「四 」 二百十 日 夏目 漱石
「 おい これ から 曲がって いよいよ 登る んだろう 」 と 圭 さん が 振り返る 。
「 ここ を 曲がる か ね 」 「 何でも 突き当り に 寺 の 石段 が 見える から 、 門 を 這 入ら ず に 左 へ 廻れ と 教えた ぜ 」 「 饂飩 屋 の 爺さん が か 」 と 碌 さん は しきりに 胸 を 撫で 廻す 。
「 そう さ 」 「 あの 爺さん が 、 何 を 云 うか 分った もん じゃ ない 」 「 なぜ 」 「 なぜって 、 世の中 に 商売 も あろう に 、 饂飩 屋 に なる なんて 、 第 一 それ から が 不 了 簡 だ 」 「 饂飩 屋 だって 正 業 だ 。 金 を 積んで 、 貧乏 人 を 圧迫 する の を 道楽 に する ような 人間 より 遥かに 尊 と い さ 」 「 尊 とい かも 知れ ない が 、 どうも 饂飩 屋 は 性 に 合わ ない 。
―― しかし 、 とうとう 饂飩 を 食わせられた 今 と なって 見る と 、 いくら 饂飩 屋 の 亭主 を 恨んで も 後の祭り だ から 、 まあ 、 我慢 して 、 ここ から 曲がって やろう 」 「 石段 は 見える が 、 あれ が 寺 か なあ 、 本堂 も 何も ない ぜ 」 「 阿蘇 の 火 で 焼け ち まったん だろう 。 だから 云 わ ない 事 じゃ ない 。
―― おい 天気 が 少々 剣 呑 に なって 来た ぜ 」 「 なに 、 大丈夫だ 。
天 祐 が ある んだ から 」 「 どこ に 」 「 どこ に でも ある さ 。
意思 の ある 所 に は 天 祐 が ごろごろ して いる もの だ 」 「 どうも 君 は 自信 家 だ 。
剛 健 党 に なる か と 思う と 、 天 祐 派 に なる 。
この 次ぎ に は 天 誅組 に でも なって 筑波 山 へ 立て籠る つもりだろう 」 「 なに 豆腐 屋 時代 から 天 誅組 さ 。
―― 貧乏 人 を いじめる ような ―― 豆腐 屋 だって 人間 だ ―― いじめるって 、 何ら の 利害 も ない んだ ぜ 、 ただ 道楽 なんだ から 驚 ろく 」 「 いつ そんな 目 に 逢った ん だい 」 「 いつでも いい さ 。 桀紂 と 云 えば 古来 から 悪人 と して 通り 者 だ が 、 二十 世紀 は この 桀紂 で 充満 して いる んだ ぜ 、 しかも 文明 の 皮 を 厚く 被って る から 小 憎らしい 」 「 皮 ばかり で 中 味 の ない 方 が いい くらい な もの か な 。
やっぱり 、 金 が あり 過ぎて 、 退屈だ と 、 そんな 真似 が し たく なる んだ ね 。
馬鹿に 金 を 持た せる と 大概 桀紂 に なり た がる んだろう 。
僕 の ような 有 徳 の 君子 は 貧乏だ し 、 彼ら の ような 愚 劣 な 輩 は 、 人 を 苦しめる ため に 金銭 を 使って いる し 、 困った 世の中 だ なあ 。
いっそ 、 どう だい 、 そう 云 う 、 も もん が あ を 十 把 一 と から げ に して 、 阿蘇 の 噴火 口 から 真 逆様に 地獄 の 下 へ 落し ち まったら 」 「 今に 落として やる 」 と 圭 さん は 薄 黒く 渦巻く 煙り を 仰いで 、 草 鞋足 を うんと 踏 張った 。
「 大変な 権 幕 だ ね 。
君 、 大丈夫 かい 。
十 把 一 と から げ を 放り込ま ない うち に 、 君 が 飛び込んじゃ いけない ぜ 」 「 あの 音 は 壮烈だ な 」 「 足 の 下 が 、 もう 揺れて いる ようだ 。
―― おい ちょっと 、 地面 へ 耳 を つけて 聞いて 見た まえ 」 「 どんな だい 」 「 非常な 音 だ 。
たしかに 足 の 下 が うなって る 」 「 その 割 に 煙り が こない な 」 「 風 の せい だ 。
北風 だ から 、 右 へ 吹きつける んだ 」 「 樹 が 多い から 、 方角 が 分 ら ない 。
もう 少し 登ったら 見当 が つく だろう 」 しばらく は 雑木林 の 間 を 行く 。
道 幅 は 三 尺 に 足ら ぬ 。
いくら 仲 が 善くて も 並んで 歩 行く 訳 に は 行か ぬ 。
圭 さん は 大きな 足 を 悠々と 振って 先 へ 行く 。
碌 さん は 小さな 体 躯 を すぼめて 、 小 股 に 後 から 尾 いて 行く 。
尾 いて 行き ながら 、 圭 さん の 足跡 の 大きい の に 感心 して いる 。
感心 し ながら 歩行 いて 行く と 、 だんだん おくれて しまう 。
路 は 左右 に 曲折 して 爪先 上り だ から 、 三十 分 と 立た ぬ うち に 、 圭 さん の 影 を 見失った 。
樹 と 樹 の 間 を すかして 見て も 何にも 見え ぬ 。
山 を 下りる 人 は 一 人 も ない 。
上る もの に も 全く 出合わ ない 。
ただ 所々 に 馬 の 足跡 が ある 。
たまに 草 鞋 の 切れ が 茨 に かかって いる 。
そのほか に 人 の 気色 は さらに ない 、 饂飩 腹 の 碌 さん は 少々 心細く なった 。
きのう の 澄み切った 空 に 引き 易 えて 、 今朝 宿 を 立つ 時 から の 霧 模様 に は 少し 掛 念 も あった が 、 晴れ さえ すれば と 、 好い加減な 事 を 頼み に して 、 とうとう 阿蘇 の 社 まで は 漕ぎつけた 。
