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『二百十日』 夏目漱石, 「四」 二百十日 夏目漱石

「四 」 二百十 日 夏目 漱石

「 おい これ から 曲がって いよいよ 登る んだろう 」 と 圭 さん が 振り返る 。

「 ここ を 曲がる か ね 」 「 何でも 突き当り に 寺 の 石段 が 見える から 、 門 を 這 入ら ず に 左 へ 廻れ と 教えた ぜ 」 「 饂飩 屋 の 爺さん が か 」 と 碌 さん は しきりに 胸 を 撫で 廻す 。

「 そう さ 」 「 あの 爺さん が 、 何 を 云 うか 分った もん じゃ ない 」 「 なぜ 」 「 なぜって 、 世の中 に 商売 も あろう に 、 饂飩 屋 に なる なんて 、 第 一 それ から が 不 了 簡 だ 」 「 饂飩 屋 だって 正 業 だ 。 金 を 積んで 、 貧乏 人 を 圧迫 する の を 道楽 に する ような 人間 より 遥かに 尊 と い さ 」 「 尊 とい かも 知れ ない が 、 どうも 饂飩 屋 は 性 に 合わ ない 。

―― しかし 、 とうとう 饂飩 を 食わせられた 今 と なって 見る と 、 いくら 饂飩 屋 の 亭主 を 恨んで も 後の祭り だ から 、 まあ 、 我慢 して 、 ここ から 曲がって やろう 」 「 石段 は 見える が 、 あれ が 寺 か なあ 、 本堂 も 何も ない ぜ 」 「 阿蘇 の 火 で 焼け ち まったん だろう 。 だから 云 わ ない 事 じゃ ない 。

―― おい 天気 が 少々 剣 呑 に なって 来た ぜ 」 「 なに 、 大丈夫だ 。

天 祐 が ある んだ から 」 「 どこ に 」 「 どこ に でも ある さ 。

意思 の ある 所 に は 天 祐 が ごろごろ して いる もの だ 」 「 どうも 君 は 自信 家 だ 。

剛 健 党 に なる か と 思う と 、 天 祐 派 に なる 。

この 次ぎ に は 天 誅組 に でも なって 筑波 山 へ 立て籠る つもりだろう 」 「 なに 豆腐 屋 時代 から 天 誅組 さ 。

―― 貧乏 人 を いじめる ような ―― 豆腐 屋 だって 人間 だ ―― いじめるって 、 何ら の 利害 も ない んだ ぜ 、 ただ 道楽 なんだ から 驚 ろく 」 「 いつ そんな 目 に 逢った ん だい 」 「 いつでも いい さ 。 桀紂 と 云 えば 古来 から 悪人 と して 通り 者 だ が 、 二十 世紀 は この 桀紂 で 充満 して いる んだ ぜ 、 しかも 文明 の 皮 を 厚く 被って る から 小 憎らしい 」 「 皮 ばかり で 中 味 の ない 方 が いい くらい な もの か な 。

やっぱり 、 金 が あり 過ぎて 、 退屈だ と 、 そんな 真似 が し たく なる んだ ね 。

馬鹿に 金 を 持た せる と 大概 桀紂 に なり た がる んだろう 。

僕 の ような 有 徳 の 君子 は 貧乏だ し 、 彼ら の ような 愚 劣 な 輩 は 、 人 を 苦しめる ため に 金銭 を 使って いる し 、 困った 世の中 だ なあ 。

いっそ 、 どう だい 、 そう 云 う 、 も もん が あ を 十 把 一 と から げ に して 、 阿蘇 の 噴火 口 から 真 逆様に 地獄 の 下 へ 落し ち まったら 」 「 今に 落として やる 」 と 圭 さん は 薄 黒く 渦巻く 煙り を 仰いで 、 草 鞋足 を うんと 踏 張った 。

「 大変な 権 幕 だ ね 。

君 、 大丈夫 かい 。

十 把 一 と から げ を 放り込ま ない うち に 、 君 が 飛び込んじゃ いけない ぜ 」 「 あの 音 は 壮烈だ な 」 「 足 の 下 が 、 もう 揺れて いる ようだ 。

―― おい ちょっと 、 地面 へ 耳 を つけて 聞いて 見た まえ 」 「 どんな だい 」 「 非常な 音 だ 。

たしかに 足 の 下 が うなって る 」 「 その 割 に 煙り が こない な 」 「 風 の せい だ 。

北風 だ から 、 右 へ 吹きつける んだ 」 「 樹 が 多い から 、 方角 が 分 ら ない 。

もう 少し 登ったら 見当 が つく だろう 」 しばらく は 雑木林 の 間 を 行く 。

道 幅 は 三 尺 に 足ら ぬ 。

いくら 仲 が 善くて も 並んで 歩 行く 訳 に は 行か ぬ 。

圭 さん は 大きな 足 を 悠々と 振って 先 へ 行く 。

碌 さん は 小さな 体 躯 を すぼめて 、 小 股 に 後 から 尾 いて 行く 。

尾 いて 行き ながら 、 圭 さん の 足跡 の 大きい の に 感心 して いる 。

感心 し ながら 歩行 いて 行く と 、 だんだん おくれて しまう 。

路 は 左右 に 曲折 して 爪先 上り だ から 、 三十 分 と 立た ぬ うち に 、 圭 さん の 影 を 見失った 。

樹 と 樹 の 間 を すかして 見て も 何にも 見え ぬ 。

山 を 下りる 人 は 一 人 も ない 。

上る もの に も 全く 出合わ ない 。

ただ 所々 に 馬 の 足跡 が ある 。

たまに 草 鞋 の 切れ が 茨 に かかって いる 。

そのほか に 人 の 気色 は さらに ない 、 饂飩 腹 の 碌 さん は 少々 心細く なった 。

きのう の 澄み切った 空 に 引き 易 えて 、 今朝 宿 を 立つ 時 から の 霧 模様 に は 少し 掛 念 も あった が 、 晴れ さえ すれば と 、 好い加減な 事 を 頼み に して 、 とうとう 阿蘇 の 社 まで は 漕ぎつけた 。

白木 の 宮 に 禰宜 の 鳴らす 柏手 が 、 森 閑 と 立つ 杉 の 梢 に 響いた 時 、 見上げる 空 から 、 ぽつり と 何やら 額 に 落ちた 。

饂飩 を 煮る 湯気 が 障子 の 破れ から 、 吹いて 、 白く 右 へ 靡 いた 頃 から 、 午 過ぎ は 雨 か な と も 思わ れた 。

雑木林 を 小 半 里 ほど 来たら 、 怪しい 空 が とうとう 持ち 切れ なく なった と 見えて 、 梢 に したたる 雨 の 音 が 、 さあ と 北 の 方 へ 走る 。

