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野分 夏目漱石, 「四」 野分 夏目漱石

「四 」 野 分 夏目 漱石

「 どこ へ 行く 」 と 中野 君 が 高柳 君 を つら ま えた 。 所 は 動物 園 の 前 である 。 太い 桜 の 幹 が 黒ずんだ 色 の なか から 、 銀 の ような 光り を 秋 の 日 に 射 返して 、 梢 を 離れる 病 葉 は 風 なき 折々 行 人 の 肩 に かかる 。 足元 に は 、 ここ かしこ に 枝 を 辞し たる 古い 奴 が が さ ついて いる 。 色 は 様々である 。 鮮血 を 日 に 曝して 、 七 日 の 間 日ごと に その 変化 を 葉 裏 に 印 して 、 注意 なく 一 枚 の なか に 畳み 込めたら 、 こんな 色 に なる だろう と 高柳 君 は さっき から 眺めて いた 。 血 を 連想 した 時 高柳 君 は 腋 の 下 から 何 か 冷たい もの が 襯衣 ( シャツ ) に 伝わる ような 気分 が した 。 ご ほん と 取り締り の ない 咳 を 一 つ する 。 形 も 様々である 。 火 に あぶった かき 餅 の 状 は 千差万別である が 、 我 も 我 もと みんな 反り返る 。 桜 の 落葉 も がさがさに 反り返って 、 反り返った まま 吹く 風 に 誘われて 行く 。 水気 の ない もの に は 未練 も 執着 も ない 。 飄々と して わが 行 末 を 覚 束 ない 風 に 任せて 平気な の は 、 死んだ 後の祭り に 、 から 騒ぎ に はしゃぐ 了 簡 かも 知れ ぬ 。 風 に めぐる 落葉 と 攫 われて 行く かんな 屑 と は 一種 の 気 狂 である 。 ただ 死 し たる もの の 気 狂 である 。 高柳 君 は 死 と 気 狂 と を 自然 界 に 点 綴 した 時 、 瘠せた 両 肩 を 聳 や かして 、 また ご ほん と 云 う うつろな 咳 を 一 つ した 。 高柳 君 は この 瞬間 に 中野 君 から つら まえられた のである 。 ふと 気 が ついて 見る と 世 は 太平である 。 空 は 朗らかである 。 美しい 着物 を きた 人 が 続々 行く 。 相手 は 薄 羅 紗 の 外套 に 恰好の いい 姿 を 包んで 、 顋 の 下 に 真珠 の 留針 を 輝かして いる 。 ―― 高柳 君 は 相手 の 姿 を 見守った なり 黙って いた 。 「 どこ へ 行く 」 と 青年 は 再び 問うた 。 「 今 図書 館 へ 行った 帰り だ 」 と 相手 は ようやく 答えた 。 「 また 地理 学 教授 法 じゃ ない か 。 ハハハハ 。 何だか 不景気な 顔 を して いる ね 。 どうかした かい 」 「 近頃 は 喜劇 の 面 を どこ か へ 遺失 して しまった 」 「 また 新 橋 の 先 まで 探 がし に 行って 、 拳 突 を 喰った んじゃ ない か 。 つまらない 」 「 新 橋 どころ か 、 世界中 探 が して あるいて も 落ちて い そう も ない 。 もう 、 御 やめ だ 」 「 何 を 」 「 何でも 御 やめ だ 」 「 万事 御 やめ か 。 当分 御 やめ が よかろう 。 万事 御 やめ に して 僕 と いっしょに 来た まえ 」 「 どこ へ 」 「 今日 は そこ に 慈善 音楽 会 が ある んで 、 切符 を 二 枚 買わさ れた んだ が 、 ほか に 誰 も 行き 手 が ない から 、 ちょうど いい 。 君 行き たまえ 」 「 いら ない 切符 など を 買う の かい 。 もったいない 事 を する んだ な 」 「 なに 義理 だ から 仕方 が ない 。 おやじ が 買った んだ が 、 おやじ は 西洋 音楽 なんか わから ない から ね 」 「 それ じゃ 余った 方 を 送って やれば いい のに 」 「 実は 君 の 所 へ 送ろう と 思った んだ が ……」 「 いいえ 。 あす こ へ さ 」 「 あす こと は 。 ―― うん 。 あす こか 。 何 、 ありゃ 、 いい んだ 。 自分 でも 買った んだ 」 高柳 君 は 何とも 返事 を し ないで 、 相手 を 真 正面 から 見て いる 。 中野 君 は 少々 恐縮 の 微笑 を 洩らして 、 右 の 手 に 握った まま の 、 山羊 の 手袋 で 外套 の 胸 を ぴし ゃぴ しゃ 敲き 始めた 。 「 穿 め も し ない 手袋 を 握って あるいて る の は 何の ため だい 」 「 なに 、 今 ちょっと 隠 袋 ( ポッケット ) から 出した んだ 」 と 云 いながら 中野 君 は 、 すぐ 手袋 を かくし の 裏 に 収めた 。 高柳 君 の 癇癪 は これ で 少々 治まった ようである 。 ところ へ 後ろ から エーイ と 云 う 掛声 が して 蹄 の 音 が 風 を 動かして くる 。 両人 は 足早に 道 傍 へ 立ち退いた 。 黒 塗 の ランドー の 蓋 を 、 秋 の 日 の 暖かき に 、 払い 退けた 、 中 に は 絹 帽 ( シルクハット ) が 一 つ 、 美しい 紅 い の 日傘 が 一 つ 見え ながら 、 両人 の 前 を 通り過ぎる 。 「 ああ 云 う 連中 が 行く の かい 」 と 高柳 君 が 顋 で 馬車 の 後ろ 影 を 指す 。 「 あれ は 徳川 侯爵 だ よ 」 と 中野 君 は 教えた 。 「 よく 、 知って る ね 。 君 は あの 人 の 家来 かい 」 「 家来 じゃ ない 」 と 中野 君 は 真面目に 弁解 した 。 高柳 君 は 腹 の なか で また ちょっと 愉快 を 覚えた 。 「 どう だい 行 こう じゃ ない か 。 時間 が おくれる よ 」 「 おくれる と 逢え ない と 云 う の か ね 」 中野 君 は 、 すこし 赤く なった 。 怒った の か 、 弱点 を つかれた ため か 、 恥ずかしかった の か 、 わかる の は 高柳 君 だけ である 。 「 とにかく 行こう 。 君 は なんでも 人 の 集まる 所 や なに か を 嫌って ばかり いる から 、 一 人 坊っち に なって しまう んだ よ 」 打つ もの は 打た れる 。 参る の は 今度 こそ 高柳 君 の 番 である 。 一 人 坊っち と 云 う 言葉 を 聞いた 彼 は 、 耳 が しいん と 鳴って 、 非常に 淋しい 気持 が した 。 「 いや かい 。 いや なら 仕方 が ない 。 僕 は 失敬 する 」 相手 は 同情 の 笑 を 湛え ながら 半 歩 踵 を めぐらし かけた 。 高柳 君 は また 打た れた 。 「 いこう 」 と 単 簡 に 降参 する 。 彼 が 音楽 会 へ 臨む の は 生れて から 、 これ が 始めて である 。 玄関 に かかった 時 は 受付 が 右 へ 左 り へ の 案内 で 忙殺 されて 、 接待 掛り の 胸 に つけた 、 青い リボン を 見失う ほど 込み合って いた 。 突き当り を 右 へ 折れる の が 上等で 、 左 り へ 曲がる の が 並 等 である 。 下等 は ない そうだ 。 中野 君 は 無論 上等である 。 高柳 君 を 顧み ながら 、 こっち だ よ と 、 さも 物 馴 れた さま に 云 う 。 今日 に 限って 、 特別に 下等 席 を 設けて 貰って 、 そこ へ 自分 だけ 這 入って 聴いて 見たい と 一 人 坊っち の 青年 は 、 中野 君 の あと を つき ながら 階段 を 上 ぼ り つつ 考えた 。 己 れ の 右 を 上る 人 も 、 左 り を 上る 人 も 、 また あと から ぞろぞろ ついて 来る もの も 、 皆 異種 類 の 動物 で 、 わざと 自分 を 包囲 して 、 のっぴ きさ せ ず 二 階 の 大広間 へ 押し上げた 上 、 あと から 、 慰み 半分 に 手 を 拍って 笑う 策略 の ように 思わ れた 。 後ろ を 振り向く と 、 下 から 緑 り の 滴 たる 束 髪 の 脳 巓 が 見える 。 コスメチック で 奇麗な 一直線 を 七 分 三 分 の 割合 に 錬 り 出した 頭蓋 骨 が 見える 。 これら の 頭 が 十 も 二十 も 重なり合って 、 もう 高柳 周作 は 一 歩 でも 退く 事 は なら ぬ と せり上がって くる 。 楽 堂 の 入口 を 這 入る と 、 霞 に 酔う た 人 の ように ぽうっと した 。 空 を 隠す 茂み の なか を 通り抜けて 頂 に 攀じ登った 時 、 思い も 寄ら ぬ 、 眼 の 下 に 百 里 の 眺め が 展開 する 時 の 感じ は これ である 。 演奏 台 は 遥か の 谷底 に ある 。 近づく ため に は 、 登り 詰めた 頂 から 、 規則正しく 排 列さ れた 人間 の 間 を 一直線 に 縫う が ご とくに 下りて 、 自然 と 逼 る 擂鉢 の 底 に 近寄ら ねば なら ぬ 。 擂鉢 の 底 は 半円 形 を 劃 して 空 に 向って 広がる 内側 面 に は 人間 の 塀 が 段々 に 横 輪 を えがいて いる 。 七八 段 を 下りた 高柳 君 は 念のため に 振り返って 擂鉢 の 側面 を 天井 まで 見上げた 時 、 目 が ちらちら して ちょっと 留った 。 excuse me と 云って 、 大きな 異人 が 、 高柳 君 を 蔽 い かぶせる ように して 、 一 段 下 へ 通り抜けた 。 駝鳥 の 白い 毛 が 鼻 の 先 に ふらついて 、 品 の いい 香り が ぷん と する 。 あと から 、 脳 巓 の 禿げた 大 男 が 絹 帽 ( シルクハット ) を 大事 そうに 抱えて 身 を 横 に して 女 に つき ながら 、 二 人 を 擦り抜ける 。 「 おい 、 あす こ に 椅子 が 二 つ 空いて いる 」 と 物 馴 れた 中野 君 は 階段 を 横 へ 切れる 。 並んで いる 人 は 席 を 立って 二 人 を 通す 。 自分 だけ であったら 、 誰 も 席 を 立って くれる もの は ある まい と 高柳 君 は 思った 。 「 大変な 人 だ ね 」 と 椅子 に 腰 を おろし ながら 中野 君 は 満場 を 見 廻 わす 。 やがて 相手 の 服装 に 気 が ついた 時 、 急に 小声 に なって 、 「 おい 、 帽子 を とら なくっちゃ 、 いけない よ 」 と 云 う 。 高柳 君 は 卒 然 と して 帽子 を 取って 、 左右 を ちょっと 見た 。 