第二章 彼は誰に会いたかったか?【2】
平たい ドラム缶 に 溜 め た 水 で 、 熱心に 指 の 汚れ を 洗い 落として いる 祐一 の 背中 を 、 矢島 憲夫 は たばこ を 吸い ながら 眺めて いた 。
ドラム缶 は コンクリ を こねる とき に 使わ れる もの で 、 いくら 真水 が 入って いる と は いえ 、 洗った 手 が 乾けば 蛇 の ような 模様 が 皮膚 に 浮かぶ 。
すでに 夕方 の 六 時 を 回り 、 作業 場 の あちこち で 各 組 の 人 夫 たち が 帰り 支度 を 始めて いた 。
さっき まで 外壁 を 壊して いた 数 台 の 重機 も 、 今では 一 カ所 に おとなしく 並んで いる 。
元 産婦人科 の 病棟 だった ビル も 、 作業 を 始めて すでに 四 日 目 、 その 三 分 の 二 が 無惨に 取り壊されて いる 。 こういう 大きな 現場 の 場合 、 憲夫 の 会社 は 下請け に 回る 。 いちおう 自社 でも 15 m ロング の 重機 を 一 台 所有 して いる のだ が 、 鉄筋 の 三 階建て と も なる と 一 台 で は どうにも なら ず 、 大手 の 解体 業者 の 下請け に 回る しか ない 。
ドラム缶 の 水 で 洗った 手 を 、 首 に かけた タオル で 拭き 始めた 祐一 に 、「 お前 も 、 そろそろ 重機 の 免許 取ったら どう や ? 」 と 憲夫 は 声 を かけ 、 吸って いた たばこ を 灰皿 に 押しつけた 。
憲夫 の 言葉 に 振り返った 祐一 が 、
「 は ぁ 」
と なんとも やる 気 の ない 返事 を し 、 今度 は 顔 を ゴシゴシ と タオル で こする 。
こすれば こする ほど 、 顔 の 汚れ が 目立つ 。
「 来月 、 一 週間 くらい 休んで よ かけ ん 、 免許 取り に 行か ん か ? 憲夫 の 言葉 に 、 行きたい と いう 意味 な の か 、 行き たく ない と いう 意味 な の か 、 祐一 が 口 を 尖 がら せ ながら も 小さく 頷く 。 正直な ところ 、 祐一 の ほう から この 話 を 言い出して くれ ない もの か と 、 憲夫 は ずっと 待って いる のだ が 、 いくら 待って も 祐一 が 積極 的に なる こと は なかった 。
ゴム 手袋 など を 自分 の バッグ に しまい 始めた 祐一 に 、「 ところで 気分 は もう よか と か ? と 憲夫 は 声 を かけた 。 今朝 、 車 の 中 で とつぜん 顔色 を 変えて 吐き そうに なった わりに 、 現場 に 着く と いつも と 変わら ず おとなしく 働いて いた 。 ただ 、 いつも 持参 して くる 弁当 に 、 ほとんど 手 を つけ なかった こと を 憲夫 は 知っている 。
「 今日 帰ったら すぐ 、 じいさん 、 病院 に 連れて 行く と やろ ? 」 と 憲夫 は 訊 いた 。
「 たぶん メシ 食う て から 」
埃っぽい 寒風 の 中 、 バッグ を 抱えて 立ち上がった 祐一 が 、 ぼ そっと 答える 。 憲夫 は 、 いつも の ように 倉 見 、 吉岡 、 そして 祐一 を ワゴン 車 に 乗せた 。
夕日 に 赤く 染まった 長崎 湾 を 眺め ながら 国道 を 走って いる と 、 また いつも の 如く 倉 見 が 焼酎 の ワンカップ を 飲み 始める 。
「 家 に 着く まで 、 たかが 三十 分 くらい 我慢 でき ん と や ? 憲夫 は 鼻先 へ 流れて きた 焼酎 の 臭い に 顔 を しかめた 。
