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クラッシェン氏と習得-学習仮説, モニター仮説(クラッシェンの「第二言語習得理論」3)

モニター仮説(クラッシェンの「第二言語習得理論」3)

モニター 仮説 ( The Monitor Hypothesis )

クラッシェン の 考え で は 、 母 語 の 場合 が そう である ように 、 習得 に よって 得た 言語 の 知識 は 、 左脳 の 言語野 に 貯えられ 、 いつでも 自動 的 ・ 無意識 的に 処理 さ れ うる が 、 学習 さ れた 言語 の 知識 は 、 やはり 左 脳 で は ある が 必ずしも 言語野 に 貯えられる わけで は ない 。 それ は 、 メタ 言語 ( ある 言語 を 分析 ・ 記述 する の に 用いる 高次 の 言語 または 記号 の 体系 ) 的 ・ 意識 的に 処理 さ れる もの であり 、 その 言語 の 運用 に あたって は 、 発 話 の 最中 や 直前 ・ 直後 に 、 主として 形式 面 の 調整 ( モニター ) を する 役割 を 果たす だけ である と 言う 。

これ が 「 モニター 仮説 」 であり 、 クラッシェン は 、 この 仮説 で 、 言語 の 運用 能力 は ‘ 習得 ' に よって 獲得 さ れる もの だ と 言って いる 。

‘ 学習 ' に よって 得られた 言語 の 知識 は 、 実際 の 言語 運用 に 際して ‘ モニター ' の 役目 を 果たす だけ であり 、 それ は 時間 の かかる 作業 である ので 、 スムーズな 発 話 能力 を 養う 上 で むしろ マイナス に なる (‘ 学習 ' に よって 得た 知識 は 、 作文 や 筆記 試験 など で は 役 に 立つ ) と 主張 して いる のである 。 ‘ モニター ' を 具体 的に 説明 しよう 。

‘ 意識 的な 学習 ' に よって 得た 知識 は 、 発 話 が 行わ れる 前 や 最中 に 、 学習 した 規則 に 照らして その 規則 に ‘ 違反 し ない ように ' 監督 したり 、 発 話 の 後 で 、 その 発 話 が 正しい か どう か を チェック して 誤り が あれば それ を 訂正 する 機能 を 果たす 。

しかし 、‘ モニター ' が 過剰に 作用 する と 、‘ 正しい 文 ' を 言おう と する あまり 、 言いよどみ や 言い 直し の 多い 、 流暢 さ に 欠ける 話し 方 に なったり 、 極端な 場合 は 何も 言え なく なったり する ような マイナス の 効果 が ある 。

つまり 、 授業 や 教科 書 から 学んだ ‘ 知識 ' は 、 学習 者 の モニター を 肥大 化 し 、‘ 流暢 さ ' を 著しく 阻害 する こと に なる と いう わけである 。

このように 、‘ 習得 ' と ‘ 学習 ' を 全く 切り離し 、 学習 した 知識 は 言語 運用 能力 の 獲得 に ほとんど 役 に 立た ない 、 と する 「 モニター 仮説 」 は 、 当然 議論 の 的に なる ように なった 。

教室 で いくら 言語 を 学習 して も 、 結果 的に 使いこなせる ように なら ない 、 と なる と 、 やはり 語学 教師 や 関係 者 に とって は 大 問題 である 。

「 モニター 仮説 」 は 、 ある 意味 で 我々 も 納得 さ せられる 要素 が ある 。 例えば 、3 人 称 単数 現在 の - s など は 、 知識 と して は わかって いる のに 、 実際 に 話したり 書いたり する 時 は 使え ない 、 と いう こと が ある 。

クラッシェン に よれば 、 これ は 意識 的に 学習 した 知識 で 、 本当の 意味 で 習得 さ れた もの で は ない 。 だから 、 自分 の 注意 が 発 話 の 正確 さ に 向けられて いる 場合 に しか 、 そのような 知識 は 役 に 立た ない 、 と いう わけだ 。 議論 の 的 と なって いる の は 、 クラッシェン は 、 意識 的な 学習 が 、 言語 運用 能力 の 獲得 に 決して つながら ない 、 と して いる ところ だ 。

