나고 싶었나? (2)【제2장】그는 누구를 만나고 싶었나? Hoofdstuk 2: Wie wilde hij ontmoeten? [2 第2章 他想见谁? [2] 第 2 章:他想见谁?[2

平たい ドラム缶 に 溜 め た 水 で 、 熱心に 指 の 汚れ を 洗い 落として いる 祐一 の 背中 を 、 矢島 憲夫 は たばこ を 吸い ながら 眺めて いた 。 ひらたい|どらむかん||たま|||すい||ねっしんに|ゆび||けがれ||あらい|おとして||ゆういち||せなか||やしま|のりお||||すい||ながめて| Norio Yajima patrzył na plecy Yuichiego, podczas palenia entuzjastycznie zmywając brud z palców wodą przechowywaną w płaskim bębnie. 矢岛纪夫正看着友一的背部,一边吸烟一边用扁鼓中储存的水热情地洗去了手指上的污垢。

ドラム缶 は コンクリ を こねる とき に 使わ れる もの で 、 いくら 真水 が 入って いる と は いえ 、 洗った 手 が 乾けば 蛇 の ような 模様 が 皮膚 に 浮かぶ 。 どらむかん|||||||つかわ|||||まみず||はいって|||||あらった|て||かわけば|へび|||もよう||ひふ||うかぶ Trommeln werden zum Kneten von Beton verwendet, und egal wie viel frisches Wasser darin ist, sobald Ihre Hände gewaschen und trocken sind, erscheint ein schlangenartiges Muster auf Ihrer Haut. The drums are used for mixing concrete, and no matter how much fresh water is in them, when your hands are dry after washing them, a snake-like pattern will appear on your skin.

すでに 夕方 の 六 時 を 回り 、 作業 場 の あちこち で 各 組 の 人 夫 たち が 帰り 支度 を 始めて いた 。 |ゆうがた||むっ|じ||まわり|さぎょう|じょう||||かく|くみ||じん|おっと|||かえり|したく||はじめて|

さっき まで 外壁 を 壊して いた 数 台 の 重機 も 、 今では 一 カ所 に おとなしく 並んで いる 。 ||がいへき||こわして||すう|だい||じゅうき||いまでは|ひと|かしょ|||ならんで|

元 産婦人科 の 病棟 だった ビル も 、 作業 を 始めて すでに 四 日 目 、 その 三 分 の 二 が 無惨に 取り壊されて いる 。 もと|さんふじんか||びょうとう||びる||さぎょう||はじめて||よっ|ひ|め||みっ|ぶん||ふた||むざんに|とりこわさ れて| こういう 大きな 現場 の 場合 、 憲夫 の 会社 は 下請け に 回る 。 |おおきな|げんば||ばあい|のりお||かいしゃ||したうけ||まわる いちおう 自社 でも 15 m ロング の 重機 を 一 台 所有 して いる のだ が 、 鉄筋 の 三 階建て と も なる と 一 台 で は どうにも なら ず 、 大手 の 解体 業者 の 下請け に 回る しか ない 。 |じしゃ|||ろんぐ||じゅうき||ひと|だい|しょゆう|||||てっきん||みっ|かいだて|||||ひと|だい||||||おおて||かいたい|ぎょうしゃ||したうけ||まわる||

ドラム缶 の 水 で 洗った 手 を 、 首 に かけた タオル で 拭き 始めた 祐一 に 、「 お前 も 、 そろそろ 重機 の 免許 取ったら どう や ? どらむかん||すい||あらった|て||くび|||たおる||ふき|はじめた|ゆういち||おまえ|||じゅうき||めんきょ|とったら|| 」 と 憲夫 は 声 を かけ 、 吸って いた たばこ を 灰皿 に 押しつけた 。 |のりお||こえ|||すって||||はいざら||おしつけた

憲夫 の 言葉 に 振り返った 祐一 が 、 のりお||ことば||ふりかえった|ゆういち|

「 は ぁ 」

と なんとも やる 気 の ない 返事 を し 、 今度 は 顔 を ゴシゴシ と タオル で こする 。 |||き|||へんじ|||こんど||かお||||たおる||

こすれば こする ほど 、 顔 の 汚れ が 目立つ 。 |||かお||けがれ||めだつ

「 来月 、 一 週間 くらい 休んで よ かけ ん 、 免許 取り に 行か ん か ? らいげつ|ひと|しゅうかん||やすんで||||めんきょ|とり||いか|| 憲夫 の 言葉 に 、 行きたい と いう 意味 な の か 、 行き たく ない と いう 意味 な の か 、 祐一 が 口 を 尖 がら せ ながら も 小さく 頷く 。 のりお||ことば||いき たい|||いみ||||いき|||||いみ||||ゆういち||くち||とが|||||ちいさく|うなずく 正直な ところ 、 祐一 の ほう から この 話 を 言い出して くれ ない もの か と 、 憲夫 は ずっと 待って いる のだ が 、 いくら 待って も 祐一 が 積極 的に なる こと は なかった 。 しょうじきな||ゆういち|||||はなし||いいだして||||||のりお|||まって|||||まって||ゆういち||せっきょく|てきに||||

ゴム 手袋 など を 自分 の バッグ に しまい 始めた 祐一 に 、「 ところで 気分 は もう よか と か ? ごむ|てぶくろ|||じぶん||ばっぐ|||はじめた|ゆういち|||きぶん||||| と 憲夫 は 声 を かけた 。 |のりお||こえ|| 今朝 、 車 の 中 で とつぜん 顔色 を 変えて 吐き そうに なった わりに 、 現場 に 着く と いつも と 変わら ず おとなしく 働いて いた 。 けさ|くるま||なか|||かおいろ||かえて|はき|そう に|||げんば||つく||||かわら|||はたらいて| ただ 、 いつも 持参 して くる 弁当 に 、 ほとんど 手 を つけ なかった こと を 憲夫 は 知っている 。 ||じさん|||べんとう|||て||||||のりお||しっている

「 今日 帰ったら すぐ 、 じいさん 、 病院 に 連れて 行く と やろ ? きょう|かえったら|||びょういん||つれて|いく|| 」 と 憲夫 は 訊 いた 。 |のりお||じん|

「 たぶん メシ 食う て から 」 |めし|くう||

埃っぽい 寒風 の 中 、 バッグ を 抱えて 立ち上がった 祐一 が 、 ぼ そっと 答える 。 ほこり っぽい|かんぷう||なか|ばっぐ||かかえて|たちあがった|ゆういち||||こたえる 憲夫 は 、 いつも の ように 倉 見 、 吉岡 、 そして 祐一 を ワゴン 車 に 乗せた 。 のりお|||||くら|み|よしおか||ゆういち||わごん|くるま||のせた

夕日 に 赤く 染まった 長崎 湾 を 眺め ながら 国道 を 走って いる と 、 また いつも の 如く 倉 見 が 焼酎 の ワンカップ を 飲み 始める 。 ゆうひ||あかく|そまった|ながさき|わん||ながめ||こくどう||はしって||||||ごとく|くら|み||しょうちゅう||わんかっぷ||のみ|はじめる

「 家 に 着く まで 、 たかが 三十 分 くらい 我慢 でき ん と や ? いえ||つく|||さんじゅう|ぶん||がまん|||| 憲夫 は 鼻先 へ 流れて きた 焼酎 の 臭い に 顔 を しかめた 。 のりお||はなさき||ながれて||しょうちゅう||くさい||かお|| Norio frowned at the smell of shochu liquor that was running down his nose.

