第 三 の 手記 一 (4 )
自分 は 、その 店 の お客 の ようで も あり 、亭主 の ようで も あり 、走り使い の ようで も あり 、親戚 の 者 の ようで も あり 、はた から 見て 甚 はなはだ 得 態 えたい の 知れない 存在 だった 筈 なのに 、「世間 」は 少しも あやしま ず 、そうして その 店 の 常連 たち も 、自分 を 、葉 ちゃん 、葉 ちゃん と 呼んで 、ひどく 優しく 扱い 、そうして お酒 を 飲ま せて くれる のでした 。
自分 は 世の中 に 対して 、次第に 用心 し なく なりました 。 世の中 と いう ところ は 、そんなに 、おそろしい ところ で は 無い 、と 思う ように なりました 。 つまり 、 これ まで の 自分 の 恐怖 感 は 、 春 の 風 に は 百 日 咳 ひ ゃく にち ぜ き の 黴菌 ばいきん が 何 十万 、 銭湯 に は 、 目 の つぶれる 黴菌 が 何 十万 、 床屋 に は 禿頭 とくとう 病 の 黴菌 が 何 十万 、 省 線 の 吊皮 つりかわ に は 疥癬 かいせん の 虫 が うようよ 、 または 、 お さしみ 、 牛 豚肉 の 生 焼け に は 、 さ なだ 虫 の 幼虫 やら 、 ジストマ やら 、 何やら の 卵 など が 必ず ひそんで いて 、 また 、 はだし で 歩く と 足 の 裏 から ガラス の 小さい 破片 が はいって 、 その 破片 が 体 内 を 駈 け めぐり 眼 玉 を 突いて 失明 させる 事 も ある と か いう 謂 わ ば 「 科学 の 迷信 」 に おびやかされて いた ような もの な のでした 。 それ は 、たしかに 何 十万 も の 黴菌 の 浮び 泳ぎ うごめいて いる の は 、「科学的 」に も 、正確な 事 でしょう 。 と同時に 、その 存在 を 完全に 黙殺 さえ すれば 、それ は 自分 と みじん の つながり も 無くなって たちまち 消え失せる 「科学 の 幽霊 」に 過ぎない のだ と いう 事 を も 、自分 は 知る ように なった のです 。 お 弁当 箱 に 食べ 残し の ごはん 三 粒 、 千万人 が 一 日 に 三 粒 ずつ 食べ 残して も 既に それ は 、 米 何 俵 を むだに 捨てた 事 に なる 、 と か 、 或いは 、 一 日 に 鼻 紙 一 枚 の 節約 を 千万人 が 行う ならば 、 どれ だけ の パルプ が 浮く か 、 など と いう 「 科学 的 統計 」 に 、 自分 は 、 どれ だけ おびやかさ れ 、 ごはん を 一 粒 でも 食べ 残す 度 毎 に 、 また 鼻 を かむ 度 毎 に 、 山ほど の 米 、 山ほど の パルプ を 空費 する ような 錯覚 に 悩み 、 自分 が いま 重大な 罪 を 犯して いる みたいな 暗い 気持 に なった もの です が 、 しかし 、 それ こそ 「 科学 の 嘘 」「 統計 の 嘘 」「 数学 の 嘘 」 で 、 三 粒 の ごはん は 集められる もの で なく 、 掛算 割算 の 応用 問題 と して も 、 まことに 原始 的で 低 能 な テーマ で 、 電気 の ついてない 暗い お 便所 の 、 あの 穴 に人 は 何度 に いち ど 片 脚 を 踏みはずして 落下 させる か 、 または 、 省 線 電車 の 出入 口 と 、 プラットホーム の 縁 へり と の あの 隙間 に 、 乗客 の 何人 中 の 何人 が 足 を 落とし 込む か 、 そんな プロバビリティ を 計算 する の と 同じ 程度 に ばからしく 、 それ は 如何 いかにも 有り 得る 事 の ようで も あり ながら 、 お 便所 の 穴 を またぎ そこねて 怪我 を した と いう 例 は 、 少しも 聞か ない し 、 そんな 仮説 を 「 科学 的 事実 」 と して 教え込ま れ 、 それ を 全く 現実 と して 受取り 、 恐怖 して いた 昨日 まで の 自分 を い と おしく 思い 、 笑い たく 思った くらい に 、 自分 は 、 世の中 と いう もの の 実体 を 少しずつ 知って 来た と いう わけな のでした 。
そう は 言って も 、やはり 人間 と いう もの が 、まだまだ 、自分 に は おそろしく 、店 の お客 と 逢う のに も 、お酒 を コップ で 一杯 ぐい と 飲んで から でなければ いけませんでした 。 こわい もの 見た さ 。 自分 は 、毎晩 、それ でも お店 に 出て 、子供 が 、実は 少し こわがっている 小動物 など を 、かえって 強く ぎゅっと 握って しまう みたいに 、店 の お客 に 向って 酔って つたない 芸術論 を 吹きかける ように さえ なりました 。
