影 踏み :消息:4
真壁 は 鮒戸 駅 の ホーム で 夕刊 を 買い 、 鉄骨 の 柱 を 背 に 紙面 を 開いた 。 この 時間 帯 は 降りる 一方 の 駅 だ から 人影 は 疎らだ 。
待ちかねた ような 声 が した 。
《 ラ ・ ベリテ も 何 か 関係 ある わけ ? 〈 下りた んじゃ なかった の か 〉
《 もう 意地悪 言う な よ 。 わかった よ 、 謝る よ 。 だから 教えて よ 最初っから 。 ホント 言う と さ 、 俺 、 ぜんぜん わかん ない んだ 。 稲村 葉子 の 殺意 だって さ 、 なんで 修 兄 ィ が そう 思った の か と か 》
〈………〉
《 ねえ 、 ねえって ば あ 、 修 兄 ィ 》 真壁 は 小さく 舌打ち して 新聞 を 畳んだ 。 〈 現場 を もう いっぺん 思い出して みろ 〉
《 現場って …… 稲村 ん と この ? 〈 そう だ 〉
十 秒 ほど して 中 耳 に 声 が 戻った 。
《 あの …… 修 兄 ィ 》
〈 何 だ ? 《 何 を 思い出せば いい の ? わかん ない よ 》
真壁 は 一 つ 息 を 吐いた 。
〈 電話 台 の 引き出し に 何 が あった ? 《 ああ 、 そういう こと か 》
声 が 弾んだ 。
啓二 の 最も 得意 と する ところ だ 。
《 アナログ の 腕 時計 、 名刺 入れ 、 マイルドセブン 、 タイ ピン 、 ボールペン 、 それ に 薄茶色 の 札 入れ 。 中身 は 大きい の が 二 枚 》
〈 なかった 物 は 〉
《 えっ? 〈 あるべき 物 で 、 なかった 物 だ 〉
こう なる と 啓二 の 領域 から 外れる 。
《 なぞなぞ ? 〈………〉
《 降参 。 ねえ 、 教えて よ 》
〈 ライター だ 。 煙草 が あって 、 ライター が なかった 〉
《 あっ、 そう いえば そうだ ね 》 〈 テーブル の 上 に は 何 が あった 〉 《 えー と 、 グラス が 一 つ 、 空 の オールド 、 半分 ぐらい 飲んだ ホワイトホース 、 ピーナッツ 、 テレビ の リモコン 、 くしゃくしゃの マイルドセブン 、 灰皿 》 〈 ライター は ? 《 なかった よ 》
〈 灰皿 は 吸殻 の 山 だった 。 煙草 の 空 箱 も あった 。 なのに ライター が ない 〉
《 それ じゃあ ライター は ……》
〈 おそらく 女 が 握りしめて いた ―― 布団 の 中 で な 〉
《 え えっ! 大声 が 耳 骨 から 蝸牛 に 響いた 。 真壁 は 顔 を 顰 め て 軽く 耳 に 手 を 当て 、 清掃 の 駅員 を やり過ごして から 言った 。
〈 オールド が 空き 、 ホワイトホース も 半分 減って いた 。 グラス は 一 つ 。 旦那 は 一 人 で 飲み 、 かなり 酔って 寝込んだ と みて いい 〉
《 それ じゃあ 、 稲村 葉子 は ライター で 放火 して 旦那 を ……って こと ? 間もなく 上り 電車 が 到着 する と アナウンス が 告げた 。 行 く あて は ある が 、 真壁 は 迷って いた 。
《 けど さあ 、 しつこい ようだ けど それって みんな 修 兄 ィ の 想像 じゃ ん か 》 〈 女 も な 〉 《 えっ? 〈 女 も じっくり 想像 を 巡らした 〉
《 どういう こと ? 〈 家 が 焼けた あと の こと を 考えた 。 ストーブ の 灯油 を 撒く 。 火 を 放つ 。 旦那 が 焼け 死ぬ 。 サツ が 調べ に 入る ……。 万一 タンス で も 焼け残り 、 中 が 空っぽだったり したら 自分 に 疑い の 目 が 向く 。 それ で 服 は 諦めた 。 靴 も 小物 も 家財 道具 も そうして すべて 諦めた 。 だが な 、 化粧 品 だけ は 諦めきれ ず 事前 に 運び出して おいた 〉