「 仕事 が 終わる 一 時間 も 前 から 我慢 し とる と に 、 それ から また 三十 分 も 我慢 できる もん ね 」 しごと||おわる|ひと|じかん||ぜん||がまん||||||||さんじゅう|ぶん||がまん|||

倉 見 が 呆れた と ばかり に 笑って 、 カップ から こぼれ そうな 焼酎 に 口 を つけ 、 濃い 無 精 髭 が とろっと した 液体 に 濡れる 。 くら|み||あきれた||||わらって|かっぷ|||そう な|しょうちゅう||くち|||こい|む|せい|ひげ||とろ っと||えきたい||ぬれる 窓 を 開けて いる に も かかわら ず 、 焼酎 と 乾いた 土 の に おい が 車 内 で 混じる 。 まど||あけて||||||しょうちゅう||かわいた|つち|||||くるま|うち||まじる

「 そう 言えば 、 きのう 、 福岡 の 三瀬 峠 で 女の子 が 殺さ れたら しか な 」 |いえば||ふくおか||みつせ|とうげ||おんなのこ||ころさ|||

窓 の 外 を 眺めて いた 吉岡 が 、 ふと 思い出した ように 言った 。 まど||がい||ながめて||よしおか|||おもいだした||いった

「 保険 の 勧誘 し とる 女の子 らし か けど 、 あげ ん こと さ れたら 親 は たまった もん じゃ なか ねえ 」 ほけん||かんゆう|||おんなのこ|||||||||おや||||||

同じ 年頃 の 娘 を 持つ 倉 見 が そう 言って 、 焼酎 で 濡れた 指 を 舐める 。 おなじ|としごろ||むすめ||もつ|くら|み|||いって|しょうちゅう||ぬれた|ゆび||なめる

内縁 の 妻 と 二 人 で 暮らして いる 吉岡 に は 、 被害 者 の 親 の 気持ち は 実感 でき ない ようで 、「 三瀬って 言えば 、 俺 が 、 前 に トラック 運転 し よる とき 、 よう 使い よった 道 や もん ね 」 と 話 を 変える 。 ないえん||つま||ふた|じん||くらして||よしおか|||ひがい|もの||おや||きもち||じっかん||||みつせ って|いえば|おれ||ぜん||とらっく|うんてん|||||つかい||どう|||||はなし||かえる 吉岡 本人 が 詳しく 話す こと は ない が 、 県営 住宅 で 一緒に 暮らして いる 女 は 、 もう 十 年 に なる と いう のに 、 まだ 前 の 旦那 と の 籍 を 抜いて いない らしい 。 よしおか|ほんにん||くわしく|はなす|||||けんえい|じゅうたく||いっしょに|くらして||おんな|||じゅう|とし|||||||ぜん||だんな|||せき||ぬいて|| 「 祐一 、 お前 も 三瀬 の 峠 と か 、 よう ドライブ する と やろ が ? ゆういち|おまえ||みつせ||とうげ||||どらいぶ|||| 吉岡 に 声 を かけ られて 、 一 番 後ろ に 座って いる 祐一 が 窓 の 外 から 車 内 に 視線 を 戻した 。 よしおか||こえ||||ひと|ばん|うしろ||すわって||ゆういち||まど||がい||くるま|うち||しせん||もどした

その 様子 が ルームミラー に 映る 。 |ようす||||うつる

市 内 へ 向かう 反対 車線 が 渋滞 し 始めて いた 。 し|うち||むかう|はんたい|しゃせん||じゅうたい||はじめて|

造船 所 で 一 日 働いた 男 たち の 車 が 、 数珠 繋ぎ に 街道 を 伸びて いる 。 ぞうせん|しょ||ひと|ひ|はたらいた|おとこ|||くるま||じゅず|つなぎ||かいどう||のびて| 夕日 を 浴びた 男 たち の 顔 は 、 どこ か 般若 の 面 の ように 見える 。 ゆうひ||あびた|おとこ|||かお||||はんにゃ||おもて|||みえる

「 なぁ 、 三瀬 峠 と か 、 よう ドライブ する と やろ が ? |みつせ|とうげ||||どらいぶ|||| 返事 を し ない 祐一 に 、 改めて 吉岡 が 訊 いた 。 へんじ||||ゆういち||あらためて|よしおか||じん|

「 三瀬 は …… あんまり 好か ん 。 みつせ|||すか|

あそこ 、 夜 走る と 気色 悪 か 」 |よ|はしる||けしき|あく|

ぼ そっと 答えた 祐一 の 言葉 が 、 なぜ か ハンドル を 握る 憲夫 の 耳 に 残った 。 ||こたえた|ゆういち||ことば||||はんどる||にぎる|のりお||みみ||のこった

倉 見 と 吉岡 を 順番 に 降ろす と 、 憲夫 は 祐一 の 実家 へ と 車 を 走ら せた 。 くら|み||よしおか||じゅんばん||おろす||のりお||ゆういち||じっか|||くるま||はしら|

国道 から 狭い 路地 に 入り 、 軒先 の 表札 が サイドミラー に 触れて しまう ような 道 が 、 くねくね と 漁港 の ほう へ 伸びる 。 こくどう||せまい|ろじ||はいり|のきさき||ひょうさつ||||ふれて|||どう||||ぎょこう||||のびる

埋め立て で ほとんど の 海岸 線 を 奪わ れた あと 、 辛うじて 残った 小さな 漁港 に は 、 小型の 漁船 が 数 艘 停泊 して いる 。 うめたて||||かいがん|せん||うばわ|||かろうじて|のこった|ちいさな|ぎょこう|||こがたの|ぎょせん||すう|そう|ていはく|| 波 止め で 囲ま れた 湾 内 は おだやかで 、 漁船 を 繋ぐ ロープ の 軋む 音 だけ が 、 ときどき 思い出した ように 辺り に 響く 。 なみ|とどめ||かこま||わん|うち|||ぎょせん||つなぐ|ろーぷ||きしむ|おと||||おもいだした||あたり||ひびく