あと から 、 すぐ 新しい 音 が 耳 を 掠 め て 、 翻 える 木 の 葉 と 共に また 北 の 方 へ 走る 。

碌 さん は 首 を 縮めて 、 えっと 舌打ち を した 。 一 時間 ほど で 林 は 尽きる 。

尽きる と 云 わん より は 、 一度に 消える と 云 う 方 が 適当であろう 。

ふり返る 、 後 は 知ら ず 、 貫いて 来た 一 筋道 の ほか は 、 東 も 西 も 茫々 たる 青 草 が 波 を 打って 幾 段 と なく 連なる 後 から 、 むくむく と 黒い 煙 り が 持ち上がって くる 。

噴火 口 こそ 見え ない が 、 煙り の 出る の は 、 つい 鼻 の 先 である 。

林 が 尽きて 、 青い 原 を 半 丁 と 行か ぬ 所 に 、 大 入 道 の 圭 さん が 空 を 仰いで 立って いる 。

蝙蝠 傘 は 畳んだ まま 、 帽子 さえ 、 被ら ず に 毬 栗 頭 を ぬっく と 草 から 上 へ 突き出して 地形 を 見 廻して いる 様子 だ 。 「 おうい 。

少し 待って くれ 」 「 おうい 。

荒れて 来た ぞ 。

荒れて 来た ぞう う 。

しっかり しろう 」 「 しっかり する から 、 少し 待って くれ え 」 と 碌 さん は 一生懸命に 草 の なか を 這い上がる 。

ようやく 追いつく 碌 さん を 待ち受けて 、 「 おい 何 を ぐずぐず して いる んだ 」 と 圭 さん が 遣っつける 。 「 だから 饂飩 じゃ 駄目だ と 云った んだ 。 ああ 苦しい 。

―― おい 君 の 顔 は どうした ん だ 。

真 黒 だ 」 「 そう か 、 君 の も 真 黒 だ 」 圭 さん は 、 無 雑 作 に 白地 の 浴衣 の 片 袖 で 、 頭から 顔 を 撫で 廻す 。

碌 さん は 腰 から 、 ハンケチ を 出す 。

「 なるほど 、 拭く と 、 着物 が どす黒く なる 」 「 僕 の ハンケチ も 、 こんな だ 」 「 ひどい もの だ な 」 と 圭 さん は 雨 の なか に 坊主 頭 を 曝し ながら 、 空模様 を 見 廻す 。

「 よ な だ 。

よなが 雨 に 溶けて 降って くるんだ 。

そら 、 その 薄 の 上 を 見た まえ 」 と 碌 さん が 指 を さす 。

長い 薄 の 葉 は 一面に 灰 を 浴びて 濡れ ながら 、 靡 く 。

「 なるほど 」 「 困った な 、 こりゃ 」 「 なあ に 大丈夫だ 。

つい そこ だ もの 。

あの 煙 り の 出る 所 を 目 当 に して 行けば 訳 は ない 」 「 訳 は な さ そうだ が 、 これ じゃ 路 が 分 ら ない ぜ 」 「 だ から 、 さっき から 、 待って いた の さ 。

ここ を 左 り へ 行く か 、 右 へ 行く か と 云 う 、 ちょうど 股 の 所 な んだ 」 「 なるほど 、 両方 共 路 に なって る ね 。

―― しかし 煙り の 見当 から 云 う と 、 左 り へ 曲がる 方 が よ さ そうだ 」 「 君 は そう 思う か 。

僕 は 右 へ 行く つもりだ 」 「 どうして 」 「 どうしてって 、 右 の 方 に は 馬 の 足跡 が ある が 、 左 の 方 に は 少しも ない 」 「 そうかい 」 と 碌 さん は 、 身 躯 を 前 に 曲げ ながら 、 蔽 い かかる 草 を 押し 分けて 、 五六 歩 、 左 の 方 へ 進んだ が 、 すぐに 取って返して 、 「 駄目 の ようだ 。 足跡 は 一 つ も 見当ら ない 」 と 云った 。 「 ない だろう 」 「 そっち に は あるか い 」 「 うん 。

たった 二 つ ある 」 「 二 つ ぎり かい 」 「 そう さ 。

たった 二 つ だ 。

そら 、 ここ と ここ に 」 と 圭 さん は 繻子 張 の 蝙蝠 傘 の 先 で 、 かぶさる 薄 の 下 に 、 幽 か に 残る 馬 の 足跡 を 見せる 。

「 これ だけ かい 心細い な 」 「 な に 大丈夫だ 」 「 天 祐 じゃ ない か 、 君 の 天 祐 は あて に なら ない 事 夥 し いよ 」 「 なに これ が 天 祐 さ 」 と 圭 さん が 云 い 了 ら ぬ うち に 、 雨 を 捲 いて 颯 と おろす 一陣 の 風 が 、 碌 さん の 麦藁 帽 を 遠慮 なく 、 吹き 込めて 、 五六 間 先 まで 飛ばして 行く 。

眼 に 余る 青 草 は 、 風 を 受けて 一度に 向 う へ 靡 いて 、 見る うち に 色 が 変る と 思う と 、 また 靡 き 返して もと の 態 に 戻る 。

「 痛快だ 。

風 の 飛んで 行く 足跡 が 草 の 上 に 見える 。

あれ を 見た まえ 」 と 圭 さん が 幾 重 と なく 起伏 する 青い 草 の 海 を 指す 。

「 痛快で も ない ぜ 。

帽子 が 飛 ん じ まった 」 「 帽子 が 飛んだ ?

いい じゃ ない か 帽子 が 飛んだって 。 取って くる さ 。

取って 来て やろう か 」 圭 さん は 、 いきなり 、 自分 の 帽子 の 上 へ 蝙蝠 傘 を 重し に 置いて 、 颯 と 、 薄 の 中 に 飛び込んだ 。

「 おい この 見当 か 」 「 もう 少し 左 り だ 」 圭 さん の 身 躯 は 次第に 青い もの の 中 に 、 深く はまって 行く 。

しまい に は 首 だけ に なった 。

あと に 残った 碌 さん は また 心配に なる 。

「 おうい 。

大丈夫 か 」 「 何 だ あ 」 と 向 う の 首 から 声 が 出る 。

「 大丈夫 かよう 」 やがて 圭 さん の 首 が 見え なく なった 。

「 おうい 」 鼻 の 先 から 出る 黒煙 り は 鼠色 の 円柱 の 各 部 が 絶間 なく 蠕動 を 起し つつ ある ごとく 、 むくむく と 捲 き 上がって 、 半 空 から 大気 の 裡 に 溶け込んで 碌 さん の 頭 の 上 へ 容赦 なく 雨 と 共に 落ちて くる 。

