39. 簡潔 の 美 - 上村 松園
簡潔 の 美 - 上村 松園
能楽 の 幽微 で 高 雅 な 動作 、 その 装束 から 来る 色彩 の 動き 、 重なり 、 線 の 曲折 、 声 曲 から 発する 豪 壮 沈痛な 諧律 、 こんな もの が 一緒に なって 、 観る 人 の 心 を 打つ のです 。
その 静かで 幽かな うち に 強い 緊張 みの ある 咽び 顫 う ような 微妙 さ を もつ の は 能楽 唯一 の 境地 で 、 そこ は 口 で 説く こと も 筆 で 描く こと も 容易に 許さ れ ぬ ところ だ と 思います 。 私 は よく 松 篁 と 一緒に 拝見 に 参ります が 、 その 演者 や 舞台 面 や 道具 など を 写生 する ため に 、 特に 前 の 方 に 置いて 貰う のです が 、 つい 妙技 に つり こまれて 、 筆 の 方 が お 留守 に なる こと が あります 。 いつでも 思う こと です が 、 傑作 の 面 を みて います と 、 そこ に 作者 の 魂 を しみじみ と 感ずる こと です 。 装束 の あの 華麗 さ で あり ながら 、 しかも そこ に 沈んだ 美し さ が 漲って いて 、 単なる 華麗 さ で ない の が 実に 好 も しい 感じ が します 。 舞台 に 用いられる 道具 、 それ が 船 であろう が 、 輿 、 車 であろう が 、 如何に 小さな もの でも 、 至極 簡単であって 要領 を 得て います 。 これ は 物 の 簡単 さ を 押 詰めて 押 詰めて 行ける 所 まで 押 詰めて 簡単に した もの です が 、 それでいて 立派に 物 そのもの を 活 か して 、 ちゃんと 要領 を 得さ せて います 。 ここ に も 至れ り 尽くさ れた 馴致 と 洗練 と が あらわれて いる と 思います 。 能楽 は 大まかです が 、 また これほど 微細に 入った もの は ない と 思います 。 つまり 、 道具 の 調子 と 同じ 似通った もの が あって 、 大まかに 説明 して いて 心持ち は こまやかに 表現 されて います 。 です から 能楽 に は 無駄 と いう もの が ありません 。 無駄 が ない のです から 、 緩やかな うち に キッ と した 緊張 が ある のでしょう 。
能楽 ほど 沈んだ 光沢 の ある 芸術 は 他 に 沢山 ない と 思います 。 能楽 に おける 、 この 簡潔 化 さ れた 美 こそ 、 画 に おける 押 詰めた 簡潔 美 の 線 と 合致 する もの である と 思います 。 簡潔 の 美 は 、 能楽 、 絵画 の 世界 だけ で なく 、 あらゆる 芸術 の 世界 ―― 否 、 わたくし たち の 日常 生活 の 上 に も 、 実に 尊い 美 の 姿 で は なかろう か と 思います 。 泥 眼
謡曲 「 葵 の 上 」 から ヒント を 得て 、 生 霊 の すがた を 描いた 「 焔 」 を 制作 した とき の こと である 。
題名 その他 の こと で 金剛 巌 先生 の ところ へ 相談 に まいった 折り 、 嫉妬 の 女 の 美し さ を 出す こと の むつ かし さ を 洩らした ところ 、 金剛 先生 は 、 次 の ような こと を 教えて 下さった 。
「 能 の 嫉妬 の 美人 の 顔 は 眼 の 白 眼 の 所 に 特に 金 泥 を 入れて いる 。 これ を 泥 眼 と 言って いる が 、 金 が 光る 度 に 異様な かがやき 、 閃 き が ある 。 また 涙 が 溜って いる 表情 に も 見える 」
なるほど 、 そう 教えられて 案じ 直して みる と 、 泥 眼 と いう もの の 持つ 不思議な 魅力 が 了解 さ れる のであった 。 わたくし は 、 早速 「 焔 」 の 女 の 眼 へ ―― 絹 の 裏 から 金 泥 を 施して みた 。
それ が 生 霊 の 女 の 眼 が 異様に 光って 、 思わぬ 効果 を 生んで くれた のである 。
泥 眼 と いう 文字 は 、 眼 で 読んで みて も 、 音 で 聞いて みて も 、 如何にも 「 泥 眼 」 の 感じ を 掴みとる こと が 出来る のである が 、 ああいう 話題 の 中 へ 、 すぐに 泥 眼 の こと を 持って 来られる 金剛 先生 の 偉 さ に ―― さすが は 名人 と なる 方 は 、 何 に よら ず 優れて いる と しみじみ 思った こと であった 。