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太宰治『人間失格』(No Longer Human by Osamu Dazai), 第三の手記 一 (3) – Text to read

太宰治『人間失格』(No Longer Human by Osamu Dazai), 第三の手記 一 (3)

Advanced 2 Japanese lesson to practice reading

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第 三 の 手記 一 (3)

そういう 時 の 自分 に とって 、幽かな 救い は 、シゲ子 でした 。 シゲ子 は 、その頃 に なって 自分 の 事 を 、何も こだわらず に 「お父ちゃん 」と 呼んで いました 。

「お 父ちゃん 。 お 祈り を する と 、神様 が 、何でも 下さる って 、ほんとう ?

自分 こそ 、その お 祈り を したい と 思いました 。

ああ 、われ に 冷き 意志 を 与え 給え 。 われ に 、「人間 」の 本質 を 知ら しめ 給え 。 人 が 人 を 押しのけて も 、罪 ならず や 。 われ に 、怒り の マスク を 与え 給え 。

「うん 、そう 。 シゲ ちゃん に は 何でも 下さる だろう けれども 、お 父ちゃん に は 、駄目 かも 知れない 」

自分 は 神 に さえ 、おびえて いました 。 神 の 愛 は 信ぜられ ず 、神 の 罰 だけ を 信じて いる のでした 。 信仰 。 それ は 、 ただ 神 の 笞 むち を 受ける ため に 、 うなだれて 審判 の 台 に 向 う 事 の ような 気 が して いる のでした 。 地獄 は 信ぜられて も 、天国 の 存在 は 、どうしても 信ぜられ なかった のです 。

「どうして 、ダメな の ?

「親 の 言いつけ に 、そむいた から 」

「 そう ? お 父ちゃん は とても いい ひと だって 、みんな 言う けど な 」

それ は 、だまして いる から だ 、この アパート の 人 たち 皆 に 、自分 が 好意 を 示されて いる の は 、自分 も 知っている 、しかし 、自分 は 、どれほど 皆 を 恐怖 している か 、恐怖 すれば する ほど 好かれ 、そうして 、こちら は 好かれ る と 好かれ る ほど 恐怖 し 、皆 から 離れて 行かねば ならぬ 、この 不幸な 病癖 を 、シゲ子 に 説明して 聞かせる のは 、至難の 事 でした 。

「シゲ ちゃん は 、いったい 、神様 に 何 を おねだり したい の ?

自分 は 、何気無 さ そうに 話 頭 を 転じました 。

「シゲ子 は ね 、シゲ子 の 本当の お 父ちゃん が ほしい の 」

ぎょっと して 、くらく ら 目 まい しました 。 敵 。 自分 が シゲ子 の 敵 な の か 、シゲ子 が 自分 の 敵 な の か 、とにかく 、ここ に も 自分 を おびやかす おそろしい 大人 が いた のだ 、他人 、不可解な 他人 、秘密 だらけの 他人 、シゲ子 の 顔 が 、にわかに そのように 見えて 来ました 。

シゲ子 だけ は 、 と 思って いた のに 、 やはり 、 この者 も 、 あの 「 不意に 虻 あぶ を 叩き 殺す 牛 の しっぽ 」 を 持って いた のでした 。 自分 は 、それ 以来 、シゲ子 に さえ おどおど しなければ ならなく なりました 。

「色 魔 しきま ! いる かい ?

堀木 が 、また 自分 の ところ へ たずねて 来る ように なって いた のです 。 あの 家出 の 日 に 、あれほど 自分 を 淋しく させた 男 なのに 、それでも 自分 は 拒否 できず 、幽かに 笑って 迎える のでした 。

「お前 の 漫画 は 、なかなか 人気 が 出て いる そう じゃないか 。 アマチュア に は 、 こわい もの 知ら ず の 糞 度胸 くそ どきょう が ある から かなわ ねえ 。 しかし 、油断 する な よ 。 デッサン が 、ちっとも なって や し ない んだ から 」

お 師匠 みたいな 態度 を さえ 示す のです 。 自分 の あの 「お化け 」の 絵 を 、こいつ に 見せたら 、どんな 顔 を する だろう 、と れい の 空転 の 身悶み もだえ を しながら 、