漁港 の 周囲 に は いく つ か シャッター を 下ろした 倉庫 が ある 。 ぎょこう||しゅうい||||||しゃったー||おろした|そうこ||

一見 、 漁業 関係 の 倉庫 に 見える が 、 中 に は ペーロン と 呼ば れる 競技 用 ボート が 収納 されて いる 。 いっけん|ぎょぎょう|かんけい||そうこ||みえる||なか|||||よば||きょうぎ|よう|ぼーと||しゅうのう|さ れて| この 地域 は ペーロン が 盛んで 、 毎年 夏 に なる と 各 地区 対抗 の 大会 が 開か れる 。 |ちいき||||さかんで|まいとし|なつ||||かく|ちく|たいこう||たいかい||あか|

十 数 人 の 男 たち が 一斉に 櫂 を 漕ぐ 姿 は 勇壮で 、 毎年 数 多く の 見物 客 も 集まって くる 。 じゅう|すう|じん||おとこ|||いっせいに|かい||こぐ|すがた||ゆうそうで|まいとし|すう|おおく||けんぶつ|きゃく||あつまって|

「 来年 も 、 ペーロン 出る と やろ ? らいねん|||でる|| たまたま 半分 ほど シャッター の 開いて いる 倉庫 を 目 に して 、 憲夫 は 祐一 に 声 を かけた 。 |はんぶん||しゃったー||あいて||そうこ||め|||のりお||ゆういち||こえ||

荷物 を 膝 に 抱え 、 祐一 は すでに 車 を 降りる 準備 を して いた 。 にもつ||ひざ||かかえ|ゆういち|||くるま||おりる|じゅんび|||

「 練習 は いつごろ から 始まる と か ? れんしゅう||||はじまる|| ルームミラー 越し に 尋ねる と 、「 いつも と 一緒 やろ 」 と 、 祐一 が 答える 。 |こし||たずねる||||いっしょ|||ゆういち||こたえる

高校 生 だった 祐一 が 初めて ペーロン に 参加 した とき 、 地区 の リーダー を 務めた の が 憲夫 だった 。 こうこう|せい||ゆういち||はじめて|||さんか|||ちく||りーだー||つとめた|||のりお|

練習 中 、 ぶつ くさ と 文句 ばかり 言う 他 の 少年 たち と 違い 、 黙々と 櫂 を 漕ぐ の は いい のだ が 、 祐一 は 加減 と いう もの を 知ら ず 、 手のひら の 皮 が 剥ける まで 練習 して しまい 、 結局 、 大会 当日 に は 使い物 に なら なかった 。 れんしゅう|なか||||もんく||いう|た||しょうねん|||ちがい|もくもくと|かい||こぐ||||||ゆういち||かげん|||||しら||てのひら||かわ||むける||れんしゅう|||けっきょく|たいかい|とうじつ|||つかいもの|||

あれ から 十 年 近く 経つ が 、 祐一 は 毎年 ペーロン 大会 に 参加 して いる 。 ||じゅう|とし|ちかく|たつ||ゆういち||まいとし||たいかい||さんか||

「 好きな の か ? すきな|| 」 と 問えば 、「 別に 」 と 答える くせ に 、 毎年 練習 が 始まる と 、 誰 より も 先 に 倉庫 に 現れる らしい 。 |とえば|べつに||こたえる|||まいとし|れんしゅう||はじまる||だれ|||さき||そうこ||あらわれる|

「 ちょっと 寄って 行こう か な 」 |よって|いこう||

祐一 の 家 の 前 で 車 を 停める と 、 憲夫 は そう 言って エンジン を 切った 。 ゆういち||いえ||ぜん||くるま||とめる||のりお|||いって|えんじん||きった

すでに 降りよう と して いた 祐一 が 、 ちらっと 憲夫 へ 目 を 向ける 。 |おりよう||||ゆういち|||のりお||め||むける

「 今日 は 何時ごろ 、 じいさん 、 病院 に 連れて 行く と か ? きょう||いつごろ||びょういん||つれて|いく|| 」 と 憲夫 は また 訊 いた 。 |のりお|||じん|

「 晩 メシ 食う て から 」 ばん|めし|くう||

祐一 が また ぼ そっと 呟いて 車 を 降りる 。 ゆういち|||||つぶやいて|くるま||おりる

祐一 の あと を 追って 玄関 に 入る と 、 病人 が いる 家 特有 のに おい が した 。 ゆういち||||おって|げんかん||はいる||びょうにん|||いえ|とくゆう||||

祐一 が 一緒に 暮らして いる と は いえ 、 元 は 老 夫婦 の 家 な ので 、 一 歩 足 を 踏み入れた だけ で 、 視界 から 色 が 抜け落ちて しまった ような 感覚 に 襲わ れる 。 ゆういち||いっしょに|くらして|||||もと||ろう|ふうふ||いえ|||ひと|ふ|あし||ふみいれた|||しかい||いろ||ぬけおちて|||かんかく||おそわ| 祐一 が 脱ぎ捨てた 赤い スニーカー だけ が 、 汚れて は いて も 、 唯一 、 そこ に 明るい 色 を 残す 。 ゆういち||ぬぎすてた|あかい|すにーかー|||けがれて||||ゆいいつ|||あかるい|いろ||のこす

「 おばさん ! さっさと 廊下 を 歩いて いく 祐一 に 呆れ ながら 、 憲夫 は 奥 へ 声 を かけた 。 |ろうか||あるいて||ゆういち||あきれ||のりお||おく||こえ||

靴 を 脱いで いる と 、「 あら 、 憲夫 が 来た と ね ? くつ||ぬいで||||のりお||きた||

珍 しか 」 と 祐一 に 尋ねる 房枝 の 声 が 聞こえた 。 ちん|||ゆういち||たずねる|ふさえ||こえ||きこえた

「 じいさん 、 これ から 病院 に 行くって ? |||びょういん||いく って 靴 を 脱いで 廊下 に 上がる と 、 台所 に いた らしい 房枝 が 出て きて 、「 この前 、 退院 した か と 思う たら 、 また 入院 よ 」 と 言い ながら 濡れた 手 を 首 に かけた 手ぬぐい で 拭く 。 くつ||ぬいで|ろうか||あがる||だいどころ||||ふさえ||でて||この まえ|たいいん||||おもう|||にゅういん|||いい||ぬれた|て||くび|||てぬぐい||ふく

「 うん 、 祐一 が そう 言う けんさ ……」 |ゆういち|||いう|

憲夫 は 気兼ね なく 廊下 を 進み 、 勝治 の 寝て いる 部屋 の 障子 を 開けた 。 のりお||きがね||ろうか||すすみ|かつじ||ねて||へや||しょうじ||あけた

「 じいさん 、 また 入院 するって ? ||にゅういん|する って 病院 より 家 の ほう が よか やろ が ? びょういん||いえ|||||| 障子 を 開けた 途端 に 、 かすかに し もの に おい が した 。 しょうじ||あけた|とたん||||||||

畳 に 差し込んで いる 街灯 が 、 古い 畳 の 上 で 点滅 する 蛍光 灯 と 混じって いる 。 たたみ||さしこんで||がいとう||ふるい|たたみ||うえ||てんめつ||けいこう|とう||まじって|