これ に 対して は 、‘ 知識 の 自動 化 ' と いう こと を 主張 する 人 達 が 反対の 論 を 述べて いる 。

例えば 、 先程 の 3 人 称 単数 現在 の - s に して も 、 最初の うち は 、 うまく 使いこなせ ない こと が 多く あって も 、 何度 も 意識 的に ‘ 自己 モニター 機能 ' を 使い ながら 、 使い 慣れて くる こと に よって 、 ほとんど 無意識 的に スムーズに 使いこなせる ように なる 。

これ が ‘ 知識 の 自動 化 ' であり 、 学習 した 知識 も 、 言語 運用 能力 の 獲得 に 大いに 貢献 できる 、 と いう 立場 である 。

学習 で 得た 知識 が ‘ 自動 化 ' する こと に よって 、 スムーズな 言語 運用 が できる ように なって も 、 それ は 確かに ‘ 習得 ' に よって 言語 を 運用 して いる 状態 と は 、 厳密に 言って 違い が ある の かも しれ ない 。

しかし 、 学習 さ れた 知識 が 、 コミュニケーション の 場面 で は 役 に 立た ない 、 と する クラッシェン の 考え は 極端 過ぎる 、 と いう 意見 が 大勢 を 占めて いる 。

モニター仮説(クラッシェンの「第二言語習得理論」3) もにたー かせつ|クラッシェン の|だい ふた げんご しゅうとく りろん Monitor Hypothesis (Krashen's "Theory of Second Language Acquisition "3) 모니터 가설(클라센의 '제2언어 습득 이론'에 근거) 监控假说(Krashen 的第二语言习得理论 3) 监控器假设(克拉申的 "第二语言习得理论 "3)。

モニター 仮説 ( The Monitor Hypothesis ) もにたー|かせつ|the|monitor|hypothesis Hipótese do Monitor

クラッシェン の 考え で は 、 母 語 の 場合 が そう である ように 、 習得 に よって 得た 言語 の 知識 は 、 左脳 の 言語野 に 貯えられ 、 いつでも 自動 的 ・ 無意識 的に 処理 さ れ うる が 、 学習 さ れた 言語 の 知識 は 、 やはり 左 脳 で は ある が 必ずしも 言語野 に 貯えられる わけで は ない 。 ||かんがえ|||はは|ご||ばあい|||||しゅうとく|||えた|げんご||ちしき||ひだり のう||げんご の||ちょ え られ||じどう|てき|むいしき|てきに|しょり|||||がくしゅう|||げんご||ちしき|||ひだり|のう|||||かならずしも|げんご の||ちょ え られる||| In Kraschen's view, as in the case of the mother tongue, the knowledge of the language acquired through learning is stored in the language area of the left brain, and can be processed automatically and unconsciously at any time. Knowledge of the learned language is not necessarily stored in the language field, although it is still in the left brain. 按照克拉申的想法,透過習得獲得的語言知識儲存在左半球的語言區,可以隨時自動、無意識地加工,就像人的母語一樣,但無法學習所學到的語言知識仍然儲存在左半球,但不一定儲存在語言區。 それ は 、 メタ 言語 ( ある 言語 を 分析 ・ 記述 する の に 用いる 高次 の 言語 または 記号 の 体系 ) 的 ・ 意識 的に 処理 さ れる もの であり 、 その 言語 の 運用 に あたって は 、 発 話 の 最中 や 直前 ・ 直後 に 、 主として 形式 面 の 調整 ( モニター ) を する 役割 を 果たす だけ である と 言う 。 |||げんご||げんご||ぶんせき|きじゅつ||||もちいる|こうじ||げんご||きごう||たいけい|てき|いしき|てきに|しょり||||||げんご||うんよう||||はつ|はなし||さい なか||ちょくぜん|ちょくご||しゅとして|けいしき|おもて||ちょうせい|もにたー|||やくわり||はたす||||いう It is a metalanguage (a system of higher-order languages or symbols used to analyze and describe a language) and is consciously processed, and in the operation of that language, it is the most spoken language. It is said that it only plays the role of mainly adjusting (monitoring) the formal aspect immediately before and after the middle and immediately before. 它是一種有意識地、有意識地進行處理的元語言(用於分析和描述語言的高階語言或符號系統),並且在使用該語言時,使用了話語中最重要的方面。據說,在過程中,緊前、緊後,主要起到形式方面的調整(監督)作用。