「それ を 言って くれる な 。 ぎゃっと いう 悲鳴 が 出る 」

堀木 は 、いよいよ 得意 そうに 、

「世渡り の 才能 だけ で は 、いつか は 、ボロ が 出る から な 」

世渡り の 才能 。 ……自分 に は 、ほんとうに 苦笑 の 他 は ありません でした 。 自分 に 、世渡り の 才能 ! しかし 、 自分 の よう に人間 を おそれ 、 避け 、 ごまかして いる の は 、 れいの 俗 諺 ぞく げん の 「 さわら ぬ 神 に たたり なし 」 と か いう 怜悧 れい り 狡猾 こう かつ の 処 生 訓 を 遵奉 して いる の と 、 同じ 形 だ 、 と いう 事 に なる のでしょう か 。 ああ 、人間 は 、お互い 何も 相手 を わからない 、まるっきり 間違って 見て い ながら 、無二 の 親友 の つもり で いて 、一生 、それ に 気附かず 、相手 が 死ねば 、泣いて 弔詞 なんか を 読んで いる ので は ない でしょうか 。

堀木 は 、何せ 、(それ は シヅ子 に 押して たのまれて しぶしぶ 引受けた に 違いない のです が )自分 の 家出 の 後 仕末 に 立ち合った ひと な ので 、まるで もう 、自分 の 更生 の 大恩人 か 、月下 氷人 の ように 振舞い 、もっともらしい 顔 を して 自分 に お説教 めいた 事 を 言ったり 、また 、深夜 、酔っぱらって 訪問して 泊ったり 、また 、五円 (きまって 五円 でした )借りて 行ったり する のでした 。

「しかし 、お前 の 、女道楽 も この へん で よすんだ ね 。 これ 以上 は 、世間 が 、ゆるさ ない から な 」

世間 と は 、いったい 、何 の 事 でしょう 。 人間 の 複数 でしょう か 。 どこ に 、その 世間 と いう もの の 実体 が ある のでしょう 。 けれども 、何しろ 、強く 、きびしく 、こわい もの 、と ばかり 思って これ まで 生きて 来た のです が 、しかし 、堀木 に そう 言われて 、ふと 、

「世間 と いう の は 、君 じゃ ない か 」

という 言葉 が 、舌 の 先 まで 出かかって 、堀木 を 怒らせる の が イヤで 、ひっこめました 。

(それ は 世間 が 、ゆるさ ない )

(世間 じゃ ない 。 あなた が 、ゆるさ ない のでしょう ?

(そんな 事 を する と 、世間 から ひどい めに 逢う ぞ )

(世間 じゃ ない 。 あなた でしょう ?

(いま に 世間 から 葬ら れる )

(世間 じゃ ない 。 葬 む る の は 、あなた でしょう ?

汝 なんじ は 、 汝個人 の おそろし さ 、 怪奇 、 悪辣 あくらつ 、 古 狸 ふる だ ぬき 性 、 妖婆 よう ば 性 を 知れ ! など と 、さまざまの 言葉 が 胸中 に 去来した のです が 、自分 は 、ただ 顔 の 汗 を ハンケチ で 拭いて 、

「 冷 汗 ひやあせ 、 冷 汗 」

と 言って 笑った だけ でした 。

けれども 、その 時 以来 、自分 は 、(世間 と は 個人 じゃない か )と いう 、思想 めいた もの を 持つ ように なった のです 。

そうして 、世間 という もの は 、個人 で は なかろう か と 思い はじめて から 、自分 は 、いま まで より は 多少 、自分 の 意志 で 動く 事 が 出来る ように なりました 。 シヅ子 の 言葉 を 借りて 言えば 、自分 は 少し わがままに なり 、おどおど し なく なりました 。 また 、堀木 の 言葉 を 借りて 言えば 、へんに ケチ に なりました 。 また 、シゲ子 の 言葉 を 借りて 言えば 、あまり シゲ子 を 可愛がら なく なりました 。