三四 人 の 眼 が 自分 の 頭 の 上 に 注がれて いた の を 発見 した 時 、 やっぱり 包囲 攻撃 だ な と 思った 。 なるほど 帽子 を 被って いた もの は この 広い 演奏 場 に 自分 一 人 である 。 「 外套 は 着て いて も いい の か 」 と 中野 君 に 聞いて 見る 。 「 外套 は 構わ ない んだ 。 しかし あつ 過ぎる から 脱ごう か 」 と 中野 君 は ちょっと 立ち上がって 、 外套 の 襟 を 三 寸 ばかり 颯 と 返したら 、 左 の 袖 が する り と 抜けた 、 右 の 袖 を 抜く とき 、 領 の あたり を つまんだ と 思ったら 、 裏 を 表 て に 、 外套 は は や 畳まれて 、 椅子 の 背中 を 早くも 隠した 。 下 は 仕立て おろし の フロック に 、 近頃 流行る 白い スリップ が 胴衣 ( チョッキ ) の 胸 開 を 沿う て 細い 筋 を 奇麗に あらわして いる 。 高柳 君 は なるほど いい 手際 だ と 羨ま しく 眺めて いた 。 中野 君 は どう 云 もの か 容易に 坐ら ない 。 片手 を 椅子 の 背 に 凭 た せて 、 立ち ながら 後ろ から 、 左右 へ かけて 眺めて いる 。 多く の 人 の 視線 は 彼 の 上 に 落ちた 。 中野 君 は 平気である 。 高柳 君 は この 平気 を また 羨ま しく 感じた 。 しばらく する と 、 中野 君 は 千 以上 陳列 せられ たる 顔 の なか で 、 ようやく ある もの を 物色 し 得た ごとく 、 豊かなる 双 頬 に 愛嬌 の 渦 を 浮かして 、 軽く 何 人 に か 会釈 した 。 高柳 君 は 振り向か ざる を 得 ない 。 友 の 挨拶 は どの 辺 に 落ちた のだろう と 、 こそばゆく も 首 を 捩じ 向けて 、 斜めに 三 段 ばかり 上 を 見る と 、 たちまち 目 つかった 。 黒い 髪 の ただ中 に 黄 の 勝った 大きな リボン の 蝶 を 颯 と ひらめか して 、 細く うねる 頸筋 を 今 真 直 に 立て直す 女 の 姿 が 目 つかった 。 紅 い は 眼 の 縁 を 薄く 染めて 、 潤った 眼 睫 の 奥 から 、 人 の 世 を 夢 の 底 に 吸い込む ような 光り を 中野 君 の 方 に 注いで いる 。 高柳 君 は すわ や と 思った 。 わが 穿 く 袴 は 小倉 である 。 羽織 は 染め が 剥げて 、 濁った 色 の 上 に 垢 が 容赦 なく 日光 を 反射 する 。 湯 に は 五 日 前 に 這 入った ぎり だ 。 襯衣 ( シャツ ) を 洗わ ざる 事 は 久しい 。 音楽 会 と 自分 と は とうてい 両立 する もの で ない 。 わが 友 と 自分 と は ? ―― やはり 両立 し ない 。 友 の ハイカラ 姿 と この 魔力 ある 眼 の 所有 者 と は 、 千里 を 隔てて も 無線 の 電気 が かかる べく 作られて いる 。 この 一堂 の 裡 に 綺羅 の 香り を 嗅ぎ 、 和 楽 の 温かみ を 吸う て 、 落ち合う から は 、 二 人 の 魂 は 無論 の 事 、 溶けて 流れて 、 かき鳴らす 箏 の 線 の 細き うち に も 、 めぐり合わ ねば なら ぬ 。 演奏 会 は 数 千 の 人 を 集めて 、 数 千 の 人 は ことごとく 双 手 を 挙げ ながら この 二 人 を 歓迎 して いる 。 同じ 数 千 の 人 は ことごとく 五 指 を 弾いて 、 われ 一 人 を 排斥 して いる 。 高柳 君 は こんな 所 へ 来 なければ よかった と 思った 。 友 は そんな 事 を 知り よう が ない 。 「 もう 時間 だ 、 始まる よ 」 と 活版 に 刷った 曲目 を 見 ながら 云 う 。 「 そう か 」 と 高柳 君 は 器械 的に 眼 を 活版 の 上 に 落した 。 一 、 バイオリン 、 セロ 、 ピヤノ 合奏 と ある 。 高柳 君 は セロ の 何物 たる を 知ら ぬ 。 二 、 ソナタ …… ベートーベン 作 と ある 。 名前 だけ は 心得て いる 。 三 、 アダジョ …… パァージャル 作 と ある 。 これ も 知ら ぬ 。 四 、 と 読み かけた 時 拍手 の 音 が 急に 梁 を 動かして 起った 。 演奏 者 は すでに 台 上 に 現われて いる 。 やがて 三 部 合奏 曲 は 始まった 。 満場 は 化石 した か の ごとく 静かである 。 右手 の 窓 の 外 に 、 高い 樅 の 木 が 半分 見えて 後ろ は 遐 か の 空 の 国 に 入る 。 左手 の 碧 り の 窓 掛け を 洩れて 、 澄み切った 秋 の 日 が 斜めに 白い 壁 を 明らかに 照らす 。 曲 は 静かなる 自然 と 、 静かなる 人間 の うち に 、 快 よく 進行 する 。 中野 は 絢爛 たる 空気 の 振動 を 鼓膜 に 聞いた 。 声 に も 色 が ある と 嬉しく 感じて いる 。 高柳 は 樅 の 枝 を 離 る る 鳶 の 舞う 様 を 眺めて いる 。 鳶 が 音楽 に 調子 を 合せて 飛んで いる 妙だ な と 思った 。 拍手 が また 盛 に 起る 。 高柳 君 は はっと 気 が ついた 。 自分 は やはり 異種 類 の 動物 の なか に 一 人 坊っち で おった のである 。 隣り を 見る と 中野 君 は 一生懸命に 敲いて いる 。 高い 高い 鳶 の 空 から 、 己 れ を この 窮屈な 谷底 に 呼び 返した もの の 一 人 は 、 われ を 無理矢理 に ここ へ 連れ込んだ 友達 である 。 演奏 は 第 二 に 移る 。 千 余人 の 呼吸 は 一度に やむ 。 高柳 君 の 心 は また 豊かに なった 。 窓 の 外 を 見る と 鳶 は もう 舞って おら ぬ 。 眼 を 移して 天井 を 見る 。 周囲 一 尺 も あろう と 思わ れる 梁 の 六 角形 に 削ら れた の が 三 本 ほど 、 楽 堂 を 竪 に 貫 ぬいて いる 、 後ろ は どこ まで 通って いる か 、 頭 を 回ら さ ない から 分 ら ぬ 。 所々 に 模様 に 崩した 草花 が 、 長い 蔓 と 共に 六角 を 絡んで いる 。 仰向いて 見て いる と 広い 御 寺 の なか へ でも 這 入った 心 持 に なる 。 そうして 黄色い 声 や 青い 声 が 、 梁 を 纏う 唐草 の ように 、 縺 れ 合って 、 天井 から 降って くる 。 高柳 君 は 無人の 境 に 一 人 坊っち で 佇んで いる 。 三 度 目 の 拍手 が 、 断わり も なく また 起る 。 隣り の 友達 は 人一倍 けたたましい 敲き 方 を する 。 無人の 境 に おった 一 人 坊っち が 急に 、 霰 の ごとき 拍手 の なか に 包囲 さ れた 一 人 坊っち と なる 。 包囲 は なかなか 已 ま ぬ 。 演奏 者 が 闥 を 排して わが 室 に 入ら ん と する 間際 に なお なお 烈 しく なった 。 ヴァイオリン を 温かに 右 の 腋下 に 護 り たる 演奏 者 は 、 ぐるり と 戸 側 に 体 を 回ら して 、 薄 紅葉 を 点じ たる 裾 模様 を 台 上 に 動かして 来る 。 狂う ばかりに 咲き乱れ たる 白菊 の 花束 を 、 飄 える 袖 の 影 に 受けとって 、 な よ やか なる 上 躯 を 聴衆 の 前 に 、 少し く かがめ たる 時 、 高柳 は 感じた 。 ―― この 女 の 楽 を 聴いた の は 、 聴か さ れた ので は ない 。 聴か さ ぬ と 云 う を 、 ひそかに 忍び寄り て 、 偸 み 聴いた のである 。 演奏 は 喝采 の どよめき の 静まら ぬ うち に また 始まる 。 聴衆 は とっさ の 際 に ことごとく 死んで しまう 。 高柳 君 は また 自由に なった 。 何だか 広い 原 に ただ 一 人立って 、 遥か の 向 う から 熟 柿 の ような 色 の 暖かい 太陽 が 、 のっと 上って くる 心持ち が する 。 小 供 の うち は こんな 感じ が よく あった 。 今 は なぜ こう 窮屈に なったろう 。 右 を 見て も 左 を 見て も 人 は 我 を 擯斥 して いる ように 見える 。 たった 一 人 の 友達 さえ 肝心の ところ で 無残 の 手 を ぱち ぱち 敲く 。 たよる 所 が なければ 親 の 所 へ 逃げ 帰れ と 云 う 話 も ある 。 その 親 が あれば 始 から こんなに は なら なかったろう 。 七 つ の 時 おやじ は 、 どこ か へ 行った なり 帰って 来 な い 。 友達 は それ から 自分 と 遊ば なく なった 。 母 に 聞く と 、 おとっさん は 今に 帰る 今に 帰る と 云った 。 母 は 帰ら ぬ 父 を 、 帰る と 云って だました のである 。 その 母 は 今 でも いる 。 住み 古 る した 家 を 引き払って 、 生れた 町 から 三 里 の 山奥 に 一 人 佗 び しく 暮らして いる 。 卒業 を すれば 立派に なって 、 東京 へ で も 引き取る の が 子 の 義務 である 。 逃げて 帰れば 親子 共 餓えて 死な なければ なら ん 。 ―― たちまち 拍手 の 声 が 一面に 湧き 返る 。 「 今 の は 面白かった 。 今 まで の うち 一 番 よく 出来た 。 非常に 感じ を よく 出す 人 だ 。 ―― どう だい 君 」 と 中野 君 が 聞く 。 「 うん 」 「 君 面白く ない か 」 「 そう さ な 」 「 そう さ な じゃ 困った な 。 ―― おい あす この 西洋 人 の 隣り に いる 、 細かい 友禅 の 着物 を 着て いる 女 が ある だろう 。 ―― あんな 模様 が 近頃 流行 んだ 。 派出 だろう 」 「 そう か なあ 」 「 君 は カラー ・ センス の ない 男 だ ね 。 ああ 云 う 派出 な 着物 は 、 集会 の 時 や 何 か に は ごく いい のだ ね 。 遠く から 見て 、 見 醒 め が し ない 。 うつくしくって いい 」 「 君 の あれ も 、 同じ ような の を 着て いる ね 」 「 え 、 そう かしら 、 何 、 ありゃ 、 いい加減に 着て いる んだろう 」 「 いい加減に 着て いれば 弁解 に なる の かい 」 中野 君 は ちょっと 会話 を やめた 。 左 の 方 に 鼻 眼鏡 を かけて 揉 上 を 容赦 なく 、 耳 の 上 で 剃 り 落した 男 が 帳面 を 出して しきりに 何 か 書いて いる 。 