「 仕事 が 終わる 一 時間 も 前 から 我慢 し とる と に 、 それ から また 三十 分 も 我慢 できる もん ね 」
倉 見 が 呆れた と ばかり に 笑って 、 カップ から こぼれ そうな 焼酎 に 口 を つけ 、 濃い 無 精 髭 が とろっと した 液体 に 濡れる 。 窓 を 開けて いる に も かかわら ず 、 焼酎 と 乾いた 土 の に おい が 車 内 で 混じる 。
「 そう 言えば 、 きのう 、 福岡 の 三瀬 峠 で 女の子 が 殺さ れたら しか な 」
窓 の 外 を 眺めて いた 吉岡 が 、 ふと 思い出した ように 言った 。
「 保険 の 勧誘 し とる 女の子 らし か けど 、 あげ ん こと さ れたら 親 は たまった もん じゃ なか ねえ 」
同じ 年頃 の 娘 を 持つ 倉 見 が そう 言って 、 焼酎 で 濡れた 指 を 舐める 。
内縁 の 妻 と 二 人 で 暮らして いる 吉岡 に は 、 被害 者 の 親 の 気持ち は 実感 でき ない ようで 、「 三瀬って 言えば 、 俺 が 、 前 に トラック 運転 し よる とき 、 よう 使い よった 道 や もん ね 」 と 話 を 変える 。 吉岡 本人 が 詳しく 話す こと は ない が 、 県営 住宅 で 一緒に 暮らして いる 女 は 、 もう 十 年 に なる と いう のに 、 まだ 前 の 旦那 と の 籍 を 抜いて いない らしい 。 「 祐一 、 お前 も 三瀬 の 峠 と か 、 よう ドライブ する と やろ が ? 吉岡 に 声 を かけ られて 、 一 番 後ろ に 座って いる 祐一 が 窓 の 外 から 車 内 に 視線 を 戻した 。
その 様子 が ルームミラー に 映る 。
市 内 へ 向かう 反対 車線 が 渋滞 し 始めて いた 。
造船 所 で 一 日 働いた 男 たち の 車 が 、 数珠 繋ぎ に 街道 を 伸びて いる 。 夕日 を 浴びた 男 たち の 顔 は 、 どこ か 般若 の 面 の ように 見える 。
「 なぁ 、 三瀬 峠 と か 、 よう ドライブ する と やろ が ? 返事 を し ない 祐一 に 、 改めて 吉岡 が 訊 いた 。
「 三瀬 は …… あんまり 好か ん 。
あそこ 、 夜 走る と 気色 悪 か 」
ぼ そっと 答えた 祐一 の 言葉 が 、 なぜ か ハンドル を 握る 憲夫 の 耳 に 残った 。
倉 見 と 吉岡 を 順番 に 降ろす と 、 憲夫 は 祐一 の 実家 へ と 車 を 走ら せた 。
国道 から 狭い 路地 に 入り 、 軒先 の 表札 が サイドミラー に 触れて しまう ような 道 が 、 くねくね と 漁港 の ほう へ 伸びる 。
埋め立て で ほとんど の 海岸 線 を 奪わ れた あと 、 辛うじて 残った 小さな 漁港 に は 、 小型の 漁船 が 数 艘 停泊 して いる 。 波 止め で 囲ま れた 湾 内 は おだやかで 、 漁船 を 繋ぐ ロープ の 軋む 音 だけ が 、 ときどき 思い出した ように 辺り に 響く 。
漁港 の 周囲 に は いく つ か シャッター を 下ろした 倉庫 が ある 。
一見 、 漁業 関係 の 倉庫 に 見える が 、 中 に は ペーロン と 呼ば れる 競技 用 ボート が 収納 されて いる 。 この 地域 は ペーロン が 盛んで 、 毎年 夏 に なる と 各 地区 対抗 の 大会 が 開か れる 。
十 数 人 の 男 たち が 一斉に 櫂 を 漕ぐ 姿 は 勇壮で 、 毎年 数 多く の 見物 客 も 集まって くる 。
「 来年 も 、 ペーロン 出る と やろ ? たまたま 半分 ほど シャッター の 開いて いる 倉庫 を 目 に して 、 憲夫 は 祐一 に 声 を かけた 。