無口で 、 笑わ ず 、 毎日 々々 、 シゲ子 の おもり を し ながら 、「 キンタ さん と オタ さん の 冒険 」 やら 、 また ノンキ な トウサン の 歴然たる 亜流 の 「 ノンキ 和尚 おしょう 」 やら 、 また 、「 セッカチピンチャン 」 と いう 自分 ながら わけ の わから ぬ ヤケクソ の 題 の 連載 漫画 やら を 、 各社 の 御 注文 ( ぽつりぽつり 、 シヅ子 の 社 の 他 から も 注文 が 来る よう に なって いました が 、 すべて それ は 、 シヅ子 の 社 より も 、 もっと 下品な 謂 わ ば 三流 出版 社 から の 注文 ばかり でした ) に 応じ 、 実に 実に 陰 鬱 な 気持 で 、 のろのろ と 、( 自分 の 画 の 運筆 は 、 非常に おそい ほう でした ) いま は ただ 、 酒 代 が ほしい ばかりに 画 いて 、 そうして 、 シヅ子 が 社 から 帰る と それ と 交代 に ぷい と 外 へ 出て 、 高 円 寺 の 駅 近く の 屋台 や スタンド ・ バア で 安くて 強い 酒 を 飲み 、 少し 陽気に なって アパート へ 帰り 、

「見れば 見る ほど 、へんな 顔 を している ねえ 、お前 は 。 ノンキ 和尚 の 顔 は 、実は 、お前 の 寝顔 から ヒント を 得た のだ 」

「あなた の 寝顔 だって 、ずいぶん お老け に なり まして よ 。 四十 男 みたい 」

「お前 の せい だ 。 吸い取ら れた んだ 。 水 の 流れ と 、人 の 身 は あ サ 。 何 を くよくよ 川端 や なあ ぎ い サ 」

「騒が ないで 、早く お やすみ なさい よ 。 それとも 、ごはん を あがります か ?

落ちついて いて 、まるで 相手 に しません 。

「酒 なら 飲む が ね 。 水 の 流れ と 、人 の 身 は あ サ 。 人 の 流れ と 、いや 、水 の 流れ え と 、水 の 身 は あ サ 」

唄い ながら 、シヅ子 に 衣服 を ぬがせられ 、シヅ子の 胸 に 自分 の 額 を 押しつけて 眠って しまう 、それ が 自分 の 日常 でした 。

して その 翌日 あくる ひ も 同じ 事 を 繰返して 、

昨日 きのう に 異 かわら ぬ 慣例 しきたり に 従えば よい 。

即 ち 荒っぽい 大きな 歓楽 よろこび を 避 よけて さえ いれば 、

自然 また 大きな 悲哀 かなしみ も やって 来 こない のだ 。

ゆくて を 塞 ふさぐ 邪魔な 石 を

蟾蜍 ひきがえる は 廻って 通る 。

上田 敏 訳 の ギイ ・シャルル ・クロオ とかいう ひと の 、こんな 詩句 を 見つけた 時 、自分 は ひとり で 顔 を 燃える くらい に 赤く しました 。

蟾蜍 。

(それ が 、自分 だ 。 世間 が ゆるす も 、ゆるさぬ も ない 。 葬 む る も 、葬 むら ぬ も ない 。 自分 は 、犬 より も 猫 より も 劣等 な 動物 な のだ 。 蟾蜍 。 の その そ 動いて いる だけ だ )

自分 の 飲酒 は 、次第に 量 が ふえて 来ました 。 高 円 寺 駅 附近 だけ でなく 、新宿 、銀座 の ほう に まで 出かけて 飲み 、外泊 する 事 さえ あり 、ただ もう 「慣例 しきたり 」に 従わ ぬ よう 、バア で 無 頼漢 の 振り を したり 、片端 から キスしたり 、つまり 、また 、あの 情 死 以前 の 、いや 、あの 頃 より さらに 荒すさん で 野卑 な 酒飲み に なり 、金 に 窮して 、シヅ子 の 衣類 を 持ち出す ほど に なりました 。