「 病院 に 行けば 、 家 に 帰りたいって 言う し 、 家 に 連れて くれば 、 病院 の ほう が よかって 言う し 、 ほんと 、 もう どうにも なら ん よ 、 この 人 は 」 房枝 が そう 言い ながら 蛍光 灯 を つけ 直す 。 びょういん||いけば|いえ||かえり たい って|いう||いえ||つれて||びょういん||||よか って|いう|||||||||じん||ふさえ|||いい||けいこう|とう|||なおす 布団 の 中 で 、 勝治 の 濁った 咳 が こもる 。 ふとん||なか||かつじ||にごった|せき||

憲夫 は 枕元 に 腰 を 下ろす と 、 乱暴に 布団 を 捲った 。 のりお||まくらもと||こし||おろす||らんぼうに|ふとん||まくった

固 そうな 枕 に 染み だらけ の 勝治 の 顔 が のって いる 。 かた|そう な|まくら||しみ|||かつじ||かお|||

「 じいさん 」

憲夫 は 声 を かけ ながら 、 勝治 の 額 に 手のひら を のせた 。 のりお||こえ||||かつじ||がく||てのひら||

自分 の 手 が 熱かった の か 、 一瞬 、 ぞっと する ほど 冷たかった 。 じぶん||て||あつかった|||いっしゅん||||つめたかった

「 祐一 は ? ゆういち| 痰 を からま せる ように 勝治 が 尋ね 、 額 に のせ られた 憲夫 の 手 を 払う 。 たん|||||かつじ||たずね|がく||||のりお||て||はらう

ちょうど その とき 、 祐一 が 階段 を 上がって いく 足音 が 聞こえ 、 家 全体 が 揺れた 。 |||ゆういち||かいだん||あがって||あしおと||きこえ|いえ|ぜんたい||ゆれた

「 なんでもかんでも 祐一 に 頼っとったら 駄目 ばい 」 憲夫 は 寝て いる 勝治 だけ で は なく 、 背後 に 立つ 房枝 に も 伝わる ように 言った 。 |ゆういち||たの っと ったら|だめ||のりお||ねて||かつじ|||||はいご||たつ|ふさえ|||つたわる||いった 「 なん も 頼って ばっかり おる もん ね 」 ||たよって||||

蛍光 灯 の 下 で 房枝 が 口 を 尖ら せる 。 けいこう|とう||した||ふさえ||くち||とがら|

「 いや 、 そりゃ そう やろう けど 、 祐一 も まだ 若っか 男 よ 。 |||||ゆういち|||わか っか|おとこ| じいさん 、 ばあさん の 世話 ばっかり さ せ とっても 、 それ こそ 嫁 も もらえ んたい 」 憲夫 は わざと ふざけた 口調 で 言い返した 。 |||せわ|||||||よめ|||ん たい|のりお||||くちょう||いいかえした おかげ で 房枝 の 険しい 表情 が 少し だけ 弛 む 。 ||ふさえ||けわしい|ひょうじょう||すこし||ち|

「 そい で も さ 、 正直 、 祐一 が おら ん やったら 、 それ こそ 、 じいさん ば 、 風呂 に 入れる こと も でき ん と よ 」 ||||しょうじき|ゆういち|||||||||ふろ||いれる||||||

「 それ こそ 、 ホーム ヘルパー でも 頼めば よかろう に 」 ||ほーむ|へるぱー||たのめば||

「 あんた も 簡単に 言う ねぇ 、 ヘルパー さん に 来て もらう と に 、 いくら お 金 が かかる か 知ら ん と やろ ? ||かんたんに|いう||へるぱー|||きて||||||きむ||||しら||| 「 高い と ね ? たかい|| 「 そりゃ 、 あんた 、 そこ の 岡崎 の ばあさん なんて ……」 ||||おかざき|||

房枝 が そこ まで 言った とき 、 布団 の 中 で 、「 うるさい ! ふさえ||||いった||ふとん||なか|| 」 と 勝治 が 怒鳴り 、 苦し そうに 咳き込んだ 。 |かつじ||どなり|にがし|そう に|せきこんだ

「 ごめん 、 ごめん 」

憲夫 は 布団 を 軽く 叩いて 立ち上がり 、 房枝 の 背中 を 押して 部屋 を 出た 。 のりお||ふとん||かるく|たたいて|たちあがり|ふさえ||せなか||おして|へや||でた

台所 の まな板 に 活 き の 良 さ そうな ブリ が のって いた 。 だいどころ||まないた||かつ|||よ||そう な|ぶり|||

どす黒い 血 が 濡れた まな板 に 広がって いる 。 どすぐろい|ち||ぬれた|まないた||ひろがって| 天井 に 向け られた 眼 と 半 開き の 口 が 、 何 か を 訴え かけて いる ように 見える 。 てんじょう||むけ||がん||はん|あき||くち||なん|||うったえ||||みえる

「 そうい や 、 祐一 は 昨日 、 遅かった と やろ ? そう い||ゆういち||きのう|おそかった|| 包丁 を 握った 房枝 の 背中 に 、 憲夫 は 何気なく 声 を かけた 。 ほうちょう||にぎった|ふさえ||せなか||のりお||なにげなく|こえ||

今朝 、 現場 へ 向かう 途中 に 顔色 を 変えて 車 を 飛び降り 、 苦し そうに え ず いた こと を 思い出した のだ 。 けさ|げんば||むかう|とちゅう||かおいろ||かえて|くるま||とびおり|にがし|そう に||||||おもいだした|

「 さ ぁ 、 知ら ん 。 ||しら| 出かけ とった と やろ か ? でかけ|||| 「 珍しゅう 、 二日酔い やった ばい 」 めずらしゅう|ふつかよい||

「 二日酔い ? ふつかよい 祐一 が ね ? ゆういち|| 「 今朝 、 顔 真っ青 させて ……」 けさ|かお|まっさお|さ せて

「 へ ぇ 、 どこ で 飲んだ と やろ か 、 車 で 出かけた と やろう に 」 ||||のんだ||||くるま||でかけた||| "Hey, where did he go for a drink? He must have gone out in his car."