漫画 家 。 ああ 、しかし 、自分 は 、大きな 歓楽 よろこび も 、また 、大きな 悲哀 かなしみ も ない 無名 の 漫画家 。 いかに 大きな 悲哀 かなしみ が あと で やって 来て も いい 、 荒っぽい 大きな 歓楽 よろこび が 欲しい と 内心 あせって は いて も 、 自分 の 現在 の よろこび たる や 、 お 客 と むだ 事 を 言い合い 、 お 客 の 酒 を 飲む 事 だけ でした 。
京 橋 へ 来て 、 こういう くだらない 生活 を 既に 一 年 ちかく 続け 、 自分 の 漫画 も 、 子供 相手 の 雑誌 だけ で なく 、 駅 売り の 粗悪で 卑猥 ひわ いな 雑誌 など に も 載る よう に なり 、 自分 は 、 上司 幾 太 ( 情 死 、 生きた ) と いう 、 ふざけ 切った 匿名 で 、 汚い はだか の 絵 など 画 き 、 それ にたいてい ルバイヤット の 詩 句 を 插入 そうにゅう しました 。
無駄な 御 祈り なんか 止 よせったら
涙 を 誘う もの なんか かなぐりすてろ
ま ア 一 杯 いこう 好 い こと ばかり 思 出して
よけいな 心づかい なんか 忘れっち まい な
不安 や 恐怖 も て 人 を 脅やかす 奴 輩 や から は
自 みずから の 作り し 大それた 罪 に 怯 おびえ
死 に し もの の 復讐 ふくしゅう に 備え ん と
自 みずから の 頭 に たえず 計 い を 為 なす
よべ 酒 充 ち て 我 ハート は 喜び に 充 ち
けさ さめて 只 ただ に 荒涼
いぶかし 一夜 ひと よ さ の 中
様変り たる 此 この 気分 よ
祟 たたり なんて 思う こと 止 やめて くれ
遠く から 響く 太鼓 の ように
何 が なしそ いつ は 不安 だ
屁 へ ひった こと 迄 まで 一 々 罪 に 勘定 されたら 助から ん わ い
正義 は 人生 の 指針 たり と や ?
さらば 血 に 塗られたる 戦場 に
暗殺者 の 切 尖 きっさ き に
何の 正義 か 宿れ る や ?
いずこ に 指導 原理 あり や ?
いかなる 叡智 えいち の 光 あり や ?
美 うるわしく も 怖 おそろしき は 浮世 なれ
かよわき 人 の 子 は 背負 切れぬ 荷 を ば 負わさ れ
どうにも できない 情 慾 の 種子 を 植えつけられた 許 ばかりに
善 だ 悪 だ 罪 だ 罰 だ と 呪 の ろ わる る ばかり
どうにも でき ない 只 まごつく ばかり
抑え 摧 くだく 力 も 意志 も 授けられ ぬ 許 り に
どこ を どう 彷徨 うろつき まわって たんだい
ナニ 批判 検討 再 認識 ?
ヘッ 空 むなしき 夢 を あり も しない 幻 を
エヘッ 酒 を 忘れた ん で みんな 虚 仮 こけ の 思案 さ
どう だ 此涯 は て もない 大空 を 御 覧よ
此中 に ポッチリ 浮んだ 点じ ゃい
此 地球 が 何 んで 自転 する の か 分る もんか
自転 公転 反転 も 勝手で すわ い
至る処 ところ に 至高 の 力 を 感じ
あらゆる 国 に あらゆる 民族 に
同一 の 人間性 を 発見 する
我 は 異端 者 なり と か や
みんな 聖 経 を よみ違えて ん の よ
で なきゃ 常識 も 智 慧 ちえ もない の よ
生身 いきみ の 喜び を 禁じたり 酒 を 止めたり
いい わ ムスタッファ わたし そんな の 大嫌い
けれども 、その頃 、自分 に 酒 を 止めよ 、と すすめる 処女 が いました 。
「いけない わ 、毎日 、お 昼 から 、酔って いらっしゃる 」
バア の 向い の 、小さい 煙草屋 の 十七 、八 の 娘 でした 。 ヨシ ちゃん と 言い 、色 の 白い 、八重歯 の ある 子 でした 。 自分 が 、煙草 を 買い に 行く たび に 、笑って 忠告 する のでした 。
「なぜ 、いけない んだ 。 どうして 悪い んだ 。 ある だけ の 酒 を のんで 、人 の 子 よ 、憎悪 を 消せ 消せ 消せ 、って ね 、むかし ペルシャ の ね 、まあ よそう 、悲しみ 疲れ たる ハート に 希望 を 持ち 来す は 、ただ 微醺 びくん を もたらす 玉杯 なれ 、って ね 。 わかる かい 」