碌 さん は 悄然 と して 、 首 の 消えた 方角 を 見つめて いる 。

しばらく する と 、 まるで 見当 の 違った 半 丁 ほど 先 に 、 圭 さん の 首 が 忽然 と 現われた 。

「 帽子 は ないぞう 」 「 帽子 は いら ない よう 。

早く 帰って こうい 」 圭 さん は 坊主 頭 を 振り 立て ながら 、 薄 の 中 を 泳いで くる 。

「 おい 、 どこ へ 飛ばし たんだい 」 「 どこ だ か 、 相談 が 纏 ら ない うち に 飛ばし ち まったん だ 。

帽子 は いい が 、 歩 行く の は 厭 に なった よ 」 「 もう いやに なった の か 。

まだ ある かない じゃ ない か 」 「 あの 煙 と 、 この 雨 を 見る と 、 何だか 物 凄くって 、 あるく 元気 が なくなる ね 」 「 今 から 駄々 を 捏ねちゃ 仕方 が ない 。 ―― 壮快じゃ ない か 。

あの むくむく 煙 の 出て くる ところ は 」 「 その むくむく が 気味 が 悪 るい んだ 」 「 冗談 云っちゃ 、 いけない 。 あの 煙 の 傍 へ 行く んだ よ 。

そうして 、 あの 中 を 覗き込む んだ よ 」 「 考える と 全く 余計な 事 だ ね 。

そうして 覗き込んだ 上 に 飛び込めば 世話 は ない 」 「 ともかくも あるこう 」 「 ハハハハ ともかくも か 。

君 が ともかくも と 云 い 出す と 、 つい 釣り 込ま れる よ 。

さっき も ともかくも で 、 とうとう 饂飩 を 食っち まった 。 これ で 赤痢 に でも 罹 かれば 全く ともかくも の 御蔭 だ 」 「 いい さ 、 僕 が 責任 を 持つ から 」 「 僕 の 病気 の 責任 を 持ったって 、 しようがない じゃ ない か 。 僕 の 代理 に 病気 に なれ も しまい 」 「 まあ 、 いい さ 。

僕 が 看病 を して 、 僕 が 伝染 して 、 本人 の 君 は 助ける ように して やる よ 」 「 そう か 、 それ じゃ 安心だ 。

まあ 、 少々 あるく か な 」 「 そら 、 天気 も だいぶ よく なって 来た よ 。

やっぱり 天 祐 が ある んだ よ 」 「 ありがたい 仕 合せ だ 。

あるく 事 は あるく が 、 今夜 は 御馳走 を 食わせ なくっちゃ 、 いやだ ぜ 」 「 また 御馳走 か 。

あるき さえ すれば きっと 食わせる よ 」 「 それ から ……」 「 まだ 何 か 注文 が ある の かい 」 「 うん 」 「 何 だい 」 「 君 の 経歴 を 聞か せる か 」 「 僕 の 経歴って 、 君 が 知って る 通り さ 」 「 僕 が 知って る 前 の さ 。 君 が 豆腐 屋 の 小僧 であった 時分 から ……」 「 小僧 じゃ ない ぜ 、 これ でも 豆腐 屋 の 伜 な んだ 」 「 その 伜 の 時 、 寒 磬寺 の 鉦 の 音 を 聞いて 、 急に 金持 が にくらしく なった 、 因縁 話し を さ 」 「 ハハハハ そんなに 聞き たければ 話す よ 。

その代り 剛 健 党 に なら なくちゃ いけない ぜ 。

君 なん ざ あ 、 金持 の 悪党 を 相手 に した 事 が ない から 、 そんなに 呑気 な んだ 。

君 は ディッキンス の 両 都 物語り と 云 う 本 を 読んだ 事 が ある か 」 「 ない よ 。

伊賀 の 水 月 は 読んだ が 、 ディッキンス は 読ま ない 」 「 それ だ から なお 貧民 に 同情 が 薄い んだ 。

―― あの 本 の ね しまい の 方 に 、 御 医者 さん の 獄中 で かいた 日記 が ある が ね 。

悲惨な もの だ よ 」 「 へえ 、 どんな もの だい 」 「 そりゃ 君 、 仏 国 の 革命 の 起る 前 に 、 貴族 が 暴 威 を 振って 細 民 を 苦しめた 事 が かいて ある んだ が 。

―― それ も 今夜 僕 が 寝 ながら 話して やろう 」 「 うん 」 「 なあ に 仏 国 の 革命 なんて え の も 当然の 現象 さ 。

あんなに 金持ち や 貴族 が 乱暴 を すりゃ 、 ああ なる の は 自然の 理 窟 だ から ね 。

ほら 、 あの 轟 々 鳴って 吹き出す の と 同じ 事 さ 」 と 圭 さん は 立ち 留まって 、 黒い 煙 の 方 を 見る 。

濛々 と 天地 を 鎖 す 秋雨 を 突き 抜いて 、 百 里 の 底 から 沸き 騰 る 濃い もの が 渦 を 捲 き 、 渦 を 捲 いて 、 幾 百 噸 ( トン ) の 量 と も 知れ ず 立ち上がる 。

その 幾 百 噸 の 煙り の 一 分子 が ことごとく 震動 して 爆発 する か と 思 わる る ほど の 音 が 、 遠い 遠い 奥 の 方 から 、 濃い もの と 共に 頭 の 上 へ 躍り上がって 来る 。

雨 と 風 の なか に 、 毛虫 の ような 眉 を 攅 め て 、 余念 も なく 眺めて いた 、 圭 さん が 、 非常な 落ちついた 調子 で 、 「 雄大だろう 、 君 」 と 云った 。 「 全く 雄大だ 」 と 碌 さん も 真面目で 答えた 。

「 恐ろしい くらい だ 」 しばらく 時 を きって 、 碌 さん が 付け加えた 言葉 は これ である 。

「 僕 の 精神 は あれ だ よ 」 と 圭 さん が 云 う 。

「 革命 か 」 「 うん 。

文明 の 革命 さ 」 「 文明 の 革命 と は 」 「 血 を 流さ ない の さ 」 「 刀 を 使わ なければ 、 何 を 使う のだ い 」 圭 さん は 、 何にも 云 わ ず に 、 平手 で 、 自分 の 坊主 頭 を ぴし ゃぴ しゃ と 二 返 叩いた 。