「 ありゃ 、 音楽 の 批評 でも する 男 か な 」 と 今度 は 高柳 君 が 聞いた 。 「 どれ 、―― あの 男 か 、 あの 黒 服 を 着た 。 なあ に 、 あれ は ね 。 画 工 だ よ 。 いつでも 来る 男 だ が ね 、 来る たんび に 写生 帖 を 持って 来て 、 人 の 顔 を 写して いる 」 「 断わり なし に か 」 「 まあ 、 そう だろう 」 「 泥棒 だ ね 。 顔 泥棒 だ 」 中野 君 は 小さい 声 で くく と 笑った 。 休憩 時間 は 十分である 。 廊下 へ 出る もの 、 喫煙 に 行く もの 、 用 を 足して 帰る もの 、 が 高柳 君 の 眼 に 写る 。 女 は 小 供 の 時 見た 、 豊 国 の 田舎 源氏 を 一 枚 一 枚 はぐって 行く 時 の 心 持 である 。 男 は 芳年 の 書いた 討ち入り 当夜 の 義 士 が 動いて る ようだ 。 ただ 自分 が 彼ら の 眼 に どう 写る であろう か と 思う と 、 早く 帰り たく なる 。 自分 の 左右 前後 は 活動 して いる 。 うつくしく 活動 して いる 。 しかし 衣食 の ため に 活動 して いる ので は ない 。 娯楽 の ため に 活動 して いる 。 胡蝶 の 花 に 戯 む る る が ごとく 、 浮 藻 の 漣 に 靡 く が ごとく 、 実用 以上 の 活動 を 示して いる 。 この 堂 に 入る もの は 実用 以上 に 余裕 の ある 人 で なくて は なら ぬ 。 自分 の 活動 は 食う か 食わ ぬ か の 活動 である 。 和 煦 の 作用 で は ない 粛殺 の 運行 である 。 儼 たる 天命 に 制せられて 、 無 条件 に 生 を 享 け たる 罪 業 を 償わ ん が ため に 働 らく のである 。 頭から 云 えば 胡蝶 の ごとく 、 かく 翩々 たる 公衆 の いずれ を 捕え 来って 比較 されて も 、 少しも 恥 か しい と は 思わ ぬ 。 云 いたき 事 、 云 うて 人 が 点 頭 く 事 、 云 うて 人 が 尊ぶ 事 は ない から 云 わ ぬ ので は ない 。 生活 の 競争 に すべて の 時間 を 捧げて 、 云 う べき 機会 を 与えて くれ ぬ から である 。 吾 が 云 い たくて 云 われ ぬ 事 は 、 世 が 聞き たくて も 聞か れ ぬ 事 は 、 天 が わが 手 を 縛 する から である 。 人 が わが 口 を 箝 する から である 。 巨万 の 富 を われ に 与えて 、 一 銭 も 使う なかれ と 命ぜられ たる 時 は 富 なき 昔 し の 心安き に 帰る 能 わ ず して 、 命 を 下せる 人 を 逆 しま に 詛わ ん と す 。 われ は 呪い 死に に 死な ねば なら ぬ か 。 ―― たちまち 咽 喉 が 塞がって 、 ご ほん ご ほん と 咳 き 入る 。 袂 から ハンケチ を 出して 痰 を 取る 。 買った 時 の 白い の が 、 妙な 茶色 に 変って いる 。 顔 を 挙げる と 、 肩 から 観世 より の ように 細い 金 鎖 り を 懸けて 、 朱 に 黄 を 交えた 厚 板 の 帯 の 間 に 時計 を 隠した 女 が 、 列 の はずれ に 立って 、 中野 君 に 挨拶 して いる 。 「 よう 、 いらっしゃいました 」 と 可愛らしい 二 重 瞼 を 細 めに 云 う 。 「 いや 、 だいぶ 盛会 です ね 。 冬 田 さん は 非常な 出来 でした な 」 と 中野 君 は 半身 を 、 女 の 方 へ 向け ながら 云 う 。 「 ええ 、 大喜びで ……」 と 云 い 捨てて 下りて 行く 。 「 あの 女 を 知って る かい 」 「 知る もの か ね 」 と 高柳 君 は 拳 突 を 喰 わす 。 相手 は 驚 ろ いて 黙って しまった 。 途端 に 休憩 後 の 演奏 は 始まる 。 「 四葉 の 苜蓿 花 」 と か 云 う もの である 。 曲 の 続く 間 は 高柳 君 は うつらうつら と 聴いて いる 。 ぱち ぱち と 手 が 鳴る と 熱病 の 人 が 夢 から 醒 め たように 我 に 帰る 。 この 過程 を 二三 度 繰り返して 、 最後 の 幻覚 から 喚 び 醒 まさ れた 時 は 、 タンホイゼル の マーチ で 銅 鑼 を 敲き 大 喇叭 を 吹く ところ であった 。 やがて 、 千 余人 の 影 は 一度に 動き出した 。 二 人 の 青年 は 揉ま れ ながら に 門 を 出た 。 日 は ようやく 暮れかかる 。 図書 館 の 横手 に 聳 える 松 の 林 が 緑 り の 色 を 微 か に 残して 、 しだいに 黒い 影 に 変って 行く 。 「 寒く なった ね 」 高柳 君 の 答 は 力 の 抜けた 咳 二 つ であった 。 「 君 さっき から 、 咳 を する ね 。 妙な 咳 だ ぜ 。 医者 に でも 見て 貰ったら 、 どう だい 」 「 何 、 大丈夫だ 」 と 云 いながら 高柳 君 は 尖った 肩 を 二三 度 ゆすぶった 。 松林 を 横切って 、 博物 館 の 前 に 出る 。 大きな 銀杏 に 墨汁 を 点じた ような 滴 々 の 烏 が 乱れて いる 。 暮れて 行く 空 に 輝く は 無数の 落葉 である 。 今 は 風 さえ 出た 。 「 君 二三 日 前 に 白井 道也 と 云 う 人 が 来た ぜ 」 「 道也 先生 ? 」 「 だろう と 思う の さ 。 余り 沢山 ある 名 じゃ ない から 」 「 聞いて 見た かい 」 「 聞こう と 思った が 、 何だか きまり が 悪 る かった から やめた 」 「 なぜ 」 「 だって 、 あなた は 中学校 で 生徒 から 追い出さ れた 事 は ありません か と も 聞け まい じゃ ない か 」 「 追い出さ れました か と 聞か なくって も いい さ 」 「 しかし 容易に 聞き にくい 男 だ よ 。 ありゃ 、 困る 人 だ 。 用事 より ほか に 云 わ ない 人 だ 」 「 そんなに なった かも 知れ ない 。 元来 何の 用 で 君 の 所 へ なん ぞ 来た のだ い 」 「 なあ に 、 江 湖 雑誌 の 記者 だって 、 僕 の 所 へ 談話 の 筆記 に 来た の さ 」 「 君 の 談話 を かい 。 ―― 世の中 も 妙な 事 に なる もの だ 。 やっぱり 金 が 勝つ んだ ね 」 「 なぜ 」 「 なぜって 。 ―― 可哀想に 、 そんなに 零 落した か なあ 。 ―― 君 道也 先生 、 どんな 、 服装 を して いた 」 「 そう さ 、 あんまり 立派じゃ ない ね 」 「 立派で なくって も 、 まあ どの くらい な 服装 を して いた 」 「 そう さ 。 どの くらい と も 云 い 悪い が 、 そう さ 、 まあ 君 ぐらい な ところ だろう 」 「 え 、 この くらい か 、 この 羽織 ぐらい な ところ か 」 「 羽織 は もう 少し 色 が 好 いよ 」 「 袴 は 」 「 袴 は 木綿 じゃ ない が 、 その代り もっと 皺 苦 茶 だ 」 「 要するに 僕 と 伯仲 の 間 か 」 「 要するに 君 と 伯仲 の 間 だ 」 「 そう か なあ 。 ―― 君 、 背 の 高い 、 ひ ょろ 長い 人 だ ぜ 」 「 背 の 高い 、 顔 の 細長い 人 だ 」 「 じゃ 道也 先生 に 違 ない 。 ―― 世の中 は 随分 無慈悲な もの だ なあ 。 ―― 君 番地 を 知って る だろう 」 「 番地 は 聞か なかった 」 「 聞か なかった ? 」 「 うん 。 しかし 江 湖 雑誌 で 聞けば すぐ わかる さ 。 何でも ほか の 雑誌 や 新聞 に も 関係 して いる かも 知れ ない よ 。 どこ か で 白井 道也 と 云 う 名 を 見た ようだ 」 音楽 会 の 帰り の 馬車 や 車 は 最 前 から 絡 繹 と して 二 人 を 後ろ から 追い越して 夕 暮 を 吾家 へ 急ぐ 。 勇ましく 馳 け て 来た 二 梃 の 人力 が また 追い越す の か と 思ったら 、 大仏 を 横 に 見て 、 西洋 軒 の なか に 掛声 ながら 引き込んだ 。 黄昏 の 白き 靄 の なか に 、 逼 り 来る 暮 色 を 弾き 返す ほど の 目覚しき 衣 は 由 ある 女 に 相違 ない 。 中野 君 は ぴたり と 留まった 。 「 僕 は これ で 失敬 する 。 少し 待ち合せて いる 人 が ある から 」 「 西洋 軒 で 会食 する と 云 う 約束 か 」 「 うん まあ 、 そう さ 。 じゃ 失敬 」 と 中野 君 は 向 へ 歩き 出す 。 高柳 君 は 往来 の 真中 へ たった 一 人 残さ れた 。 淋しい 世の中 を 池 の 端 へ 下る 。 その 時 一 人 坊っち の 周作 は こう 思った 。 「 恋 を する 時間 が あれば 、 この 自分 の 苦痛 を かいて 、 一 篇 の 創作 を 天下 に 伝える 事 が 出来る だろう に 」 見上げたら 西洋 軒 の 二 階 に 奇麗な 花 瓦 斯 ( はな ガス ) が ついて いた 。


「四 」 野 分 夏目 漱石 よっ|の|ぶん|なつめ|そうせき Nobe Natsume Soseki