白木 の 宮 に 禰宜 の 鳴らす 柏手 が 、 森 閑 と 立つ 杉 の 梢 に 響いた 時 、 見上げる 空 から 、 ぽつり と 何やら 額 に 落ちた 。
饂飩 を 煮る 湯気 が 障子 の 破れ から 、 吹いて 、 白く 右 へ 靡 いた 頃 から 、 午 過ぎ は 雨 か な と も 思わ れた 。
雑木林 を 小 半 里 ほど 来たら 、 怪しい 空 が とうとう 持ち 切れ なく なった と 見えて 、 梢 に したたる 雨 の 音 が 、 さあ と 北 の 方 へ 走る 。
あと から 、 すぐ 新しい 音 が 耳 を 掠 め て 、 翻 える 木 の 葉 と 共に また 北 の 方 へ 走る 。
碌 さん は 首 を 縮めて 、 えっと 舌打ち を した 。 一 時間 ほど で 林 は 尽きる 。
尽きる と 云 わん より は 、 一度に 消える と 云 う 方 が 適当であろう 。
ふり返る 、 後 は 知ら ず 、 貫いて 来た 一 筋道 の ほか は 、 東 も 西 も 茫々 たる 青 草 が 波 を 打って 幾 段 と なく 連なる 後 から 、 むくむく と 黒い 煙 り が 持ち上がって くる 。
噴火 口 こそ 見え ない が 、 煙り の 出る の は 、 つい 鼻 の 先 である 。
林 が 尽きて 、 青い 原 を 半 丁 と 行か ぬ 所 に 、 大 入 道 の 圭 さん が 空 を 仰いで 立って いる 。
蝙蝠 傘 は 畳んだ まま 、 帽子 さえ 、 被ら ず に 毬 栗 頭 を ぬっく と 草 から 上 へ 突き出して 地形 を 見 廻して いる 様子 だ 。 「 おうい 。
少し 待って くれ 」 「 おうい 。
荒れて 来た ぞ 。
荒れて 来た ぞう う 。
しっかり しろう 」 「 しっかり する から 、 少し 待って くれ え 」 と 碌 さん は 一生懸命に 草 の なか を 這い上がる 。
ようやく 追いつく 碌 さん を 待ち受けて 、 「 おい 何 を ぐずぐず して いる んだ 」 と 圭 さん が 遣っつける 。 「 だから 饂飩 じゃ 駄目だ と 云った んだ 。 ああ 苦しい 。
―― おい 君 の 顔 は どうした ん だ 。
真 黒 だ 」 「 そう か 、 君 の も 真 黒 だ 」 圭 さん は 、 無 雑 作 に 白地 の 浴衣 の 片 袖 で 、 頭から 顔 を 撫で 廻す 。
碌 さん は 腰 から 、 ハンケチ を 出す 。
「 なるほど 、 拭く と 、 着物 が どす黒く なる 」 「 僕 の ハンケチ も 、 こんな だ 」 「 ひどい もの だ な 」 と 圭 さん は 雨 の なか に 坊主 頭 を 曝し ながら 、 空模様 を 見 廻す 。
「 よ な だ 。
よなが 雨 に 溶けて 降って くるんだ 。
そら 、 その 薄 の 上 を 見た まえ 」 と 碌 さん が 指 を さす 。
長い 薄 の 葉 は 一面に 灰 を 浴びて 濡れ ながら 、 靡 く 。
「 なるほど 」 「 困った な 、 こりゃ 」 「 なあ に 大丈夫だ 。
つい そこ だ もの 。
あの 煙 り の 出る 所 を 目 当 に して 行けば 訳 は ない 」 「 訳 は な さ そうだ が 、 これ じゃ 路 が 分 ら ない ぜ 」 「 だ から 、 さっき から 、 待って いた の さ 。
ここ を 左 り へ 行く か 、 右 へ 行く か と 云 う 、 ちょうど 股 の 所 な んだ 」 「 なるほど 、 両方 共 路 に なって る ね 。
―― しかし 煙り の 見当 から 云 う と 、 左 り へ 曲がる 方 が よ さ そうだ 」 「 君 は そう 思う か 。
僕 は 右 へ 行く つもりだ 」 「 どうして 」 「 どうしてって 、 右 の 方 に は 馬 の 足跡 が ある が 、 左 の 方 に は 少しも ない 」 「 そうかい 」 と 碌 さん は 、 身 躯 を 前 に 曲げ ながら 、 蔽 い かかる 草 を 押し 分けて 、 五六 歩 、 左 の 方 へ 進んだ が 、 すぐに 取って返して 、 「 駄目 の ようだ 。 足跡 は 一 つ も 見当ら ない 」 と 云った 。 「 ない だろう 」 「 そっち に は あるか い 」 「 うん 。
たった 二 つ ある 」 「 二 つ ぎり かい 」 「 そう さ 。
たった 二 つ だ 。
そら 、 ここ と ここ に 」 と 圭 さん は 繻子 張 の 蝙蝠 傘 の 先 で 、 かぶさる 薄 の 下 に 、 幽 か に 残る 馬 の 足跡 を 見せる 。
「 これ だけ かい 心細い な 」 「 な に 大丈夫だ 」 「 天 祐 じゃ ない か 、 君 の 天 祐 は あて に なら ない 事 夥 し いよ 」 「 なに これ が 天 祐 さ 」 と 圭 さん が 云 い 了 ら ぬ うち に 、 雨 を 捲 いて 颯 と おろす 一陣 の 風 が 、 碌 さん の 麦藁 帽 を 遠慮 なく 、 吹き 込めて 、 五六 間 先 まで 飛ばして 行く 。
眼 に 余る 青 草 は 、 風 を 受けて 一度に 向 う へ 靡 いて 、 見る うち に 色 が 変る と 思う と 、 また 靡 き 返して もと の 態 に 戻る 。
「 痛快だ 。
風 の 飛んで 行く 足跡 が 草 の 上 に 見える 。
あれ を 見た まえ 」 と 圭 さん が 幾 重 と なく 起伏 する 青い 草 の 海 を 指す 。
「 痛快で も ない ぜ 。
帽子 が 飛 ん じ まった 」 「 帽子 が 飛んだ ?