「 頭 か 」 「 うん 。

相手 も 頭 で くる から 、 こっち も 頭 で 行く んだ 」 「 相手 は 誰 だい 」 「 金 力 や 威力 で 、 たより の ない 同胞 を 苦しめる 奴 ら さ 」 「 うん 」 「 社会 の 悪徳 を 公然 商売 に して いる 奴 ら さ 」 「 うん 」 「 商売 なら 、 衣食 の ため と 云 う 言い訳 も 立つ 」 「 うん 」 「 社会 の 悪徳 を 公然 道楽 に して いる 奴 ら は 、 どうしても 叩きつけ なければ なら ん 」 「 うん 」 「 君 も やれ 」 「 うん 、 やる 」 圭 さん は 、 のっそ り と 踵 を めぐらした 。 碌 さん は 黙 然 と して 尾 いて 行く 。

空 に ある もの は 、 煙り と 、 雨 と 、 風 と 雲 である 。

地 に ある もの は 青い 薄 と 、 女郎花 と 、 所々 に わびしく 交 る 桔梗 のみ である 。

二 人 は 煢々 と して 無人の 境 を 行く 。

薄 の 高 さ は 、 腰 を 没する ほど に 延びて 、 左右 から 、 幅 、 尺 足らず の 路 を 蔽 うて いる 。

身 を 横 に して も 、 草 に 触れ ず に 進む 訳 に は 行か ぬ 。

触れれば 雨 に 濡れた 灰 が つく 。

圭 さん も 碌 さん も 、 白地 の 浴衣 に 、 白 の 股引 に 、 足袋 と 脚 絆 だけ を 紺 に して 、 濡れた 薄 を が さ つか せて 行く 。

腰 から 下 は どぶ 鼠 の ように 染まった 。

腰 から 上 と いえ ども 、 降る 雨 に 誘われて 着く 、 よ な を 、 一面に 浴びた から 、 ほとんど 下水 へ 落ち込んだ と 同様の 始末 である 。 ただ さえ 、 うねり 、 くねって いる 路 だ から 、 草 が な くって も 、 どこ へ どう 続いて いる か 見極め の つく もの で は ない 。

草 を かぶれば なおさら である 。

地 に 残る 馬 の 足跡 さえ 、 ようやく 見つけた くらい だ から 、 あと の 始末 は 無論 天 に 任せて 、 あるいて いる と 云 わ ねば なら ぬ 。

最初の うち こそ 、 立ち 登る 煙り を 正面 に 見て 進んだ 路 は 、 いつの間に やら 、 折れ曲って 、 次第に 横 から よ な を 受 くる ように なった 。

横 に 眺める 噴火 口 が 今度 は 自然に 後ろ の 方 に 見え だした 時 、 圭 さん は ぴたり と 足 を 留めた 。

「 どうも 路 が 違う ようだ ね 」 「 うん 」 と 碌 さん は 恨めしい 顔 を して 、 同じく 立ち 留った 。 「 何だか 、 情 ない 顔 を して いる ね 。

苦しい かい 」 「 実際 情けない んだ 」 「 どこ か 痛む かい 」 「 豆 が 一面に 出来て 、 たまらない 」 「 困った な 。

よっぽど 痛い かい 。

僕 の 肩 へ つら まったら 、 どう だ ね 。

少し は 歩 行き 好 い かも 知れ ない 」 「 うん 」 と 碌 さん は 気 の ない 返事 を した まま 動か ない 。

「 宿 へ ついたら 、 僕 が 面白い 話 を する よ 」 「 全体 いつ 宿 へ つく ん だい 」 「 五 時 に は 湯 元 へ 着く 予定 なんだ が 、 どうも 、 あの 煙り は 妙だ よ 。

右 へ 行って も 、 左 り へ 行って も 、 鼻 の 先 に ある ばかりで 、 遠く も なら なければ 、 近く も なら ない 」 「 上り たて から 鼻 の 先 に ある ぜ 」 「 そう さ な 。

もう 少し この 路 を 行って 見 ようじゃ ない か 」 「 うん 」 「 それとも 、 少し 休む か 」 「 うん 」 「 どうも 、 急に 元気 が なくなった ね 」 「 全く 饂飩 の 御蔭 だ よ 」 「 ハハハハ 。

その代り 宿 へ 着く と 僕 が 話し の 御馳走 を する よ 」 「 話し も 聞き たく なく なった 」 「 それ じゃ また ビール で ない 恵比寿 でも 飲む さ 」 「 ふ ふん 。

この 様子 じゃ 、 とても 宿 へ 着け そう も ない ぜ 」 「 なに 、 大丈夫だ よ 」 「 だって 、 もう 暗く なって 来た ぜ 」 「 どれ 」 と 圭 さん は 懐中 時計 を 出す 。

「 四 時 五 分 前 だ 。

暗い の は 天気 の せい だ 。

しかし こう 方角 が 変って 来る と 少し 困る な 。

山 へ 登って から 、 もう 二三 里 は あるいた ね 」 「 豆 の 様子 じゃ 、 十 里 くらい あるいて る よ 」 「 ハハハハ 。

あの 煙 り が 前 に 見えた んだ が 、 もう ずっと 、 後ろ に なって しまった 。

すると 我々 は 熊本 の 方 へ 二三 里 近付いた 訳 か ね 」 「 つまり 山 から それ だけ 遠ざかった 訳 さ 」 「 そう 云 えば そう さ 。

―― 君 、 あの 煙 り の 横 の 方 から また 新しい 煙 が 見え だした ぜ 。

あれ が 多分 、 新しい 噴火 口 な んだろう 。

あの むくむく 出る ところ を 見る と 、 つい 、 そこ に ある ようだ が な 。

どうして 行か れ ない だろう 。

何でも この 山 の つい 裏 に 違いない んだ が 、 路 が ない から 困る 」 「 路 が あったって 駄目だ よ 」 「 どうも 雲 だ か 、 煙り だ か 非常に 濃く 、 頭 の 上 へ やってくる 。 壮 んな もの だ 。

ねえ 、 君 」 「 うん 」 「 どう だい 、 こんな 凄い 景色 は とても 、 こう 云 う 時 で なけりゃ 見られ ない ぜ 。 うん 、 非常に 黒い もの が 降って 来る 。

君 あたま が 大変だ 。

僕 の 帽子 を 貸して やろう 。

―― こう 被って ね 。

それ から 手拭 が ある だろう 。

飛ぶ と いけない から 、 上 から 結わ い つける んだ 。

―― 僕 が しばって やろう 。

―― 傘 は 、 畳む が いい 。

どうせ 風 に 逆らう ぎり だ 。

そうして 杖 に つく さ 。

杖 が 出来る と 、 少し は 歩 行ける だろう 」 「 少し は 歩行 きよく なった 。

―― 雨 も 風 も だんだん 強く なる ようだ ね 」 「 そう さ 、 さっき は 少し 晴れ そうだった が な 。

雨 や 風 は 大丈夫だ が 、 足 は 痛む か ね 」 「 痛い さ 。

登る とき は 豆 が 三 つ ばかりだった が 、 一面に なった んだ もの 」 「 晩 に ね 、 僕 が 、 煙草 の 吸殻 を 飯 粒 で 練って 、 膏薬 を 製って やろう 」 「 宿 へ つけば 、 どう で も なる んだ が ……」 「 あるいて る うち が 難 義 か 」 「 うん 」 「 困った な 。 ―― どこ か 高い 所 へ 登る と 、 人 の 通る 路 が 見える んだ が な 。