「わから ない 」
「この 野郎 。 キス して やる ぞ 」
「して よ 」
ちっとも 悪びれ ず 下唇 を 突き出す のです 。
「馬鹿 野郎 。 貞 操 観念 、……」
しかし 、ヨシ ちゃん の 表情 に は 、あきらかに 誰 に も 汚されて いない 処女 の におい が していました 。
とし が 明けて 厳寒 の 夜 、自分 は 酔って 煙草 を 買い に 出て 、その 煙草屋 の 前 の マンホール に 落ちて 、ヨシちゃん 、たすけて くれえ 、と 叫び 、ヨシちゃん に 引き上げられ 、右腕 の 傷 の 手当 を 、ヨシちゃん に して もらい 、その 時 ヨシちゃん は 、しみじみ 、
「飲み すぎます わ よ 」
と 笑わ ず に 言いました 。
自分 は 死ぬ の は 平気 な んだ けど 、怪我 を して 出血 して そうして 不具者 など に なる のは 、まっぴら ごめん の ほう ですので 、ヨシ ちゃん に 腕 の 傷 の 手当 を して もらい ながら 、酒 も 、もう いい加減に よそう かしら 、と 思った のです 。
「 やめる 。 あした から 、一滴 も 飲まない 」
「 ほんとう ? 」
「きっと 、やめる 。 やめたら 、ヨシ ちゃん 、僕 の お嫁 に なって くれる かい ? 」
しかし 、お 嫁 の 件 は 冗談 でした 。
「モチ よ 」
モチ と は 、「勿論 」の 略語 でした 。 モボ だの 、モガ だの 、その頃 いろんな 略語 が はやって いました 。
「 ようし 。 ゲンマン しよう 。 きっと やめる 」
そうして 翌 あくる 日 、 自分 は 、 やはり 昼 から 飲みました 。
夕方 、ふらふら 外 へ 出て 、ヨシ ちゃん の 店 の 前 に 立ち 、
「ヨシ ちゃん 、ごめん ね 。 飲んじゃった 」
「あら 、いやだ 。 酔った 振り なんか して 」
ハッと しました 。 酔い も さめた 気持 でした 。
「いや 、本当 なんだ 。 本当に 飲んだ のだ よ 。 酔った 振り なんか して る んじゃ ない 」
「からかわ ないで よ 。 ひと が わるい 」
てんで 疑おう と し ない のです 。
「見れば わかり そうな もの だ 。 きょう も 、お昼 から 飲んだ のだ 。 ゆるして ね 」
「お 芝居 が 、うまい の ねえ 」
「芝居 じゃあ ない よ 、馬鹿 野郎 。 キス して やる ぞ 」
「して よ 」
「いや 、僕 に は 資格 が 無い 。 お 嫁 に もらう の も あきらめ なくちゃ ならん 。 顔 を 見なさ い 、赤い だろう ? 飲んだ のだ よ 」
「それ あ 、夕陽 が 当っている から よ 。 かつごう たって 、だめ よ 。 きのう 約束 した んです もの 。 飲む 筈 が 無い じゃない の 。 ゲンマン した んです もの 。 飲んだ なんて 、ウソ 、ウソ 、ウソ 」
薄暗い 店 の 中 に 坐って 微笑 して いる ヨシ ちゃん の 白い 顔 、 ああ 、 よごれ を 知ら ぬ ヴァジニティ は 尊い もの だ 、 自分 は 今 まで 、 自分 より も 若い 処女 と 寝た 事 が ない 、 結婚 しよう 、 どんな 大きな 悲哀 かなしみ が その ため に 後 から やって 来て も よい 、 荒っぽい ほど の 大きな 歓楽 よろこび を 、 生涯 に いち ど で いい 、 処女 性 の 美し さ と は 、 それ は 馬鹿な 詩人 の 甘い 感傷 の 幻 に 過ぎ ぬ と 思って いた けれども 、 やはり この 世の中 に 生きて 在る もの だ 、 結婚 して 春 に なったら 二人 で 自転車 で 青葉 の 滝 を 見 に 行こう 、 と 、 その場で 決意 し 、 所 謂 「 一 本 勝負 」 で 、 その 花 を 盗む の に ためらう 事 を しません でした 。
そうして 自分 たち は 、 やがて 結婚 して 、 それ に 依って 得た 歓楽 よろこび は 、 必ずしも 大きく は ありません でした が 、 その後 に 来た 悲哀 かなしみ は 、 凄 惨 せいさん と 言って も 足りない くらい 、 実に 想像 を 絶して 、 大きく やって 来ました 。 自分 に とって 、「世の中 」は 、やはり 底知れず 、おそろしい ところ でした 。 決して 、そんな 一 本 勝負 など で 、何 から 何まで きまって しまう ような 、なまやさしい ところ でも 無かった のでした 。