35.2 或る 女
そこ に 愛子 が 白い 西洋 封筒 を 持って 帰って 来た 。 葉子 は 岡 に それ を 見せつける ように 取り上げて 、 取る に も 足ら ぬ 軽い もの でも 扱う ように 飛び 飛び に 読んで みた 。 それ に は ただ あたりまえな 事 だけ が 書いて あった 。 しばらく 目 で 見た 二 人 の 大きく なって 変わった の に は 驚いた と か 、 せっかく 寄って 作って くれた ごちそう を すっかり 賞味 し ない うち に 帰った の は 残念だ が 、 自分 の 性分 と して は あの 上 我慢 が でき なかった のだ から 許して くれ と か 、 人間 は 他人 の 見よう見まね で 育って 行った ので は だめだ から 、 た と い どんな 境遇 に いて も 自分 の 見識 を 失って は いけない と か 、 二 人 に は 倉地 と いう 人間 だけ は どうかして 近づけ させ たく ない と 思う と か 、 そして 最後に 、 愛子 さん は 詠 歌 が なかなか 上手だった が このごろ できる か 、 できる なら それ を 見せて ほしい 、 軍隊 生活 の 乾燥 無味 な のに は 堪えられ ない から と して あった 。 そして あて名 は 愛子 、 貞 世 の 二 人 に なって いた 。 ・・
「 ばかじゃ ない の 愛 さん 、 あなた この お 手紙 で いい気に なって 、 下手くそな ぬ たで も お 見せ 申した んでしょう …… いい気な もの ね …… この 御 本 と 一緒に も お 手紙 が 来た はず ね 」・・
愛子 は すぐ また 立とう と した 。 しかし 葉子 は そう は させ なかった 。 ・・
「 一 本 一 本 お 手紙 を 取り に 行ったり 帰ったり した んじゃ 日 が 暮れます わ 。 …… 日 が 暮れる と いえば もう 暗く なった わ 。 貞 ちゃん は また 何 を して いる だろう …… あなた 早く 呼び に 行って 一緒に お 夕飯 の したく を して ちょうだい 」・・
愛子 は そこ に ある 書物 を ひとかかえ に 胸 に 抱いて 、 うつむく と 愛らしく 二 重 に なる 頤 で 押えて 座 を 立って 行った 。 それ が いかにも しおしお と 、 細かい 挙動 の 一つ一つ で 岡 に 哀訴 する ように 見れば 見なさ れた 。 「 互いに 見かわす ような 事 を して みる が いい 」 そう 葉子 は 心 の 中 で 二 人 を たしなめ ながら 、 二 人 に 気 を 配った 。 岡 も 愛子 も 申し 合わした ように 瞥視 もし 合わ なかった 。 けれども 葉子 は 二 人 が せめて は 目 だけ でも 慰め 合いたい 願い に 胸 を 震わして いる の を はっきり と 感ずる ように 思った 。 葉子 の 心 は おぞましく も 苦々しい 猜疑 の ため に 苦しんだ 。 若 さ と 若 さ と が 互いに きびしく 求め 合って 、 葉子 など を やすやす と 袖 に する まで に その 情 炎 は 嵩 じ て いる と 思う と 耐えられ なかった 。 葉子 は しいて 自分 を 押し しずめる ため に 、 帯 の 間 から 煙草 入れ を 取り出して ゆっくり 煙 を 吹いた 。 煙 管 の 先 が 端 なく 火鉢 に かざした 岡 の 指先 に 触れる と 電気 の ような もの が 葉子 に 伝わる の を 覚えた 。 若 さ …… 若 さ ……。 ・・