―― うん 、 あす こ に 高い 草山 が 見える だろう 」 「 あの 右 の 方 かい 」 「 ああ 。

あの 上 へ 登ったら 、 噴火 孔 が 一 と 眼 に 見える に 違 ない 。

そう したら 、 路 が 分 る よ 」 「 分 るって 、 あす こ へ 行く まで に 日 が 暮れて しまう よ 」 「 待ち たまえ ちょっと 時計 を 見る から 。 四 時 八 分 だ 。

まだ 暮れ やしない 。

君 ここ に 待って いた まえ 。

僕 が ちょっと 物見 を して くる から 」 「 待って る が 、 帰り に 路 が 分 ら なくなる と 、 それ こそ 大変だ ぜ 。

二 人 離れ離れに なっち まう よ 」 「 大丈夫だ 。 どうしたって 死ぬ 気遣 は ない んだ 。 どうかしたら 大きな 声 を 出して 呼ぶ よ 」 「 うん 。

呼んで くれた まえ 」 圭 さん は 雲 と 煙 の 這い 廻る なか へ 、 猛然と して 進んで 行く 。

碌 さん は 心細く も ただ 一 人 薄 の なか に 立って 、 頼み に する 友 の 後 姿 を 見送って いる 。

しばらく する うち に 圭 さん の 影 は 草 の なか に 消えた 。

大きな 山 は 五 分 に 一 度 ぐらい ずつ 時 を きって 、 普段 より は 烈 しく 轟 と なる 。

その折 は 雨 も 煙り も 一度に 揺れて 、 余勢 が 横なぐり に 、 悄然 と 立つ 碌 さん の 体 躯 へ 突き当る ように 思わ れる 。

草 は 眼 を 走ら す 限り を 尽くして ことごとく 煙り の なか に 靡 く 上 を 、 さあ さあ と 雨 が 走って 行く 。

草 と 雨 の 間 を 大きな 雲 が 遠慮 も なく 這い 廻 わる 。

碌 さん は向う の 草山 を 見つめ ながら 、 顫 えて いる 。

よ な の しずく は 、 碌 さん の 下 腹 まで 浸 み 透 る 。

毒々しい 黒煙 り が 長い 渦 を 七 巻 まいて 、 むく り と 空 を 突く 途端 に 、 碌 さん の 踏む 足 の 底 が 、 地震 の ように 撼 いた と 思った 。

あと は 、 山鳴り が 比較的 静まった 。

すると 地面 の 下 の 方 で 、 「 お おおい 」 と 呼ぶ 声 が する 。

碌 さん は 両手 を 、 耳 の 後ろ に 宛てた 。

「 お おおい 」 たしかに 呼んで いる 。

不思議な 事 に その 声 が 妙に 足 の 下 から 湧いて 出る 。

「 お おおい 」 碌 さん は 思わず 、 声 を しる べに 、 飛び出した 。

「 お おおい 」 と 癇 の 高い 声 を 、 肺 の 縮む ほど 絞り出す と 、 太い 声 が 、 草 の 下 から 、 「 お おおい 」 と 応える 。

圭 さん に 違 ない 。

碌 さん は 胸 まで 来る 薄 を むやみに 押し 分けて 、 ず ん ず ん 声 の する 方 に 進んで 行く 。

「 お おおい 」 「 お おおい 。

どこ だ 」 「 お おおい 。

ここ だ 」 「 どこ だ ああ 」 「 ここ だ ああ 。

むやみに くる と あぶない ぞう 。

落ちる ぞう 」 「 どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 ここ へ 落ちた んだ ああ 。

気 を つけろ う 」 「 気 は つける が 、 どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 落ちる と 、 足 の 豆 が 痛い ぞう う 」 「 大丈夫だ ああ 。

どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 ここ だ あ 、 もう それ から 先 へ 出る んじゃ ない よう 。

おれ が そっち へ 行く から 、 そこ で 待って いる んだ よう 」 圭 さん の 胴 間 声 は 地面 の なか を 通って 、 だんだん 近づいて 来る 。

「 おい 、 落ちた よ 」 「 どこ へ 落ち たんだい 」 「 見え ない か 」 「 見え ない 」 「 それ じゃ 、 もう 少し 前 へ 出た 」 「 おや 、 何 だい 、 こりゃ 」 「 草 の なか に 、 こんな もの が ある から 剣 呑 だ 」 「 どうして 、 こんな 谷 が ある んだろう 」 「 火 熔石 の 流れた あと だ よ 。

見た まえ 、 なか は 茶色 で 草 が 一 本 も 生えて いない 」 「 なるほど 、 厄介な もの が ある んだ ね 。 君 、 上がれる かい 」 「 上がれる もの か 。

高 さ が 二 間 ばかり ある よ 」 「 弱った な 。

どう しよう 」 「 僕 の 頭 が 見える かい 」 「 毬 栗 の 片割れ が 少し 見える 」 「 君 ね 」 「 ええ 」 「 薄 の 上 へ 腹這 に なって 、 顔 だけ 谷 の 上 へ 乗り出して 見た まえ 」 「 よし 、 今 顔 を 出す から 待って いた まえ よ 」 「 うん 、 待って る 、 ここ だ よ 」 と 圭 さん は 蝙蝠 傘 で 、 崖 の 腹 を とんとん 叩く 。

碌 さん は 見当 を 見 計って 、 ぐしゃ り と 濡れ 薄 の 上 へ 腹 を つけて 恐る恐る 首 だけ を 溝 の 上 へ 出して 、 「 おい 」 「 おい 。

どう だ 。

豆 は 痛む か ね 」 「 豆 なん ざ どうでも いい から 、 早く 上がって くれた まえ 」 「 ハハハハ 大丈夫だ よ 。

下 の 方 が 風 が あたら なくって 、 かえって 楽だ ぜ 」 「 楽 だって 、 もう 日 が 暮れる よ 、 早く 上がら ない と 」 「 君 」 「 ええ 」 「 ハンケチ は ない か 」 「 ある 。 何 に する ん だい 」 「 落ちる 時 に 蹴 爪 ずい て 生爪 を 剥がした 」 「 生爪 を ?

