「二 」 野 分 夏目 漱石
午 に 逼 る 秋 の 日 は 、 頂く 帽 を 透 して 頭蓋 骨 の なか さえ 朗 か なら しめた か の 感 が ある 。 公園 の ロハ 台 は その ロハ 台 たる の 故 を もって ことごとく ロハ 的に 占領 されて しまった 。 高柳 君 は 、 どこ ぞ 空いた 所 は ある まい か と 、 さっき から ちょうど 三 度 日比谷 を 巡回 した 。 三 度 巡回 して 一 脚 の 腰 掛 も 思う ように 我 を 迎え ない の を 発見 した 時 、 重 そうな 足 を 正門 の かた へ 向けた 。 すると 反対 の 方 から 同 年輩 の 青年 が 早 足 に 這 入って 来て 、 や あと 声 を 掛けた 。 「 や あ 」 と 高柳 君 も 同じ ような 挨拶 を した 。 「 どこ へ 行った ん だい 」 と 青年 が 聞く 。 「 今 ぐるぐる 巡って 、 休もう と 思った が 、 どこ も 空いて いない 。 駄目だ 、 ただ で掛けられる 所 は みんな 人 が 先 へ かけて いる 。 なかなか 抜 目 は ない もん だ な 」「 天気 が いい せい だ よ 。 なるほど 随分 人 が 出て いる ね 。 ―― おい 、 あの 孟 宗 藪 を 回って 噴水 の 方 へ 行く 人 を 見た まえ 」「 どれ 。 あの 女 か 。 君 の 知って る 人 か ね 」「 知る もの か 」「 それ じゃ 何で 見る 必要 が ある のだ い 」「 あの 着物 の 色 さ 」「 何だか 立派な もの を 着て いる じゃ ない か 」「 あの 色 を 竹藪 の 傍 へ 持って行く と 非常に あざやかに 見える 。 あれ は 、 こう 云 う 透明な 秋 の 日 に 照らして 見 ない と 引き立た ない んだ 」「 そう か な 」「 そう か なって 、 君 そう 感じ ない か 」「 別に 感じ ない 。 しかし 奇麗 は 奇麗だ 」「 ただ 奇麗 だけ じゃ 可哀想だ 。 君 は これ から 作家 に なる んだろう 」「 そう さ 」「 それ じゃ もう 少し 感じ が 鋭敏で なくっちゃ 駄目だ ぜ 」「 なに 、 あんな 方 は 鈍くって も いい んだ 。 ほか に 鋭敏な ところ が 沢山 ある んだ から 」「 ハハハハ そう 自信 が あれば 結構だ 。 時に 君 せっかく 逢った もの だ から 、 もう 一 遍 ある こう じゃ ない か 」「 あるく の は 、 真 平 だ 。 これ から すぐ 電車 へ 乗って 帰 えら ない と 午 食 を 食い 損なう 」「 その 午 食 を 奢 ろう じゃ ない か 」「 うん 、 また 今度 に しよう 」「 なぜ ? いや かい 」「 厭 じゃ ない ―― 厭 じゃ ない が 、 始終 御馳走 に ばかり なる から 」「 ハハハ 遠慮 か 。 まあ 来た まえ 」 と 青年 は 否応 なし に 高柳 君 を 公園 の 真中 の 西洋 料理 屋 へ 引っ張り込んで 、 眺望 の いい 二 階 へ 陣 を 取る 。 注文 の 来る 間 、 高柳 君 は 蒼 い 顔 へ 両手 で 突っかい 棒 を して 、 さも つかれた と 云 う 風 に 往来 を 見て いる 。 青年 は 独り で 「 ふん だいぶ 広い な 」「 なかなか 繁昌 する と 見える 」「 なんだ 、 妙な 所 へ 姿 見 の 広告 など を 出して 」 など と 半分 口 の うち で 云 うか と 思ったら 、 やがて 洋 袴 ( ズボン ) の 隠 袋 へ 手 を 入れて 「 や 、 しまった 。 煙草 を 買って くる の を 忘れた 」 と 大きな 声 を 出した 。 「 煙草 なら 、 ここ に ある よ 」 と 高柳 君 は 「 敷島 」 の 袋 を 白い 卓 布 の 上 へ 抛 り 出す 。 ところ へ 下 女 が 御 誂 を 持ってくる 。 煙草 に 火 を 点ける 間 は なかった 。 「 これ は 樽 麦酒 ( たる ビール ) だ ね 。 