そこ に は 二 人 の 間 に しばらく ぎ ご ち ない 沈黙 が 続いた 。 岡 が 何 を いえば 愛子 は 泣いた んだろう 。 愛子 は 何 を 泣いて 岡 に 訴えて いた のだろう 。 葉子 が 数え きれ ぬ ほど 経験 した 幾多 の 恋 の 場面 の 中 から 、 激情 的な いろいろの 光景 が つぎつぎ に 頭 の 中 に 描か れる のだった 。 もう そうした 年齢 が 岡 に も 愛子 に も 来て いる のだ 。 それ に 不思議 は ない 。 しかし あれほど 葉子 に あこがれ おぼれて 、 いわば 恋 以上 の 恋 と も いう べき もの を 崇拝 的に ささげて いた 岡 が 、 あの 純 直 な 上品な そして きわめて 内気な 岡 が 、 見る見る 葉子 の 把 持 から 離れて 、 人 も あろう に 愛子 ―― 妹 の 愛子 の ほう に 移って 行こう と して いる らしい の を 見 なければ なら ない の は なんという 事 だろう 。 愛子 の 涙 ―― それ は 察する 事 が できる 。 愛子 は きっと 涙ながらに 葉子 と 倉地 と の 間 に このごろ 募って 行く 奔放な 放 埒 な 醜 行 を 訴えた に 違いない 。 葉子 の 愛子 と 貞 世 と に 対する 偏 頗 な 愛憎 と 、 愛子 の 上 に 加えられる 御殿 女 中 風 な 圧迫 と を 嘆いた に 違いない 。 しかも それ を あの 女 に 特有な 多 恨 らしい 、 冷ややかな 、 さびしい 表現 法 で 、 そして 息 気づ まる ような 若 さ と 若 さ と の 共鳴 の 中 に ……。 ・・
勃然 と して 焼く ような 嫉妬 が 葉子 の 胸 の 中 に 堅く 凝り ついて 来た 。 葉子 は すり寄って おどおど して いる 岡 の 手 を 力強く 握りしめた 。 葉子 の 手 は 氷 の ように 冷たかった 。 岡 の 手 は 火鉢 に かざして あった せい か 、 珍しく ほてって 臆病 らしい 油 汗 が 手のひら に し とど に にじみ出て いた 。 ・・
「 あなた は わたし が お こわい の 」・・
葉子 は さりげなく 岡 の 顔 を のぞき込む ように して こういった 。 ・・
「 そんな 事 ……」・・
岡 は しょう 事 なし に 腹 を 据えた ように 割合 に しゃんと した 声 で こう いい ながら 、 葉子 の 目 を ゆっくり 見 やって 、 握ら れた 手 に は 少しも 力 を こめよう と は し なかった 。 葉子 は 裏切ら れた と 思う 不満の ため に もう それ 以上 冷静 を 装って は いられ なかった 。 昔 の ように どこまでも 自分 を 失わ ない 、 粘り気 の 強い 、 鋭い 神経 は もう 葉子 に は なかった 。 ・・
「 あなた は 愛子 を 愛して いて くださる の ね 。 そう でしょう 。 わたし が ここ に 来る 前 愛子 は あんなに 泣いて 何 を 申し上げて いた の ? …… おっしゃって ください な 。 愛子 が あなた の ような 方 に 愛して いただける の は もったいない くらい です から 、 わたし 喜ぶ と もと が め立て など は しません 、 きっと 。 だから おっしゃって ちょうだい 。 …… い ゝ え 、 そんな 事 を おっしゃって そりゃ だめ 、 わたし の 目 は まだ これ でも 黒う ご ざん す から 。 …… あなた そんな 水臭い お 仕向け を わたし に なさろう と いう の ? まさか と は 思います が あなた わたし に おっしゃった 事 を 忘れ なさっちゃ 困ります よ 。 わたし は これ でも 真剣な 事 に は 真剣に なる くらい の 誠実 は ある つもりです 事 よ 。 わたし あなた の お 言葉 は 忘れて は おりません わ 。 姉 だ と 今 でも 思って いて くださる なら ほんとうの 事 を おっしゃって ください 。 愛子 に 対して は わたし は わたし だけ の 事 を して 御覧 に 入れます から …… さ 」・・