これ が 「 モニター 仮説 」 であり 、 クラッシェン は 、 この 仮説 で 、 言語 の 運用 能力 は ‘ 習得 ' に よって 獲得 さ れる もの だ と 言って いる 。 ||もにたー|かせつ|||||かせつ||げんご||うんよう|のうりょく||しゅうとく|||かくとく||||||いって| This is the "monitor hypothesis," and Krashen says that in this hypothesis, language proficiency is acquired by'learning'.

‘ 学習 ' に よって 得られた 言語 の 知識 は 、 実際 の 言語 運用 に 際して ‘ モニター ' の 役目 を 果たす だけ であり 、 それ は 時間 の かかる 作業 である ので 、 スムーズな 発 話 能力 を 養う 上 で むしろ マイナス に なる (‘ 学習 ' に よって 得た 知識 は 、 作文 や 筆記 試験 など で は 役 に 立つ ) と 主張 して いる のである 。 がくしゅう|||え られた|げんご||ちしき||じっさい||げんご|うんよう||さいして|もにたー||やくめ||はたす|||||じかん|||さぎょう|||すむーずな|はつ|はなし|のうりょく||やしなう|うえ|||まいなす|||がくしゅう|||えた|ちしき||さくぶん||ひっき|しけん||||やく||たつ||しゅちょう||| The linguistic knowledge gained through'learning' only serves as a'monitor' in actual linguistic performance, and it is a time-consuming task, so it is necessary to cultivate smooth speech ability. Rather, it claims to be negative (the knowledge gained through'learning'is useful in writing and written exams, etc.). 透過「學習」獲得的語言知識只是在實際語言使用過程中起到「監視器」的作用,而且由於這是一項耗時的任務,因此培養流暢的口語能力很重要。「學習」在論文、筆試等中很有用。 ‘ モニター ' を 具体 的に 説明 しよう 。 もにたー||ぐたい|てきに|せつめい| Let's explain 'monitor' specifically.

‘ 意識 的な 学習 ' に よって 得た 知識 は 、 発 話 が 行わ れる 前 や 最中 に 、 学習 した 規則 に 照らして その 規則 に ‘ 違反 し ない ように ' 監督 したり 、 発 話 の 後 で 、 その 発 話 が 正しい か どう か を チェック して 誤り が あれば それ を 訂正 する 機能 を 果たす 。 いしき|てきな|がくしゅう|||えた|ちしき||はつ|はなし||おこなわ||ぜん||さい なか||がくしゅう||きそく||てらして||きそく||いはん||||かんとく||はつ|はなし||あと|||はつ|はなし||ただしい|||||ちぇっく||あやまり|||||ていせい||きのう||はたす The knowledge gained through'conscious learning'is supervised before or during the speech, in the light of the rule learned, so as not to violate the rule, or after the speech. It functions to check whether the utterance is correct and correct any mistakes. 透過「有意識學習」所獲得的知識,可以用來監督說話之前、說話過程中、說話之後「不違反」所學的規則,起到檢查說話是否正確、糾正錯誤的作用。