おい 君 樽 麦酒 の 祝杯 を 一 つ 挙げ ようじゃ ない か 」 と 青年 は 琥珀 色 の 底 から 湧き上がる 泡 を ぐ いと 飲む 。 「 何の 祝杯 を 挙げる のだ い 」 と 高柳 君 は 一口 飲み ながら 青年 に 聞いた 。 「 卒業 祝い さ 」「 今頃 卒業 祝い か 」 と 高柳 君 は 手 の ついた 洋 盃 ( コップ ) を 下 へ おろして しまった 。 「 卒業 は 生涯 に たった 一 度 しか ない んだ から 、 いつまで 祝って も いい さ 」「 たった 一 度 しか ない んだ から 祝わ ないで も いい くらい だ 」「 僕 と まるで 反対だ ね 。 ―― 姉さん 、 この フライ は 何 だい 。 え ? 鮭 か 。 ここん 所 へ 君 、 この オレンジ の 露 を かけて 見た まえ 」 と 青年 は 人 指 指 と 親指 の 間 から ちゅう と 黄色い 汁 を 鮭 の 衣 の 上 へ 落す 。 庭 の 面 に はらはら と 降る 時雨 の ごとく 、 すぐ 油 の 中 へ 吸い込まれて しまった 。 「 なるほど そうして 食う もの か 。 僕 は 装飾 に ついて る の か と 思った 」 姿 見 の 札幌 麦酒 ( さっぽろ ビール ) の 広告 の 本 に 、 大きく なって 構えて いた 二 人 の 男 が 、 この 時 急に 大きな 破れる ような 声 を 出して 笑い 始めた 。 高柳 君 は オレンジ を つまんだ まま 、 厭 な 顔 を して 二 人 を 見る 。 二 人 は いっこう 構わ ない 。 「 いや 行く よ 。 いつでも 行く よ 。 エヘヘヘヘ 。 今夜 行こう 。 あんまり 気 が 早い 。 ハハハハハ 」「 エヘヘヘヘ 。 いえ ね 、 実は ね 、 今夜 あたり 君 を 誘って 繰り出そう と 思って いた んだ 。 え ? ハハハハ 。 なに それ ほど で も ない 。 ハハハハ 。 そら 例 の が 、 あれ でしょう 。 だから 、 どうにも こう に も やり切れない の さ 。 エヘヘヘヘ 、 アハハハハハハ 」 土 鍋 の 底 の ような 赭 い 顔 が 広告 の 姿 見 に 写って 崩れたり 、 かたまったり 、 伸びたり 縮んだり 、 傍若無人に 動揺 して いる 。 高柳 君 は 一種 異様な 厭 な 眼 つき を 転じて 、 相手 の 青年 を 見た 。 「 商人 だ よ 」 と 青年 が 小声 に 云 う 。 「 実業 家 か な 」 と 高柳 君 も 小声 に 答え ながら 、 とうとう オレンジ を 絞る の を やめて しまった 。 土 鍋 の 底 は 、 やがて 勘定 を 払って 、 ついでに 下 女 に からかって 、 二 階 を 買い 切った ような 大きな 声 を 出して 、 そうして 出て 行った 。 「 おい 中野 君 」「 む む ? 」 と 青年 は 鳥 の 肉 を 口 いっぱい 頬張って いる 。 「 あの 連中 は 世の中 を 何と 思って る だろう 」「 何とも 思う もの か ね 。 ただ ああ やって 暮らして いる の さ 」「 羨 やましい な 。 どうかして ―― どうも いかんな 」「 あんな もの が 羨 し くっちゃ 大変だ 。 そんな 考 だ から 卒業 祝 に 同意 し ない んだろう 。 さあ もう 一 杯 景気 よく 飲んだ 」「 あの 人 が 羨ま し い のじゃ ない が 、 ああ 云 う 風 に 余裕 が ある ような 身分 が 羨ま し い 。 いくら 卒業 したって こう 奔命 に 疲れちゃ 、 少しも 卒業 の ありがた 味 は ない 」「 そう か なあ 、 僕 なん ざ 嬉しくって たまらない が なあ 。 我々 の 生命 は これ から だ ぜ 。 今 から そんな 心細い 事 を 云っちゃ あ しようがない 」「 我々 の 生命 は これ から だ のに 、 これ から 先 が 覚 束 ない から 厭 に なって しまう の さ 」「 なぜ ? 何も そう 悲観 する 必要 は ない じゃ ない か 、 大 に やる さ 。 僕 も やる 気 だ 、 いっしょに やろう 。 