いい じゃ ない か 帽子 が 飛んだって 。 取って くる さ 。
取って 来て やろう か 」 圭 さん は 、 いきなり 、 自分 の 帽子 の 上 へ 蝙蝠 傘 を 重し に 置いて 、 颯 と 、 薄 の 中 に 飛び込んだ 。
「 おい この 見当 か 」 「 もう 少し 左 り だ 」 圭 さん の 身 躯 は 次第に 青い もの の 中 に 、 深く はまって 行く 。
しまい に は 首 だけ に なった 。
あと に 残った 碌 さん は また 心配に なる 。
「 おうい 。
大丈夫 か 」 「 何 だ あ 」 と 向 う の 首 から 声 が 出る 。
「 大丈夫 かよう 」 やがて 圭 さん の 首 が 見え なく なった 。
「 おうい 」 鼻 の 先 から 出る 黒煙 り は 鼠色 の 円柱 の 各 部 が 絶間 なく 蠕動 を 起し つつ ある ごとく 、 むくむく と 捲 き 上がって 、 半 空 から 大気 の 裡 に 溶け込んで 碌 さん の 頭 の 上 へ 容赦 なく 雨 と 共に 落ちて くる 。
碌 さん は 悄然 と して 、 首 の 消えた 方角 を 見つめて いる 。
しばらく する と 、 まるで 見当 の 違った 半 丁 ほど 先 に 、 圭 さん の 首 が 忽然 と 現われた 。
「 帽子 は ないぞう 」 「 帽子 は いら ない よう 。
早く 帰って こうい 」 圭 さん は 坊主 頭 を 振り 立て ながら 、 薄 の 中 を 泳いで くる 。
「 おい 、 どこ へ 飛ばし たんだい 」 「 どこ だ か 、 相談 が 纏 ら ない うち に 飛ばし ち まったん だ 。
帽子 は いい が 、 歩 行く の は 厭 に なった よ 」 「 もう いやに なった の か 。
まだ ある かない じゃ ない か 」 「 あの 煙 と 、 この 雨 を 見る と 、 何だか 物 凄くって 、 あるく 元気 が なくなる ね 」 「 今 から 駄々 を 捏ねちゃ 仕方 が ない 。 ―― 壮快じゃ ない か 。
あの むくむく 煙 の 出て くる ところ は 」 「 その むくむく が 気味 が 悪 るい んだ 」 「 冗談 云っちゃ 、 いけない 。 あの 煙 の 傍 へ 行く んだ よ 。
そうして 、 あの 中 を 覗き込む んだ よ 」 「 考える と 全く 余計な 事 だ ね 。
そうして 覗き込んだ 上 に 飛び込めば 世話 は ない 」 「 ともかくも あるこう 」 「 ハハハハ ともかくも か 。
君 が ともかくも と 云 い 出す と 、 つい 釣り 込ま れる よ 。
さっき も ともかくも で 、 とうとう 饂飩 を 食っち まった 。 これ で 赤痢 に でも 罹 かれば 全く ともかくも の 御蔭 だ 」 「 いい さ 、 僕 が 責任 を 持つ から 」 「 僕 の 病気 の 責任 を 持ったって 、 しようがない じゃ ない か 。 僕 の 代理 に 病気 に なれ も しまい 」 「 まあ 、 いい さ 。
僕 が 看病 を して 、 僕 が 伝染 して 、 本人 の 君 は 助ける ように して やる よ 」 「 そう か 、 それ じゃ 安心だ 。
まあ 、 少々 あるく か な 」 「 そら 、 天気 も だいぶ よく なって 来た よ 。
やっぱり 天 祐 が ある んだ よ 」 「 ありがたい 仕 合せ だ 。
あるく 事 は あるく が 、 今夜 は 御馳走 を 食わせ なくっちゃ 、 いやだ ぜ 」 「 また 御馳走 か 。
あるき さえ すれば きっと 食わせる よ 」 「 それ から ……」 「 まだ 何 か 注文 が ある の かい 」 「 うん 」 「 何 だい 」 「 君 の 経歴 を 聞か せる か 」 「 僕 の 経歴って 、 君 が 知って る 通り さ 」 「 僕 が 知って る 前 の さ 。 君 が 豆腐 屋 の 小僧 であった 時分 から ……」 「 小僧 じゃ ない ぜ 、 これ でも 豆腐 屋 の 伜 な んだ 」 「 その 伜 の 時 、 寒 磬寺 の 鉦 の 音 を 聞いて 、 急に 金持 が にくらしく なった 、 因縁 話し を さ 」 「 ハハハハ そんなに 聞き たければ 話す よ 。
その代り 剛 健 党 に なら なくちゃ いけない ぜ 。
君 なん ざ あ 、 金持 の 悪党 を 相手 に した 事 が ない から 、 そんなに 呑気 な んだ 。
君 は ディッキンス の 両 都 物語り と 云 う 本 を 読んだ 事 が ある か 」 「 ない よ 。
伊賀 の 水 月 は 読んだ が 、 ディッキンス は 読ま ない 」 「 それ だ から なお 貧民 に 同情 が 薄い んだ 。
―― あの 本 の ね しまい の 方 に 、 御 医者 さん の 獄中 で かいた 日記 が ある が ね 。
悲惨な もの だ よ 」 「 へえ 、 どんな もの だい 」 「 そりゃ 君 、 仏 国 の 革命 の 起る 前 に 、 貴族 が 暴 威 を 振って 細 民 を 苦しめた 事 が かいて ある んだ が 。