そう 疳 走った 声 で いい ながら 葉子 は 時々 握って いる 岡 の 手 を ヒステリック に 激しく 振り 動かした 。 泣いて は なら ぬ と 思えば 思う ほど 葉子 の 目 から は 涙 が 流れた 。 さながら 恋人 に 不実 を 責める ような 熱意 が 思う ざま わき立って 来た 。 しまい に は 岡 に も その 心持ち が 移って 行った ようだった 。 そして 右手 を 握った 葉子 の 手 の 上 に 左 の 手 を 添え ながら 、 上下 から はさむ ように 押えて 、 岡 は 震え 声 で 静かに いい出した 。 ・・
「 御存じ じゃ ありません か 、 わたし 、 恋 の できる ような 人間 で は ない の を 。 年 こそ 若う ございます けれども 心 は 妙に いじけて 老いて しまって いる んです 。 どうしても 恋 の 遂げられ ない ような 女 の 方 に で なければ わたし の 恋 は 動きません 。 わたし を 恋して くれる 人 が ある と したら 、 わたし 、 心 が 即座に 冷えて しまう のです 。 一 度 自分 の 手 に 入れたら 、 どれほど 尊い もの でも 大事な もの でも 、 もう わたし に は 尊く も 大事で も なくなって しまう んです 。 だから わたし 、 さびしい んです 。 なんにも 持って いない 、 なんにも むなしい …… そのくせ そう 知り 抜き ながら わたし 、 何 か どこ か に ある ように 思って つかむ 事 の でき ない もの に あこがれます 。 この 心 さえ なく なれば さびしくって も それ で いい のだ が な と 思う ほど 苦しく も あります 。 何 に でも 自分 の 理想 を すぐ あてはめて 熱する ような 、 そんな 若い 心 が ほしく も あります けれども 、 そんな もの は わたし に は 来 は しません …… 春 に でも なって 来る と よけい 世の中 は むなしく 見えて たまりません 。 それ を さっき ふと 愛子 さん に 申し上げた んです 。 そう したら 愛子 さん が お 泣き に なった んです 。 わたし 、 あと で すぐ 悪い と 思いました 、 人 に いう ような 事 じゃ なかった の を ……」・・
こういう 事 を いう 時 の 岡 は いう 言葉 に も 似 ず 冷酷 と も 思わ れる ほど ただ さびしい 顔 に なった 。 葉子 に は 岡 の 言葉 が わかる ようで も あり 、 妙に からんで も 聞こえた 。 そして ちょっと すかさ れた ように 気勢 を そが れた が 、 どんどん わき上がる ように 内部 から 襲い 立てる 力 は すぐ 葉子 を 理不尽に した 。 ・・
「 愛子 が そんな お 言葉 で 泣きましたって ? 不思議です わ ねえ 。 …… それ なら それ で ようご ざん す 。 ……( ここ で 葉子 は 自分 に も 堪え 切れ ず に さめざめ と 泣き出した ) 岡 さん わたし も さびしい …… さびしくって 、 さびしくって ……」・・
「 お 察し 申します 」・・
岡 は 案外 しんみり した 言葉 で そういった 。 ・・
「 お わかり に なって ? 」・・
と 葉子 は 泣き ながら 取りすがる ように した 。 ・・
「 わかります 。 …… あなた は 堕落 した 天使 の ような 方 です 。 御免 ください 。 船 の 中 で 始めて お目にかかって から わたし 、 ちっとも 心持ち が 変わって は いない んです 。 あなた が いらっしゃる んで わたし 、 ようやく さびし さ から のがれます 」・・
「 うそ ! …… あなた は もう わたし に 愛想 を お つかし な の よ 。 わたし の ように 堕落 した もの は ……」・・
葉子 は 岡 の 手 を 放して 、 とうとう ハンケチ を 顔 に あてた 。 ・・
「 そういう 意味 で いった わけじゃ ない んです けれども ……」・・