荷物 を 膝 に 抱え 、 祐一 は すでに 車 を 降りる 準備 を して いた 。
「 練習 は いつごろ から 始まる と か ? ルームミラー 越し に 尋ねる と 、「 いつも と 一緒 やろ 」 と 、 祐一 が 答える 。
高校 生 だった 祐一 が 初めて ペーロン に 参加 した とき 、 地区 の リーダー を 務めた の が 憲夫 だった 。
練習 中 、 ぶつ くさ と 文句 ばかり 言う 他 の 少年 たち と 違い 、 黙々と 櫂 を 漕ぐ の は いい のだ が 、 祐一 は 加減 と いう もの を 知ら ず 、 手のひら の 皮 が 剥ける まで 練習 して しまい 、 結局 、 大会 当日 に は 使い物 に なら なかった 。
あれ から 十 年 近く 経つ が 、 祐一 は 毎年 ペーロン 大会 に 参加 して いる 。
「 好きな の か ? 」 と 問えば 、「 別に 」 と 答える くせ に 、 毎年 練習 が 始まる と 、 誰 より も 先 に 倉庫 に 現れる らしい 。
「 ちょっと 寄って 行こう か な 」
祐一 の 家 の 前 で 車 を 停める と 、 憲夫 は そう 言って エンジン を 切った 。
すでに 降りよう と して いた 祐一 が 、 ちらっと 憲夫 へ 目 を 向ける 。
「 今日 は 何時ごろ 、 じいさん 、 病院 に 連れて 行く と か ? 」 と 憲夫 は また 訊 いた 。
「 晩 メシ 食う て から 」
祐一 が また ぼ そっと 呟いて 車 を 降りる 。
祐一 の あと を 追って 玄関 に 入る と 、 病人 が いる 家 特有 のに おい が した 。
祐一 が 一緒に 暮らして いる と は いえ 、 元 は 老 夫婦 の 家 な ので 、 一 歩 足 を 踏み入れた だけ で 、 視界 から 色 が 抜け落ちて しまった ような 感覚 に 襲わ れる 。 祐一 が 脱ぎ捨てた 赤い スニーカー だけ が 、 汚れて は いて も 、 唯一 、 そこ に 明るい 色 を 残す 。
「 おばさん ! さっさと 廊下 を 歩いて いく 祐一 に 呆れ ながら 、 憲夫 は 奥 へ 声 を かけた 。
靴 を 脱いで いる と 、「 あら 、 憲夫 が 来た と ね ?
珍 しか 」 と 祐一 に 尋ねる 房枝 の 声 が 聞こえた 。
「 じいさん 、 これ から 病院 に 行くって ? 靴 を 脱いで 廊下 に 上がる と 、 台所 に いた らしい 房枝 が 出て きて 、「 この前 、 退院 した か と 思う たら 、 また 入院 よ 」 と 言い ながら 濡れた 手 を 首 に かけた 手ぬぐい で 拭く 。
「 うん 、 祐一 が そう 言う けんさ ……」
憲夫 は 気兼ね なく 廊下 を 進み 、 勝治 の 寝て いる 部屋 の 障子 を 開けた 。
「 じいさん 、 また 入院 するって ? 病院 より 家 の ほう が よか やろ が ? 障子 を 開けた 途端 に 、 かすかに し もの に おい が した 。
畳 に 差し込んで いる 街灯 が 、 古い 畳 の 上 で 点滅 する 蛍光 灯 と 混じって いる 。
「 病院 に 行けば 、 家 に 帰りたいって 言う し 、 家 に 連れて くれば 、 病院 の ほう が よかって 言う し 、 ほんと 、 もう どうにも なら ん よ 、 この 人 は 」 房枝 が そう 言い ながら 蛍光 灯 を つけ 直す 。 布団 の 中 で 、 勝治 の 濁った 咳 が こもる 。
憲夫 は 枕元 に 腰 を 下ろす と 、 乱暴に 布団 を 捲った 。
