第二章 彼は誰に会いたかったか?【1】
第 二 章 彼 は 誰 に 会い たかった か ?
簡単に 言えば 痰 が 詰まって いる 感じ な のだ が 、 いくら 咳き込んで も なかなか 取れ ず 、 無理に 咳き込めば 、 逆に えず いて しまって 、 酸っぱい 胃液 が 口 内 に 広がる 。
昨夜 、 寝床 で えず いて いる と 、 妻 の 実千代 に 、「 うがい して こ ん ね 」 と 声 を かけ られた が 、 うがい など とうに 試して いた ので 、「 あー 、 くそ 、 イライラ する な ! と 、 誰 に と も なく 怒鳴った 。
いつも の 交差 点 で 、 憲夫 は 左 に ハンドル を 切った 。
実千代 が ルームミラー に 結びつけた 交通 安全 の お守り が 大きく 揺れる 。
この 交差 点 は とても グロテスクな 形 を して いた 。
まるで 巨人 が 造った 広い 道路 と 小人 たち が 造った 細い 路地 が 交わって いる ように 見える のだ 。
たとえば 広い 国道 の ほう から 走って くる と 、 直角 に 右 へ 曲がって いる L 字 型 の 道 に しか 見え ない 。
しかし 実際 は L 字 型 カーブ と 見えた 先 に は 細い 路地 が 伸びて おり 、 国道 と 平行 に 走る 水路 に かかる 小さな 橋 が ある 。 そして この 水路 が 、 昭和 四十六 年 に 埋め立て が 完了 し 、 沖合 の 島 が 陸 続き に なる まで の 海岸 線 だった のだ 。
陸 続き に なった 島 に は 造船 所 の 巨大な ドック が ある 。
これ が 巨人 の 街 だ 。 そして 海岸 線 を 奪わ れた 以前 の 漁村 に は 、 未 だ に 細い 路地 が 張り巡らさ れて いる 。
国道 から 路地 に 直進 した 憲夫 は 、 喉 に 詰まる 痰 を 気 に し ながら 、 慣れた ハンドル さばき で 奥 へ 進んだ 。
左手 に 教会 が 見え 、 朝日 に ステンドグラス が 輝いて いる 。
路地 の 先 に 海 の 気配 を 感じる 辺り まで 来る と 、 いつも の ように 派手な トレーナー を 着た 清水 祐一 が 、 眠 そう な 顔 で 立って いる 。
憲夫 は その 前 で ワゴン 車 を 停めた 。
乱暴に ドア を 開けた 祐一 が 、「 おはよう ございます 」 と ぼ そっと 挨拶 して 後部 座席 に 乗り込んで くる 。 憲夫 は 、「 おお 」 と 短く 声 を 返し 、 すぐに アクセル を 踏み込んだ 。
毎朝 、 憲夫 は ここ で 祐一 を 拾い 、 小 ケ 倉 で また 一 人 、 その先 の 戸 町 で 一 人 と 、 順番 に 作業 員 を 拾い ながら 、 長崎 市 内 の 現場 へ 向かう 。
短い 朝 の 挨拶 の あと 、 いつも の ように 黙り 込んだ 祐一 に 、 憲夫 は アクセル を 踏み ながら 、「 また 寝不足 か ? と 声 を かけた 。
「…… どうせ 昨日 も 、 夜 遅う まで 、 車 、 乗り回し よった と やろ ? 憲夫 の 言葉 に 、 ルームミラー の 中 で 祐一 が ちらっと 顔 を 上げ 、「 いや 」 と 短く 答える 。
午前 六 時 の 迎え が 、 若い 祐一 に とって 苦痛 な の は 分かる が 、 まるで 三 分 前 に 布団 から 出て きた ばかり の ような 寝癖 と 、 目 ヤニ で くっつき そうな まぶた を 見る と 、 つい 小言 の 一 つ も 言い たく なる 。
赤 の 他人 なら 、 ここ まで 苦々しく 思う こと も ない のだろう が 、 憲夫 の 母 が 、 祐一 の 祖母 と 姉妹 と いう 間柄 で 、 憲夫 の 一 人 娘 、 広美 と 祐一 は 年 の 近い またいとこ に なる のだ 。
祐一 の 実家 が ある 路地 の 突き当たり から 出て くる と 、 この 辺り の 住人 たち が 共同 で 使って いる 小さな 駐車 場 が ある 。