「 どこ へ 行く 」 と 中野 君 が 高柳 君 を つら ま えた 。 ||いく||なかの|きみ||たかやなぎ|きみ|||| 所 は 動物 園 の 前 である 。 しょ||どうぶつ|えん||ぜん| 太い 桜 の 幹 が 黒ずんだ 色 の なか から 、 銀 の ような 光り を 秋 の 日 に 射 返して 、 梢 を 離れる 病 葉 は 風 なき 折々 行 人 の 肩 に かかる 。 ふとい|さくら||みき||くろずんだ|いろ||||ぎん|||ひかり||あき||ひ||い|かえして|こずえ||はなれる|びょう|は||かぜ||おりおり|ぎょう|じん||かた|| 足元 に は 、 ここ かしこ に 枝 を 辞し たる 古い 奴 が が さ ついて いる 。 あしもと||||||えだ||じし||ふるい|やつ||||| 色 は 様々である 。 いろ||さまざまである 鮮血 を 日 に 曝して 、 七 日 の 間 日ごと に その 変化 を 葉 裏 に 印 して 、 注意 なく 一 枚 の なか に 畳み 込めたら 、 こんな 色 に なる だろう と 高柳 君 は さっき から 眺めて いた 。 せんけつ||ひ||さらして|なな|ひ||あいだ|ひごと|||へんか||は|うら||いん||ちゅうい||ひと|まい||||たたみ|こめたら||いろ|||||たかやなぎ|きみ||||ながめて| 血 を 連想 した 時 高柳 君 は 腋 の 下 から 何 か 冷たい もの が 襯衣 ( シャツ ) に 伝わる ような 気分 が した 。 ち||れんそう||じ|たかやなぎ|きみ||わき||した||なん||つめたい|||しんい|しゃつ||つたわる||きぶん|| ご ほん と 取り締り の ない 咳 を 一 つ する 。 |||とりしまり|||せき||ひと|| 形 も 様々である 。 かた||さまざまである 火 に あぶった かき 餅 の 状 は 千差万別である が 、 我 も 我 もと みんな 反り返る 。 ひ||||もち||じょう||せんさばんべつである||われ||われ|||そりかえる 桜 の 落葉 も がさがさに 反り返って 、 反り返った まま 吹く 風 に 誘われて 行く 。 さくら||らくよう|||そりかえって|そりかえった||ふく|かぜ||さそわ れて|いく 水気 の ない もの に は 未練 も 執着 も ない 。 みずけ||||||みれん||しゅうちゃく|| 飄々と して わが 行 末 を 覚 束 ない 風 に 任せて 平気な の は 、 死んだ 後の祭り に 、 から 騒ぎ に はしゃぐ 了 簡 かも 知れ ぬ 。 ひょうひょうと|||ぎょう|すえ||あきら|たば||かぜ||まかせて|へいきな|||しんだ|あとのまつり|||さわぎ|||さとる|かん||しれ| 風 に めぐる 落葉 と 攫 われて 行く かんな 屑 と は 一種 の 気 狂 である 。 かぜ|||らくよう||つか||いく||くず|||いっしゅ||き|くる| ただ 死 し たる もの の 気 狂 である 。 |し|||||き|くる| 高柳 君 は 死 と 気 狂 と を 自然 界 に 点 綴 した 時 、 瘠せた 両 肩 を 聳 や かして 、 また ご ほん と 云 う うつろな 咳 を 一 つ した 。 たかやなぎ|きみ||し||き|くる|||しぜん|かい||てん|つづり||じ|やせた|りょう|かた||しょう|||||||うん|||せき||ひと|| 高柳 君 は この 瞬間 に 中野 君 から つら まえられた のである 。 たかやなぎ|きみ|||しゅんかん||なかの|きみ|||まえ られた| ふと 気 が ついて 見る と 世 は 太平である 。 |き|||みる||よ||たいへいである 空 は 朗らかである 。 から||ほがらかである 美しい 着物 を きた 人 が 続々 行く 。 うつくしい|きもの|||じん||ぞくぞく|いく 相手 は 薄 羅 紗 の 外套 に 恰好の いい 姿 を 包んで 、 顋 の 下 に 真珠 の 留針 を 輝かして いる 。 あいて||うす|ら|さ||がいとう||かっこうの||すがた||つつんで|さい||した||しんじゅ||とめばり||かがやかして| ―― 高柳 君 は 相手 の 姿 を 見守った なり 黙って いた 。 たかやなぎ|きみ||あいて||すがた||みまもった||だまって| 「 どこ へ 行く 」 と 青年 は 再び 問うた 。 ||いく||せいねん||ふたたび|とうた 「 今 図書 館 へ 行った 帰り だ 」 と 相手 は ようやく 答えた 。 いま|としょ|かん||おこなった|かえり|||あいて|||こたえた 「 また 地理 学 教授 法 じゃ ない か 。 |ちり|まな|きょうじゅ|ほう||| ハハハハ 。 何だか 不景気な 顔 を して いる ね 。 なんだか|ふけいきな|かお|||| どうかした かい 」 「 近頃 は 喜劇 の 面 を どこ か へ 遺失 して しまった 」 「 また 新 橋 の 先 まで 探 がし に 行って 、 拳 突 を 喰った んじゃ ない か 。 ||ちかごろ||きげき||おもて|||||いしつ||||しん|きょう||さき||さが|||おこなって|けん|つ||しょく った||| つまらない 」 「 新 橋 どころ か 、 世界中 探 が して あるいて も 落ちて い そう も ない 。 |しん|きょう|||せかいじゅう|さが|||||おちて|||| もう 、 御 やめ だ 」 「 何 を 」 「 何でも 御 やめ だ 」 「 万事 御 やめ か 。 |ご|||なん||なんでも|ご|||ばんじ|ご|| 当分 御 やめ が よかろう 。 とうぶん|ご||| 万事 御 やめ に して 僕 と いっしょに 来た まえ 」 「 どこ へ 」 「 今日 は そこ に 慈善 音楽 会 が ある んで 、 切符 を 二 枚 買わさ れた んだ が 、 ほか に 誰 も 行き 手 が ない から 、 ちょうど いい 。 ばんじ|ご||||ぼく|||きた||||きょう||||じぜん|おんがく|かい||||きっぷ||ふた|まい|かわさ||||||だれ||いき|て||||| 君 行き たまえ 」 「 いら ない 切符 など を 買う の かい 。 きみ|いき||||きっぷ|||かう|| もったいない 事 を する んだ な 」 「 なに 義理 だ から 仕方 が ない 。 |こと||||||ぎり|||しかた|| It's a waste of money." "It can't be helped because it's my duty. おやじ が 買った んだ が 、 おやじ は 西洋 音楽 なんか わから ない から ね 」 「 それ じゃ 余った 方 を 送って やれば いい のに 」 「 実は 君 の 所 へ 送ろう と 思った んだ が ……」 「 いいえ 。 ||かった|||||せいよう|おんがく||||||||あまった|かた||おくって||||じつは|きみ||しょ||おくろう||おもった||| あす こ へ さ 」 「 あす こと は 。 ―― うん 。 あす こか 。 何 、 ありゃ 、 いい んだ 。 なん||| 自分 でも 買った んだ 」 高柳 君 は 何とも 返事 を し ないで 、 相手 を 真 正面 から 見て いる 。 じぶん||かった||たかやなぎ|きみ||なんとも|へんじ||||あいて||まこと|しょうめん||みて| 中野 君 は 少々 恐縮 の 微笑 を 洩らして 、 右 の 手 に 握った まま の 、 山羊 の 手袋 で 外套 の 胸 を ぴし ゃぴ しゃ 敲き 始めた 。 なかの|きみ||しょうしょう|きょうしゅく||びしょう||もらして|みぎ||て||にぎった|||やぎ||てぶくろ||がいとう||むね|||||たたき|はじめた 「 穿 め も し ない 手袋 を 握って あるいて る の は 何の ため だい 」 「 なに 、 今 ちょっと 隠 袋 ( ポッケット ) から 出した んだ 」 と 云 いながら 中野 君 は 、 すぐ 手袋 を かくし の 裏 に 収めた 。 うが|||||てぶくろ||にぎって|||||なんの||||いま||かく|ふくろ|||だした|||うん||なかの|きみ|||てぶくろ||||うら||おさめた 高柳 君 の 癇癪 は これ で 少々 治まった ようである 。 たかやなぎ|きみ||かんしゃく||||しょうしょう|おさまった| ところ へ 後ろ から エーイ と 云 う 掛声 が して 蹄 の 音 が 風 を 動かして くる 。 ||うしろ||||うん||かけごえ|||ひづめ||おと||かぜ||うごかして| 両人 は 足早に 道 傍 へ 立ち退いた 。 りょうにん||あしばやに|どう|そば||たちのいた 黒 塗 の ランドー の 蓋 を 、 秋 の 日 の 暖かき に 、 払い 退けた 、 中 に は 絹 帽 ( シルクハット ) が 一 つ 、 美しい 紅 い の 日傘 が 一 つ 見え ながら 、 両人 の 前 を 通り過ぎる 。 くろ|ぬ||||ふた||あき||ひ||あたたかき||はらい|しりぞけた|なか|||きぬ|ぼう|||ひと||うつくしい|くれない|||ひがさ||ひと||みえ||りょうにん||ぜん||とおりすぎる 「 ああ 云 う 連中 が 行く の かい 」 と 高柳 君 が 顋 で 馬車 の 後ろ 影 を 指す 。 |うん||れんちゅう||いく||||たかやなぎ|きみ||さい||ばしゃ||うしろ|かげ||さす 「 あれ は 徳川 侯爵 だ よ 」 と 中野 君 は 教えた 。 ||とくがわ|こうしゃく||||なかの|きみ||おしえた 「 よく 、 知って る ね 。 |しって|| 君 は あの 人 の 家来 かい 」 「 家来 じゃ ない 」 と 中野 君 は 真面目に 弁解 した 。 きみ|||じん||けらい||けらい||||なかの|きみ||まじめに|べんかい| 高柳 君 は 腹 の なか で また ちょっと 愉快 を 覚えた 。 たかやなぎ|きみ||はら||||||ゆかい||おぼえた 「 どう だい 行 こう じゃ ない か 。 ||ぎょう|||| 時間 が おくれる よ 」 「 おくれる と 逢え ない と 云 う の か ね 」 中野 君 は 、 すこし 赤く なった 。 じかん||||||あえ|||うん|||||なかの|きみ|||あかく| 怒った の か 、 弱点 を つかれた ため か 、 恥ずかしかった の か 、 わかる の は 高柳 君 だけ である 。 いかった|||じゃくてん|||||はずかしかった||||||たかやなぎ|きみ|| 「 とにかく 行こう 。 |いこう 君 は なんでも 人 の 集まる 所 や なに か を 嫌って ばかり いる から 、 一 人 坊っち に なって しまう んだ よ 」 打つ もの は 打た れる 。 きみ|||じん||あつまる|しょ|||||きらって||||ひと|じん|ぼう っち||||||うつ|||うた| 参る の は 今度 こそ 高柳 君 の 番 である 。 まいる|||こんど||たかやなぎ|きみ||ばん| 一 人 坊っち と 云 う 言葉 を 聞いた 彼 は 、 耳 が しいん と 鳴って 、 非常に 淋しい 気持 が した 。 ひと|じん|ぼう っち||うん||ことば||きいた|かれ||みみ||||なって|ひじょうに|さびしい|きもち|| 「 いや かい 。 いや なら 仕方 が ない 。 ||しかた|| 僕 は 失敬 する 」 相手 は 同情 の 笑 を 湛え ながら 半 歩 踵 を めぐらし かけた 。 ぼく||しっけい||あいて||どうじょう||わら||たたえ||はん|ふ|かかと||| 高柳 君 は また 打た れた 。 たかやなぎ|きみ|||うた| 「 いこう 」 と 単 簡 に 降参 する 。 ||ひとえ|かん||こうさん| 彼 が 音楽 会 へ 臨む の は 生れて から 、 これ が 始めて である 。 