年季 の 入った 包丁 で 、 房枝 が ブリ の 身 を 切り分けて いく 。 ねんき||はいった|ほうちょう||ふさえ||ぶり||み||きりわけて|

グツッ 、 グツッ と 包丁 が 骨 を 砕く 。 |||ほうちょう||こつ||くだく

「 あんた 、 ブリ 一 匹 、 実千代 さん に 持って 帰ら ん ね 。 |ぶり|ひと|ひき|みちよ|||もって|かえら||

今朝 、 漁協 の 森下 さん に もろう た と やけど 、 うち じゃ 、 祐一 くらい しか おら ん けん 」 けさ|ぎょきょう||もりした|||||||||ゆういち|||||

房枝 が 包丁 を 握った まま 振り返り 、 テーブル の 下 を 指す 。 ふさえ||ほうちょう||にぎった||ふりかえり|てーぶる||した||さす

濡れた 包丁 から 水 が 一 滴 、 黒 光り した 床 に 落ちる 。 ぬれた|ほうちょう||すい||ひと|しずく|くろ|ひかり||とこ||おちる

テーブル の 下 を 覗き込む と 、 発泡 スチロール の ケース に ブリ が 一 匹 入って いた 。 てーぶる||した||のぞきこむ||はっぽう|||けーす||ぶり||ひと|ひき|はいって|

房枝 に もらった ブリ を ケース ごと 玄関 へ 運んで 、 憲夫 は 横 の 階段 を 二 階 へ 上がった 。 ふさえ|||ぶり||けーす||げんかん||はこんで|のりお||よこ||かいだん||ふた|かい||あがった

上がる と すぐに 祐一 の 部屋 の ドア が ある 。 あがる|||ゆういち||へや||どあ||

ノック する の も 気恥ずかしく 、 憲夫 は 、「 おい 」 と 声 を かけ ながら 勝手に ドア を 開けた 。 ||||きはずかしく|のりお||||こえ||||かってに|どあ||あけた

風呂 に でも 向かう つもりだった の か 、 パンツ 一 枚 で 立って いた 祐一 が 、 開けた ドア に ぶつかり そうに なる 。 ふろ|||むかう||||ぱんつ|ひと|まい||たって||ゆういち||あけた|どあ|||そう に|

「 今 から 風呂 か ? いま||ふろ| 筋肉 に 薄い 皮膚 が 貼り ついた ような 祐一 の 上半身 を 眺め ながら 憲夫 は 言った 。 きんにく||うすい|ひふ||はり|||ゆういち||じょうはんしん||ながめ||のりお||いった

「…… 風呂 入って 、 メシ 食 うて 、 病院 」 ふろ|はいって|めし|しょく||びょういん

祐一 が 頷いて 部屋 を 出て 行こう と する 。 ゆういち||うなずいて|へや||でて|いこう||

憲夫 は からだ を 躱 して 祐一 を 通した 。 のりお||||た||ゆういち||とおした

一緒に 下りる つもりだった が 、 部屋 の 床 に 「 クレーン 免許 」 と 書か れた パンフレット が 落ちて いる の が 目 に ついた 。 いっしょに|おりる|||へや||とこ||くれーん|めんきょ||かか||ぱんふれっと||おちて||||め||

「 ほう 、 一応 、 取る つもり は ある とたい 」 返事 は なく 、 すでに 階段 を 下りて いく 足音 が 高く なる 。 |いちおう|とる||||と たい|へんじ||||かいだん||おりて||あしおと||たかく| 憲夫 は なんとなく 部屋 に 入って 床 から パンフレット を 拾い上げた 。 のりお|||へや||はいって|とこ||ぱんふれっと||ひろいあげた

階段 を 下りた 祐一 の 足音 が 今度 は 廊下 を 遠ざかって いく 。 かいだん||おりた|ゆういち||あしおと||こんど||ろうか||とおざかって|

潰れた 座布団 に 腰 を 下ろす と 、 憲夫 は 部屋 の 中 を ぐるり と 見渡した 。 つぶれた|ざぶとん||こし||おろす||のりお||へや||なか||||みわたした

古い 土 壁 に は 、 すっかり 黄ばんで しまった セロハンテープ で 、 いく つ か 車 の ポスター が 貼って あり 、 床 に は 同じく 車 関係 の 雑誌 が あちこち に 積まれて いる 。 ふるい|つち|かべ||||きばんで|||||||くるま||ぽすたー||はって||とこ|||おなじく|くるま|かんけい||ざっし||||つま れて| 正直 、 それ 以外 、 何も ない 部屋 だった 。 しょうじき||いがい|なにも||へや|

若い 女 の ポスター が ある わけで も なし 、 テレビ も 、 ラジカセ も ない 。 わかい|おんな||ぽすたー||||||てれび||らじかせ||

ある とき 房枝 が 、「 祐一 の 部屋 は ここ じゃ なくて 、 自分 の 車 の 中 や もん 」 と 言って いた が 、 この 部屋 を 見る と 、 房枝 の 言葉 が 大げさで は なかった の が よく 分かる 。 ||ふさえ||ゆういち||へや|||||じぶん||くるま||なか||||いって||||へや||みる||ふさえ||ことば||おおげさで||||||わかる

捲ろう と した パンフレット を 投げ出して 、 憲夫 は 低い テーブル に 置か れた 給料 袋 を 手 に 取った 。 まくろう|||ぱんふれっと||なげだして|のりお||ひくい|てーぶる||おか||きゅうりょう|ふくろ||て||とった

先週 、 自分 が 渡した 袋 だった が 、 手 に した 瞬間 、 中 に 何も 入って いない の が 分かる 。 せんしゅう|じぶん||わたした|ふくろ|||て|||しゅんかん|なか||なにも|はいって||||わかる 封筒 の 横 に ガソリン スタンド の レシート が あった 。 ふうとう||よこ||がそりん|すたんど||れしーと||

見る つもり も なかった のだ が 、 やはり なんとなく 手 に 取る と 、5990 円 と 記さ れた 金額 の 下 に 、 佐賀 大和 の 地名 が ある 。 みる||||||||て||とる||えん||しるさ||きんがく||した||さが|だいわ||ちめい||

「 昨日 か 」 きのう|

憲夫 は レシート の 日付 を 口 に した 。 のりお||れしーと||ひづけ||くち||

口 に して すぐ 、「『 昨日 は どこ に も 行っと らん よ 』って 言い よった のに なぁ 」 と 首 を 傾げた 。 くち||||きのう|||||ぎょう っと||||いい|||||くび||かしげた ボトッ と 重い 音 が シンク に 響いて 、 半 開き の 口 を こちら に 向けた 頭 が 、 排水 口 へ 滑って いく 。 ||おもい|おと||||ひびいて|はん|あき||くち||||むけた|あたま||はいすい|くち||すべって|

廊下 を 歩いて くる 足音 に 振り返る と 、 パンツ 一 枚 の 祐一 が 、 テーブル に あった かまぼこ を 一 つ くわえて 風呂 場 へ 向かう 。 ろうか||あるいて||あしおと||ふりかえる||ぱんつ|ひと|まい||ゆういち||てーぶる|||||ひと|||ふろ|じょう||むかう

「 憲夫 は もう 帰った と ね ? のりお|||かえった|| 房枝 は その 背中 に 尋ねた 。 ふさえ|||せなか||たずねた

くちゃ くちゃ と かまぼこ を 噛み ながら 振り返った 祐一 が 、 黙って 自分 の 部屋 を 指さす 。 |||||かみ||ふりかえった|ゆういち||だまって|じぶん||へや||ゆびさす