古びた ワゴン 車 や 軽 自動車 の 中 、 祐一 が 大事に 乗って いる 白い スカイライン だけ が 、 まるで 新車 同然に 、 明るい 朝日 を 浴びて いる 。
中古 の くせ に 二百万 以上 も する と いう 車 を 、 祐一 は 七 年 ローン で 購入 した らしい 。
「 もっと 安 か と に せ ん ね って 、 何度 も 言う た とば って ん 、 どうしても これ が よか って 、 きかん と や もん ねぇ 。
ま ぁ 、 大き か 車 が あった ほう が 、 じいちゃん を 病院 に 連れて 行って もらう とき と か 、 便利 は 便利 な ん やけど さ 」
祐一 の 祖母 、 房枝 は そう 言って 、 嬉しい の か 心配な の か 、 よく 分から ない 顔 を して いた 。
この 房枝 と 、 今 は ほとんど 寝たきり の 夫 、 勝治 の 間 に は 、 重子 、 依子 と いう 二 人 の 娘 が いる 。
長女 重子 は 現在 、 長崎 市 内 で 洒落た 洋菓子 店 を 営む 男 と 所帯 を 持ち 、 二 人 の 息子 は それぞれ 大学 に 通わせた あと 独り立ち さ せて いる 。 房枝 に よれば 、「 ぜんぜん 心配 の いら ん ほう の 娘 」 に なる 。 一方 、 次女 の 依子 が 祐一 の 母親 な のだ が 、 こちら が どうも 落ち着か ない 。 若い ころ 、 市 内 の 同じ キャバレー に 勤めて いた 男 と 結婚 し 、 すぐに 祐一 を 産んだ は いい が 、 祐一 が 保育 園 に 入る ころ に は 男 が 出奔 、 仕方なく 祐一 を 連れて 実家 に 戻り 、 その後 、 また すぐ 男 を 作り 、 祐一 を 房枝 たち に 押しつけて 家 を 出た 。 今では 雲仙 の 大きな 旅館 で 仲居 を して いる らしい が 、 祐一 に とって は 、 そんな 両親 に 連れ 回さ れる より も 、 造船 所 で 長年 勤め 上げた 祖父 と 祖母 に 育て られ 、 結果 的に よかった ので は ない か と 憲夫 は 思って いる 。 な ので 祐一 が 中学 に 上がる とき 、 彼ら が 祐一 を 養子 に する と 言い出した とき 、 憲夫 は 真っ先 に 賛成 した のだ 。
祐一 は 祖父母 の 養子 と なる こと で 、 当時 、 苗 字 が 本多 から 清水 に 変わった 。
翌年 の 正月 だった か 、 憲夫 が お年玉 を 手渡し ながら 、「 どう や ?
本多 祐一 より 、 清水 祐一 の ほう が かっこよ か やろ が 」 と 冗談 混じり に 尋ねる と 、 当時 から 車 や バイク に 興味 が あった 祐一 は 、「 いや 、 HONDA の ほう が かっこよ か 」 と 、 畳 の 上 に ローマ字 で 書いて みせた 。 」 と 祐一 が 後部 座席 から 声 を かけて きた 。
「 昼 から でも よ かばって ん 。 全部 外して しまう と に 、 どれ くらい かかり そう や ? 「 正面 残す なら 、 一 時間 も あれば できる やろ けど ……」
この 時間 、 逆 車線 は 造船 所 へ 向かう 車 で 渋滞 して おり 、 どの 車 に も 欠 伸 あくび を かみ殺した ような 男 たち が 乗って いる 。
信号 が 変わり 、 憲夫 は アクセル を 踏み込んだ 。
勢い よく 踏み込んだ せい で 、 後ろ に 積んで ある 工具 箱 が ガタン と 大きな 音 を 立てる 。
祐一 が 窓 を 開けた らしく 、 すぐ そこ に ある 海 の 匂い が 車 内 に 吹き込んで くる 。
「 昨日 は なん し よった と か ? 憲夫 が ルームミラー 越し に 声 を かける と 、「 なんで ? 」 と ふいに 祐一 が 顔 を 緊張 さ せた 。