かれ||おんがく|かい||のぞむ|||うまれて||||はじめて| 玄関 に かかった 時 は 受付 が 右 へ 左 り へ の 案内 で 忙殺 されて 、 接待 掛り の 胸 に つけた 、 青い リボン を 見失う ほど 込み合って いた 。 げんかん|||じ||うけつけ||みぎ||ひだり||||あんない||ぼうさつ|さ れて|せったい|かかり||むね|||あおい|りぼん||みうしなう||こみあって| 突き当り を 右 へ 折れる の が 上等で 、 左 り へ 曲がる の が 並 等 である 。 つきあたり||みぎ||おれる|||じょうとうで|ひだり|||まがる|||なみ|とう| 下等 は ない そうだ 。 かとう|||そう だ 中野 君 は 無論 上等である 。 なかの|きみ||むろん|じょうとうである 高柳 君 を 顧み ながら 、 こっち だ よ と 、 さも 物 馴 れた さま に 云 う 。 たかやなぎ|きみ||かえりみ|||||||ぶつ|じゅん||||うん| 今日 に 限って 、 特別に 下等 席 を 設けて 貰って 、 そこ へ 自分 だけ 這 入って 聴いて 見たい と 一 人 坊っち の 青年 は 、 中野 君 の あと を つき ながら 階段 を 上 ぼ り つつ 考えた 。 きょう||かぎって|とくべつに|かとう|せき||もうけて|もらって|||じぶん||は|はいって|きいて|み たい||ひと|じん|ぼう っち||せいねん||なかの|きみ||||||かいだん||うえ||||かんがえた 己 れ の 右 を 上る 人 も 、 左 り を 上る 人 も 、 また あと から ぞろぞろ ついて 来る もの も 、 皆 異種 類 の 動物 で 、 わざと 自分 を 包囲 して 、 のっぴ きさ せ ず 二 階 の 大広間 へ 押し上げた 上 、 あと から 、 慰み 半分 に 手 を 拍って 笑う 策略 の ように 思わ れた 。 おのれ|||みぎ||のぼる|じん||ひだり|||のぼる|じん|||||||くる|||みな|いしゅ|るい||どうぶつ|||じぶん||ほうい||の っぴ|き さ|||ふた|かい||おおひろま||おしあげた|うえ|||なぐさみ|はんぶん||て||はく って|わらう|さくりゃく|||おもわ| 後ろ を 振り向く と 、 下 から 緑 り の 滴 たる 束 髪 の 脳 巓 が 見える 。 うしろ||ふりむく||した||みどり|||しずく||たば|かみ||のう|てん||みえる コスメチック で 奇麗な 一直線 を 七 分 三 分 の 割合 に 錬 り 出した 頭蓋 骨 が 見える 。 ||きれいな|いっちょくせん||なな|ぶん|みっ|ぶん||わりあい||||だした|ずがい|こつ||みえる これら の 頭 が 十 も 二十 も 重なり合って 、 もう 高柳 周作 は 一 歩 でも 退く 事 は なら ぬ と せり上がって くる 。 これ ら||あたま||じゅう||にじゅう||かさなりあって||たかやなぎ|しゅうさく||ひと|ふ||しりぞく|こと|||||せりあがって| 楽 堂 の 入口 を 這 入る と 、 霞 に 酔う た 人 の ように ぽうっと した 。 がく|どう||いりぐち||は|はいる||かすみ||よう||じん|||| 空 を 隠す 茂み の なか を 通り抜けて 頂 に 攀じ登った 時 、 思い も 寄ら ぬ 、 眼 の 下 に 百 里 の 眺め が 展開 する 時 の 感じ は これ である 。 から||かくす|しげみ||||とおりぬけて|いただ||よじのぼった|じ|おもい||よら||がん||した||ひゃく|さと||ながめ||てんかい||じ||かんじ||| 演奏 台 は 遥か の 谷底 に ある 。 えんそう|だい||はるか||たにそこ|| 近づく ため に は 、 登り 詰めた 頂 から 、 規則正しく 排 列さ れた 人間 の 間 を 一直線 に 縫う が ご とくに 下りて 、 自然 と 逼 る 擂鉢 の 底 に 近寄ら ねば なら ぬ 。 ちかづく||||のぼり|つめた|いただ||きそくただしく|はい|れっさ||にんげん||あいだ||いっちょくせん||ぬう||||おりて|しぜん||ひつ||すりばち||そこ||ちかよら||| 擂鉢 の 底 は 半円 形 を 劃 して 空 に 向って 広がる 内側 面 に は 人間 の 塀 が 段々 に 横 輪 を えがいて いる 。 すりばち||そこ||はんえん|かた||かく||から||むかい って|ひろがる|うちがわ|おもて|||にんげん||へい||だんだん||よこ|りん||| 七八 段 を 下りた 高柳 君 は 念のため に 振り返って 擂鉢 の 側面 を 天井 まで 見上げた 時 、 目 が ちらちら して ちょっと 留った 。 しちはち|だん||おりた|たかやなぎ|きみ||ねんのため||ふりかえって|すりばち||そくめん||てんじょう||みあげた|じ|め|||||りゅう った excuse me と 云って 、 大きな 異人 が 、 高柳 君 を 蔽 い かぶせる ように して 、 一 段 下 へ 通り抜けた 。 |||うん って|おおきな|いじん||たかやなぎ|きみ||へい|||||ひと|だん|した||とおりぬけた 駝鳥 の 白い 毛 が 鼻 の 先 に ふらついて 、 品 の いい 香り が ぷん と する 。 だちょう||しろい|け||はな||さき|||しな|||かおり|||| あと から 、 脳 巓 の 禿げた 大 男 が 絹 帽 ( シルクハット ) を 大事 そうに 抱えて 身 を 横 に して 女 に つき ながら 、 二 人 を 擦り抜ける 。 ||のう|てん||はげた|だい|おとこ||きぬ|ぼう|||だいじ|そう に|かかえて|み||よこ|||おんな||||ふた|じん||すりぬける 「 おい 、 あす こ に 椅子 が 二 つ 空いて いる 」 と 物 馴 れた 中野 君 は 階段 を 横 へ 切れる 。 ||||いす||ふた||あいて|||ぶつ|じゅん||なかの|きみ||かいだん||よこ||きれる 並んで いる 人 は 席 を 立って 二 人 を 通す 。 ならんで||じん||せき||たって|ふた|じん||とおす 自分 だけ であったら 、 誰 も 席 を 立って くれる もの は ある まい と 高柳 君 は 思った 。 じぶん|||だれ||せき||たって|||||||たかやなぎ|きみ||おもった 「 大変な 人 だ ね 」 と 椅子 に 腰 を おろし ながら 中野 君 は 満場 を 見 廻 わす 。 たいへんな|じん||||いす||こし||||なかの|きみ||まんじょう||み|まわ| やがて 相手 の 服装 に 気 が ついた 時 、 急に 小声 に なって 、 「 おい 、 帽子 を とら なくっちゃ 、 いけない よ 」 と 云 う 。 |あいて||ふくそう||き|||じ|きゅうに|こごえ||||ぼうし|||||||うん| 高柳 君 は 卒 然 と して 帽子 を 取って 、 左右 を ちょっと 見た 。 たかやなぎ|きみ||そつ|ぜん|||ぼうし||とって|さゆう|||みた 三四 人 の 眼 が 自分 の 頭 の 上 に 注がれて いた の を 発見 した 時 、 やっぱり 包囲 攻撃 だ な と 思った 。 さんし|じん||がん||じぶん||あたま||うえ||そそが れて||||はっけん||じ||ほうい|こうげき||||おもった なるほど 帽子 を 被って いた もの は この 広い 演奏 場 に 自分 一 人 である 。 |ぼうし||おおって|||||ひろい|えんそう|じょう||じぶん|ひと|じん| 「 外套 は 着て いて も いい の か 」 と 中野 君 に 聞いて 見る 。 がいとう||きて|||||||なかの|きみ||きいて|みる 「 外套 は 構わ ない んだ 。 がいとう||かまわ|| しかし あつ 過ぎる から 脱ごう か 」 と 中野 君 は ちょっと 立ち上がって 、 外套 の 襟 を 三 寸 ばかり 颯 と 返したら 、 左 の 袖 が する り と 抜けた 、 右 の 袖 を 抜く とき 、 領 の あたり を つまんだ と 思ったら 、 裏 を 表 て に 、 外套 は は や 畳まれて 、 椅子 の 背中 を 早くも 隠した 。 ||すぎる||ぬごう|||なかの|きみ|||たちあがって|がいとう||えり||みっ|すん||さつ||かえしたら|ひだり||そで|||||ぬけた|みぎ||そで||ぬく||りょう||||||おもったら|うら||ひょう|||がいとう||||たたま れて|いす||せなか||はやくも|かくした 下 は 仕立て おろし の フロック に 、 近頃 流行る 白い スリップ が 胴衣 ( チョッキ ) の 胸 開 を 沿う て 細い 筋 を 奇麗に あらわして いる 。 した||したて|||||ちかごろ|はやる|しろい|すりっぷ||どうい|ちょっき||むね|ひらき||そう||ほそい|すじ||きれいに|| 高柳 君 は なるほど いい 手際 だ と 羨ま しく 眺めて いた 。 たかやなぎ|きみ||||てぎわ|||うらやま||ながめて| 中野 君 は どう 云 もの か 容易に 坐ら ない 。 なかの|きみ|||うん|||よういに|すわら| 片手 を 椅子 の 背 に 凭 た せて 、 立ち ながら 後ろ から 、 左右 へ かけて 眺めて いる 。 かたて||いす||せ||ひょう|||たち||うしろ||さゆう|||ながめて| 多く の 人 の 視線 は 彼 の 上 に 落ちた 。 おおく||じん||しせん||かれ||うえ||おちた 中野 君 は 平気である 。 なかの|きみ||へいきである 高柳 君 は この 平気 を また 羨ま しく 感じた 。 たかやなぎ|きみ|||へいき|||うらやま||かんじた しばらく する と 、 中野 君 は 千 以上 陳列 せられ たる 顔 の なか で 、 ようやく ある もの を 物色 し 得た ごとく 、 豊かなる 双 頬 に 愛嬌 の 渦 を 浮かして 、 軽く 何 人 に か 会釈 した 。 |||なかの|きみ||せん|いじょう|ちんれつ|せら れ||かお||||||||ぶっしょく||えた||ゆたかなる|そう|ほお||あいきょう||うず||うかして|かるく|なん|じん|||えしゃく| 高柳 君 は 振り向か ざる を 得 ない 。 たかやなぎ|きみ||ふりむか|||とく| 友 の 挨拶 は どの 辺 に 落ちた のだろう と 、 こそばゆく も 首 を 捩じ 向けて 、 斜めに 三 段 ばかり 上 を 見る と 、 たちまち 目 つかった 。 とも||あいさつ|||ほとり||おちた|||||くび||ねじ|むけて|ななめに|みっ|だん||うえ||みる|||め| 黒い 髪 の ただ中 に 黄 の 勝った 大きな リボン の 蝶 を 颯 と ひらめか して 、 細く うねる 頸筋 を 今 真 直 に 立て直す 女 の 姿 が 目 つかった 。 