固 そうな 枕 に 染み だらけ の 勝治 の 顔 が のって いる 。
「 じいさん 」
憲夫 は 声 を かけ ながら 、 勝治 の 額 に 手のひら を のせた 。
自分 の 手 が 熱かった の か 、 一瞬 、 ぞっと する ほど 冷たかった 。
「 祐一 は ? 痰 を からま せる ように 勝治 が 尋ね 、 額 に のせ られた 憲夫 の 手 を 払う 。
ちょうど その とき 、 祐一 が 階段 を 上がって いく 足音 が 聞こえ 、 家 全体 が 揺れた 。
「 なんでもかんでも 祐一 に 頼っとったら 駄目 ばい 」 憲夫 は 寝て いる 勝治 だけ で は なく 、 背後 に 立つ 房枝 に も 伝わる ように 言った 。 「 なん も 頼って ばっかり おる もん ね 」
蛍光 灯 の 下 で 房枝 が 口 を 尖ら せる 。
「 いや 、 そりゃ そう やろう けど 、 祐一 も まだ 若っか 男 よ 。 じいさん 、 ばあさん の 世話 ばっかり さ せ とっても 、 それ こそ 嫁 も もらえ んたい 」 憲夫 は わざと ふざけた 口調 で 言い返した 。 おかげ で 房枝 の 険しい 表情 が 少し だけ 弛 む 。
「 そい で も さ 、 正直 、 祐一 が おら ん やったら 、 それ こそ 、 じいさん ば 、 風呂 に 入れる こと も でき ん と よ 」
「 それ こそ 、 ホーム ヘルパー でも 頼めば よかろう に 」
「 あんた も 簡単に 言う ねぇ 、 ヘルパー さん に 来て もらう と に 、 いくら お 金 が かかる か 知ら ん と やろ ? 「 高い と ね ? 「 そりゃ 、 あんた 、 そこ の 岡崎 の ばあさん なんて ……」
房枝 が そこ まで 言った とき 、 布団 の 中 で 、「 うるさい ! 」 と 勝治 が 怒鳴り 、 苦し そうに 咳き込んだ 。
「 ごめん 、 ごめん 」
憲夫 は 布団 を 軽く 叩いて 立ち上がり 、 房枝 の 背中 を 押して 部屋 を 出た 。
台所 の まな板 に 活 き の 良 さ そうな ブリ が のって いた 。
どす黒い 血 が 濡れた まな板 に 広がって いる 。 天井 に 向け られた 眼 と 半 開き の 口 が 、 何 か を 訴え かけて いる ように 見える 。
「 そうい や 、 祐一 は 昨日 、 遅かった と やろ ? 包丁 を 握った 房枝 の 背中 に 、 憲夫 は 何気なく 声 を かけた 。
今朝 、 現場 へ 向かう 途中 に 顔色 を 変えて 車 を 飛び降り 、 苦し そうに え ず いた こと を 思い出した のだ 。
「 さ ぁ 、 知ら ん 。 出かけ とった と やろ か ? 「 珍しゅう 、 二日酔い やった ばい 」
「 二日酔い ? 祐一 が ね ? 「 今朝 、 顔 真っ青 させて ……」
「 へ ぇ 、 どこ で 飲んだ と やろ か 、 車 で 出かけた と やろう に 」
年季 の 入った 包丁 で 、 房枝 が ブリ の 身 を 切り分けて いく 。
グツッ 、 グツッ と 包丁 が 骨 を 砕く 。
「 あんた 、 ブリ 一 匹 、 実千代 さん に 持って 帰ら ん ね 。
今朝 、 漁協 の 森下 さん に もろう た と やけど 、 うち じゃ 、 祐一 くらい しか おら ん けん 」
房枝 が 包丁 を 握った まま 振り返り 、 テーブル の 下 を 指す 。
濡れた 包丁 から 水 が 一 滴 、 黒 光り した 床 に 落ちる 。
テーブル の 下 を 覗き込む と 、 発泡 スチロール の ケース に ブリ が 一 匹 入って いた 。
房枝 に もらった ブリ を ケース ごと 玄関 へ 運んで 、 憲夫 は 横 の 階段 を 二 階 へ 上がった 。