大 に 西洋 料理 でも 食って ―― そら ビステキ が 来た 。 これ で おしまい だ よ 。 君 ビステキ の 生 焼 は 消化 が いいって 云 う ぜ 。 こいつ は どう か な 」 と 中野 君 は 洋 刀 ( ナイフ ) を 揮って 厚 切り の 一片 を 中央 から 切断 した 。 「 な ある ほど 、 赤い 。 赤い よ 君 、 見た まえ 。 血 が 出る よ 」 高柳 君 は 何にも 答え ず に むしゃ むしゃ 赤い ビステキ を 食い 始めた 。 いくら 赤くて も けっして 消化 が よ さ そうに は 思え なかった 。 人 にわ が 不平 を 訴え ん と する とき 、 わが 不平 が 徹底 せ ぬ うち 、 先方 から 中途 半 把 な 慰藉 を 与え ら る る の は 快 よく ない もの だ 。 わが 不平 が 通じた の か 、 通じ ない の か 、 本当に 気の毒 がる の か 、 御世辞 に 気の毒 がる の か 分 ら ない 。 高柳 君 は ビステキ の 赤 さ 加減 を 眺め ながら 、 相手 は なぜ こう 感情 が 粗大だろう と 思った 。 もう 少し 切り込みたい と 云 う 矢先 へ 持って 来て 、 ざ ああ と 水 を 懸ける の が 中野 君 の 例 である 。 不親切な 人 、 冷淡な 人 ならば 始 め から それ 相応の 用意 を して かかる から 、 いくら 冷たくて も 驚 ろく 気遣 は ない 。 中野 君 が かよう な 人 であった なら 、 出鼻 を はたかれて も さほど に 口惜しく は なかったろう 。 しかし 高柳 君 の 眼 に 映 ずる 中野 輝一 は 美しい 、 賢 こい 、 よく 人情 を 解して 事 理 を 弁えた 秀才 である 。 この 秀才 が 折々 この 癖 を 出す の は 解し にくい 。 彼ら は 同じ 高等 学校 の 、 同じ 寄宿舎 の 、 同じ 窓 に 机 を 並べて 生活 して 、 同じ 文科 に 同じ 教授 の 講義 を 聴いて 、 同じ 年 の この 夏 に 同じく 学校 を 卒業 した のである 。 同じ 年 に 卒業 した もの は 両手 の 指 を 二三 度 屈する ほど いる 。 しかし この 二 人 ぐらい 親しい もの は なかった 。 高柳 君 は 口数 を きか ぬ 、 人 交 り を せ ぬ 、 厭 世 家 の 皮肉 屋 と 云 われた 男 である 。 中野 君 は 鷹 揚 な 、 円満な 、 趣味 に 富んだ 秀才 である 。 この 両人 が 卒 然 と 交 を 訂 して から 、 傍目 に も 不審 と 思わ れる くらい 昵 懇 な 間柄 と なった 。 運命 は 大島 の 表 と 秩父 の 裏 と を 縫い 合せる 。 天下 に 親しき もの が ただ 一 人 あって 、 ただ この 一 人 より ほか に 親しき もの を 見出し 得 ぬ とき 、 この 一 人 は 親 で も ある 、 兄弟 で も ある 。 さては 愛人 である 。 高柳 君 は 単なる 朋友 を もって 中野 君 を 目して は おら ぬ 。 その 中野 君 が わが 不平 を 残り なく 聞いて くれ ぬ の は 残念である 。 途中 で 夕立 に 逢って 思う 所 へ 行か ず に 引き返した ような もの である 。 残り なく 聞いて くれ ぬ 上 に 、 呑気 な 慰藉 を かぶせられる の は なおさら 残念だ 。 膿 を 出して くれ と 頼んだ 腫物 を 、 いい加減の 真綿 で 、 撫で 廻 わさ れ たって む ず 痒 い ばかりである 。 しかし こう 思う の は 高柳 君 の 無理である 。 御 雛 様 に 芸者 の 立て 引き が ない と 云って 攻撃 する の は 御 雛 様 の 恋 を 解せ ぬ もの の 言 草 である 。 中野 君 は 富裕な 名門 に 生れて 、 暖かい 家庭 に 育った ほか 、 浮世 の 雨 風 は 、 炬燵 へ あたって 、 椽側 の 硝子 戸越 ( ガラス ど ご し ) に 眺めた ばかりである 。 