くろい|かみ||ただなか||き||かった|おおきな|りぼん||ちょう||さつ||||ほそく||けいすじ||いま|まこと|なお||たてなおす|おんな||すがた||め| 紅 い は 眼 の 縁 を 薄く 染めて 、 潤った 眼 睫 の 奥 から 、 人 の 世 を 夢 の 底 に 吸い込む ような 光り を 中野 君 の 方 に 注いで いる 。 くれない|||がん||えん||うすく|そめて|うるおった|がん|まつげ||おく||じん||よ||ゆめ||そこ||すいこむ||ひかり||なかの|きみ||かた||そそいで| 高柳 君 は すわ や と 思った 。 たかやなぎ|きみ|||||おもった わが 穿 く 袴 は 小倉 である 。 |うが||はかま||おぐら| 羽織 は 染め が 剥げて 、 濁った 色 の 上 に 垢 が 容赦 なく 日光 を 反射 する 。 はおり||しめ||はげて|にごった|いろ||うえ||あか||ようしゃ||にっこう||はんしゃ| 湯 に は 五 日 前 に 這 入った ぎり だ 。 ゆ|||いつ|ひ|ぜん||は|はいった|| 襯衣 ( シャツ ) を 洗わ ざる 事 は 久しい 。 しんい|しゃつ||あらわ||こと||ひさしい 音楽 会 と 自分 と は とうてい 両立 する もの で ない 。 おんがく|かい||じぶん||||りょうりつ|||| わが 友 と 自分 と は ? |とも||じぶん|| ―― やはり 両立 し ない 。 |りょうりつ|| 友 の ハイカラ 姿 と この 魔力 ある 眼 の 所有 者 と は 、 千里 を 隔てて も 無線 の 電気 が かかる べく 作られて いる 。 とも||はいから|すがた|||まりょく||がん||しょゆう|もの|||ちさと||へだてて||むせん||でんき||||つくら れて| この 一堂 の 裡 に 綺羅 の 香り を 嗅ぎ 、 和 楽 の 温かみ を 吸う て 、 落ち合う から は 、 二 人 の 魂 は 無論 の 事 、 溶けて 流れて 、 かき鳴らす 箏 の 線 の 細き うち に も 、 めぐり合わ ねば なら ぬ 。 |いちどう||り||きら||かおり||かぎ|わ|がく||あたたかみ||すう||おちあう|||ふた|じん||たましい||むろん||こと|とけて|ながれて|かきならす|こと||せん||ほそき||||めぐりあわ||| 演奏 会 は 数 千 の 人 を 集めて 、 数 千 の 人 は ことごとく 双 手 を 挙げ ながら この 二 人 を 歓迎 して いる 。 えんそう|かい||すう|せん||じん||あつめて|すう|せん||じん|||そう|て||あげ|||ふた|じん||かんげい|| 同じ 数 千 の 人 は ことごとく 五 指 を 弾いて 、 われ 一 人 を 排斥 して いる 。 おなじ|すう|せん||じん|||いつ|ゆび||はじいて||ひと|じん||はいせき|| 高柳 君 は こんな 所 へ 来 なければ よかった と 思った 。 たかやなぎ|きみ|||しょ||らい||||おもった 友 は そんな 事 を 知り よう が ない 。 とも|||こと||しり||| 「 もう 時間 だ 、 始まる よ 」 と 活版 に 刷った 曲目 を 見 ながら 云 う 。 |じかん||はじまる|||かっぱん||すった|きょくもく||み||うん| 「 そう か 」 と 高柳 君 は 器械 的に 眼 を 活版 の 上 に 落した 。 |||たかやなぎ|きみ||きかい|てきに|がん||かっぱん||うえ||おとした 一 、 バイオリン 、 セロ 、 ピヤノ 合奏 と ある 。 ひと|ばいおりん|||がっそう|| 高柳 君 は セロ の 何物 たる を 知ら ぬ 。 たかやなぎ|きみ||||なにもの|||しら| 二 、 ソナタ …… ベートーベン 作 と ある 。 ふた|そなた||さく|| 名前 だけ は 心得て いる 。 なまえ|||こころえて| 三 、 アダジョ …… パァージャル 作 と ある 。 みっ|||さく|| これ も 知ら ぬ 。 ||しら| 四 、 と 読み かけた 時 拍手 の 音 が 急に 梁 を 動かして 起った 。 よっ||よみ||じ|はくしゅ||おと||きゅうに|りょう||うごかして|おこった 演奏 者 は すでに 台 上 に 現われて いる 。 えんそう|もの|||だい|うえ||あらわれて| やがて 三 部 合奏 曲 は 始まった 。 |みっ|ぶ|がっそう|きょく||はじまった 満場 は 化石 した か の ごとく 静かである 。 まんじょう||かせき|||||しずかである 右手 の 窓 の 外 に 、 高い 樅 の 木 が 半分 見えて 後ろ は 遐 か の 空 の 国 に 入る 。 みぎて||まど||がい||たかい|しょう||き||はんぶん|みえて|うしろ||か|||から||くに||はいる 左手 の 碧 り の 窓 掛け を 洩れて 、 澄み切った 秋 の 日 が 斜めに 白い 壁 を 明らかに 照らす 。 ひだりて||みどり|||まど|かけ||えい れて|すみきった|あき||ひ||ななめに|しろい|かべ||あきらかに|てらす 曲 は 静かなる 自然 と 、 静かなる 人間 の うち に 、 快 よく 進行 する 。 きょく||しずかなる|しぜん||しずかなる|にんげん||||こころよ||しんこう| 中野 は 絢爛 たる 空気 の 振動 を 鼓膜 に 聞いた 。 なかの||けんらん||くうき||しんどう||こまく||きいた 声 に も 色 が ある と 嬉しく 感じて いる 。 こえ|||いろ||||うれしく|かんじて| 高柳 は 樅 の 枝 を 離 る る 鳶 の 舞う 様 を 眺めて いる 。 たかやなぎ||しょう||えだ||はな|||とび||まう|さま||ながめて| 鳶 が 音楽 に 調子 を 合せて 飛んで いる 妙だ な と 思った 。 とび||おんがく||ちょうし||あわせて|とんで||みょうだ|||おもった 拍手 が また 盛 に 起る 。 はくしゅ|||さかり||おこる 高柳 君 は はっと 気 が ついた 。 たかやなぎ|きみ|||き|| 自分 は やはり 異種 類 の 動物 の なか に 一 人 坊っち で おった のである 。 じぶん|||いしゅ|るい||どうぶつ||||ひと|じん|ぼう っち||| 隣り を 見る と 中野 君 は 一生懸命に 敲いて いる 。 となり||みる||なかの|きみ||いっしょうけんめいに|たたいて| 高い 高い 鳶 の 空 から 、 己 れ を この 窮屈な 谷底 に 呼び 返した もの の 一 人 は 、 われ を 無理矢理 に ここ へ 連れ込んだ 友達 である 。 たかい|たかい|とび||から||おのれ||||きゅうくつな|たにそこ||よび|かえした|||ひと|じん||||むりやり||||つれこんだ|ともだち| 演奏 は 第 二 に 移る 。 えんそう||だい|ふた||うつる 千 余人 の 呼吸 は 一度に やむ 。 せん|よじん||こきゅう||いちどに| 高柳 君 の 心 は また 豊かに なった 。 たかやなぎ|きみ||こころ|||ゆたかに| 窓 の 外 を 見る と 鳶 は もう 舞って おら ぬ 。 まど||がい||みる||とび|||まって|| 眼 を 移して 天井 を 見る 。 がん||うつして|てんじょう||みる 周囲 一 尺 も あろう と 思わ れる 梁 の 六 角形 に 削ら れた の が 三 本 ほど 、 楽 堂 を 竪 に 貫 ぬいて いる 、 後ろ は どこ まで 通って いる か 、 頭 を 回ら さ ない から 分 ら ぬ 。 しゅうい|ひと|しゃく||||おもわ||りょう||むっ|すみ かた||けずら||||みっ|ほん||がく|どう||たて||つらぬ|||うしろ||||かよって|||あたま||まわら||||ぶん|| 所々 に 模様 に 崩した 草花 が 、 長い 蔓 と 共に 六角 を 絡んで いる 。 ところどころ||もよう||くずした|くさばな||ながい|つる||ともに|ろっかく||からんで| 仰向いて 見て いる と 広い 御 寺 の なか へ でも 這 入った 心 持 に なる 。 あおむいて|みて|||ひろい|ご|てら|||||は|はいった|こころ|じ|| そうして 黄色い 声 や 青い 声 が 、 梁 を 纏う 唐草 の ように 、 縺 れ 合って 、 天井 から 降って くる 。 |きいろい|こえ||あおい|こえ||りょう||まとう|からくさ|||れん||あって|てんじょう||ふって| 高柳 君 は 無人の 境 に 一 人 坊っち で 佇んで いる 。 たかやなぎ|きみ||ぶにんの|さかい||ひと|じん|ぼう っち||たたずんで| 三 度 目 の 拍手 が 、 断わり も なく また 起る 。 みっ|たび|め||はくしゅ||ことわり||||おこる 隣り の 友達 は 人一倍 けたたましい 敲き 方 を する 。 となり||ともだち||ひといちばい||たたき|かた|| 無人の 境 に おった 一 人 坊っち が 急に 、 霰 の ごとき 拍手 の なか に 包囲 さ れた 一 人 坊っち と なる 。 ぶにんの|さかい|||ひと|じん|ぼう っち||きゅうに|あられ|||はくしゅ||||ほうい|||ひと|じん|ぼう っち|| 包囲 は なかなか 已 ま ぬ 。 ほうい|||い|| 演奏 者 が 闥 を 排して わが 室 に 入ら ん と する 間際 に なお なお 烈 しく なった 。 えんそう|もの||たつ||はいして||しつ||はいら||||まぎわ||||れつ|| ヴァイオリン を 温かに 右 の 腋下 に 護 り たる 演奏 者 は 、 ぐるり と 戸 側 に 体 を 回ら して 、 薄 紅葉 を 点じ たる 裾 模様 を 台 上 に 動かして 来る 。 ヴぁいおりん||あたたかに|みぎ||わきした||まもる|||えんそう|もの||||と|がわ||からだ||まわら||うす|こうよう||てんじ||すそ|もよう||だい|うえ||うごかして|くる 狂う ばかりに 咲き乱れ たる 白菊 の 花束 を 、 飄 える 袖 の 影 に 受けとって 、 な よ やか なる 上 躯 を 聴衆 の 前 に 、 少し く かがめ たる 時 、 高柳 は 感じた 。 くるう||さきみだれ||しらぎく||はなたば||ひょう||そで||かげ||うけとって|||||うえ|く||ちょうしゅう||ぜん||すこし||||じ|たかやなぎ||かんじた ―― この 女 の 楽 を 聴いた の は 、 聴か さ れた ので は ない 。 |おんな||がく||きいた|||きか||||| 聴か さ ぬ と 云 う を 、 ひそかに 忍び寄り て 、 偸 み 聴いた のである 。 きか||||うん||||しのびより||とう||きいた| 演奏 は 喝采 の どよめき の 静まら ぬ うち に また 始まる 。 えんそう||かっさい||||しずまら|||||はじまる 聴衆 は とっさ の 際 に ことごとく 死んで しまう 。 