憲夫 と して は 、 祐一 の こと と いう より も 、 近々 また 入院 する 勝治 の こと を 訊 く つもりだった のだ が 、 祐一 が 過剰に 反応 した せい で 、「 いや 、 どうせ また 、 車 で 遠出 でも した と やろう と 思う て さ 」 と 話 を 合わせた 。
「 昨日 は どこ に も 行 っと らん よ 」 と 、 祐一 は ぼ そっと 答えた 。
「 あの 車 で 、 リッター どれ くらい 走る と や ? 話 を 変えた 憲夫 の 質問 に 、 面倒臭 そうな 顔 を する 祐一 が ルームミラー に 映る 。
「 十 キロ も 走ら ん やろ ? 「 そげ ん 走る もん ね 。 道 に も よる けど 、 七 キロ も 走れば よ かほう よ 」
ぶっきらぼうな 口調 だった が 、 車 の 話 を する とき だけ 、 祐一 の 表情 は 生き生き と する 。
六 時 を 過ぎた ばかりだった が 、 すでに 市 内 へ 向かう 車 が 渋滞 の 兆し を 見せて いた 。
これ が あと 三十 分 も 遅れる と 、 市 内 に 入る 前 に 完全に 渋滞 に はまって しまう 。
この 道 は 長崎 半島 を 南北 に 走る 海 沿い の 唯一 の 国道 で 、 市 内 と は 逆 方向 に 、 この 半島 を 下りて いけば 、 沖合 に 廃墟 の 軍艦 島 が 見え 、 夏 に なれば 市民 で 賑わう 高浜 、 脇 岬 の 海水 浴場 が あり 、 樺島 の 美しい 灯台 に 突き当たる 。
「 そうい や 、 じいちゃん は どう や ? また 体調 悪 か と やろ ? 国道 を 市 内 へ 向かい ながら 、 憲夫 は 後部 座席 の 祐一 に 尋ねた 。
返事 が ない ので 、「…… また 入院 か ? 」 と 憲夫 は 訊 いた 。
「 今日 、 仕事 終わったら 、 俺 が 車 で 連れて 行く 」
窓 の 外 を 眺め ながら 答えた 祐一 の 声 が 、 風 に 飛ばさ れる 。
「 なんで 言わ ん と か 、 言えば 、 先 に 病院 に 連れて 行って から 現場 に 来て よかった と に 」
おそらく 房枝 に そう しろ と 言わ れた のだろう が 、 それ を 水臭く 感じて 、 憲夫 は 非難 した 。
「 いつも の 病院 やけん 、 夜 でも よか って 」
祐一 が 房枝 の 言い訳 を 代弁 する ように 答える 。
祐一 の 祖父 、 勝治 が 重い 糖尿 を 患って すでに 七 年 ほど に なる 。
年齢 も ある のだろう が 、 いくら 病院 に 通って も 体調 が 改善 さ れる 様子 は なく 、 月 に 一 度 、 憲夫 が 見舞い に 行く たび に 、 その 顔色 が 土 色 に 変化 して いる の が 分かる 。
「 しっか し 、 我が 娘 の せい と は いえ 、 祐一 が うち に おって くれて 、 ほんと 良かった よ 。
これ で 祐一 が おら ん か ったら 、 じいさん の 送り迎え だけ でも 、 ふ ー こら め 遭う ところ やった 」
最近 、 房枝 は 憲夫 と 顔 を 合わす たび に 、 そんな 弱音 を 吐く 。
実際 、 若い 祐一 は 役 に 立って いる のだろう が 、 房枝 が そう 言えば 言う ほど 、 若く 無口な 祐一 が まるで 老 夫婦 に がんじがらめ に さ れて いる ように 思え なく も ない 。 その 上 、 祐一 が 暮らす 集落 に は 、 独居 する 老人 や 年老いた 夫婦 も 多く 、 ほとんど 唯一 と 言って いい 若者 である 祐一 は 、 自分 の 祖父母 だけ で なく 、 それ ら 他の 老人 たち の 病院 へ の 送り迎え を 頼ま れる こと も 多く 、 頼ま れれば 文句 を 言う でも なく 、 黙って 車 に 乗せて いる と いう 。
息子 の い ない 憲夫 に は 、 祐一 が 息子 の ように 思える 。