友禅 の 模様 は わかる 、 金 屏 の 冴え も 解 せる 、 銀 燭 の 耀 きも まばゆく 思う 。 生きた 女 の 美し さ は なお さらに 眼 に 映る 。 親 の 恩 、 兄弟 の 情 、 朋友 の 信 、 これら を 知ら ぬ ほど の 木 強 漢 で は 無論 ない 。 ただ 彼 の 住む 半球 に は 今 まで いつでも 日 が 照って いた 。 日 の 照って いる 半球 に 住んで いる もの が 、 片足 を とんと 地 に 突いて 、 この 足 の 下 に 真 暗 な 半球 が ある と 気 が つく の は 地理 学 を 習った 時 ばかり である 。 たまに は 歩いて いて 、 気 が つか ぬ と も 限ら ぬ 。 しかし さぞ 暗い 事 だろう と 身 に 沁 みて ぞっと する 事 は ある まい 。 高柳 君 は この 暗い 所 に 淋しく 住んで いる 人間 である 。 中野 君 と は ただ 大地 を 踏まえる 足 の 裏 が 向き合って いる と いう ほか に 何ら の 交渉 も ない 。 縫い 合わさ れた 大島 の 表 と 秩父 の 裏 と は 覚 束 なき 針 の 目 を 忍んで 繋ぐ 、 細い 糸 の 御蔭 である 。 この 細い もの を 、 するする と 抜けば 鹿児島 県 と 埼玉 県 の 間 に は 依然と して 何 百 里 の 山河 が 横 わって いる 。 歯 を 病んだ 事 の ない もの に 、 歯 の 痛 み を 持って行く より も 、 早く 歯 医者 に 馳 け つける の が 近道 だ 。 そう 痛 がらん でも いい さ と 云 われる 病人 は 、 けっして 慰藉 を 受けた と は 思う まい 。 「 君 など は 悲観 する 必要 が ない から 結構だ 」 と 、 ビステキ を 半分 で 断念 した 高柳 君 は 敷島 を ふかし ながら 、 相手 の 顔 を 眺めた 。 相手 は 口 を も が もが させ ながら 、 右 の 手 を 首 と 共に 左右 に 振った の は 、 高柳 君 に 同意 を 表し ない の と 見える 。 「 僕 が 悲観 する 必要 が ない ? 悲観 する 必要 が ない と する と 、 つまり おめでたい 人間 と 云 う 意味 に なる ね 」 高柳 君 は 覚え ず 、 薄い 唇 を 動かし かけた が 、 微 かな 漣 は 頬 まで 広がら ぬ 先 に 消えた 。 相手 は なお 言葉 を つづける 。 「 僕 だって 三 年 も 大学 に いて 多少 の 哲学 書 や 文学 書 を 読んで る じゃ ない か 。 こう 見えて も 世の中 が 、 どれほど 悲観 す べき もの である か ぐらい は 知って る つもりだ 」「 書物 の 上 で だろう 」 と 高柳 君 は 高い 山 から 谷底 を 見下ろした ように 云 う 。 「 書物 の 上 ―― 書物 の 上 で は 無論 だ が 、 実際 だって 、 これ で なかなか 苦痛 も あり 煩 悶 も ある んだ よ 」「 だって 、 生活 に は 困ら ない し 、 時間 は 充分 ある し 、 勉強 は したい だけ 出来る し 、 述作 は 思う 通り に やれる し 。 僕 に 較 べ る と 君 は 実に 幸福だ 」 と 高柳 君 今度 は さ も 羨ま し そうに 嘆息 する 。 「 ところが 裏面 は なかなか そんな 気楽な んじゃ ない さ 。 これ でも いろいろ 心配 が あって 、 いやに なる のだ よ 」 と 中野 君 は 強いて 心配 の 所有 権 を 主張 して いる 。 「 そう か なあ 」 と 相手 は 、 なかなか 信じ ない 。 「 そう 君 まで 茶かしちゃ 、 いよいよ つまらなく なる 。 実は 今日 あたり 、 君 の 所 へ でも 出掛けて 、 大 に 同情 して もらおう か と 思って いた ところ さ 」「 訳 を きかせ なくっちゃ 同情 も 出来 ない ね 」「 訳 は だんだん 話す よ 。 あんまり 、 くさく さ する から 、 こう やって 散歩 に 来た くらい な もの さ 。 