ちょうしゅう||||さい|||しんで| 高柳 君 は また 自由に なった 。 たかやなぎ|きみ|||じゆうに| 何だか 広い 原 に ただ 一 人立って 、 遥か の 向 う から 熟 柿 の ような 色 の 暖かい 太陽 が 、 のっと 上って くる 心持ち が する 。 なんだか|ひろい|はら|||ひと|ひとだって|はるか||むかい|||じゅく|かき|||いろ||あたたかい|たいよう|||のぼって||こころもち|| 小 供 の うち は こんな 感じ が よく あった 。 しょう|とも|||||かんじ||| 今 は なぜ こう 窮屈に なったろう 。 いま||||きゅうくつに| 右 を 見て も 左 を 見て も 人 は 我 を 擯斥 して いる ように 見える 。 みぎ||みて||ひだり||みて||じん||われ||ひんせき||||みえる たった 一 人 の 友達 さえ 肝心の ところ で 無残 の 手 を ぱち ぱち 敲く 。 |ひと|じん||ともだち||かんじんの|||むざん||て||||たたく たよる 所 が なければ 親 の 所 へ 逃げ 帰れ と 云 う 話 も ある 。 |しょ|||おや||しょ||にげ|かえれ||うん||はなし|| その 親 が あれば 始 から こんなに は なら なかったろう 。 |おや|||はじめ||||| 七 つ の 時 おやじ は 、 どこ か へ 行った なり 帰って 来 な い 。 なな|||じ||||||おこなった||かえって|らい|| 友達 は それ から 自分 と 遊ば なく なった 。 ともだち||||じぶん||あそば|| 母 に 聞く と 、 おとっさん は 今に 帰る 今に 帰る と 云った 。 はは||きく||お とっさ ん||いまに|かえる|いまに|かえる||うん った 母 は 帰ら ぬ 父 を 、 帰る と 云って だました のである 。 はは||かえら||ちち||かえる||うん って|| その 母 は 今 でも いる 。 |はは||いま|| 住み 古 る した 家 を 引き払って 、 生れた 町 から 三 里 の 山奥 に 一 人 佗 び しく 暮らして いる 。 すみ|ふる|||いえ||ひきはらって|うまれた|まち||みっ|さと||やまおく||ひと|じん|た|||くらして| 卒業 を すれば 立派に なって 、 東京 へ で も 引き取る の が 子 の 義務 である 。 そつぎょう|||りっぱに||とうきょう||||ひきとる|||こ||ぎむ| 逃げて 帰れば 親子 共 餓えて 死な なければ なら ん 。 にげて|かえれば|おやこ|とも|うえて|しな||| ―― たちまち 拍手 の 声 が 一面に 湧き 返る 。 |はくしゅ||こえ||いちめんに|わき|かえる 「 今 の は 面白かった 。 いま|||おもしろかった 今 まで の うち 一 番 よく 出来た 。 いま||||ひと|ばん||できた 非常に 感じ を よく 出す 人 だ 。 ひじょうに|かんじ|||だす|じん| ―― どう だい 君 」 と 中野 君 が 聞く 。 ||きみ||なかの|きみ||きく 「 うん 」 「 君 面白く ない か 」 「 そう さ な 」 「 そう さ な じゃ 困った な 。 |きみ|おもしろく||||||||||こまった| ―― おい あす この 西洋 人 の 隣り に いる 、 細かい 友禅 の 着物 を 着て いる 女 が ある だろう 。 |||せいよう|じん||となり|||こまかい|ゆうぜん||きもの||きて||おんな||| ―― あんな 模様 が 近頃 流行 んだ 。 |もよう||ちかごろ|りゅうこう| 派出 だろう 」 「 そう か なあ 」 「 君 は カラー ・ センス の ない 男 だ ね 。 はしゅつ|||||きみ||からー|せんす|||おとこ|| ああ 云 う 派出 な 着物 は 、 集会 の 時 や 何 か に は ごく いい のだ ね 。 |うん||はしゅつ||きもの||しゅうかい||じ||なん||||||| 遠く から 見て 、 見 醒 め が し ない 。 とおく||みて|み|せい|||| うつくしくって いい 」 「 君 の あれ も 、 同じ ような の を 着て いる ね 」 「 え 、 そう かしら 、 何 、 ありゃ 、 いい加減に 着て いる んだろう 」 「 いい加減に 着て いれば 弁解 に なる の かい 」 中野 君 は ちょっと 会話 を やめた 。 うつくしく って||きみ||||おなじ||||きて||||||なん||いいかげんに|きて|||いいかげんに|きて||べんかい|||||なかの|きみ|||かいわ|| 左 の 方 に 鼻 眼鏡 を かけて 揉 上 を 容赦 なく 、 耳 の 上 で 剃 り 落した 男 が 帳面 を 出して しきりに 何 か 書いて いる 。 ひだり||かた||はな|めがね|||も|うえ||ようしゃ||みみ||うえ||てい||おとした|おとこ||ちょうめん||だして||なん||かいて| 「 ありゃ 、 音楽 の 批評 でも する 男 か な 」 と 今度 は 高柳 君 が 聞いた 。 |おんがく||ひひょう|||おとこ||||こんど||たかやなぎ|きみ||きいた 「 どれ 、―― あの 男 か 、 あの 黒 服 を 着た 。 ||おとこ|||くろ|ふく||きた なあ に 、 あれ は ね 。 画 工 だ よ 。 が|こう|| いつでも 来る 男 だ が ね 、 来る たんび に 写生 帖 を 持って 来て 、 人 の 顔 を 写して いる 」 「 断わり なし に か 」 「 まあ 、 そう だろう 」 「 泥棒 だ ね 。 |くる|おとこ||||くる|||しゃせい|ちょう||もって|きて|じん||かお||うつして||ことわり|||||||どろぼう|| 顔 泥棒 だ 」 中野 君 は 小さい 声 で くく と 笑った 。 かお|どろぼう||なかの|きみ||ちいさい|こえ||||わらった 休憩 時間 は 十分である 。 きゅうけい|じかん||じゅうぶんである 廊下 へ 出る もの 、 喫煙 に 行く もの 、 用 を 足して 帰る もの 、 が 高柳 君 の 眼 に 写る 。 ろうか||でる||きつえん||いく||よう||たして|かえる|||たかやなぎ|きみ||がん||うつる 女 は 小 供 の 時 見た 、 豊 国 の 田舎 源氏 を 一 枚 一 枚 はぐって 行く 時 の 心 持 である 。 おんな||しょう|とも||じ|みた|とよ|くに||いなか|はじめ し||ひと|まい|ひと|まい|はぐ って|いく|じ||こころ|じ| 男 は 芳年 の 書いた 討ち入り 当夜 の 義 士 が 動いて る ようだ 。 おとこ||ほうねん||かいた|うちいり|とうや||ただし|し||うごいて|| ただ 自分 が 彼ら の 眼 に どう 写る であろう か と 思う と 、 早く 帰り たく なる 。 |じぶん||かれら||がん|||うつる||||おもう||はやく|かえり|| 自分 の 左右 前後 は 活動 して いる 。 じぶん||さゆう|ぜんご||かつどう|| うつくしく 活動 して いる 。 |かつどう|| しかし 衣食 の ため に 活動 して いる ので は ない 。 |いしょく||||かつどう||||| 娯楽 の ため に 活動 して いる 。 ごらく||||かつどう|| 胡蝶 の 花 に 戯 む る る が ごとく 、 浮 藻 の 漣 に 靡 く が ごとく 、 実用 以上 の 活動 を 示して いる 。 こちょう||か||ぎ||||||うか|も||さざなみ||び||||じつよう|いじょう||かつどう||しめして| この 堂 に 入る もの は 実用 以上 に 余裕 の ある 人 で なくて は なら ぬ 。 |どう||はいる|||じつよう|いじょう||よゆう|||じん||||| 自分 の 活動 は 食う か 食わ ぬ か の 活動 である 。 じぶん||かつどう||くう||くわ||||かつどう| 和 煦 の 作用 で は ない 粛殺 の 運行 である 。 わ|く||さよう||||しゅくさつ||うんこう| 儼 たる 天命 に 制せられて 、 無 条件 に 生 を 享 け たる 罪 業 を 償わ ん が ため に 働 らく のである 。 げん||てんめい||せいせ られて|む|じょうけん||せい||あきら|||ざい|ぎょう||つぐなわ|||||はたら|| 頭から 云 えば 胡蝶 の ごとく 、 かく 翩々 たる 公衆 の いずれ を 捕え 来って 比較 されて も 、 少しも 恥 か しい と は 思わ ぬ 。 あたまから|うん||こちょう||||へん々||こうしゅう||||とらえ|らい って|ひかく|さ れて||すこしも|はじ|||||おもわ| 云 いたき 事 、 云 うて 人 が 点 頭 く 事 、 云 うて 人 が 尊ぶ 事 は ない から 云 わ ぬ ので は ない 。 うん||こと|うん||じん||てん|あたま||こと|うん||じん||たっとぶ|こと||||うん||||| 生活 の 競争 に すべて の 時間 を 捧げて 、 云 う べき 機会 を 与えて くれ ぬ から である 。 せいかつ||きょうそう||||じかん||ささげて|うん|||きかい||あたえて|||| 吾 が 云 い たくて 云 われ ぬ 事 は 、 世 が 聞き たくて も 聞か れ ぬ 事 は 、 天 が わが 手 を 縛 する から である 。 われ||うん|||うん|||こと||よ||きき|||きか|||こと||てん|||て||しば||| 人 が わが 口 を 箝 する から である 。 じん|||くち||かん||| 巨万 の 富 を われ に 与えて 、 一 銭 も 使う なかれ と 命ぜられ たる 時 は 富 なき 昔 し の 心安き に 帰る 能 わ ず して 、 命 を 下せる 人 を 逆 しま に 詛わ ん と す 。 きょまん||とみ||||あたえて|ひと|せん||つかう|||めいぜ られ||じ||とみ||むかし|||こころやすき||かえる|のう||||いのち||くだせる|じん||ぎゃく|||のろわ||| われ は 呪い 死に に 死な ねば なら ぬ か 。 ||まじない|しに||しな|||| ―― たちまち 咽 喉 が 塞がって 、 ご ほん ご ほん と 咳 き 入る 。 |むせ|のど||ふさがって||||||せき||はいる 袂 から ハンケチ を 出して 痰 を 取る 。 たもと||||だして|たん||とる 買った 時 の 白い の が 、 妙な 茶色 に 変って いる 。 かった|じ||しろい|||みょうな|ちゃいろ||かわって| 顔 を 挙げる と 、 肩 から 観世 より の ように 細い 金 鎖 り を 懸けて 、 朱 に 黄 を 交えた 厚 板 の 帯 の 間 に 時計 を 隠した 女 が 、 列 の はずれ に 立って 、 中野 君 に 挨拶 して いる 。 