な ので ローン まで 組んで 派手な 車 を 買えば 文句 も 言う が 、 せっかく 買った その 車 が 、 病院 へ 通う 老人 たち の 送り迎え ばかり に 使わ れて いる か と 思えば 、 少し だけ 不憫 に も 思う 。
ほか の 若い ヤツ ら と 違って 、 祐一 は 寝坊 する こと も なく 仕事 は 真面目に こなして いる 。
ただ 、 いったい 何 が 楽しくて 、 この 若者 が 生きて いる の か 、 憲夫 に は 分から ない 。
この 日 、 憲夫 は いつも の ように 祐一 を 含めた 三 人 の 作業 員 を 順番 に 拾い ながら 、 数 日 前 から 作業 を 始めた 長崎 市 内 の 現場 へ 向かった 。
祐一 を 除けば 、 ワゴン 車 に 乗って いる の は 、 憲夫 も 含め 、 倉 見 も 吉岡 も 五十 代 後半 で 、 現場 に 着く 前 に 吸い 溜 め する たばこ の 煙 と 一緒に 、 朝 の 移動 中 は 、「 やれ 、 膝 が 痛い 」 だの 、「 やれ 、 女房 の 鼾 が うるさい 」 だの と 、 そんな 所帯 じみ た 話 ばかり が 車 内 に こもる 。
憲夫 は 元 より 、 同乗 する 倉 見 と 吉岡 も 、 祐一 が 無口な 男 だ と 知っている ので 、 今では ほとんど 話しかける こと は ない 。
まだ 祐一 が この 組 に 入った ばかりの ころ は 、 競艇 に 誘って みたり 、 銅 座 の スナック へ 連れて 行ったり と 、 そこそこ 祐一 を 可愛がろう と して いた のだ が 、 競艇 へ 連れて 行って も 、 舟 券 を 買う わけで なし 、 スナック へ 連れて 行って も 、 カラオケ 一 曲 歌う わけで も ない 祐一 に 、「 最近 の 若 っか もん は 、 一緒に 遊んで も いっち ょん 張り合い の ない 」 と 、 今では 二 人 と も すっかり 愛想 を 尽かして いる 。
「 おい 、 祐一 ! どうした ? 顔 、 真っ青 して 」
とつぜん 倉 見 の 声 が して 、 憲夫 は 思わず ブレーキ を 踏み そうに なった 。
道 は 市 内 へ 入る 少し 手前 、 海岸 線 に 並ぶ 倉庫 の 間 から 、 朝日 を 浴びた 港 が 見える 辺り だった 。
とつぜんの 倉 見 の 声 に 、 憲夫 が 慌てて ルームミラー を 覗き込む と 、 しばらく 存在 を 忘れる ほど おとなしかった 祐一 が 、 血の気 の 失せ た 顔 を 窓 に 押しつけて いる 。
「 どうした ? 気分 悪 か と か ? 憲夫 が 声 を かける と 、 祐一 の 前 に 座って いる 吉岡 が 、「 吐き そう か ? 窓 開けろ 、 窓 ! 」 と 、 慌てて 身 を 乗り出して 窓 を 開けよう と する 。 その 手 を 祐一 が 力なく 払い 、「 いや 、 大丈夫 」 と 小さく 答える 。
あまり の 顔色 の 悪 さ に 、 憲夫 は とりあえず 車 を 路肩 に 停めた 。
煽る ように 背後 に ついて いた トラック が 、 その 瞬間 、 悲鳴 の ような クラクション を 鳴らして 追い抜いて いき 、 その 風圧 で ワゴン 車 が 揺れる 。
車 を 停める と 、 祐一 は 転げる ように 外 へ 出て 、 二 、 三 度 、 腹 を 押さえて 地面 にえ ず いた 。
ただ 、 胃 から 出て くる もの は ない らしく 、 苦し そうな 息遣い だけ が 続く 。
「 二日酔い やろ ? ワゴン 車 の 窓 から 顔 を 出した 吉岡 が 、 その 背中 に 声 を かけた 。
祐一 は 歩道 の 敷石 に 手 を ついた まま 、 身震い する ように 頷いた 。 十二 階 の 窓 から は 大濠 公園 が 一望 できる 。 通り に は 白い ワゴン 車 が 二 台 並び 、 その 一 台 に さっき まで この 部屋 に いた 若い 刑事 が 乗り込んで いく 。
大学 に 近い この マンション を 両親 が 買って くれた とき 、 鶴田 は ここ から の 眺め が 好きに なれ なかった 。