ちっと は 察し る が いい 」 高柳 君 は 今度 は 公然と に やに や と 笑った 。 ちっと は 察し る つもり でも 、 察し よう が ない のである 。 「 そうして 、 君 は また なんで 今頃 公園 なんか 散歩 して いる んだ ね 」 と 中野 君 は 正面 から 高柳 君 の 顔 を 見た が 、「 や 、 君 の 顔 は 妙だ 。 日 の 射 して いる 右側 の 方 は 大変 血色 が いい が 、 影 に なって る 方 は 非常に 色 沢 が 悪い 。 奇妙だ な 。 鼻 を 境 に 矛盾 が 睨め こ を して いる 。 悲劇 と 喜劇 の 仮面 を 半々 に つぎ 合せた ようだ 」 と 息 も つが ず 、 述べ 立てた 。 この 無心 の 評 を 聞いた 、 高柳 君 は 心 の 秘密 を 顔 の 上 で 読ま れた ように 、 はっと 思う と 、 右 の 手 で 額 の 方 から 顋 の あたり まで 、 ぐるり と 撫で 廻 わした 。 こうして 顔 の 上 の 矛盾 を かき混ぜる つもりな の かも 知れ ない 。 「 いくら 天気 が よくって も 、 散歩 なんか する 暇 は ない 。 今日 は 新 橋 の 先 まで 遺失 品 を 探 がし に 行って その 帰りがけ に ちょっと ついで だ から 、 ここ で 休んで 行こう と 思って 来た の さ 」 と 顔 を 攪 き 廻した 手 を 顎 の 下 へ かって 依然と して 浮か ぬ 様子 を する 。 悲劇 の 面 と 喜劇 の 面 を まぜ返 え した から 通例 の 顔 に なる はずである のに 、 妙に 濁った もの が 出来上って しまった 。 「 遺失 品 て 、 何 を 落し たんだい 」「 昨日 電車 の 中 で 草稿 を 失って ――」「 草稿 ? そりゃ 大変だ 。 僕 は 書き上げた 原稿 が 雑誌 へ 出る まで は 心配で たまらない 。 実際 草稿 なんて もの は 、 吾々 に 取って 、 命 より 大切な もの だ から ね 」「 なに 、 そんな 大切な 草稿 でも 書ける 暇 が ある ようだ と いい んだ けれども ―― 駄目だ 」 と 自分 を 軽蔑 した ような 口調 で 云 う 。 「 じゃ 何の 草稿 だい 」「 地理 教授 法 の 訳 だ 。 あした まで に 届ける はず に して ある のだ から 、 今 なくなっちゃ 原稿 料 も 貰え ず 、 また やり 直さ なくっちゃ なら ず 、 実に 厭 に なっち まう 」「 それ で 、 探 がし に 行って も 出て 来 ない の かい 」「 来 ない 」「 どうした ん だろう 」「 おおかた 車掌 が 、 うち へ 持って行って 、 は たきで も 拵えた んだろう 」「 まさか 、 しかし 出 なくっちゃ 困る ね 」「 困る なあ 自分 の 不注意 と 我慢 する が 、 その 遺失 品 係り の 厭 な 奴 だ 事って ―― 実に 不親切で 、 形式 的で ―― まるで 版 行 に おした ような 事 を ぺらぺら と 一 通り 述べた が 以上 、 何 を 聞いて も 知りません 知りません で 持ち 切って いる 。 あいつ は 廿 世紀 の 日本 人 を 代表 して いる 模範 的 人物 だ 。 あす この 社長 も きっと あんな 奴 に 違 ない 」「 ひどく 癪 に 障った もの だ ね 。 しかし 世の中 は その 遺失 品 係り の ような の ばかりじゃ ない から いい じゃ ない か 」「 もう 少し 人間 らしい の が いる かい 」「 皮肉な 事 を 云 う 」「 なに 世の中 が 皮肉な の さ 。 今 の 世 の なか は 冷酷 の 競 進 会 ( きょうしん かい ) 見た ような もの だ 」 と 云 いながら 呑 みかけ の 「 敷島 」 を 二 階 の 欄干 から 、 下 へ 抛 げ る 途端 に 、 ありがとう と 云 う 声 が して 、 ぬっと 門口 を 出た 二 人 連 の 中 折 帽 の 上 へ 、 うまい 具合 に 燃 殻 が 乗っかった 。 