かお||あげる||かた||かんぜ||||ほそい|きむ|くさり|||かけて|しゅ||き||まじえた|こう|いた||おび||あいだ||とけい||かくした|おんな||れつ||||たって|なかの|きみ||あいさつ|| 「 よう 、 いらっしゃいました 」 と 可愛らしい 二 重 瞼 を 細 めに 云 う 。 |いらっしゃい ました||かわいらしい|ふた|おも|まぶた||ほそ||うん| 「 いや 、 だいぶ 盛会 です ね 。 ||せいかい|| 冬 田 さん は 非常な 出来 でした な 」 と 中野 君 は 半身 を 、 女 の 方 へ 向け ながら 云 う 。 ふゆ|た|||ひじょうな|でき||||なかの|きみ||はんしん||おんな||かた||むけ||うん| 「 ええ 、 大喜びで ……」 と 云 い 捨てて 下りて 行く 。 |おおよろこびで||うん||すてて|おりて|いく 「 あの 女 を 知って る かい 」 「 知る もの か ね 」 と 高柳 君 は 拳 突 を 喰 わす 。 |おんな||しって|||しる|||||たかやなぎ|きみ||けん|つ||しょく| 相手 は 驚 ろ いて 黙って しまった 。 あいて||おどろ|||だまって| 途端 に 休憩 後 の 演奏 は 始まる 。 とたん||きゅうけい|あと||えんそう||はじまる 「 四葉 の 苜蓿 花 」 と か 云 う もの である 。 よつば||しょしゅく|か|||うん||| 曲 の 続く 間 は 高柳 君 は うつらうつら と 聴いて いる 。 きょく||つづく|あいだ||たかやなぎ|きみ||||きいて| ぱち ぱち と 手 が 鳴る と 熱病 の 人 が 夢 から 醒 め たように 我 に 帰る 。 |||て||なる||ねつびょう||じん||ゆめ||せい|||われ||かえる この 過程 を 二三 度 繰り返して 、 最後 の 幻覚 から 喚 び 醒 まさ れた 時 は 、 タンホイゼル の マーチ で 銅 鑼 を 敲き 大 喇叭 を 吹く ところ であった 。 |かてい||ふみ|たび|くりかえして|さいご||げんかく||かん||せい|||じ||||まーち||どう|どら||たたき|だい|らっぱ||ふく|| やがて 、 千 余人 の 影 は 一度に 動き出した 。 |せん|よじん||かげ||いちどに|うごきだした 二 人 の 青年 は 揉ま れ ながら に 門 を 出た 。 ふた|じん||せいねん||もま||||もん||でた 日 は ようやく 暮れかかる 。 ひ|||くれかかる 図書 館 の 横手 に 聳 える 松 の 林 が 緑 り の 色 を 微 か に 残して 、 しだいに 黒い 影 に 変って 行く 。 としょ|かん||よこて||しょう||まつ||りん||みどり|||いろ||び|||のこして||くろい|かげ||かわって|いく 「 寒く なった ね 」 高柳 君 の 答 は 力 の 抜けた 咳 二 つ であった 。 さむく|||たかやなぎ|きみ||こたえ||ちから||ぬけた|せき|ふた|| 「 君 さっき から 、 咳 を する ね 。 きみ|||せき||| 妙な 咳 だ ぜ 。 みょうな|せき|| 医者 に でも 見て 貰ったら 、 どう だい 」 「 何 、 大丈夫だ 」 と 云 いながら 高柳 君 は 尖った 肩 を 二三 度 ゆすぶった 。 いしゃ|||みて|もらったら|||なん|だいじょうぶだ||うん||たかやなぎ|きみ||とがった|かた||ふみ|たび| 松林 を 横切って 、 博物 館 の 前 に 出る 。 まつばやし||よこぎって|はくぶつ|かん||ぜん||でる 大きな 銀杏 に 墨汁 を 点じた ような 滴 々 の 烏 が 乱れて いる 。 おおきな|いちょう||ぼくじゅう||てんじた||しずく|||からす||みだれて| 暮れて 行く 空 に 輝く は 無数の 落葉 である 。 くれて|いく|から||かがやく||むすうの|らくよう| 今 は 風 さえ 出た 。 いま||かぜ||でた 「 君 二三 日 前 に 白井 道也 と 云 う 人 が 来た ぜ 」 「 道也 先生 ? きみ|ふみ|ひ|ぜん||しらい|みちや||うん||じん||きた||みちや|せんせい 」 「 だろう と 思う の さ 。 ||おもう|| 余り 沢山 ある 名 じゃ ない から 」 「 聞いて 見た かい 」 「 聞こう と 思った が 、 何だか きまり が 悪 る かった から やめた 」 「 なぜ 」 「 だって 、 あなた は 中学校 で 生徒 から 追い出さ れた 事 は ありません か と も 聞け まい じゃ ない か 」 「 追い出さ れました か と 聞か なくって も いい さ 」 「 しかし 容易に 聞き にくい 男 だ よ 。 あまり|たくさん||な||||きいて|みた||きこう||おもった||なんだか|||あく|||||||||ちゅうがっこう||せいと||おいださ||こと||あり ませ ん||||きけ|||||おいださ|れ ました|||きか|なく って|||||よういに|きき||おとこ|| ありゃ 、 困る 人 だ 。 |こまる|じん| 用事 より ほか に 云 わ ない 人 だ 」 「 そんなに なった かも 知れ ない 。 ようじ||||うん|||じん|||||しれ| 元来 何の 用 で 君 の 所 へ なん ぞ 来た のだ い 」 「 なあ に 、 江 湖 雑誌 の 記者 だって 、 僕 の 所 へ 談話 の 筆記 に 来た の さ 」 「 君 の 談話 を かい 。 がんらい|なんの|よう||きみ||しょ||||きた|||||こう|こ|ざっし||きしゃ||ぼく||しょ||だんわ||ひっき||きた|||きみ||だんわ|| ―― 世の中 も 妙な 事 に なる もの だ 。 よのなか||みょうな|こと|||| やっぱり 金 が 勝つ んだ ね 」 「 なぜ 」 「 なぜって 。 |きむ||かつ||||なぜ って ―― 可哀想に 、 そんなに 零 落した か なあ 。 かわいそうに||ぜろ|おとした|| ―― 君 道也 先生 、 どんな 、 服装 を して いた 」 「 そう さ 、 あんまり 立派じゃ ない ね 」 「 立派で なくって も 、 まあ どの くらい な 服装 を して いた 」 「 そう さ 。 きみ|みちや|せんせい||ふくそう|||||||りっぱじゃ|||りっぱで|なく って||||||ふくそう||||| どの くらい と も 云 い 悪い が 、 そう さ 、 まあ 君 ぐらい な ところ だろう 」 「 え 、 この くらい か 、 この 羽織 ぐらい な ところ か 」 「 羽織 は もう 少し 色 が 好 いよ 」 「 袴 は 」 「 袴 は 木綿 じゃ ない が 、 その代り もっと 皺 苦 茶 だ 」 「 要するに 僕 と 伯仲 の 間 か 」 「 要するに 君 と 伯仲 の 間 だ 」 「 そう か なあ 。 ||||うん||わるい|||||きみ||||||||||はおり|||||はおり|||すこし|いろ||よしみ||はかま||はかま||もめん||||そのかわり||しわ|く|ちゃ||ようするに|ぼく||はくちゅう||あいだ||ようするに|きみ||はくちゅう||あいだ|||| ―― 君 、 背 の 高い 、 ひ ょろ 長い 人 だ ぜ 」 「 背 の 高い 、 顔 の 細長い 人 だ 」 「 じゃ 道也 先生 に 違 ない 。 きみ|せ||たかい|||ながい|じん|||せ||たかい|かお||ほそながい|じん|||みちや|せんせい||ちが| ―― 世の中 は 随分 無慈悲な もの だ なあ 。 よのなか||ずいぶん|むじひな||| ―― 君 番地 を 知って る だろう 」 「 番地 は 聞か なかった 」 「 聞か なかった ? きみ|ばんち||しって|||ばんち||きか||きか| 」 「 うん 。 しかし 江 湖 雑誌 で 聞けば すぐ わかる さ 。 |こう|こ|ざっし||きけば||| 何でも ほか の 雑誌 や 新聞 に も 関係 して いる かも 知れ ない よ 。 なんでも|||ざっし||しんぶん|||かんけい||||しれ|| どこ か で 白井 道也 と 云 う 名 を 見た ようだ 」 音楽 会 の 帰り の 馬車 や 車 は 最 前 から 絡 繹 と して 二 人 を 後ろ から 追い越して 夕 暮 を 吾家 へ 急ぐ 。 |||しらい|みちや||うん||な||みた||おんがく|かい||かえり||ばしゃ||くるま||さい|ぜん||から|えき|||ふた|じん||うしろ||おいこして|ゆう|くら||われいえ||いそぐ 勇ましく 馳 け て 来た 二 梃 の 人力 が また 追い越す の か と 思ったら 、 大仏 を 横 に 見て 、 西洋 軒 の なか に 掛声 ながら 引き込んだ 。 いさましく|ち|||きた|ふた|てこ||じんりょく|||おいこす||||おもったら|だいぶつ||よこ||みて|せいよう|のき||||かけごえ||ひきこんだ 黄昏 の 白き 靄 の なか に 、 逼 り 来る 暮 色 を 弾き 返す ほど の 目覚しき 衣 は 由 ある 女 に 相違 ない 。 たそがれ||しろき|もや||||ひつ||くる|くら|いろ||はじき|かえす|||めざましき|ころも||よし||おんな||そうい| 中野 君 は ぴたり と 留まった 。 なかの|きみ||||とどまった 「 僕 は これ で 失敬 する 。 ぼく||||しっけい| 少し 待ち合せて いる 人 が ある から 」 「 西洋 軒 で 会食 する と 云 う 約束 か 」 「 うん まあ 、 そう さ 。 すこし|まちあわせて||じん||||せいよう|のき||かいしょく|||うん||やくそく||||| じゃ 失敬 」 と 中野 君 は 向 へ 歩き 出す 。 |しっけい||なかの|きみ||むかい||あるき|だす 高柳 君 は 往来 の 真中 へ たった 一 人 残さ れた 。 たかやなぎ|きみ||おうらい||まんなか|||ひと|じん|のこさ| 淋しい 世の中 を 池 の 端 へ 下る 。 さびしい|よのなか||いけ||はし||くだる その 時    一 人 坊っち の 周作 は こう 思った 。 |じ|ひと|じん|ぼう っち||しゅうさく|||おもった 「 恋 を する 時間 が あれば 、 この 自分 の 苦痛 を かいて 、 一 篇 の 創作 を 天下 に 伝える 事 が 出来る だろう に 」 見上げたら 西洋 軒 の 二 階 に 奇麗な 花 瓦 斯 ( はな ガス ) が ついて いた 。 こい|||じかん||||じぶん||くつう|||ひと|へん||そうさく||てんか||つたえる|こと||できる|||みあげたら|せいよう|のき||ふた|かい||きれいな|か|かわら|し||がす|||