しかし 、‘ モニター ' が 過剰に 作用 する と 、‘ 正しい 文 ' を 言おう と する あまり 、 言いよどみ や 言い 直し の 多い 、 流暢 さ に 欠ける 話し 方 に なったり 、 極端な 場合 は 何も 言え なく なったり する ような マイナス の 効果 が ある 。 |もにたー||かじょうに|さよう|||ただしい|ぶん||いおう||||いいよどみ||いい|なおし||おおい|りゅうちょう|||かける|はなし|かた|||きょくたんな|ばあい||なにも|いえ|||||まいなす||こうか|| However, when the'monitor'acts excessively, it tries to say the'correct sentence', so it becomes stagnation and rephrasing, it becomes a poorly fluent speech, and in extreme cases it becomes impossible to say anything. It has a negative effect like that. 然而,當“班長”工作過多時,該人會過於努力地說出“正確的句子”,從而導致大量的猶豫和改寫,說話不流利,甚至在極端情況下說不出話來。任何事情都有。有一些負面影響。

つまり 、 授業 や 教科 書 から 学んだ ‘ 知識 ' は 、 学習 者 の モニター を 肥大 化 し 、‘ 流暢 さ ' を 著しく 阻害 する こと に なる と いう わけである 。 |じゅぎょう||きょうか|しょ||まなんだ|ちしき||がくしゅう|もの||もにたー||ひだい|か||りゅうちょう|||いちじるしく|そがい||||||| In other words, the'knowledge'learned from lessons and textbooks can bloat the learner's monitor and significantly impede'fluency'. 換句話說,從課堂和課本上學到的「知識」會擴大學習者的視野,嚴重阻礙「流暢性」。

このように 、‘ 習得 ' と ‘ 学習 ' を 全く 切り離し 、 学習 した 知識 は 言語 運用 能力 の 獲得 に ほとんど 役 に 立た ない 、 と する 「 モニター 仮説 」 は 、 当然 議論 の 的に なる ように なった 。 |しゅうとく||がくしゅう||まったく|きりはなし|がくしゅう||ちしき||げんご|うんよう|のうりょく||かくとく|||やく||たた||||もにたー|かせつ||とうぜん|ぎろん||てきに||| In this way, the "monitor hypothesis", which completely separates'learning'and'learning' and states that the learned knowledge is of little use in the acquisition of linguistic performance ability, has naturally become controversial. 這樣一來,將「習得」與「學習」完全區分開來、認為所學知識對於語言熟練程度的獲得作用不大的「監控假說」自然就成為了爭論的焦點。

教室 で いくら 言語 を 学習 して も 、 結果 的に 使いこなせる ように なら ない 、 と なる と 、 やはり 語学 教師 や 関係 者 に とって は 大 問題 である 。 きょうしつ|||げんご||がくしゅう|||けっか|てきに|つかいこなせる||||||||ごがく|きょうし||かんけい|もの||||だい|もんだい| No matter how much you learn a language in the classroom, you will not be able to use it as a result, which is still a big problem for language teachers and related parties. 無論在課堂上上學了多少語言,當他們無法掌握該語言時,對於語言教師和其他相關人員來說仍然是一個大問題。

「 モニター 仮説 」 は 、 ある 意味 で 我々 も 納得 さ せられる 要素 が ある 。 もにたー|かせつ|||いみ||われわれ||なっとく||せら れる|ようそ|| The "monitor hypothesis" has, in a sense, an element that we are convinced of. 從某種意義上說,「監控假說」具有令我們信服的要素。 例えば 、3 人 称 単数 現在 の - s など は 、 知識 と して は わかって いる のに 、 実際 に 話したり 書いたり する 時 は 使え ない 、 と いう こと が ある 。 たとえば|じん|そや|たんすう|げんざい|||||ちしき|||||||じっさい||はなしたり|かいたり||じ||つかえ|||||| For example, the current third-person singular --s, etc., may be known as knowledge, but cannot be used when actually speaking or writing.