この 景色 を 眺める たび に 、 自分 が 何の 取り柄 も ない 小 金持ち の ボンボン だ と 思い知ら さ れる から だ 。
ベッド 脇 の デジタル 時計 は すでに 五 時 五 分 を 指して いる 。
刑事 が 乱暴に ドア を ノック した の が 四 時 半 すぎ 、 起き 抜け の まま 、 三十 分 以上 も 刑事 の 質問 に 答えて いた こと に なる 。
鶴田 は 乱れた ベッド に 腰 を 下ろす と 、 ペットボトル の 生ぬるい 水 を 一口 飲んだ 。
とつぜん 現れた 刑事 が 、 どうやら 増尾 圭 吾 を 追って いる らしい こと を 理解 する まで 、 鶴田 は かなり 無愛想な 応対 を した 。
朝方 まで ビデオ を 見て いた せい で 、 しつこく ノック を さ れた こと に ムカ つき 、 その 気持ち が 顔 に も 出て いた はずだ 。 そう 年 も 変わら ない 若い 刑事 に 手帳 を 見せ られ 、「 ちょっと お 聞き し たい こと が ある んです けど ね 」 と 言わ れた とき に は 、 どうせ また そこ の 大濠公園 で 痴漢 でも 出た のだろう と 思った 。
「 増尾 圭 吾 くん と 仲 が 良かった って 聞いた もん で 」
若い 刑事 に そう 言わ れ 、 一瞬 、 鶴田 は 圭 吾 が 痴漢 でも した か と 思った 。
ど っか の 飲み屋 で 知り合った 子 を レイプ した んだ と 。 浮かんで きた 圭 吾 の 顔 に は 、 痴漢 より 、 レイプ と いう 言葉 の ほう が 似合って いた 。
やっと 目 の 覚めた 鶴田 を 前 に 、 若い 刑事 が 事 の あらまし を 話して くれた 。
三瀬 峠 。
石橋 佳乃 。 遺体 。 絞殺 。 増尾 圭 吾 。 行方 不明 。
話 を 聞いて いる うち に 、 膝 から 力 が 抜けた 。
圭 吾 は レイプ どころ じゃ ない こと を しでかして 、 逃亡 して いた 。 思わず 床 に 座り込み そうに なった 鶴田 に 、「 まだ 何も はっきり は し とら ん と です よ 。 ただ 、 もし 行き先 を 知 っと る なら 、 教えて もらえ ん か と 思う て 」 と 刑事 は 言った 。
最近 、 圭 吾 から 連絡 が なかった か ?
鶴田 は 寝ぼけた 頭 を 軽く 叩き ながら 記憶 を 呼び起こした 。
目の前 に メモ と ペン を 持った 刑事 が じっと 自分 の 返事 を 待って いる 。
「 あの ……」
鶴田 は 刑事 の 顔色 を 窺 う ように 口 を 開いた 。
「 あの 、 なんて いう か 、 ここ 三 、 四 日 、 あいつ と 連絡 が とれ ない んです よ 。
いや 、 みんな 面白がって 行方 不明 なんて 言って ます けど 、 たぶん ふら っと どこ か に 旅行 に でも 出て る と 思う んです が 」
鶴田 は そこ まで 一気に 言う と 、 また 刑事 の 顔色 を 窺 った 。
「 ええ 、 そう みたいです ね 。 最後に 話した の は いつ です か ? 刑事 が 顔色 一 つ 変え ず に 答え 、 ペン 先 で 手帳 を トントン と 叩く 。
「 最後 です か ? えっ と 、 たしか 先週 の ……」
鶴田 は 記憶 を 辿 った 。
電話 で 圭 吾 と 交わした 会話 は 浮かんで くる のだ が 、 それ が 何 曜日 の こと だった か 思い出せ ない 。
電波 が 悪く 声 が よく 聞き 取れ なかった 。
「 どこ に おる ? 」 と 鶴田 が 訊 く と 、 圭 吾 は 、「 今 、 山 ん 中 な ん よ 」 と 笑って いた 。
大した 用件 で は なかった 。
圭 吾 は 来週 の ゼミ の 試験 が 何 時 から な の か を 知り た がって いた はずだ 。 たしか 前 の 晩 、「 処刑 人 」 と いう 映画 を ビデオ で 観て いた 。 その 話 を 圭 吾 に しよう と 思って いたら 、 電話 が 切れて しまった 。