上がる と すぐに 祐一 の 部屋 の ドア が ある 。
ノック する の も 気恥ずかしく 、 憲夫 は 、「 おい 」 と 声 を かけ ながら 勝手に ドア を 開けた 。
風呂 に でも 向かう つもりだった の か 、 パンツ 一 枚 で 立って いた 祐一 が 、 開けた ドア に ぶつかり そうに なる 。
「 今 から 風呂 か ? 筋肉 に 薄い 皮膚 が 貼り ついた ような 祐一 の 上半身 を 眺め ながら 憲夫 は 言った 。
「…… 風呂 入って 、 メシ 食 うて 、 病院 」
祐一 が 頷いて 部屋 を 出て 行こう と する 。
憲夫 は からだ を 躱 して 祐一 を 通した 。
一緒に 下りる つもりだった が 、 部屋 の 床 に 「 クレーン 免許 」 と 書か れた パンフレット が 落ちて いる の が 目 に ついた 。
「 ほう 、 一応 、 取る つもり は ある とたい 」 返事 は なく 、 すでに 階段 を 下りて いく 足音 が 高く なる 。 憲夫 は なんとなく 部屋 に 入って 床 から パンフレット を 拾い上げた 。
階段 を 下りた 祐一 の 足音 が 今度 は 廊下 を 遠ざかって いく 。
潰れた 座布団 に 腰 を 下ろす と 、 憲夫 は 部屋 の 中 を ぐるり と 見渡した 。
古い 土 壁 に は 、 すっかり 黄ばんで しまった セロハンテープ で 、 いく つ か 車 の ポスター が 貼って あり 、 床 に は 同じく 車 関係 の 雑誌 が あちこち に 積まれて いる 。 正直 、 それ 以外 、 何も ない 部屋 だった 。
若い 女 の ポスター が ある わけで も なし 、 テレビ も 、 ラジカセ も ない 。
ある とき 房枝 が 、「 祐一 の 部屋 は ここ じゃ なくて 、 自分 の 車 の 中 や もん 」 と 言って いた が 、 この 部屋 を 見る と 、 房枝 の 言葉 が 大げさで は なかった の が よく 分かる 。
捲ろう と した パンフレット を 投げ出して 、 憲夫 は 低い テーブル に 置か れた 給料 袋 を 手 に 取った 。
先週 、 自分 が 渡した 袋 だった が 、 手 に した 瞬間 、 中 に 何も 入って いない の が 分かる 。 封筒 の 横 に ガソリン スタンド の レシート が あった 。
見る つもり も なかった のだ が 、 やはり なんとなく 手 に 取る と 、5990 円 と 記さ れた 金額 の 下 に 、 佐賀 大和 の 地名 が ある 。
「 昨日 か 」
憲夫 は レシート の 日付 を 口 に した 。
口 に して すぐ 、「『 昨日 は どこ に も 行っと らん よ 』って 言い よった のに なぁ 」 と 首 を 傾げた 。 ボトッ と 重い 音 が シンク に 響いて 、 半 開き の 口 を こちら に 向けた 頭 が 、 排水 口 へ 滑って いく 。
廊下 を 歩いて くる 足音 に 振り返る と 、 パンツ 一 枚 の 祐一 が 、 テーブル に あった かまぼこ を 一 つ くわえて 風呂 場 へ 向かう 。
「 憲夫 は もう 帰った と ね ? 房枝 は その 背中 に 尋ねた 。
くちゃ くちゃ と かまぼこ を 噛み ながら 振り返った 祐一 が 、 黙って 自分 の 部屋 を 指さす 。
「 お前 の 部屋 で 何 し よる と ? 「 さ ぁ 」
祐一 は 首 を 傾げて 風呂 場 の ドア を 開けた 。
木枠 に ガラス を はめ込んだ ドア が 、 まるで 薄い トタン の ように 大きく し なり 、 大げさな 音 を 立てる 。