痛む かい 」 「 少し 痛む 」 「 あるける かい 」 「 あるける と も 。

ハンケチ が ある なら 抛 げ て くれた まえ 」 「 裂いて やろう か 」 「 なに 、 僕 が 裂く から 丸めて 抛 げ て くれた まえ 。

風 で 飛ぶ と 、 いけない から 、 堅く 丸めて 落す んだ よ 」 「 じく じく 濡れて る から 、 大丈夫だ 。

飛ぶ 気遣 は ない 。

いい か 、 抛 げ る ぜ 、 そら 」 「 だいぶ 暗く なって 来た ね 。

煙 は 相 変ら ず 出て いる かい 」 「 うん 。

空中 一面 の 煙 だ 」 「 いやに 鳴る じゃ ない か 」 「 さっき より 、 烈 しく なった ようだ 。

―― ハンケチ は 裂ける かい 」 「 うん 、 裂けた よ 。

繃帯 は もう でき上がった 」 「 大丈夫 かい 。

血 が 出 やしない か 」 「 足袋 の 上 へ 雨 と いっしょに 煮 染んで る 」 「 痛 そうだ ね 」 「 なあ に 、 痛い たって 。

痛い の は 生きて る 証拠 だ 」 「 僕 は 腹 が 痛く なった 」 「 濡れた 草 の 上 に 腹 を つけて いる から だ 。

もう いい から 、 立ち たまえ 」 「 立つ と 君 の 顔 が 見え なく なる 」 「 困る な 。

君 いっその事 に 、 ここ へ 飛び込ま ない か 」 「 飛び込んで 、 どう する ん だい 」 「 飛び 込め ない かい 」 「 飛び 込め ない 事 も ない が ―― 飛び込んで 、 どう する ん だい 」 「 いっしょに あるく の さ 」 「 そうして どこ へ 行く つもりだ い 」 「 どうせ 、 噴火 口 から 山 の 麓 まで 流れた 岩 の あと な んだ から 、 この 穴 の 中 を あるいて いたら 、 どこ か へ 出る だろう 」 「 だって 」 「 だって 厭 か 。

厭 じゃ 仕方 が ない 」 「 厭 じゃ ない が ―― それ より 君 が 上がれる と 好 いんだ が な 。

君 どうかして 上がって 見 ない か 」 「 それ じゃ 、 君 は この 穴 の 縁 を 伝って 歩 行く さ 。

僕 は 穴 の 下 を あるく から 。

そう したら 、 上下 で 話 が 出来る から いい だろう 」 「 縁 に ゃ 路 は ありゃ し ない 」 「 草 ばかり かい 」 「 うん 。

草 が ね ……」 「 うん 」 「 胸 くらい まで 生えて いる 」 「 ともかくも 僕 は 上がれ ない よ 」 「 上がれ ないって 、 それ じゃ 仕方 が ない な ―― おい 。 ―― おい 。

―― おいって 云 う の におい 。 なぜ 黙って る んだ 」 「 ええ 」 「 大丈夫 かい 」 「 何 が 」 「 口 は 利 ける かい 」 「 利 ける さ 」 「 それ じゃ 、 なぜ 黙って る んだ 」 「 ちょっと 考えて いた 」 「 何 を 」 「 穴 から 出る 工夫 を さ 」 「 全体 何 だって 、 そんな 所 へ 落ち たんだい 」 「 早く 君 に 安心 さ せよう と 思って 、 草山 ばかり 見つめて いた もん だ から 、 つい 足元 が 御 留守 に なって 、 落ちて しまった 」 「 それ じゃ 、 僕 の ため に 落ちた ような もの だ 。

気の毒だ な 、 どうかして 上がって 貰え ない か な 、 君 」 「 そう さ な 。

―― なに 僕 は 構わ ない よ 。

それ より か 。

君 、 早く 立ち たまえ 。

そう 草 で 腹 を 冷やしちゃ 毒 だ 」 「 腹 なんか どう で も いい さ 」 「 痛む んだろう 」 「 痛む 事 は 痛む さ 」 「 だ から 、 ともかくも 立ち たまえ 。

その うち 僕 が ここ で 出る 工夫 を 考えて 置く から 」 「 考えたら 、 呼ぶ んだ ぜ 。

僕 も 考える から 」 「 よし 」 会話 は しばらく 途切れる 。

草 の 中 に 立って 碌 さん が 覚 束 なく 四方 を 見渡す と 、 向 う の 草山 へ ぶつかった 黒 雲 が 、 峰 の 半 腹 で 、 どっと 崩れて 海 の ように 濁った もの が 頭 を 去る 五六 尺 の 所 まで 押し寄せて くる 。

時計 は もう 五 時 に 近い 。

山 の なかば は ただ さえ 薄暗く なる 時分 だ 。

ひ ゅう ひ ゅう と 絶間 なく 吹き 卸 ろ す 風 は 、 吹く たび に 、 黒い 夜 を 遠い 国 から 持ってくる 。

刻々 と 逼 る 暮 色 の なか に 、 嵐 は 卍 に 吹き すさむ 。

噴火 孔 から 吹き出す 幾 万 斛 の 煙り は 卍 の なか に 万 遍 なく 捲 き込まれて 、 嵐 の 世界 を 尽くして 、 どす黒く 漲り 渡る 。 「 おい 。

いるか 」 「 いる 。

何 か 考えついた かい 」 「 いい や 。

山 の 模様 は どう だい 」 「 だんだん 荒れる ばかりだ よ 」 「 今日 は 何 日 だっけ か ね 」 「 今日 は 九 月 二 日 さ 」 「 こと に よる と 二百十 日 かも 知れ ない ね 」 会話 は また 切れる 。 二百十 日 の 風 と 雨 と 煙り は 満 目 の 草 を 埋め尽くして 、 一 丁 先 は 靡 く 姿 さえ 、 判然と 見え ぬ ように なった 。

「 もう 日 が 暮れる よ 。

おい 。

いる かい 」 谷 の 中 の 人 は 二百十 日 の 風 に 吹き 浚 われた もの か 、 うんと も 、 す ん と も 返事 が ない 。

阿蘇 の 御 山 は 割れる ばかりに ごうう と 鳴る 。

碌 さん は 青く なって 、 また 草 の 上 へ 棒 の ように 腹這 に なった 。

「 お おおい 。

おら ん の か 」 「 お おおい 。

こっち だ 」 薄暗い 谷底 を 半 町 ばかり 登った 所 に 、 ぼんやり と 白い 者 が 動いて いる 。

手招き を して いる らしい 。

「 なぜ 、 そんな 所 へ 行った んだ ああ 」 「 ここ から 上がる んだ ああ 」 「 上がれる の か ああ 」 「 上がれる から 、 早く 来 おおい 」 碌 さん は 腹 の 痛い の も 、 足 の 豆 も 忘れて 、 脱 兎 の 勢 で 飛び出した 。