ここ へ 来て 、 あの 破れた 奴 凧 に 苦笑 して から 一 年 以上 経って 、 葉桜 の 頃 、 自分 は 、 また も シヅ子 の 帯 やら 襦袢 じゅばん やら を こっそり 持ち出して 質屋 に 行き 、 お 金 を 作って 銀座 で 飲み 、 二 晩 つづけて 外泊 して 、 三 日 目 の 晩 、 さすが に 具合 い 悪い 思い で 、 無意識に 足音 を しのばせて 、 アパート の シヅ子 の 部屋 の 前 まで 来る と 、 中 から 、 シヅ子 と シゲ子 の 会話 が 聞えます 。

「なぜ 、お酒 を 飲む の ?

「お 父ちゃん は ね 、お酒 を 好きで 飲んで いる ので は 、ない んです よ 。 あんまり いい ひと だ から 、だ から 、……」

「いい ひと は 、お酒 を 飲む の ?

「そう で も ない けど 、……」

「お 父ちゃん は 、きっと 、びっくり する わ ね 」

「お きらい かも 知れ ない 。 ほら 、ほら 、箱 から 飛び出した 」

「セッカチ ピンチャン みたい ね 」

「そう ねえ 」

シヅ子 の 、しん から 幸福 そうな 低い 笑い声 が 聞えました 。

自分 が 、ドア を 細く あけて 中 を のぞいて 見ます と 、白 兎 の 子 でした 。 ぴょん ぴょん 部屋 中 を 、はね 廻り 、親子 は それ を 追って いました 。

(幸福な んだ 、この 人 たち は 。 自分 という 馬鹿 者 が 、この 二人 の あいだ に は いって 、いまに 二人 を 滅茶苦茶 に する のだ 。 つつましい 幸福 。 いい 親子 。 幸福 を 、ああ 、もし 神様 が 、自分 の ような 者 の 祈り でも 聞いて くれる なら 、いちど だけ 、生涯 に いちど だけ で いい 、祈る )

自分 は 、そこ に うずくまって 合掌 したい 気持 でした 。 そっと 、ドア を 閉め 、自分 は 、また 銀座 に 行き 、それっきり 、その アパート に は 帰りません でした 。

そうして 、京橋 の すぐ 近く の スタンド ・バア の 二階 に 自分 は 、また も 男 めかけ の 形 で 、寝そべる 事 に なりました 。

世間 。 どうやら 自分 に も 、それ が ぼんやり わかり かけて 来た ような 気 が して いました 。 個人 と 個人 の 争い で 、 しかも 、 その 場 の 争い で 、 しかも 、 その場で 勝てば いい のだ 、 人間 は 決して人間 に 服従 しない 、 奴隷 で さえ 奴隷 らしい 卑屈な シッペ が えし を する もの だ 、 だ から 、 人間 に は その 場 の 一 本 勝負 に たよる 他 、 生き 伸びる 工夫 が つか ぬ のだ 、 大義 名分 らしい もの を 称 と なえて い ながら 、 努力 の 目標 は 必ず 個人 、 個人 を 乗り越えて また 個人 、 世間 の 難解 は 、 個人 の 難解 、 大洋 オーシャン は 世間 で なくて 、 個人 な のだ 、 と 世の中 と いう 大海 の 幻影 に おびえる 事 から 、 多少 解放 せられて 、 以前 ほど 、 あれこれ と 際限 の 無い 心遣い する 事 なく 、 謂 わ ば 差 し 当って の 必要に 応じて 、 いくぶん 図 々 しく 振舞う 事 を 覚えて 来た の です 。

高 円 寺 の アパート を 捨て 、京 橋 の スタンド ・バア の マダム に 、

「わかれて 来た 」

それ だけ 言って 、それで 充分 、つまり 一本 勝負 は きまって 、その 夜 から 、自分 は 乱暴に も そこ の 二階 に 泊り込む 事 に なった のです が 、しかし 、おそろしい 筈 の 「世間 」は 、自分 に 何の 危害 も 加えません でした し 、また 自分 も 「世間 」に 対して 何の 弁明 も しませんでした 。 マダム が 、その 気 だったら 、それ で すべて が いい のでした 。

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