脱衣 所 が ない ので 、 祐一 は その場で パンツ を さっと おろし 、 身 を 震わせ ながら 風呂 場 へ 駆け込んだ 。
白い 尻 が すっと 残像 の ように 流れて いく 。 再び 閉め られた ドア が 、 割れ そうな ほど ガシャン と 音 を 立てた 。
房枝 は 包丁 を 持ち 直して 、 ブリ の 身 を 切り分け 始めた 。
階段 を 下りて くる 足音 が 響き 、「 おばさん 、 帰る けん 」 と 憲夫 の 声 が 聞こえた とき 、 房枝 は 鍋 の 中 に みそ を といて いた 。
手 が 離せ ず 、「 ああ 、 また おいで よ 」 と 声 を 返した 。
立て付け の 悪い 玄関 が ガラガラ と 音 を 立て 、 家 全体 が 軋む ように ドア が 閉まる 。
遠ざかる 憲夫 の 足音 が 消えて しまう と 、 一瞬 、 台所 に は 鍋 の 音 だけ が 残る 。
静かな もん だ 、 と 房枝 は 思う 。
ほとんど 寝たきり と は いえ 勝治 が おり 、 年 を とった と は いえ 自分 が いる 。 その 上 、 若い 盛り の 祐一 が すぐ そこ で 風呂 に 入って いる に も かかわら ず 、 恐ろしい ほど 静かな 家 だった 。
みそ の 香り を 嗅ぎ ながら 、 房枝 は 風呂 場 の 祐一 に 声 を かけた 。
「 今朝 、 二日酔い やったって ? と 訊 く と 、 返事 の 代わり に 、 ザブン と 湯 から 出る 水音 が する 。
「 どこ で 飲 ん どった と ね ? 返事 は なく 、 お 湯 を かぶる 音 が 返って くる 。
「 車 で 出かけた と やろう に 、 危な か ねぇ 」
房枝 は もう 返事 を 期待 して い なかった 。
沸騰 し そうな 鍋 の 火 を 消し 、 魚 の 血 で 汚れた まな板 を 水 に つけた 。
風呂 から 出た 祐一 が すぐに 食べられる ように 、 ブリ の 刺身 を 盛りつけ 、 夕方 の うち に 揚げて おいた すり身 と 一緒に 食卓 に 並べた 。 炊飯 器 を 開ける と 、 米 も ふっくら 炊き あがって おり 、 肌寒い 台所 に 濃い 湯気 が 立つ 。
勝治 が 病 に 臥 す 前 は 、 朝 三 合 、 夕方 五 合 の 米 を 毎日 炊いた 。
男 二 人 の 胃袋 を 満たす のに 、 この 十五 年 、 ずっと 米 を 研いで いた ような 気 さえ する 。
子供 の ころ から 、 祐一 は よく ごはん を 食べた 。
沢庵 一 切れ 与えれば 、 それ で 軽々 と 茶碗 一 杯 の ごはん を 食べる ほど 、 炊き たて の 米 が 好きだった 。
食べた もの は 全部 身 に なった 。
中学 に 入学 した ぐらい から 、 毎朝 、 祐一 の 身長 が ちょっと ずつ 伸びて いる ので は ない か と 思う ほど だった 。
房枝 は 自分 が 作り 与える 食事 で 、 一 人 の 少年 が 一端 の 男 に 成長 して いく 姿 を 、 呆れ ながら も 感嘆 の 思い で 眺めて きた 。
男の子 に 恵まれ なかった こと も ある が 、 娘 たち の とき に は 味わえ なかった 何 か 、 女 の 本能 の ような もの を 、 孫 を 育てて いく うち に 感じて いる 自分 に 気づいた 。
もちろん 当初 は 、 実の 親 である 次女 の 依子 に どこ か 遠慮 して いた ところ も あった 。