「 おい 。

ここ いらか 」 「 そこ だ 。

そこ へ 、 ちょっと 、 首 を 出して 見てくれ 」 「 こう か 。

―― なるほど 、 こりゃ 大変 浅い 。

これ なら 、 僕 が 蝙蝠 傘 を 上 から 出したら 、 それ へ 、 取っ捕ら まって 上がれる だろう 」 「 傘 だけ じゃ 駄目だ 。 君 、 気の毒だ が ね 」 「 うん 。

ちっとも 気の毒じゃ ない 。

どう する んだ 」 「 兵 児 帯 を 解いて 、 その先 を 傘 の 柄 へ 結びつけて ―― 君 の 傘 の 柄 は 曲って る だろう 」 「 曲って る と も 。

大いに 曲って る 」 「 その 曲って る 方 へ 結びつけて くれ ない か 」 「 結びつける と も 。

すぐ 結びつけて やる 」 「 結びつけたら 、 その 帯 の 端 を 上 から ぶら下げて くれた まえ 」 「 ぶら下げる と も 。

訳 は ない 。

大丈夫だ から 待って いた まえ 。

―― そう ら 、 長い の が 天 竺 から 、 ぶら下がったろう 」 「 君 、 しっかり 傘 を 握って い なくっちゃ いけない ぜ 。

僕 の 身体 は 十七 貫 六百 目 ある んだ から 」 「 何 貫 目 あったって 大丈夫だ 、 安心 して 上がり たまえ 」 「 いい かい 」 「 いい と も 」 「 そら 上がる ぜ 。 ―― いや 、 いけない 。

そう 、 ず り 下がって 来て は ……」 「 今度 は 大丈夫だ 。

今 の は 試して 見た だけ だ 。

さあ 上がった 。

大丈夫だ よ 」 「 君 が 滑 べ る と 、 二 人 共 落ちて しまう ぜ 」 「 だ から 大丈夫だ よ 。

今 の は 傘 の 持ち よう が わるかった んだ 」 「 君 、 薄 の 根 へ 足 を かけて 持ち 応えて いた まえ 。

―― あんまり 前 の 方 で 蹈 ん 張る と 、 崖 が 崩れて 、 足 が 滑 べ る よ 」 「 よし 、 大丈夫 。

さあ 上がった 」 「 足 を 踏ん張った かい 。

どうも 今度 も あぶない ようだ な 」 「 おい 」 「 何 だい 」 「 君 は 僕 が 力 が ない と 思って 、 大 に 心配 する が ね 」 「 うん 」 「 僕 だって 一人前 の 人間 だ よ 」 「 無論 さ 」 「 無論 なら 安心 して 、 僕 に 信頼 したら よかろう 。

からだ は 小さい が 、 朋友 を 一 人 谷底 から 救い出す ぐらい の 事 は 出来る つもりだ 」 「 じゃ 上がる よ 。

そらっ……」 「 そらっ…… もう 少し だ 」 豆 で 一面に 腫れ上がった 両足 を 、 うんと 薄 の 根 に 踏ん張った 碌 さん は 、 素肌 を 二百十 日 の 雨 に 曝した まま 、 海老 の ように 腰 を 曲げて 、 一生懸命に 、 傘 の 柄 に かじりついて いる 。 麦藁 帽子 を 手拭 で 縛りつけた 頭 の 下 から 、 真 赤 に いきんだ 顔 が 、 八 分 通り 阿蘇 卸 ろし に 吹きつけられて 、 喰 い 締めた 反っ歯 の 上 に は よなが 容赦 なく 降って くる 。 毛 繻子 張り 八 間 の 蝙蝠 の 柄 に は 、 幸い 太い 瘤 だらけ の 頑丈な 自然 木 が 、 付けて ある から 、 折れる 気遣 は まず ある まい 。

その 自然 木 の 彎曲 した 一端 に 、 鳴海 絞り の 兵 児 帯 が 、 薩摩 の 強 弓 に 新しく 張った 弦 の ごとく ぴんと 薄 を 押し 分けて 、 先 は 谷 の 中 に かくれて いる 。

その 隠れて いる あたり から 、 しばらく する と 大きな 毬 栗 頭 が ぬっと 現われた 。 やっと 云 う 掛声 と 共に 両手 が 崖 の 縁 に かかる が 早い か 、 大 入 道 の 腰 から 上 は 、 斜めに 尻 に 挿した 蝙蝠 傘 と 共に 谷 から 上 へ 出た 。

同時に 碌 さん は 、 ど さん と 仰向き に なって 、 薄 の 底 に 倒れた 。


「四 」 二百十 日 夏目 漱石 よっ|にひゃくじゅう|ひ|なつめ|そうせき The Fourth, Two Hundred and Eleven Days, Natsume Soseki

「 おい これ から 曲がって いよいよ 登る んだろう 」 と 圭 さん が 振り返る 。 |||まがって||のぼる|||けい|||ふりかえる "Hey, I'm going to turn and climb," Kei recalls.

「 ここ を 曲がる か ね 」 「 何でも 突き当り に 寺 の 石段 が 見える から 、 門 を 這 入ら ず に 左 へ 廻れ と 教えた ぜ 」 「 饂飩 屋 の 爺さん が か 」 と 碌 さん は しきりに 胸 を 撫で 廻す 。 ||まがる|||なんでも|つきあたり||てら||いしだん||みえる||もん||は|はいら|||ひだり||まわれ||おしえた||うどん|や||じいさん||||ろく||||むね||なで|まわす "Do you want to turn here?" "I told you to turn left without crawling through the gate because you can see the stone steps of the temple at the end of anything."

「 そう さ 」 「 あの 爺さん が 、 何 を 云 うか 分った もん じゃ ない 」 「 なぜ 」 「 なぜって 、 世の中 に 商売 も あろう に 、 饂飩 屋 に なる なんて 、 第 一 それ から が 不 了 簡 だ 」 「 饂飩 屋 だって 正 業 だ 。 |||じいさん||なん||うん||ぶん った|||||なぜ って|よのなか||しょうばい||||うどん|や||||だい|ひと||||ふ|さとる|かん||うどん|や||せい|ぎょう| "That's right." "I don't know what that old man said." "Why." "It's a regular business even at an udon restaurant. 金 を 積んで 、 貧乏 人 を 圧迫 する の を 道楽 に する ような 人間 より 遥かに 尊 と い さ 」 「 尊 とい かも 知れ ない が 、 どうも 饂飩 屋 は 性 に 合わ ない 。 きむ||つんで|びんぼう|じん||あっぱく||||どうらく||||にんげん||はるかに|とうと||||とうと|||しれ||||うどん|や||せい||あわ| It's far more precious than a human being who piles up money and oppresses the poor. "" It may be precious, but it seems that the udon noodle shop doesn't suit the sex.