男 は 帽子 から 煙 を 吐いて 得意に なって 行く 。 「 おい 、 ひどい 事 を する ぜ 」 と 中野 君 が 云 う 。 「 な に 過ち だ 。 ―― ありゃ 、 さっき の 実業 家 だ 。 構う もん か 抛って 置け 」「 なるほど さっき の 男 だ 。 何で 今 まで ぐずぐず して いた んだろう 。 下 で 球 でも 突いて いた の か 知ら ん 」「 どうせ 遺失 品 係り の 同類 だ から 何でも する だろう 」「 そら 気 が ついた ―― 帽子 を 取って はたいて いる 」「 ハハハハ 滑稽だ 」 と 高柳 君 は 愉快 そうに 笑った 。 「 随分 人 が 悪い なあ 」 と 中野 君 が 云 う 。 「 なるほど 善く ない ね 。 偶然 と は 申し ながら 、 あんな 事 で 仇 を 打つ の は 下等だ 。 こんな 真似 を して 嬉し がる ようで は 文学 士 の 価値 も めちゃめちゃだ 」 と 高柳 君 は 瞬時 に して また 元 の 浮か ぬ 顔 に かえる 。 「 そう さ 」 と 中野 君 は 非難 する ような 賛成 する ような 返事 を する 。 「 しかし 文学 士 は 名前 だけ で 、 その実 は 筆 耕 だ から な 。 文学 士 に も なって 、 地理 教授 法 の 翻訳 の 下働き を やって る ようじゃ 、 心細い 訳 だ 。 これ でも 僕 が 卒業 したら 、 卒業 したらって 待って て くれた 親 も ある んだ から な 。 考える と 気の毒な もの だ 。 この 様子 じゃ いつまで 待って て くれたって 仕方 が ない 」「 まだ 卒業 した ばかりだ から 、 そう 急に 有名に はなれ ない さ 。 その うち 立派な 作物 を 出して 、 大 に 本領 を 発揮 する 時 に 天下 は 我々 の もの と なる んだ よ 」「 いつ の 事 やら 」「 そう 急いたって 、 いけない 。 追 々 新陳 代謝 して くる んだ から 、 何でも 気 を 永く して 尻 を 据えて かから なくっちゃ 、 駄目だ 。 なに 、 世間 じゃ 追 々 我々 の 真価 を 認めて 来る んだ から ね 。 僕 な ん ぞ でも 、 こう やって 始終 書いて いる と 少し は 人 の 口 に 乗る から ね 」「 君 は いい さ 。 自分 の 好きな 事 を 書く 余裕 が ある んだ から 。 僕 なんか 書きたい 事 は いくら で も ある んだ けれども 落ちついて 述作 なぞ を する 暇 は とても ない 。 実に 残念で たまらない 。 保護 者 でも あって 、 気楽に 勉強 が 出来る と 名作 も 出して 見せる が な 。 せめて 、 何でも いい から 、 月々 きまって 六十 円 ばかり 取れる 口 が ある と いい のだ けれども 、 卒業 前 から 自活 は して いた のだ が 、 卒業 して も やっぱり こんなに 困難 する だろう と は 思わ なかった 」「 そう 困難じゃ 仕方 が ない 。 僕 の うち の 財産 が 僕 の 自由に なる と 、 保護 者 に なって やる んだ が な 」「 どうか 願います 。 ―― 実に 厭 に なって しまう 。 君 、 今 考える と 田舎 の 中学 の 教師 の 口 だって 、 容易に ある もん じゃ ない な 」「 そう だろう な 」「 僕 の 友人 の 哲学 科 を 出た もの なんか 、 卒業 して から 三 年 に なる が 、 まだ 遊んで る ぜ 」「 そう か な 」「 それ を 考える と 、 子供 の 時 なんか 、 訳 も わから ず に 悪い 事 を した もん だ ね 。 もっとも 今 と その頃 と は 時勢 が 違う から 、 教師 の 口 も 今 ほど 払 底 で なかった かも 知れ ない が 」「 何 を し たんだい 」「 僕 の 国 の 中学校 に 白井 道也 と 云 う 英語 の 教師 が いたんだ が ね 」「 道也 た 妙な 名 だ ね 。 