鶴田 は 慌てて 部屋 へ 戻る と 、 ビデオ 店 の レシート を 確かめ 、「 先週 の 水曜日 です 」 と 玄関 の 刑事 に 告げた 。
圭 吾 が 遊び に くる と 、 鶴田 は 自分 の 好きな 映画 を 無理やり 観 せる こと が あった 。
圭 吾 は 映画 に は 興味 が なく 、 途中 で 寝る か 、 帰って しまう のだ が 、 鶴田 が 将来 映画 を 撮り たい と いう 夢 に は 興味 が あって 、 その とき が 来たら 共同 で 製作 しよう と 話 が 盛り上がって いる 。
圭 吾 は 映画 の 話 を しよう と 、 鶴田 を 夜 の 街 に よく 誘い出した 。
ただ 、 誘い出して おき ながら 、 映画 の 話 など そっちのけ で 、 店 に いる 女 たち に 声 を かけて 回る 。 男 から 見て も 華 の ある 圭 吾 に は 、 すぐに 女 が 引っかかる 。 女 を 引っかけ 、 やっと 鶴田 の 元 へ 戻って くる と 、「 こいつ 、 来年 、 映画 撮る ん よ 」 と 鶴田 を 紹介 し 、「 その 映画 に 出て くれ ん か ねぇ 」 など と 、 適当な 話 で その 場 を 盛り上げた 。 ただ 、 圭 吾 が 引っかける 女 に は 、 まったく と 言って いい ほど 華 が なかった 。 ある とき 圭 吾 に 尋ねる と 、「 俺 さ 、 ど っか 貧乏 臭い 女 の ほう が チンポ 勃 つ ん よ ね 」 と 笑って いた こと を 思い出す 。
若い 刑事 の 口 から こぼれた 石橋 佳乃 と いう 名前 に 、 鶴田 は 聞き覚え が あった 。
もちろん 最初 は 、「 三瀬 峠 で 石橋 佳乃 さん と いう 女性 の 遺体 が 発見 さ れた 」 と いう 刑事 の 言葉 に 、 見ず知らず の 女 、 と いう か 、 何 か の 映画 で 見た こと の ある 凍結 した 白人 女 の 死体 映像 を 当てはめた のだ が 、 何 度 か 「 イシバシヨシノ 」 と いう 名前 が 刑事 の 口 から こぼれる うち に 、 二 カ月 ほど 前 に 天神 の ダーツバー で 圭 吾 が 声 を かけた 保険 の 外交 員 の 名前 だ と 気 が ついた 。
その 晩 、 鶴田 も 店 に いた 。
みんな と 一緒に ダーツ を 投げたり 、 バカ 騒ぎ を して いた わけで は ない が 、 カウンター の 隅 に 座って 、 バーテン 相手 に エリック ・ ロメール の 映画 に ついて 話 を して いた 。
石橋 佳乃 と その 二 人 の 友達 が 、「 これ から カラオケ に 行こう 」 と 誘う 圭 吾 たち を 、「 寮 の 門限 が ある から 」 と 振り切って 帰ろう と した とき 、 鶴田 は ロメール の 「 夏物 語 」 が 一 番 だ と 言い張る 若い バーテン に 、「 いや 、『 クレール の 膝 』 が 一 番 いい 」 と 言い返して いた 。
圭 吾 は 佳乃 たち を カウンター の ほう まで 追って きて 、 鶴田 の すぐ 後ろ で 、 その 中 の 一 人 に 、「 メルアド 教えて よ 。
今度 、 メシ 食い に 行こう よ 」 と 誘って いた 。
振り返って みた が 、 正直 、 ぱっと し ない 女 だった 。
女 は メルアド を すぐに 教えた 。
女 たち が 階段 を 上がって いく と 、「 バイバーイ 。 また ね ー 」
など と 軽薄な 声 で しばらく 見送って いた 圭 吾 が 戻り 、 バーテン に ビール を 注文 し ながら 、 女 の メルアド が 書か れた コースター を 見せて くれた 。 そこ に 、 石橋 佳乃 の 名前 が あった のだ 。
鶴田 が それ を 覚えて いた の は 、 同じ 映画 研究 会 に 所属 する 石橋 里 乃 と いう 後輩 と 一 文字 違い だった から だ 。