―― それ も 今夜 僕 が 寝 ながら 話して やろう 」 「 うん 」 「 なあ に 仏 国 の 革命 なんて え の も 当然の 現象 さ 。
あんなに 金持ち や 貴族 が 乱暴 を すりゃ 、 ああ なる の は 自然の 理 窟 だ から ね 。
ほら 、 あの 轟 々 鳴って 吹き出す の と 同じ 事 さ 」 と 圭 さん は 立ち 留まって 、 黒い 煙 の 方 を 見る 。
濛々 と 天地 を 鎖 す 秋雨 を 突き 抜いて 、 百 里 の 底 から 沸き 騰 る 濃い もの が 渦 を 捲 き 、 渦 を 捲 いて 、 幾 百 噸 ( トン ) の 量 と も 知れ ず 立ち上がる 。
その 幾 百 噸 の 煙り の 一 分子 が ことごとく 震動 して 爆発 する か と 思 わる る ほど の 音 が 、 遠い 遠い 奥 の 方 から 、 濃い もの と 共に 頭 の 上 へ 躍り上がって 来る 。
雨 と 風 の なか に 、 毛虫 の ような 眉 を 攅 め て 、 余念 も なく 眺めて いた 、 圭 さん が 、 非常な 落ちついた 調子 で 、 「 雄大だろう 、 君 」 と 云った 。 「 全く 雄大だ 」 と 碌 さん も 真面目で 答えた 。
「 恐ろしい くらい だ 」 しばらく 時 を きって 、 碌 さん が 付け加えた 言葉 は これ である 。
「 僕 の 精神 は あれ だ よ 」 と 圭 さん が 云 う 。
「 革命 か 」 「 うん 。
文明 の 革命 さ 」 「 文明 の 革命 と は 」 「 血 を 流さ ない の さ 」 「 刀 を 使わ なければ 、 何 を 使う のだ い 」 圭 さん は 、 何にも 云 わ ず に 、 平手 で 、 自分 の 坊主 頭 を ぴし ゃぴ しゃ と 二 返 叩いた 。
「 頭 か 」 「 うん 。
相手 も 頭 で くる から 、 こっち も 頭 で 行く んだ 」 「 相手 は 誰 だい 」 「 金 力 や 威力 で 、 たより の ない 同胞 を 苦しめる 奴 ら さ 」 「 うん 」 「 社会 の 悪徳 を 公然 商売 に して いる 奴 ら さ 」 「 うん 」 「 商売 なら 、 衣食 の ため と 云 う 言い訳 も 立つ 」 「 うん 」 「 社会 の 悪徳 を 公然 道楽 に して いる 奴 ら は 、 どうしても 叩きつけ なければ なら ん 」 「 うん 」 「 君 も やれ 」 「 うん 、 やる 」 圭 さん は 、 のっそ り と 踵 を めぐらした 。 碌 さん は 黙 然 と して 尾 いて 行く 。
空 に ある もの は 、 煙り と 、 雨 と 、 風 と 雲 である 。
地 に ある もの は 青い 薄 と 、 女郎花 と 、 所々 に わびしく 交 る 桔梗 のみ である 。
二 人 は 煢々 と して 無人の 境 を 行く 。
薄 の 高 さ は 、 腰 を 没する ほど に 延びて 、 左右 から 、 幅 、 尺 足らず の 路 を 蔽 うて いる 。
身 を 横 に して も 、 草 に 触れ ず に 進む 訳 に は 行か ぬ 。
触れれば 雨 に 濡れた 灰 が つく 。
圭 さん も 碌 さん も 、 白地 の 浴衣 に 、 白 の 股引 に 、 足袋 と 脚 絆 だけ を 紺 に して 、 濡れた 薄 を が さ つか せて 行く 。
腰 から 下 は どぶ 鼠 の ように 染まった 。
腰 から 上 と いえ ども 、 降る 雨 に 誘われて 着く 、 よ な を 、 一面に 浴びた から 、 ほとんど 下水 へ 落ち込んだ と 同様の 始末 である 。 ただ さえ 、 うねり 、 くねって いる 路 だ から 、 草 が な くって も 、 どこ へ どう 続いて いる か 見極め の つく もの で は ない 。
草 を かぶれば なおさら である 。
地 に 残る 馬 の 足跡 さえ 、 ようやく 見つけた くらい だ から 、 あと の 始末 は 無論 天 に 任せて 、 あるいて いる と 云 わ ねば なら ぬ 。
最初の うち こそ 、 立ち 登る 煙り を 正面 に 見て 進んだ 路 は 、 いつの間に やら 、 折れ曲って 、 次第に 横 から よ な を 受 くる ように なった 。
横 に 眺める 噴火 口 が 今度 は 自然に 後ろ の 方 に 見え だした 時 、 圭 さん は ぴたり と 足 を 留めた 。
「 どうも 路 が 違う ようだ ね 」 「 うん 」 と 碌 さん は 恨めしい 顔 を して 、 同じく 立ち 留った 。 「 何だか 、 情 ない 顔 を して いる ね 。
苦しい かい 」 「 実際 情けない んだ 」 「 どこ か 痛む かい 」 「 豆 が 一面に 出来て 、 たまらない 」 「 困った な 。
よっぽど 痛い かい 。
僕 の 肩 へ つら まったら 、 どう だ ね 。