釜 の 銘 に あり そうじゃ ない か 」「 道也 と 読む んだ か 、 何だか 知ら ない が 、 僕ら は 道也 、 道也って 呼んだ もの だ 。 その 道也 先生 が ね ―― やっぱり 君 、 文学 士 だ ぜ 。 その 先生 を とうとう みんな して 追い出して しまった 」「 どうして 」「 どうしてって 、 ただ いじめて 追い出し ち まった の さ 。 な に 良い 先生 な んだ よ 。 人物 や 何 か は 、 子供 だ から まるで わから なかった が 、 どうも 悪 るい 人 じゃ なかった らしい ……」「 それ で 、 なぜ 追い出し たんだい 」「 それ が さ 、 中学校 の 教師 なんて 、 あれ で なかなか 悪 るい 奴 が いる もん だ ぜ 。 僕ら あ 煽 動 さ れた んだ ね 、 つまり 。 今 でも 覚えて いる が 、 夜 る 十五六 人 で 隊 を 組んで 道也 先生 の 家 の 前 へ 行って ワーって 吶喊 して 二 つ 三 つ 石 を 投げ込んで 来る んだ 」「 乱暴だ ね 。 何 だって 、 そんな 馬鹿な 真似 を する ん だい 」「 なぜ だ か わから ない 。 ただ 面白い から やる の さ 。 おそらく 吾々 の 仲間 で なぜ やる んだ か 知って た もの は 誰 も ある まい 」「 気楽だ ね 」「 実に 気楽 さ 。 知って る の は 僕ら を 煽 動 した 教師 ばかり だろう 。 何でも 生意気だ から やれって 云 う の さ 」「 ひどい 奴 だ な 。 そんな 奴 が 教師 に いる かい 」「 いる と も 。 相手 が 子供 だ から 、 どうでも 云 う 事 を 聞く から かも 知れ ない が 、 いる よ 」「 それ で 道也 先生 どうしたい 」「 辞職 しち まった 」「 可哀想に 」「 実に 気の毒な 事 を した もん だ 。 定め し 転任 先 を さがす 間 活 計 に 困ったろう と 思って ね 。 今度 逢ったら 大 に 謝罪 の 意 を 表する つもりだ 」「 今 どこ に いる ん だい 」「 どこ に いる か 知ら ない 」「 じゃ いつ 逢う か 知れ ない じゃ ない か 」「 しかし いつ 逢う か わから ない 。 ことに よる と 教師 の 口 が なくって 死んで しまった かも 知れ ない ね 。 ―― 何でも 先生 辞職 する 前 に 教 場 へ 出て 来て 云った 事 が ある 」「 何て 」「 諸君 、 吾々 は 教師 の ため に 生き べき もの で は ない 。 道 の ため に 生き べき もの である 。 道 は 尊い もの である 。 この 理 窟 が わから ない うち は 、 まだ 一人前 に なった ので は ない 。 諸君 も 精 出して わかる ように お なり 」「 へえ 」「 僕ら は 不 相 変 教 場 内 で ワーっと 笑った あね 。 生意気だ 、 生意気 だって 笑った あね 。 ―― どっち が 生意気 か 分 り ゃし ない 」「 随分 田舎 の 学校 など に ゃ 妙な 事 が ある もの だ ね 」「 なに 東京 だって 、 ある んだ よ 。 学校 ばかり じゃ ない 。 世の中 は みんな これ な んだ 。 つまらない 」「 時に だいぶ 長話 し を した 。 どう だ 君 。 これ から 品川 の 妙 花園 まで 行か ない か 」「 何 し に 」「 花 を 見 に さ 」「 これ から 帰って 地理 教授 法 を 訳さ なくっちゃ なら ない 」「 一 日 ぐらい 遊んだって よかろう 。 ああ 云 う 美 くし い 所 へ 行く と 、 好 い 心持ち に なって 、 翻訳 も はか が 行く ぜ 」「 そう か な 。 君 は 遊び に 行く の かい 」「 遊 かたがた さ 。 あす こ へ 行って 、 ちょっと 写生 して 来て 、 材料 に しよう と 思って る んだ が ね 」「 何の 材料 に 」「 出来たら 見せる よ 。 小説 を かいて いる んだ 。 