《 なんで 化粧 品 なんか 》
真壁 は 宙 を 見つめた 。
〈 白かった から な 〉
《 えっ? 〈 女 の 肌 だ ―― ラ ・ ベリテ は 店頭 売り して いない 。 取り寄せ に 日数 が かかる 〉
《 金目 の 物 より 白い 肌って こと ? 〈 あれ だけ 白い と 白い まま に して おき たく なる だろう 〉
《 へえ ー 、 そういう もんか なあ ……》
〈 白い 肌 が 好きな 男 は ご まん と いる しな 〉
《 えっ? それって 旦那 の 他 に 男 が いた ……って こと ? 真壁 は ホーム に 入って きた 上り 電車 に 目 を 戻し 、 だが その 眩 い 車両 に 背 を 向けて 、 下り線 の 側 に 立ち 直した 。 啓二 は 反応 せ ず 、 話 を 続けた 。
《 修 兄 ィ ―― でも やっぱり 、 俺 、 稲村 葉子 に 殺意 は なかった と 思う な 》
〈 なぜ だ 〉
《 だって そうだ ろ 。 本気で 旦那 を 殺す 気 なら 、 稲村 葉子 は 修 兄 ィ を やり過ごして 、 それ から 火 を つければ よかった んだ よ 。 なのに 一一〇 番 した じゃ ない か 》
〈 それ で 俺 は 気づいた んだ 〉
《 えっ? 〈 なんで 女 は 一一〇 番 した 〉
《 そんな の 決まって ら あ 、 忍び込んだ 修 兄 ィ に 気づいた から さ 》
〈 違う 。 俺 が 車 に 近づいた から だ 〉
《 どういう こと それ ? 〈 ラ ・ ベリテ は 車 に 積んで あった んだ 〉
《 そう な の ? 修 兄 ィ 見た の ? 〈 いや 〉
《 だったら なんで 断言 できる の さあ 》
〈 お前 が 言う ように 、 女 は 俺 を やり過ごす つもりで いた 。 だが 、 俺 は 二 階 の 様子 を 窺 おうと 車 の 陰 に 身 を 潜めた 。 女 は どこ か の 窓 から それ を 見て いた んだろう 。 車 の 中 を 物色 されて いる と 勘違い して 慌てた 。 女 に して みれば 、 殺意 を 秘めた 唯一 の 証拠 が 積んで あった わけだ から な 〉
《 うーん 、 そう か なあ ……。 なんか ピンと こない けど 》
〈 ある はずの 物 で なかった 物 が もう 一 つ あったろう 〉
《 えっ? なに ? 〈 車 の キー だ 。 それ も 女 が 握って いた 。 家 が 焼け落ちて 見つから なく なったら 困る から な 〉
啓二 の 驚き の 声 は 、 ホーム に 迫った 電車 の 警笛 に 掻き消さ れた 。
真壁 は ガラガラ の 車 内 の 隅 に 立ち 、 次の 下 三郷 で 降りた 。
落ち着き を 取り戻した 声 が 中 耳 に 流れた 。
《 だけど 不思議だ ね 》
〈 何 が だ 〉
《 五 日 後 に 黛 が 入った 時 は ラ ・ ベリテ が ちゃんと 並んで いた んだ から 、 稲村 葉子 は 旦那 を 殺す 気 が なくなったって こと でしょ ? 〈………〉
《 そうだ よ ね 》
啓二 の 声 が 弾んだ 。