少し は 歩 行き 好 い かも 知れ ない 」 「 うん 」 と 碌 さん は 気 の ない 返事 を した まま 動か ない 。
「 宿 へ ついたら 、 僕 が 面白い 話 を する よ 」 「 全体 いつ 宿 へ つく ん だい 」 「 五 時 に は 湯 元 へ 着く 予定 なんだ が 、 どうも 、 あの 煙り は 妙だ よ 。
右 へ 行って も 、 左 り へ 行って も 、 鼻 の 先 に ある ばかりで 、 遠く も なら なければ 、 近く も なら ない 」 「 上り たて から 鼻 の 先 に ある ぜ 」 「 そう さ な 。
もう 少し この 路 を 行って 見 ようじゃ ない か 」 「 うん 」 「 それとも 、 少し 休む か 」 「 うん 」 「 どうも 、 急に 元気 が なくなった ね 」 「 全く 饂飩 の 御蔭 だ よ 」 「 ハハハハ 。
その代り 宿 へ 着く と 僕 が 話し の 御馳走 を する よ 」 「 話し も 聞き たく なく なった 」 「 それ じゃ また ビール で ない 恵比寿 でも 飲む さ 」 「 ふ ふん 。
この 様子 じゃ 、 とても 宿 へ 着け そう も ない ぜ 」 「 なに 、 大丈夫だ よ 」 「 だって 、 もう 暗く なって 来た ぜ 」 「 どれ 」 と 圭 さん は 懐中 時計 を 出す 。
「 四 時 五 分 前 だ 。
暗い の は 天気 の せい だ 。
しかし こう 方角 が 変って 来る と 少し 困る な 。
山 へ 登って から 、 もう 二三 里 は あるいた ね 」 「 豆 の 様子 じゃ 、 十 里 くらい あるいて る よ 」 「 ハハハハ 。
あの 煙 り が 前 に 見えた んだ が 、 もう ずっと 、 後ろ に なって しまった 。
すると 我々 は 熊本 の 方 へ 二三 里 近付いた 訳 か ね 」 「 つまり 山 から それ だけ 遠ざかった 訳 さ 」 「 そう 云 えば そう さ 。
―― 君 、 あの 煙 り の 横 の 方 から また 新しい 煙 が 見え だした ぜ 。
あれ が 多分 、 新しい 噴火 口 な んだろう 。
あの むくむく 出る ところ を 見る と 、 つい 、 そこ に ある ようだ が な 。
どうして 行か れ ない だろう 。
何でも この 山 の つい 裏 に 違いない んだ が 、 路 が ない から 困る 」 「 路 が あったって 駄目だ よ 」 「 どうも 雲 だ か 、 煙り だ か 非常に 濃く 、 頭 の 上 へ やってくる 。 壮 んな もの だ 。
ねえ 、 君 」 「 うん 」 「 どう だい 、 こんな 凄い 景色 は とても 、 こう 云 う 時 で なけりゃ 見られ ない ぜ 。 うん 、 非常に 黒い もの が 降って 来る 。
君 あたま が 大変だ 。
僕 の 帽子 を 貸して やろう 。
―― こう 被って ね 。
それ から 手拭 が ある だろう 。
飛ぶ と いけない から 、 上 から 結わ い つける んだ 。
―― 僕 が しばって やろう 。
―― 傘 は 、 畳む が いい 。
どうせ 風 に 逆らう ぎり だ 。
そうして 杖 に つく さ 。
杖 が 出来る と 、 少し は 歩 行ける だろう 」 「 少し は 歩行 きよく なった 。
―― 雨 も 風 も だんだん 強く なる ようだ ね 」 「 そう さ 、 さっき は 少し 晴れ そうだった が な 。
雨 や 風 は 大丈夫だ が 、 足 は 痛む か ね 」 「 痛い さ 。
登る とき は 豆 が 三 つ ばかりだった が 、 一面に なった んだ もの 」 「 晩 に ね 、 僕 が 、 煙草 の 吸殻 を 飯 粒 で 練って 、 膏薬 を 製って やろう 」 「 宿 へ つけば 、 どう で も なる んだ が ……」 「 あるいて る うち が 難 義 か 」 「 うん 」 「 困った な 。 ―― どこ か 高い 所 へ 登る と 、 人 の 通る 路 が 見える んだ が な 。
―― うん 、 あす こ に 高い 草山 が 見える だろう 」 「 あの 右 の 方 かい 」 「 ああ 。
あの 上 へ 登ったら 、 噴火 孔 が 一 と 眼 に 見える に 違 ない 。
そう したら 、 路 が 分 る よ 」 「 分 るって 、 あす こ へ 行く まで に 日 が 暮れて しまう よ 」 「 待ち たまえ ちょっと 時計 を 見る から 。 四 時 八 分 だ 。
まだ 暮れ やしない 。
君 ここ に 待って いた まえ 。
僕 が ちょっと 物見 を して くる から 」 「 待って る が 、 帰り に 路 が 分 ら なくなる と 、 それ こそ 大変だ ぜ 。
二 人 離れ離れに なっち まう よ 」 「 大丈夫だ 。 どうしたって 死ぬ 気遣 は ない んだ 。 どうかしたら 大きな 声 を 出して 呼ぶ よ 」 「 うん 。
呼んで くれた まえ 」 圭 さん は 雲 と 煙 の 這い 廻る なか へ 、 猛然と して 進んで 行く 。