やや しばらく 沈黙 した 後 に 、 当惑 しきった ように さびしく 岡 は 独 語 ち て また 黙って しまった 。 岡 は どんなに さびし そうな 時 でも なかなか 泣か なかった 。 それ が 彼 を いっそう さびしく 見せた 。 ・・
三 月 末 の 夕方 の 空 は なごやかだった 。 庭先 の 一重 桜 の こずえ に は 南 に 向いた ほう に 白い 花べん が どこ から か 飛んで 来て くっついた ように ちらほら 見え 出して いた 、 その先 に は 赤く 霜 枯れた 杉森 が ゆるやかに 暮れ 初めて 、 光 を 含んだ 青空 が 静かに 流れる ように 漂って いた 。 苔 香 園 の ほう から 園 丁 が 間 遠 に 鋏 を ならす 音 が 聞こえる ばかりだった 。 ・・
若 さ から 置いて 行か れる …… そうした さびし み が 嫉妬 に かわって ひしひし と 葉子 を 襲って 来た 。 葉子 は ふと 母 の 親 佐 を 思った 。 葉子 が 木部 と の 恋 に 深入り して 行った 時 、 それ を 見守って いた 時 の 親 佐 を 思った 。 親 佐 の その 心 を 思った 。 自分 の 番 が 来た …… その 心持ち は たまらない もの だった 。 と 、 突然 定子 の 姿 が 何より も なつかしい もの と なって 胸 に 逼って 来た 。 葉子 は 自分 に も その 突然の 連想 の 経路 は わから なかった 。 突然 も あまりに 突然 ―― しかし 葉子 に 逼 る その 心持ち は 、 さらに 葉子 を 畳 に 突っ伏して 泣か せる ほど 強い もの だった 。 ・・
玄関 から 人 の はいって 来る 気配 が した 。 葉子 は すぐ それ が 倉地 である 事 を 感じた 。 葉子 は 倉地 と 思った だけ で 、 不思議な 憎悪 を 感じ ながら その 動静 に 耳 を すました 。 倉地 は 台所 の ほう に 行って 愛子 を 呼んだ ようだった 。 二 人 の 足音 が 玄関 の 隣 の 六 畳 の ほう に 行った 。 そして しばらく 静かだった 。 と 思う と 、・・
「 いや 」・・
と 小さく 退ける ように いう 愛子 の 声 が 確かに 聞こえた 。 抱きすくめられて 、 もがき ながら 放た れた 声 らしかった が 、 その 声 の 中 に は 憎悪 の 影 は 明らかに 薄かった 。 ・・
葉子 は 雷 に 撃た れた ように 突然 泣きやんで 頭 を あげた 。 ・・
すぐ 倉地 が 階子 段 を のぼって 来る 音 が 聞こえた 。 ・・
「 わたし 台所 に 参ります から ね 」・・
何も 知ら なかった らしい 岡 に 、 葉子 は わずかに それ だけ を いって 、 突然 座 を 立って 裏 階子 に 急いだ 。 と 、 かけ違い に 倉地 は 座敷 に は いって 来た 。 強い 酒 の 香 が すぐ 部屋 の 空気 を よごした 。 ・・
「 や あ 春 に なり おった 。 桜 が 咲いた ぜ 。 おい 葉子 」・・
いかにも 気さく らしく 塩 が れた 声 で こう 叫んだ 倉地 に 対して 、 葉子 は 返事 も でき ない ほど 興奮 して いた 。 葉子 は 手 に 持った ハンケチ を 口 に 押し込む ように くわえて 、 震える 手 で 壁 を 細かく たたく ように し ながら 階子 段 を 降りた 。 ・・
葉子 は 頭 の 中 に 天地 の 壊れ 落ちる ような 音 を 聞き ながら 、 そのまま 縁 に 出て 庭 下駄 を はこう と あせった けれども どうしても はけ ない ので 、 はだし の まま 庭 に 出た 。 そして 次の 瞬間 に 自分 を 見いだした 時 に は いつ 戸 を あけた と も 知ら ず 物 置き 小屋 の 中 に は いって いた 。