「 お前 の 部屋 で 何 し よる と ? おまえ||へや||なん||| 「 さ ぁ 」

祐一 は 首 を 傾げて 風呂 場 の ドア を 開けた 。 ゆういち||くび||かしげて|ふろ|じょう||どあ||あけた

木枠 に ガラス を はめ込んだ ドア が 、 まるで 薄い トタン の ように 大きく し なり 、 大げさな 音 を 立てる 。 きわく||がらす||はめこんだ|どあ|||うすい|とたん|||おおきく|||おおげさな|おと||たてる

脱衣 所 が ない ので 、 祐一 は その場で パンツ を さっと おろし 、 身 を 震わせ ながら 風呂 場 へ 駆け込んだ 。 だつい|しょ||||ゆういち||そのばで|ぱんつ||||み||ふるわせ||ふろ|じょう||かけこんだ

白い 尻 が すっと 残像 の ように 流れて いく 。 しろい|しり||す っと|ざんぞう|||ながれて| 再び 閉め られた ドア が 、 割れ そうな ほど ガシャン と 音 を 立てた 。 ふたたび|しめ||どあ||われ|そう な||||おと||たてた

房枝 は 包丁 を 持ち 直して 、 ブリ の 身 を 切り分け 始めた 。 ふさえ||ほうちょう||もち|なおして|ぶり||み||きりわけ|はじめた

階段 を 下りて くる 足音 が 響き 、「 おばさん 、 帰る けん 」 と 憲夫 の 声 が 聞こえた とき 、 房枝 は 鍋 の 中 に みそ を といて いた 。 かいだん||おりて||あしおと||ひびき||かえる|||のりお||こえ||きこえた||ふさえ||なべ||なか||||| 下楼的脚步声响起,传来诺里奥的声音:“阿姨,我要回家了。”房江正在锅里挑味噌。

手 が 離せ ず 、「 ああ 、 また おいで よ 」 と 声 を 返した 。 て||はなせ|||||||こえ||かえした

立て付け の 悪い 玄関 が ガラガラ と 音 を 立て 、 家 全体 が 軋む ように ドア が 閉まる 。 たてつけ||わるい|げんかん||||おと||たて|いえ|ぜんたい||きしむ||どあ||しまる

遠ざかる 憲夫 の 足音 が 消えて しまう と 、 一瞬 、 台所 に は 鍋 の 音 だけ が 残る 。 とおざかる|のりお||あしおと||きえて|||いっしゅん|だいどころ|||なべ||おと|||のこる

静かな もん だ 、 と 房枝 は 思う 。 しずかな||||ふさえ||おもう

ほとんど 寝たきり と は いえ 勝治 が おり 、 年 を とった と は いえ 自分 が いる 。 |ねたきり||||かつじ|||とし||||||じぶん|| その 上 、 若い 盛り の 祐一 が すぐ そこ で 風呂 に 入って いる に も かかわら ず 、 恐ろしい ほど 静かな 家 だった 。 |うえ|わかい|さかり||ゆういち|||||ふろ||はいって||||||おそろしい||しずかな|いえ|

みそ の 香り を 嗅ぎ ながら 、 房枝 は 風呂 場 の 祐一 に 声 を かけた 。 ||かおり||かぎ||ふさえ||ふろ|じょう||ゆういち||こえ||

「 今朝 、 二日酔い やったって ? けさ|ふつかよい|やった って と 訊 く と 、 返事 の 代わり に 、 ザブン と 湯 から 出る 水音 が する 。 |じん|||へんじ||かわり||||ゆ||でる|みずおと||

「 どこ で 飲 ん どった と ね ? ||いん||ど った|| 返事 は なく 、 お 湯 を かぶる 音 が 返って くる 。 へんじ||||ゆ|||おと||かえって|

「 車 で 出かけた と やろう に 、 危な か ねぇ 」 くるま||でかけた||||あぶな||

房枝 は もう 返事 を 期待 して い なかった 。 ふさえ|||へんじ||きたい|||

沸騰 し そうな 鍋 の 火 を 消し 、 魚 の 血 で 汚れた まな板 を 水 に つけた 。 ふっとう||そう な|なべ||ひ||けし|ぎょ||ち||けがれた|まないた||すい||

風呂 から 出た 祐一 が すぐに 食べられる ように 、 ブリ の 刺身 を 盛りつけ 、 夕方 の うち に 揚げて おいた すり身 と 一緒に 食卓 に 並べた 。 ふろ||でた|ゆういち|||たべ られる||ぶり||さしみ||もりつけ|ゆうがた||||あげて||すりみ||いっしょに|しょくたく||ならべた 炊飯 器 を 開ける と 、 米 も ふっくら 炊き あがって おり 、 肌寒い 台所 に 濃い 湯気 が 立つ 。 すいはん|うつわ||あける||べい|||たき|||はださむい|だいどころ||こい|ゆげ||たつ

勝治 が 病 に 臥 す 前 は 、 朝 三 合 、 夕方 五 合 の 米 を 毎日 炊いた 。 かつじ||びょう||が||ぜん||あさ|みっ|ごう|ゆうがた|いつ|ごう||べい||まいにち|たいた

男 二 人 の 胃袋 を 満たす のに 、 この 十五 年 、 ずっと 米 を 研いで いた ような 気 さえ する 。 おとこ|ふた|じん||いぶくろ||みたす|||じゅうご|とし||べい||といで|||き||

子供 の ころ から 、 祐一 は よく ごはん を 食べた 。 こども||||ゆういち|||||たべた

沢庵 一 切れ 与えれば 、 それ で 軽々 と 茶碗 一 杯 の ごはん を 食べる ほど 、 炊き たて の 米 が 好きだった 。 たくあん|ひと|きれ|あたえれば|||かるがる||ちゃわん|ひと|さかずき||||たべる||たき|||べい||すきだった

食べた もの は 全部 身 に なった 。 たべた|||ぜんぶ|み||

中学 に 入学 した ぐらい から 、 毎朝 、 祐一 の 身長 が ちょっと ずつ 伸びて いる ので は ない か と 思う ほど だった 。 ちゅうがく||にゅうがく||||まいあさ|ゆういち||しんちょう||||のびて|||||||おもう||

房枝 は 自分 が 作り 与える 食事 で 、 一 人 の 少年 が 一端 の 男 に 成長 して いく 姿 を 、 呆れ ながら も 感嘆 の 思い で 眺めて きた 。 ふさえ||じぶん||つくり|あたえる|しょくじ||ひと|じん||しょうねん||いったん||おとこ||せいちょう|||すがた||あきれ|||かんたん||おもい||ながめて|