《 もう どう で も いい よ ね 、 そんな こと 。 修 兄 ィ の 言う 通り で いい や 。 稲村 葉子 は 旦那 を 殺そう と 思って 起きて いた 。 車 を 物色 さ れた と 思って 慌てて 一一〇 番 した 。 それ で いい よ 。 発信 機 を 仕掛けられて たって こと も わかった し さ 、 ねっ、 これ で 修 兄 ィ が パクられた 時 の 状況 はぜ ー ん ぶ わかった んだ から 。 結局 、 殺し は なかった し 、 二 人 は 別れちゃった し 、 そう すりゃ 俺 たち に は もう ぜんぜん 関係ない わけだ し 。 なんか 俺 、 嫌で さあ 。 今回 の 稲村 ん ち の 件 、 修 兄 ィ が どんどん 遠く なって いく みたいな 感じ が して ――》
〈 久子 に 会う 〉
《 あ ……》
暗がり の 路地 の 突き当たり 。 二 階建て の 『 福寿 荘 』 が 見えて いた 。
わかって た さ 。 そんな 溜め息 を 漏らして 啓二 は 気配 を 断った 。
真壁 は 錆 の 浮いた 鉄 階段 を 上った 。 左 端 の 部屋 。 「 安西 」 の プラスチック 表札 。 中指 の 節 で ドア を 叩いた 。 応答 が ない 。 もう 一 度 叩いた 。 やや あって 細く ドア が 開き 、 青ざめた 安西 久子 の 左 半分 が 覗いた 。
「 そんなに 叩か ないで 」
「…… 一 人 か 」
諦め 顔 で 小刻みに 頷く 肩 先 を かすめ 、 真壁 は フローリング の ひんやり した 床 を 踏んだ 。 いじらしい ほど 狭い 台所 の 奥 に 八 畳 の 和室 。 二 年 前 の まま だった 。 ブルー の 絨毯 、 薄紫 色 の カーテン 、 安っぽい 洋風 の 電灯 を 背丈 より 低い ところ まで 吊 り 下ろして いる 。 折り畳み 式 の テーブル に は 保育 園 の 真 新しい 通 園 手帳 が どっさり 積ま れ 、 ベッド の 脇 に は 色とりどりの ティッシュ の 造花 と 「 ご 」「 入 」「 園 」 の 順で 並んだ 筆 書き の 模造 紙 が あった 。
久子 は 他人 の 家 に 上がり 込んだ か の ように 、 突っ立った まま 落ちつき なく 部屋 を 見回す と 、 視線 を 合わせ ず 「 いつ ? 」 と 聞いた 。
「 今朝 だ 」
「 そう ……。 あたし 、 知ら なかった から 」
「 いい んだ 」
「 あ 、 コーヒー 淹 れる ね 」
「 あと で いい 」
「 淹 れる 」
つつっと 台所 へ 逃げる 久子 の 手首 を 掴ま えた 。 「 やっ……」 久子 は 小さく 発した 。 「 コーヒー 淹 れる んだ から 」
久子 は 無理に 笑顔 を つくり 、 だが 真壁 が 腰 を 引き寄せる と 、 また 顔 を 強 張ら せて 身 を 捩った 。 肘 が 電灯 を 突き 、 紐 が 長い 分 、 呆れる ほど 大きく 揺れて 久子 の 頬 に 繰り返し 陰影 を つくる 。 忘れ かけて いた 香り が 鼻 孔 を くすぐり 、 それ が 悪寒 の ように 全身 を 粟 立た せた 。
言葉 が 見つから なかった 。 真壁 は 久子 を きつく 抱いて 膝 を 折った 。
上気 した 顔 が ティッシュ の 造花 に 埋まった 。 利口 そうな 広い 額 が より 際立ち 、 潤んだ 瞳 が 幾 つ も の 内面 を 訴え つつ 揺れた 。
真壁 が 腕 に 力 を 込める と 、 細い 体 が 弓 の ように 撓った 。 「 だって …… まだ ……」
通 園 手帳 の 山 が 崩れて ドミノ の 残骸 の ように 筋 を 引き 、 辛うじて テーブル の 隅 で 止まった 。 こぼれ そうな 笑顔 の 園 服 が 十 ほど も 並んだ 。 久子 の 下 で 模造 紙 が ガサガサ 騒ぐ 。
中 耳 は 静まり返って いた 。 だが 、 わかる 。
啓二 は 久子 の 温もり を 欲して いる 。