しかし 、 その 依子 が まだ 小学生 の 祐一 を 置いて 、 男 と 姿 を 消して から は 、 これ で 自分 が 祐一 を 育てられる のだ と 、 娘 の 不 貞 を 嘆き ながら も 、 力 の 漲って くる 思い が あった 。 房枝 は 、 五十 歳 に なろう と して いた 。
男 に 捨て られた 依子 に 連れ られて 、 この 家 に やってきた とき 、 祐一 は すでに 母親 を 信じて いない ように 見えた 。 口 で は 、「 お母さん 、 お母さん 」 と 甘えて み せる のだ が 、 その 目 は もう 依子 を 見て い なかった 。 当時 、 依子 の 目 を 盗んで 、 房枝 は 孫 の 祐一 に こっそり と 昔 の 写真 を 見せ 、「 お母さん より 、 おばあ ちゃん の ほう が 美人 やろ が ? 」 と 冗談 半分 に 訊 いた こと が ある 。
自分 で は 冗談 の つもり だった のだ が 、 埃 を 被った 結婚 式 の アルバム を 押し入れ から 取り出す とき 、 どこ か 緊張 して いる 自分 に 気づいて も いた 。
祐一 は 差し出さ れた 写真 を 見て 、 しばらく 黙り 込んで いた 。
その 小さな 後 頭部 を 見下ろして いる うち に 、 自分 が とんでもない こと を して いる ような 気 が とつぜん して きた 。
房枝 は 思わず アルバム を 閉じ 、「 おばあ ちゃん が 美人 な もんか ね 、 あー 、 恥ずかし 、 恥ずかし 」 と 年 甲斐 も なく 顔 を 赤らめた 。
初めて 入院 した とき に 買った 合 革 の バッグ だった が 、 どうせ 一 度 使う だけ だろう と 安物 を 選んだ のに 、 入 退院 の 繰り返し で 、 今では 縫い目 まで 綻び 始めて いる 。
「 お茶 やら 、 ふり かけ は 、 明日 、 私 が 持っていく けん 」
口 の 中 が 渇く らしく 、 音 を 立てて 唾 を 呑み込んで いる 勝治 に 、 房枝 は 声 を かけた 。
「 祐一 は もう メシ 食 うた と か ? 時間 を かけて 寝返り を 打った 勝治 が 、 這う ように 布団 を 出て 、 房枝 が 運んで きた 夕食 の 盆 へ 近づいて いく 。
「 ブリ の 刺身 、 食べる なら 持ってくる よ 」
野菜 の 煮物 と おかゆ だけ の 食事 に 、 勝治 が ため息 を ついた ので 、 房枝 は 慌てて そう 言った 。
「 刺身 は いら ん 。 それ より 病院 の 看護 婦 たち に 、 ちょっと 渡し とけよ 」
勝治 が かすかに 震える 手 で 箸 を 握る 。
「 渡し と けって 、 何 を ? 「 何って 、 金 に 決 まっとる やろ 」 「 金 ? また ぁ 、 そげ ん こと 言い出して 、 今どき 、 そんな もん 受け取って くれる 看護 婦 さん が おる もん ね 」
いつも の ように 房枝 は 撥ねつけ ながら 、 こういう ところ が 、 勝治 と いう か 、 男 の 悪い ところ だ と ほとほと 嫌に なる 。
体裁 を 気 に する の は いい が 、 その ため の 金 が 空 から 降って くる と でも 思って いる のだ 。
「 今どき 、 そんな もん もらったって サービス なんて よう なら ん と よ 。 立派な 仕事 し とる のに 、 そんな もん もらったら 、 逆に バカに さ れた ように 思う に 決 まっとるたい ね 」 房枝 は そこ まで 言う と 、「 ヨイショ 」 と 声 を かけて 立ち上がった 。 最近 、 注意 し ない と 、 立ち上がる とき に 膝 に 痛み が 走る 。
背中 を 丸めて おかゆ を 掻き 込む 勝治 を 、 房枝 は 眺めた 。