碌 さん は 心細く も ただ 一 人 薄 の なか に 立って 、 頼み に する 友 の 後 姿 を 見送って いる 。
しばらく する うち に 圭 さん の 影 は 草 の なか に 消えた 。
大きな 山 は 五 分 に 一 度 ぐらい ずつ 時 を きって 、 普段 より は 烈 しく 轟 と なる 。
その折 は 雨 も 煙り も 一度に 揺れて 、 余勢 が 横なぐり に 、 悄然 と 立つ 碌 さん の 体 躯 へ 突き当る ように 思わ れる 。
草 は 眼 を 走ら す 限り を 尽くして ことごとく 煙り の なか に 靡 く 上 を 、 さあ さあ と 雨 が 走って 行く 。
草 と 雨 の 間 を 大きな 雲 が 遠慮 も なく 這い 廻 わる 。
碌 さん は向う の 草山 を 見つめ ながら 、 顫 えて いる 。
よ な の しずく は 、 碌 さん の 下 腹 まで 浸 み 透 る 。
毒々しい 黒煙 り が 長い 渦 を 七 巻 まいて 、 むく り と 空 を 突く 途端 に 、 碌 さん の 踏む 足 の 底 が 、 地震 の ように 撼 いた と 思った 。
あと は 、 山鳴り が 比較的 静まった 。
すると 地面 の 下 の 方 で 、 「 お おおい 」 と 呼ぶ 声 が する 。
碌 さん は 両手 を 、 耳 の 後ろ に 宛てた 。
「 お おおい 」 たしかに 呼んで いる 。
不思議な 事 に その 声 が 妙に 足 の 下 から 湧いて 出る 。
「 お おおい 」 碌 さん は 思わず 、 声 を しる べに 、 飛び出した 。
「 お おおい 」 と 癇 の 高い 声 を 、 肺 の 縮む ほど 絞り出す と 、 太い 声 が 、 草 の 下 から 、 「 お おおい 」 と 応える 。
圭 さん に 違 ない 。
碌 さん は 胸 まで 来る 薄 を むやみに 押し 分けて 、 ず ん ず ん 声 の する 方 に 進んで 行く 。
「 お おおい 」 「 お おおい 。
どこ だ 」 「 お おおい 。
ここ だ 」 「 どこ だ ああ 」 「 ここ だ ああ 。
むやみに くる と あぶない ぞう 。
落ちる ぞう 」 「 どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 ここ へ 落ちた んだ ああ 。
気 を つけろ う 」 「 気 は つける が 、 どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 落ちる と 、 足 の 豆 が 痛い ぞう う 」 「 大丈夫だ ああ 。
どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 ここ だ あ 、 もう それ から 先 へ 出る んじゃ ない よう 。
おれ が そっち へ 行く から 、 そこ で 待って いる んだ よう 」 圭 さん の 胴 間 声 は 地面 の なか を 通って 、 だんだん 近づいて 来る 。
「 おい 、 落ちた よ 」 「 どこ へ 落ち たんだい 」 「 見え ない か 」 「 見え ない 」 「 それ じゃ 、 もう 少し 前 へ 出た 」 「 おや 、 何 だい 、 こりゃ 」 「 草 の なか に 、 こんな もの が ある から 剣 呑 だ 」 「 どうして 、 こんな 谷 が ある んだろう 」 「 火 熔石 の 流れた あと だ よ 。
見た まえ 、 なか は 茶色 で 草 が 一 本 も 生えて いない 」 「 なるほど 、 厄介な もの が ある んだ ね 。 君 、 上がれる かい 」 「 上がれる もの か 。
高 さ が 二 間 ばかり ある よ 」 「 弱った な 。
どう しよう 」 「 僕 の 頭 が 見える かい 」 「 毬 栗 の 片割れ が 少し 見える 」 「 君 ね 」 「 ええ 」 「 薄 の 上 へ 腹這 に なって 、 顔 だけ 谷 の 上 へ 乗り出して 見た まえ 」 「 よし 、 今 顔 を 出す から 待って いた まえ よ 」 「 うん 、 待って る 、 ここ だ よ 」 と 圭 さん は 蝙蝠 傘 で 、 崖 の 腹 を とんとん 叩く 。
碌 さん は 見当 を 見 計って 、 ぐしゃ り と 濡れ 薄 の 上 へ 腹 を つけて 恐る恐る 首 だけ を 溝 の 上 へ 出して 、 「 おい 」 「 おい 。
どう だ 。
豆 は 痛む か ね 」 「 豆 なん ざ どうでも いい から 、 早く 上がって くれた まえ 」 「 ハハハハ 大丈夫だ よ 。
下 の 方 が 風 が あたら なくって 、 かえって 楽だ ぜ 」 「 楽 だって 、 もう 日 が 暮れる よ 、 早く 上がら ない と 」 「 君 」 「 ええ 」 「 ハンケチ は ない か 」 「 ある 。 何 に する ん だい 」 「 落ちる 時 に 蹴 爪 ずい て 生爪 を 剥がした 」 「 生爪 を ?
