運慶 (46)
こんにち は 人 から 分かる 3分 美術 史 。
今日 は 運慶 に ついて 勉強 して いきましょう 。
運慶 。1151年 頃 の 生まれ 。平安 末期 から 鎌倉 初期 に かけて の 仏師 であり 、
写実的な 仏像 の 様式 を 確立した 人物 として 知られます 。
運慶 は 鳥羽上皇 が 院政 を 敷いていた 時代 に 、
仏師 である 康慶 の 息子 として 生まれました 。
康 慶 は 、はじめ 奈良 の 興 福 寺 を 拠点 と する 集団 ・奈良 仏師 に 属しました が 、
1170年 頃 より 独立して 、慶 派 と 呼ばれる 仏師 集団 を 創設します 。
しかし 円 派 ・院 派 ら 京都 を 拠点 として いた
仏師 集団 に 比べて マイナー な 存在 で ありました 。
運慶 は 康慶 の 嫡男 であり 、後継者 として 育ちました 。
運慶 の 最初期 の 作品 として 知られている のが 、円成寺 大日如来 坐像 です 。
運慶 25歳 頃 の 作品 であり 、当時 主流 の 単純化 ・理想化 された 様式 である
定朝 様 と 比べ 写実的な 布 の 表現 や 肉感的な 顔 が 特徴 と なっています 。
1180年 、平 清盛 の 命 によって 東大寺 ・興福寺 が 焼き討ち に 遭います 。
間も無く 清盛 が 亡くなる と 、朝廷 は 藤原 兼光 を 長官 として 、
興福寺 の 再興 に 乗り出します 。
そこで 運慶 は 、父 ・康慶 ら と ともに 存在感 を 発揮 しました 。
続いて 、1185年 に 壇ノ浦 の 戦い で 平家 が 滅亡 する と 、
運 慶 へ の 依頼 主 に は 、北条 時 政 ・和田 義盛 ら 、
鎌倉幕府 の 重鎮 が 増えて いきます 。
運慶 の 作品 を 見て いきましょう 。運慶 の 代表作 として 知られる の が 、
東大寺 金剛力士像 。高さ 8メートル を 超える 巨像 であり 、
運慶 、弟 の 定覚 、息子 の 湛慶 、そして 運慶 と 並ぶ 名 仏師 である 快慶 の
4人 が 中心 と なり 、1203年 に 作り上げました 。
写実的 な 筋肉 の 表現 や 勢い の ある 布 の 描写 が 特徴 です 。
興福寺 無著菩薩 ・世親菩薩 像 。
肖像 彫刻 として も 日本 史上 の 傑作 として 知られます 。
1203年 、運慶 は 僧侶 として 最高 の 位 である 法印 に 就任 。
奈良 仏師 として は 初 の 快挙 であり 、名実 ともに 当代 最高 の 仏師 として 知られる ように なります 。
その後 武士 の 力 が 強まって いく に 従い 、
京都 を 拠点 として いた 円 派 ・院 派 は 全国 に 散逸 し 、慶 派 の 勢力 が 拡大 。
運 慶 は 1224年 に 亡くなる まで 、
江戸 期 まで 続く 慶 派 の 礎 を 築いた のでした 。
以上