男の子 に 恵まれ なかった こと も ある が 、 娘 たち の とき に は 味わえ なかった 何 か 、 女 の 本能 の ような もの を 、 孫 を 育てて いく うち に 感じて いる 自分 に 気づいた 。 おとこのこ||めぐまれ||||||むすめ||||||あじわえ||なん||おんな||ほんのう|||||まご||そだてて||||かんじて||じぶん||きづいた

もちろん 当初 は 、 実の 親 である 次女 の 依子 に どこ か 遠慮 して いた ところ も あった 。 |とうしょ||じつの|おや||じじょ||よりこ||||えんりょ|||||

しかし 、 その 依子 が まだ 小学生 の 祐一 を 置いて 、 男 と 姿 を 消して から は 、 これ で 自分 が 祐一 を 育てられる のだ と 、 娘 の 不 貞 を 嘆き ながら も 、 力 の 漲って くる 思い が あった 。 ||よりこ|||しょうがくせい||ゆういち||おいて|おとこ||すがた||けして|||||じぶん||ゆういち||そだて られる|||むすめ||ふ|さだ||なげき|||ちから||みなぎって||おもい|| 房枝 は 、 五十 歳 に なろう と して いた 。 ふさえ||ごじゅう|さい|||||

男 に 捨て られた 依子 に 連れ られて 、 この 家 に やってきた とき 、 祐一 は すでに 母親 を 信じて いない ように 見えた 。 おとこ||すて||よりこ||つれ|||いえ||||ゆういち|||ははおや||しんじて|||みえた 口 で は 、「 お母さん 、 お母さん 」 と 甘えて み せる のだ が 、 その 目 は もう 依子 を 見て い なかった 。 くち|||お かあさん|お かあさん||あまえて||||||め|||よりこ||みて|| 当時 、 依子 の 目 を 盗んで 、 房枝 は 孫 の 祐一 に こっそり と 昔 の 写真 を 見せ 、「 お母さん より 、 おばあ ちゃん の ほう が 美人 やろ が ? とうじ|よりこ||め||ぬすんで|ふさえ||まご||ゆういち||||むかし||しゃしん||みせ|お かあさん|||||||びじん|| 」 と 冗談 半分 に 訊 いた こと が ある 。 |じょうだん|はんぶん||じん||||

自分 で は 冗談 の つもり だった のだ が 、 埃 を 被った 結婚 式 の アルバム を 押し入れ から 取り出す とき 、 どこ か 緊張 して いる 自分 に 気づいて も いた 。 じぶん|||じょうだん||||||ほこり||おおった|けっこん|しき||あるばむ||おしいれ||とりだす||||きんちょう|||じぶん||きづいて||

祐一 は 差し出さ れた 写真 を 見て 、 しばらく 黙り 込んで いた 。 ゆういち||さしで さ||しゃしん||みて||だまり|こんで|

その 小さな 後 頭部 を 見下ろして いる うち に 、 自分 が とんでもない こと を して いる ような 気 が とつぜん して きた 。 |ちいさな|あと|とうぶ||みおろして||||じぶん||||||||き|||| As I looked down at the small occipital area, I suddenly felt like I was doing something terrible.

房枝 は 思わず アルバム を 閉じ 、「 おばあ ちゃん が 美人 な もんか ね 、 あー 、 恥ずかし 、 恥ずかし 」 と 年 甲斐 も なく 顔 を 赤らめた 。 ふさえ||おもわず|あるばむ||とじ||||びじん|||||はずかし|はずかし||とし|かい|||かお||あからめた

初めて 入院 した とき に 買った 合 革 の バッグ だった が 、 どうせ 一 度 使う だけ だろう と 安物 を 選んだ のに 、 入 退院 の 繰り返し で 、 今では 縫い目 まで 綻び 始めて いる 。 はじめて|にゅういん||||かった|ごう|かわ||ばっぐ||||ひと|たび|つかう||||やすもの||えらんだ||はい|たいいん||くりかえし||いまでは|ぬいめ||ほころび|はじめて|

「 お茶 やら 、 ふり かけ は 、 明日 、 私 が 持っていく けん 」 おちゃ|||||あした|わたくし||もっていく|

口 の 中 が 渇く らしく 、 音 を 立てて 唾 を 呑み込んで いる 勝治 に 、 房枝 は 声 を かけた 。 くち||なか||かわく||おと||たてて|つば||のみこんで||かつじ||ふさえ||こえ||

「 祐一 は もう メシ 食 うた と か ? ゆういち|||めし|しょく||| 時間 を かけて 寝返り を 打った 勝治 が 、 這う ように 布団 を 出て 、 房枝 が 運んで きた 夕食 の 盆 へ 近づいて いく 。 じかん|||ねがえり||うった|かつじ||はう||ふとん||でて|ふさえ||はこんで||ゆうしょく||ぼん||ちかづいて|

「 ブリ の 刺身 、 食べる なら 持ってくる よ 」 ぶり||さしみ|たべる||もってくる|

野菜 の 煮物 と おかゆ だけ の 食事 に 、 勝治 が ため息 を ついた ので 、 房枝 は 慌てて そう 言った 。 やさい||にもの|||||しょくじ||かつじ||ためいき||||ふさえ||あわてて||いった

「 刺身 は いら ん 。 さしみ||| それ より 病院 の 看護 婦 たち に 、 ちょっと 渡し とけよ 」 ||びょういん||かんご|ふ||||わたし|

勝治 が かすかに 震える 手 で 箸 を 握る 。 かつじ|||ふるえる|て||はし||にぎる

「 渡し と けって 、 何 を ? わたし|||なん| 「 何って 、 金 に 決 まっとる やろ 」 「 金 ? なん って|きむ||けっ|まっ とる||きむ また ぁ 、 そげ ん こと 言い出して 、 今どき 、 そんな もん 受け取って くれる 看護 婦 さん が おる もん ね 」 |||||いいだして|いまどき|||うけとって||かんご|ふ|||||

いつも の ように 房枝 は 撥ねつけ ながら 、 こういう ところ が 、 勝治 と いう か 、 男 の 悪い ところ だ と ほとほと 嫌に なる 。 |||ふさえ||はねつけ|||||かつじ||||おとこ||わるい|||||いやに|

体裁 を 気 に する の は いい が 、 その ため の 金 が 空 から 降って くる と でも 思って いる のだ 。 ていさい||き||||||||||きむ||から||ふって||||おもって||

「 今どき 、 そんな もん もらったって サービス なんて よう なら ん と よ 。 いまどき|||もらった って|さーびす|||||| 立派な 仕事 し とる のに 、 そんな もん もらったら 、 逆に バカに さ れた ように 思う に 決 まっとるたい ね 」 房枝 は そこ まで 言う と 、「 ヨイショ 」 と 声 を かけて 立ち上がった 。 りっぱな|しごと|||||||ぎゃくに|ばかに||||おもう||けっ|まっ とる たい||ふさえ||||いう||||こえ|||たちあがった 最近 、 注意 し ない と 、 立ち上がる とき に 膝 に 痛み が 走る 。 さいきん|ちゅうい||||たちあがる|||ひざ||いたみ||はしる