痛む かい 」 「 少し 痛む 」 「 あるける かい 」 「 あるける と も 。
ハンケチ が ある なら 抛 げ て くれた まえ 」 「 裂いて やろう か 」 「 なに 、 僕 が 裂く から 丸めて 抛 げ て くれた まえ 。
風 で 飛ぶ と 、 いけない から 、 堅く 丸めて 落す んだ よ 」 「 じく じく 濡れて る から 、 大丈夫だ 。
飛ぶ 気遣 は ない 。
いい か 、 抛 げ る ぜ 、 そら 」 「 だいぶ 暗く なって 来た ね 。
煙 は 相 変ら ず 出て いる かい 」 「 うん 。
空中 一面 の 煙 だ 」 「 いやに 鳴る じゃ ない か 」 「 さっき より 、 烈 しく なった ようだ 。
―― ハンケチ は 裂ける かい 」 「 うん 、 裂けた よ 。
繃帯 は もう でき上がった 」 「 大丈夫 かい 。
血 が 出 やしない か 」 「 足袋 の 上 へ 雨 と いっしょに 煮 染んで る 」 「 痛 そうだ ね 」 「 なあ に 、 痛い たって 。
痛い の は 生きて る 証拠 だ 」 「 僕 は 腹 が 痛く なった 」 「 濡れた 草 の 上 に 腹 を つけて いる から だ 。
もう いい から 、 立ち たまえ 」 「 立つ と 君 の 顔 が 見え なく なる 」 「 困る な 。
君 いっその事 に 、 ここ へ 飛び込ま ない か 」 「 飛び込んで 、 どう する ん だい 」 「 飛び 込め ない かい 」 「 飛び 込め ない 事 も ない が ―― 飛び込んで 、 どう する ん だい 」 「 いっしょに あるく の さ 」 「 そうして どこ へ 行く つもりだ い 」 「 どうせ 、 噴火 口 から 山 の 麓 まで 流れた 岩 の あと な んだ から 、 この 穴 の 中 を あるいて いたら 、 どこ か へ 出る だろう 」 「 だって 」 「 だって 厭 か 。
厭 じゃ 仕方 が ない 」 「 厭 じゃ ない が ―― それ より 君 が 上がれる と 好 いんだ が な 。
君 どうかして 上がって 見 ない か 」 「 それ じゃ 、 君 は この 穴 の 縁 を 伝って 歩 行く さ 。
僕 は 穴 の 下 を あるく から 。
そう したら 、 上下 で 話 が 出来る から いい だろう 」 「 縁 に ゃ 路 は ありゃ し ない 」 「 草 ばかり かい 」 「 うん 。
草 が ね ……」 「 うん 」 「 胸 くらい まで 生えて いる 」 「 ともかくも 僕 は 上がれ ない よ 」 「 上がれ ないって 、 それ じゃ 仕方 が ない な ―― おい 。 ―― おい 。
―― おいって 云 う の におい 。 なぜ 黙って る んだ 」 「 ええ 」 「 大丈夫 かい 」 「 何 が 」 「 口 は 利 ける かい 」 「 利 ける さ 」 「 それ じゃ 、 なぜ 黙って る んだ 」 「 ちょっと 考えて いた 」 「 何 を 」 「 穴 から 出る 工夫 を さ 」 「 全体 何 だって 、 そんな 所 へ 落ち たんだい 」 「 早く 君 に 安心 さ せよう と 思って 、 草山 ばかり 見つめて いた もん だ から 、 つい 足元 が 御 留守 に なって 、 落ちて しまった 」 「 それ じゃ 、 僕 の ため に 落ちた ような もの だ 。
気の毒だ な 、 どうかして 上がって 貰え ない か な 、 君 」 「 そう さ な 。
―― なに 僕 は 構わ ない よ 。
それ より か 。
君 、 早く 立ち たまえ 。
そう 草 で 腹 を 冷やしちゃ 毒 だ 」 「 腹 なんか どう で も いい さ 」 「 痛む んだろう 」 「 痛む 事 は 痛む さ 」 「 だ から 、 ともかくも 立ち たまえ 。
その うち 僕 が ここ で 出る 工夫 を 考えて 置く から 」 「 考えたら 、 呼ぶ んだ ぜ 。
僕 も 考える から 」 「 よし 」 会話 は しばらく 途切れる 。
草 の 中 に 立って 碌 さん が 覚 束 なく 四方 を 見渡す と 、 向 う の 草山 へ ぶつかった 黒 雲 が 、 峰 の 半 腹 で 、 どっと 崩れて 海 の ように 濁った もの が 頭 を 去る 五六 尺 の 所 まで 押し寄せて くる 。
時計 は もう 五 時 に 近い 。
山 の なかば は ただ さえ 薄暗く なる 時分 だ 。
ひ ゅう ひ ゅう と 絶間 なく 吹き 卸 ろ す 風 は 、 吹く たび に 、 黒い 夜 を 遠い 国 から 持ってくる 。
刻々 と 逼 る 暮 色 の なか に 、 嵐 は 卍 に 吹き すさむ 。
噴火 孔 から 吹き出す 幾 万 斛 の 煙り は 卍 の なか に 万 遍 なく 捲 き込まれて 、 嵐 の 世界 を 尽くして 、 どす黒く 漲り 渡る 。 「 おい 。
いるか 」 「 いる 。
何 か 考えついた かい 」 「 いい や 。
山 の 模様 は どう だい 」 「 だんだん 荒れる ばかりだ よ 」 「 今日 は 何 日 だっけ か ね 」 「 今日 は 九 月 二 日 さ 」 「 こと に よる と 二百十 日 かも 知れ ない ね 」 会話 は また 切れる 。 二百十 日 の 風 と 雨 と 煙り は 満 目 の 草 を 埋め尽くして 、 一 丁 先 は 靡 く 姿 さえ 、 判然と 見え ぬ ように なった 。