その 背中 に 、 一昨年 夫 を 亡くした 岡崎 の ばあさん の 声 が 重なる 。
「 二 月 に 一 回 、 年金 が 振り込ま れる たんび に 、『 ああ 、 あの 人 は もう 死んだ と や ねぇ 』って 思わさ れる よ 」 最初 、 房枝 は この 言葉 を 聞いて 、 ばあさん も ばあさん なり に 、 旦那 を 愛して いた のだろう と 思って いた 。 ただ 、 勝治 が からだ を 壊し 、 日に日に 衰えて いく 姿 を 見る に つけ 、 この 言葉 が まったく 違った 意味 を 持って いた こと に 気 が ついた 。 夫婦 の どちら か が 亡くなれば 、 生活 費 も また 半分 なくなる と いう こと な のだ 。
風呂 上がり の 祐一 が 椅子 に あぐら を かいて 、 ごはん を 掻き 込んで いた 。
よほど 腹 が 減って いた の か 、 みそ汁 も つが ず に 、 ブリ の 刺身 一 切れ に 対して 、 ごはん を さ さっと 二 、 三 口 、 掻き 込む 。
「 大根 の みそ汁 が ある と よ 」
房枝 は 声 を かけ ながら 、 ひっくり返して 置か れた まま だった お 椀 に 、 みそ汁 を ついで やった 。
渡せば すぐに 手 に とって 、 熱い ながら も 音 を 立てて 旨 そうに 啜 る 。
「 ばあちゃん も 一緒に 行った ほう が いい や ろか ? 房枝 は 椅子 に 座る と 、 顎 に 米粒 を 一 つ つけた 祐一 に 尋ねた 。
「 来 ん で いい よ 。 五 階 の ナースステーション に 連れて け ば いい と やろ ? 九州 特有 の 甘い 刺身 醤油 に 、 祐一 が ねり わさび を といて いく 。
「 七 時 から そこ の 公民 館 で 、 また 寄り合い が ある と や もん ね 。
ほら 、 健康 食品 の 説明 会 。 …… いや 、 買う つもり は ない と よ 。 でも 、 ほら 、 話 ば 聞く だけ なら 無料 タダ やけん 」
房枝 は 魔法 瓶 から 急須 に お 湯 を 入れた 。
残り が 少なかった らしく 、 二 、 三 度 押す と 、 ゴボゴボ と 嫌な 音 が 立つ 。
湯 を 足そう と 椅子 から 立ち上がった とき だった 。
たった今 まで 旨 そうに 刺身 や すり身 揚げ を 口 に 入れて いた 祐一 が 、 とつぜん 、「 うっ」 と 唸って 口 を 押さえた 。 「 どうした ? 房枝 は 慌てて 祐一 の 背後 に 回る と 、 その 広い 背中 を 強く 叩いた 。
何 か 喉 に 詰まら せた と 思った のだ が 、 房枝 を 押しのける ように 立ち上がった 祐一 が 、 口 を 押さえた まま 便所 へ 駆け込んで いく 。
房枝 は 呆 気 に とられて 立ちすくんだ 。 便所 から すぐに 嘔吐 する 声 が 聞こえた 。
房枝 は 慌てて 食卓 に 並んだ 刺身 や すり身 揚げ の に おい を 嗅いだ が 、 もちろん 腐って いる もの など ない 。
しばらく 苦し そうに え ず いた あと 、 顔 を 真っ青に した 祐一 が 出て きた 。
「 どうした と ね ? 房枝 が 顔 を 覗き込もう と する と 、 その 肩 を 押しのけた 祐一 が 、「 なんでもない 。 …… ちょっと 喉 に 詰まった 」 と 見え透いた 言い訳 を する 。
「 喉 に つまったって 、 あんた ……」 房枝 は 床 に 落ちた 箸 を 拾った 。 目の前 に 祐一 の 脚 が あった 。 風呂 から 出た ばかりで 、 寒い わけで も ない だろう に 、 その 脚 が 小刻みに 震えて いた