背中 を 丸めて おかゆ を 掻き 込む 勝治 を 、 房枝 は 眺めた 。 せなか||まるめて|||かき|こむ|かつじ||ふさえ||ながめた

その 背中 に 、 一昨年 夫 を 亡くした 岡崎 の ばあさん の 声 が 重なる 。 |せなか||いっさくねん|おっと||なくした|おかざき||||こえ||かさなる

「 二 月 に 一 回 、 年金 が 振り込ま れる たんび に 、『 ああ 、 あの 人 は もう 死んだ と や ねぇ 』って 思わさ れる よ 」 最初 、 房枝 は この 言葉 を 聞いて 、 ばあさん も ばあさん なり に 、 旦那 を 愛して いた のだろう と 思って いた 。 ふた|つき||ひと|かい|ねんきん||ふりこま||||||じん|||しんだ|||||おもわさ|||さいしょ|ふさえ|||ことば||きいて||||||だんな||あいして||||おもって| ただ 、 勝治 が からだ を 壊し 、 日に日に 衰えて いく 姿 を 見る に つけ 、 この 言葉 が まったく 違った 意味 を 持って いた こと に 気 が ついた 。 |かつじ||||こわし|ひにひに|おとろえて||すがた||みる||||ことば|||ちがった|いみ||もって||||き|| 夫婦 の どちら か が 亡くなれば 、 生活 費 も また 半分 なくなる と いう こと な のだ 。 ふうふ|||||なくなれば|せいかつ|ひ|||はんぶん||||||

風呂 上がり の 祐一 が 椅子 に あぐら を かいて 、 ごはん を 掻き 込んで いた 。 ふろ|あがり||ゆういち||いす|||||||かき|こんで|

よほど 腹 が 減って いた の か 、 みそ汁 も つが ず に 、 ブリ の 刺身 一 切れ に 対して 、 ごはん を さ さっと 二 、 三 口 、 掻き 込む 。 |はら||へって||||みそしる|||||ぶり||さしみ|ひと|きれ||たいして|||||ふた|みっ|くち|かき|こむ

「 大根 の みそ汁 が ある と よ 」 だいこん||みそしる||||

房枝 は 声 を かけ ながら 、 ひっくり返して 置か れた まま だった お 椀 に 、 みそ汁 を ついで やった 。 ふさえ||こえ||||ひっくりかえして|おか|||||わん||みそしる|||

渡せば すぐに 手 に とって 、 熱い ながら も 音 を 立てて 旨 そうに 啜 る 。 わたせば||て|||あつい|||おと||たてて|むね|そう に|せつ|

「 ばあちゃん も 一緒に 行った ほう が いい や ろか ? ||いっしょに|おこなった||||| 房枝 は 椅子 に 座る と 、 顎 に 米粒 を 一 つ つけた 祐一 に 尋ねた 。 ふさえ||いす||すわる||あご||こめつぶ||ひと|||ゆういち||たずねた

「 来 ん で いい よ 。 らい|||| 五 階 の ナースステーション に 連れて け ば いい と やろ ? いつ|かい||||つれて||||| 九州 特有 の 甘い 刺身 醤油 に 、 祐一 が ねり わさび を といて いく 。 きゅうしゅう|とくゆう||あまい|さしみ|しょうゆ||ゆういち||||||

「 七 時 から そこ の 公民 館 で 、 また 寄り合い が ある と や もん ね 。 なな|じ||||こうみん|かん|||よりあい||||||

ほら 、 健康 食品 の 説明 会 。 |けんこう|しょくひん||せつめい|かい …… いや 、 買う つもり は ない と よ 。 |かう||||| でも 、 ほら 、 話 ば 聞く だけ なら 無料 タダ やけん 」 ||はなし||きく|||むりょう|ただ|

房枝 は 魔法 瓶 から 急須 に お 湯 を 入れた 。 ふさえ||まほう|びん||きゅうす|||ゆ||いれた

残り が 少なかった らしく 、 二 、 三 度 押す と 、 ゴボゴボ と 嫌な 音 が 立つ 。 のこり||すくなかった||ふた|みっ|たび|おす||||いやな|おと||たつ

湯 を 足そう と 椅子 から 立ち上がった とき だった 。 ゆ||たそう||いす||たちあがった||

たった今 まで 旨 そうに 刺身 や すり身 揚げ を 口 に 入れて いた 祐一 が 、 とつぜん 、「 うっ」 と 唸って 口 を 押さえた 。 たったいま||むね|そう に|さしみ||すりみ|あげ||くち||いれて||ゆういち|||う っ||うなって|くち||おさえた 「 どうした ? 房枝 は 慌てて 祐一 の 背後 に 回る と 、 その 広い 背中 を 強く 叩いた 。 ふさえ||あわてて|ゆういち||はいご||まわる|||ひろい|せなか||つよく|たたいた

何 か 喉 に 詰まら せた と 思った のだ が 、 房枝 を 押しのける ように 立ち上がった 祐一 が 、 口 を 押さえた まま 便所 へ 駆け込んで いく 。 なん||のど||つまら|||おもった|||ふさえ||おしのける||たちあがった|ゆういち||くち||おさえた||べんじょ||かけこんで|

房枝 は 呆 気 に とられて 立ちすくんだ 。 ふさえ||ぼけ|き||とら れて|たちすくんだ 便所 から すぐに 嘔吐 する 声 が 聞こえた 。 べんじょ|||おうと||こえ||きこえた

房枝 は 慌てて 食卓 に 並んだ 刺身 や すり身 揚げ の に おい を 嗅いだ が 、 もちろん 腐って いる もの など ない 。 ふさえ||あわてて|しょくたく||ならんだ|さしみ||すりみ|あげ|||||かいだ|||くさって||||

しばらく 苦し そうに え ず いた あと 、 顔 を 真っ青に した 祐一 が 出て きた 。 |にがし|そう に|||||かお||まっさおに||ゆういち||でて|

「 どうした と ね ? 房枝 が 顔 を 覗き込もう と する と 、 その 肩 を 押しのけた 祐一 が 、「 なんでもない 。 ふさえ||かお||のぞきこもう|||||かた||おしのけた|ゆういち|| …… ちょっと 喉 に 詰まった 」 と 見え透いた 言い訳 を する 。 |のど||つまった||みえすいた|いいわけ||

「 喉 に つまったって 、 あんた ……」 房枝 は 床 に 落ちた 箸 を 拾った 。 のど||つまった って||ふさえ||とこ||おちた|はし||ひろった 目の前 に 祐一 の 脚 が あった 。 めのまえ||ゆういち||あし|| 風呂 から 出た ばかりで 、 寒い わけで も ない だろう に 、 その 脚 が 小刻みに 震えて いた ふろ||でた||さむい|||||||あし||こきざみに|ふるえて|