「 もう 日 が 暮れる よ 。
おい 。
いる かい 」 谷 の 中 の 人 は 二百十 日 の 風 に 吹き 浚 われた もの か 、 うんと も 、 す ん と も 返事 が ない 。
阿蘇 の 御 山 は 割れる ばかりに ごうう と 鳴る 。
碌 さん は 青く なって 、 また 草 の 上 へ 棒 の ように 腹這 に なった 。
「 お おおい 。
おら ん の か 」 「 お おおい 。
こっち だ 」 薄暗い 谷底 を 半 町 ばかり 登った 所 に 、 ぼんやり と 白い 者 が 動いて いる 。
手招き を して いる らしい 。
「 なぜ 、 そんな 所 へ 行った んだ ああ 」 「 ここ から 上がる んだ ああ 」 「 上がれる の か ああ 」 「 上がれる から 、 早く 来 おおい 」 碌 さん は 腹 の 痛い の も 、 足 の 豆 も 忘れて 、 脱 兎 の 勢 で 飛び出した 。
「 おい 。
ここ いらか 」 「 そこ だ 。
そこ へ 、 ちょっと 、 首 を 出して 見てくれ 」 「 こう か 。
―― なるほど 、 こりゃ 大変 浅い 。
これ なら 、 僕 が 蝙蝠 傘 を 上 から 出したら 、 それ へ 、 取っ捕ら まって 上がれる だろう 」 「 傘 だけ じゃ 駄目だ 。 君 、 気の毒だ が ね 」 「 うん 。
ちっとも 気の毒じゃ ない 。
どう する んだ 」 「 兵 児 帯 を 解いて 、 その先 を 傘 の 柄 へ 結びつけて ―― 君 の 傘 の 柄 は 曲って る だろう 」 「 曲って る と も 。
大いに 曲って る 」 「 その 曲って る 方 へ 結びつけて くれ ない か 」 「 結びつける と も 。
すぐ 結びつけて やる 」 「 結びつけたら 、 その 帯 の 端 を 上 から ぶら下げて くれた まえ 」 「 ぶら下げる と も 。
訳 は ない 。
大丈夫だ から 待って いた まえ 。
―― そう ら 、 長い の が 天 竺 から 、 ぶら下がったろう 」 「 君 、 しっかり 傘 を 握って い なくっちゃ いけない ぜ 。
僕 の 身体 は 十七 貫 六百 目 ある んだ から 」 「 何 貫 目 あったって 大丈夫だ 、 安心 して 上がり たまえ 」 「 いい かい 」 「 いい と も 」 「 そら 上がる ぜ 。 ―― いや 、 いけない 。
そう 、 ず り 下がって 来て は ……」 「 今度 は 大丈夫だ 。
今 の は 試して 見た だけ だ 。
さあ 上がった 。
大丈夫だ よ 」 「 君 が 滑 べ る と 、 二 人 共 落ちて しまう ぜ 」 「 だ から 大丈夫だ よ 。
今 の は 傘 の 持ち よう が わるかった んだ 」 「 君 、 薄 の 根 へ 足 を かけて 持ち 応えて いた まえ 。
―― あんまり 前 の 方 で 蹈 ん 張る と 、 崖 が 崩れて 、 足 が 滑 べ る よ 」 「 よし 、 大丈夫 。
さあ 上がった 」 「 足 を 踏ん張った かい 。
どうも 今度 も あぶない ようだ な 」 「 おい 」 「 何 だい 」 「 君 は 僕 が 力 が ない と 思って 、 大 に 心配 する が ね 」 「 うん 」 「 僕 だって 一人前 の 人間 だ よ 」 「 無論 さ 」 「 無論 なら 安心 して 、 僕 に 信頼 したら よかろう 。
からだ は 小さい が 、 朋友 を 一 人 谷底 から 救い出す ぐらい の 事 は 出来る つもりだ 」 「 じゃ 上がる よ 。
そらっ……」 「 そらっ…… もう 少し だ 」 豆 で 一面に 腫れ上がった 両足 を 、 うんと 薄 の 根 に 踏ん張った 碌 さん は 、 素肌 を 二百十 日 の 雨 に 曝した まま 、 海老 の ように 腰 を 曲げて 、 一生懸命に 、 傘 の 柄 に かじりついて いる 。 麦藁 帽子 を 手拭 で 縛りつけた 頭 の 下 から 、 真 赤 に いきんだ 顔 が 、 八 分 通り 阿蘇 卸 ろし に 吹きつけられて 、 喰 い 締めた 反っ歯 の 上 に は よなが 容赦 なく 降って くる 。 毛 繻子 張り 八 間 の 蝙蝠 の 柄 に は 、 幸い 太い 瘤 だらけ の 頑丈な 自然 木 が 、 付けて ある から 、 折れる 気遣 は まず ある まい 。
その 自然 木 の 彎曲 した 一端 に 、 鳴海 絞り の 兵 児 帯 が 、 薩摩 の 強 弓 に 新しく 張った 弦 の ごとく ぴんと 薄 を 押し 分けて 、 先 は 谷 の 中 に かくれて いる 。
その 隠れて いる あたり から 、 しばらく する と 大きな 毬 栗 頭 が ぬっと 現われた 。 やっと 云 う 掛声 と 共に 両手 が 崖 の 縁 に かかる が 早い か 、 大 入 道 の 腰 から 上 は 、 斜めに 尻 に 挿した 蝙蝠 傘 と 共に 谷 から 上 へ 出た 。
同時に 碌 さん は 、 ど さん と 仰向き に なって 、 薄 の 底 に 倒れた 。