バーテン から ビール を 受け取った 圭 吾 に 、「 俺 が 知 っと う イシバシ の ほう が 数 倍 可愛い ぞ 」 と 鶴田 は 言った 。
圭 吾 は 鶴田 の 言葉 など 気 に も して い ない ようで 、 コースター を 指先 で もてあそび ながら 、「 だけ ん 、 俺 、 今 の 子 みたいな ん が 好み な ん よ 。
なんか こう 、 一 皮 剥け きら ん 感じ が ある やろ ? いっぱ し に ヴィトン の バッグ 持って 、 ツンツン し とる わりに 、 ど っ か こう 田舎 の 姉ちゃん 臭 が 残 っと って さ 。 ヴィトン の バッグ 持って 、 安物 の 靴 履いて 、 田んぼ の 畦道 を 歩 いとう 女 が おったら 、 俺 、 絶対 に 我慢 でき ず に 飛びかかる ね 」 と 笑った 。
大学 で 圭 吾 と 知り合った ばかりの ころ 、 趣味 も 性格 も まったく 違う 彼 と 、 妙に 気 が 合う こと が 鶴田 自身 、 とても 不思議だった 。
互いに 裕福な 家庭 に 育った 者 同士 、 他の 学生 たち と 違い 、 どこ か のんびり して いる ところ が あった 。 もし 圭 吾 が わがままな 主演 スター なら 、 さしずめ 自分 は 、 彼 を 唯一 うまく 操る こと の できる 芸術 家 肌 の 映画 監督 だ 。
あれ は いつ だった か 、 圭 吾 と 長浜 の 屋台 に ラーメン を 食べ に 行った こと が ある 。
ちょうど 彼 が 新車 を 買った ばかりの ころ で 、 少し でも 時間 が あれば 運転 し たかった のだ と 思う 。
混 んだ 屋台 で ラーメン を 啜 って いる と 、「 鶴田 の 親父 さん って 浮気 と かする ほう や ? と いきなり 訊 かれた 。
「 なんで ? 「 いや 、 どう な ん やろ と 思う て 」
鶴田 の 父親 は 福岡 市 を 中心 に 貸し ビル を 多く 持って いた 。
すべて 祖父 から 受け継いだ もの で 、 息子 の 鶴田 から 見て も 、 時間 と 金 を 持て余し 、 尊敬 できる と は 言いがたい 父親 だった 。
「 さ ぁ 、 どう やろ 、 まったく 浮気 も せ ん って こと も ない やろう けど ……、 それ こそ 飲み屋 の 女 たち と ちょこちょこ 遊 ん ど る くらい や ないや 」 と 鶴田 は 言った 。
「 ふ ー ん 」
自分 で 訊 いて おき ながら 、 圭 吾 は あまり 興味 も 示さ ず に 、 まだ かなり 残って いる 丼 の ラーメン の 上 に 半分 に 折った 割り箸 を 投げ入れた 。
「 お前 ん と この 親父 は ? なんとなく 鶴田 が 訊 き 返す と 、 使い古さ れた プラスチック の コップ で 水 を 飲んだ 圭 吾 が 、「 うち ? うち は ほら 、 昔 から 旅館 し とる けん 」 と 吐き捨てる 。
「 旅館 し とる けん 、 なん や ? 「 旅館 に は 女 中 が おる ん ぞ 」
圭 吾 は 意味 深 な 笑み を 浮かべた 。
「 俺 、 子供 の ころ 、 何度 も 見た こと ある ん よ 。 親父 が うち の 女 中 たち 、 裏 の 部屋 に 連れ込む ところ 。 あれ って 、 どう やった ん やろ ? あの 女 たち 、 嫌 が っと った ん やろ か ? …… いや 、 もちろん 嫌 が っと った ん やろう けど 、 俺 に は そう 見え ん かった 」
屋台 を 出る とき 、 圭 吾 は 店 の 主人 に 、「 ごちそう さん 、 まずかった 」 と 言った 。
一瞬 、 屋台 に いた 客 たち の 手 が 止まった 。
嫌な 雰囲気 だった 。 ただ 、 鶴田 は 圭 吾 の こういう ところ が 好きだった 。 実際 、 観光 客 相手 に 料金 だけ が 高い 屋台 だった のだ