クラッシェン に よれば 、 これ は 意識 的に 学習 した 知識 で 、 本当の 意味 で 習得 さ れた もの で は ない 。 |||||いしき|てきに|がくしゅう||ちしき||ほんとうの|いみ||しゅうとく|||||| According to Krashen, this is consciously learned knowledge, not what it is truly learned. だから 、 自分 の 注意 が 発 話 の 正確 さ に 向けられて いる 場合 に しか 、 そのような 知識 は 役 に 立た ない 、 と いう わけだ 。 |じぶん||ちゅうい||はつ|はなし||せいかく|||むけ られて||ばあい||||ちしき||やく||たた|||| That is why such knowledge is only useful if one's attention is directed to the accuracy of the speech. 因此,只有當一個人的注意力集中在話語的準確性上時,這些知識才有用。 議論 の 的 と なって いる の は 、 クラッシェン は 、 意識 的な 学習 が 、 言語 運用 能力 の 獲得 に 決して つながら ない 、 と して いる ところ だ 。 ぎろん||てき||||||||いしき|てきな|がくしゅう||げんご|うんよう|のうりょく||かくとく||けっして||||||| The controversial point is that Krashen argues that conscious learning never leads to the acquisition of linguistic performance. 爭論的焦點是克拉申認為有意識的學習永遠不會導致語言熟練程度的獲得。

これ に 対して は 、‘ 知識 の 自動 化 ' と いう こと を 主張 する 人 達 が 反対の 論 を 述べて いる 。 ||たいして||ちしき||じどう|か|||||しゅちょう||じん|さとる||はんたいの|ろん||のべて| On the other hand, those who insist on'automation of knowledge'have the opposite argument.

例えば 、 先程 の 3 人 称 単数 現在 の - s に して も 、 最初の うち は 、 うまく 使いこなせ ない こと が 多く あって も 、 何度 も 意識 的に ‘ 自己 モニター 機能 ' を 使い ながら 、 使い 慣れて くる こと に よって 、 ほとんど 無意識 的に スムーズに 使いこなせる ように なる 。 たとえば|さきほど||じん|そや|たんすう|げんざい||||||さいしょの||||つかいこなせ||||おおく|||なんど||いしき|てきに|じこ|もにたー|きのう||つかい||つかい|なれて||||||むいしき|てきに|すむーずに|つかいこなせる|| For example, even with the current 3rd person singular --s, even if there are many things that you cannot use well at the beginning, you will be accustomed to using the'self-monitoring function' many times consciously. By coming, you will be able to use it smoothly and almost unconsciously. 例如前面提到的第三人稱單數現在時,雖然一開始你可能用不好,但只要有意識地反複使用‘自我監控功能’,你就會習慣了。通過學習這一點,您將能夠幾乎在不知不覺中順利地使用它。

これ が ‘ 知識 の 自動 化 ' であり 、 学習 した 知識 も 、 言語 運用 能力 の 獲得 に 大いに 貢献 できる 、 と いう 立場 である 。 ||ちしき||じどう|か||がくしゅう||ちしき||げんご|うんよう|のうりょく||かくとく||おおいに|こうけん||||たちば| This is'knowledge automation', and the position is that the learned knowledge can greatly contribute to the acquisition of linguistic performance.

学習 で 得た 知識 が ‘ 自動 化 ' する こと に よって 、 スムーズな 言語 運用 が できる ように なって も 、 それ は 確かに ‘ 習得 ' に よって 言語 を 運用 して いる 状態 と は 、 厳密に 言って 違い が ある の かも しれ ない 。 がくしゅう||えた|ちしき||じどう|か|||||すむーずな|げんご|うんよう||||||||たしかに|しゅうとく|||げんご||うんよう|||じょうたい|||げんみつに|いって|ちがい|||||| Even if the knowledge gained from learning can be'automated'to enable smooth language operation, it is true that the state of operating the language by'learning' is strictly speaking. There may be a difference. 即使透過學習獲得的知識變得“自動化”,可以順利地使用語言,但嚴格來說,這肯定不是透過“習得”使用語言的狀態,可能會有區別。

しかし 、 学習 さ れた 知識 が 、 コミュニケーション の 場面 で は 役 に 立た ない 、 と する クラッシェン の 考え は 極端 過ぎる 、 と いう 意見 が 大勢 を 占めて いる 。 |がくしゅう|||ちしき||こみゅにけーしょん||ばめん|||やく||たた||||||かんがえ||きょくたん|すぎる|||いけん||おおぜい||しめて| However, the majority of the opinion is that Krashen's idea that learned knowledge is useless in the context of communication is too extreme.