その うち の 一 章 に 女 が 花園 の なか に 立って 、 小さな 赤い 花 を 余念 なく 見詰めて いる と 、 その 赤い 花 が だんだん 薄く なって しまい に 真 白 に なって しまう と 云 う ところ を 書いて 見たい と 思う んだ が ね 」「 空想 小説 かい 」「 空想 的で 神秘 的で 、 それ で 遠い 昔 し が 何だか なつかしい ような 気持 の する もの が 書きたい 。 うまく 感じ が 出れば いい が 。 まあ 出来たら 読んで くれた まえ 」「 妙 花園 なん ざ 、 そんな 参考 に ゃ なら ない よ 。 それ より か うち へ 帰って ホルマン ・ ハント の 画 でも 見る 方 が いい 。 ああ 、 僕 も 書きたい 事 が ある んだ が な 。 どうしても 時 が ない 」「 君 は 全体 自然 が きらいだ から 、 いけない 」「 自然 なんて 、 どうでも いい じゃ ない か 。 この 痛切な 二十 世紀 に そんな 気楽な 事 が 云って いられる もの か 。 僕 の は 書けば 、 そんな 夢見た ような もの じゃ ない んだ から な 。 奇麗で なくって も 、 痛くって も 、 苦しくって も 、 僕 の 内面 の 消息 に どこ か 、 触れて いれば それ で 満足 する んだ 。 詩的で も 詩的で なくって も 、 そんな 事 は 構わ ない 。 た とい 飛び立つ ほど 痛くって も 、 自分 で 自分 の 身体 を 切って 見て 、 なるほど 痛い な と 云 う ところ を 充分 書いて 、 人 に 知らせて やりたい 。 呑気 な もの や 気楽な もの は とうてい 夢にも 想像 し 得られ ぬ 奥 の 方 に こんな 事実 が ある 、 人間 の 本体 は ここ に ある の を 知ら ない か と 、 世 の 道楽 もの に 教えて 、 おや そう か 、 おれ は 、 まさか 、 こんな もの と は 思って い なかった が 、 云 われて 見る と なるほど 一言 も ない 、 恐れ入った と 頭 を 下げ させる の が 僕 の 願 な んだ 。 君 と は だいぶ 方角 が 違う 」「 しかし そんな 文学 は 何だか 心持ち が わるい 。 ―― そりゃ 御 随意だ が 、 どう だい 妙 花園 に 行く 気 は ない かい 」「 妙 花園 へ 行く ひま が あれば 一 頁 ( ページ ) でも 僕 の 主張 を かく が なあ 。 何だか 考える と 身体 が むずむず する ようだ 。 実際 こんなに 呑気 に して 、 生 焼 の ビステッキ など を 食っちゃ いられ ない んだ 」「 ハハハハ また あせる 。 いい じゃ ない か 、 さっき の 商人 見た ような 連中 も いる んだ から 」「 あんな の が いる から 、 こっち は なお 仕事 が し たく なる 。 せめて 、 あの 連中 の 十 分 一 の 金 と 時 が あれば 、 書いて 見せる が な 」「 じゃ 、 どうしても 妙 花園 は 不 賛成 か ね 」「 遅く なる もの 。 君 は 冬 服 を 着て いる が 、 僕 は いまだに 夏 服 だ から 帰り に 寒く なって 風 でも 引く と いけない 」「 ハハハハ 妙な 逃げ 路 を 発見 した ね 。 もう 冬 服 の 時節 だ あね 。 着 換えれば いい 事 を 。 君 は 万事 無 精 だ よ 」「 無 精 で 着 換え ない んじゃ ない 。 ない から 着 換え ない んだ 。 この 夏 服 だって 、 まだ 一 文 も 払って いやし ない 」「 そう な の か 」 と 中野 君 は 気の毒な 顔 を した 。 午 飯 の 客 は 皆 去り 尽して 、 二 人 が 椅子 を 離れた 頃 は ところどころ の 卓 布 の 上 に 麺 麭屑 ( パン くず ) が 淋しく 散らばって いた 。 公園 の 中 は 最 前 より も 一層 賑かである 。 ロハ 台 は 依然と して 、 どこ の 何 某 か 知ら ぬ 男 と 知ら ぬ 女 で 占領 されて いる 。 秋 の 日 は 赫 と して 夏 服 の 背中 を 通す 。