―― しかし 、 とうとう 饂飩 を 食わせられた 今 と なって 見る と 、 いくら 饂飩 屋 の 亭主 を 恨んで も 後の祭り だ から 、 まあ 、 我慢 して 、 ここ から 曲がって やろう 」 「 石段 は 見える が 、 あれ が 寺 か なあ 、 本堂 も 何も ない ぜ 」 「 阿蘇 の 火 で 焼け ち まったん だろう 。 ||うどん||くわせ られた|いま|||みる|||うどん|や||ていしゅ||うらんで||あとのまつり||||がまん||||まがって||いしだん||みえる||||てら|||ほんどう||なにも|||あそ||ひ||やけ||| だから 云 わ ない 事 じゃ ない 。 |うん|||こと|| That's why it's not something I don't say.

―― おい 天気 が 少々 剣 呑 に なって 来た ぜ 」 「 なに 、 大丈夫だ 。 |てんき||しょうしょう|けん|どん|||きた|||だいじょうぶだ ――Hey, the weather has become a little sword-drinking. ”“ What's okay?

天 祐 が ある んだ から 」 「 どこ に 」 「 どこ に でも ある さ 。 てん|たすく||||||||||| Because there is Tenyu. "" Where "" Everywhere. "

意思 の ある 所 に は 天 祐 が ごろごろ して いる もの だ 」 「 どうも 君 は 自信 家 だ 。 いし|||しょ|||てん|たすく||||||||きみ||じしん|いえ|

剛 健 党 に なる か と 思う と 、 天 祐 派 に なる 。 かたし|けん|とう|||||おもう||てん|たすく|は|| When I think that I will become a strong party, I will become a Tenyu faction.

この 次ぎ に は 天 誅組 に でも なって 筑波 山 へ 立て籠る つもりだろう 」 「 なに 豆腐 屋 時代 から 天 誅組 さ 。 |つぎ|||てん|ちゅうくみ||||つくば|やま||たてこもる|||とうふ|や|じだい||てん|ちゅうくみ| Next time, I'm going to stand in Mt. Tsukuba as a Tenchugumi. "" What is the Tenchugumi from the tofu shop era?

―― 貧乏 人 を いじめる ような ―― 豆腐 屋 だって 人間 だ ―― いじめるって 、 何ら の 利害 も ない んだ ぜ 、 ただ 道楽 なんだ から 驚 ろく 」 「 いつ そんな 目 に 逢った ん だい 」 「 いつでも いい さ 。 びんぼう|じん||||とうふ|や||にんげん||いじめる って|なんら||りがい||||||どうらく|||おどろ||||め||あった||||| ――Bullying the poor ――Bullying is a human being ――Bullying has no interest, it's just a hobby, so I'm surprised. ”“ When did you meet such an eye? ”“ Anytime It ’s good. 桀紂 と 云 えば 古来 から 悪人 と して 通り 者 だ が 、 二十 世紀 は この 桀紂 で 充満 して いる んだ ぜ 、 しかも 文明 の 皮 を 厚く 被って る から 小 憎らしい 」 「 皮 ばかり で 中 味 の ない 方 が いい くらい な もの か な 。 けつちゅう||うん||こらい||あくにん|||とおり|もの|||にじゅう|せいき|||けつちゅう||じゅうまん||||||ぶんめい||かわ||あつく|おおって|||しょう|にくらしい|かわ|||なか|あじ|||かた||||||| Speaking of swords, people have been villains since ancient times, but in the twentieth century, they were filled with swords, and because they covered the skin of civilization thickly, they were hateful. " I wonder if it's better not to have it.

やっぱり 、 金 が あり 過ぎて 、 退屈だ と 、 そんな 真似 が し たく なる んだ ね 。 |きむ|||すぎて|たいくつだ|||まね|||||| After all, if you have too much money and you are bored, you will want to imitate that.

馬鹿に 金 を 持た せる と 大概 桀紂 に なり た がる んだろう 。 ばかに|きむ||もた|||たいがい|けつちゅう||||| If you give a fool money, you usually want to be a sword.

僕 の ような 有 徳 の 君子 は 貧乏だ し 、 彼ら の ような 愚 劣 な 輩 は 、 人 を 苦しめる ため に 金銭 を 使って いる し 、 困った 世の中 だ なあ 。 ぼく|||ゆう|とく||くんし||びんぼうだ||かれら|||ぐ|おと||やから||じん||くるしめる|||きんせん||つかって|||こまった|よのなか|| Virtuous princes like me are poor, and stupid people like them are spending money to afflict people, and it's a troubled world.

いっそ 、 どう だい 、 そう 云 う 、 も もん が あ を 十 把 一 と から げ に して 、 阿蘇 の 噴火 口 から 真 逆様に 地獄 の 下 へ 落し ち まったら 」 「 今に 落として やる 」 と 圭 さん は 薄 黒く 渦巻く 煙り を 仰いで 、 草 鞋足 を うんと 踏 張った 。 ||||うん|||||||じゅう|わ|ひと||||||あそ||ふんか|くち||まこと|さかさまに|じごく||した||おとし|||いまに|おとして|||けい|||うす|くろく|うずまく|けむり||あおいで|くさ|わらじあし|||ふ|はった Well, how about that, if Monmon drops it from the crater of Aso to the bottom of hell in the opposite direction? "" I'll drop it now. " Kei looked up at the dark, swirling smoke and stepped on the grass shoes.

「 大変な 権 幕 だ ね 。 たいへんな|けん|まく|| "It's a tough curtain, isn't it?

君 、 大丈夫 かい 。 きみ|だいじょうぶ|

十 把 一 と から げ を 放り込ま ない うち に 、 君 が 飛び込んじゃ いけない ぜ 」 「 あの 音 は 壮烈だ な 」 「 足 の 下 が 、 もう 揺れて いる ようだ 。 じゅう|わ|ひと|||||ほうりこま||||きみ||とびこんじゃ||||おと||そうれつだ||あし||した|||ゆれて||

―― おい ちょっと 、 地面 へ 耳 を つけて 聞いて 見た まえ 」 「 どんな だい 」 「 非常な 音 だ 。 ||じめん||みみ|||きいて|みた||||ひじょうな|おと|

たしかに 足 の 下 が うなって る 」 「 その 割 に 煙り が こない な 」 「 風 の せい だ 。 |あし||した|||||わり||けむり||||かぜ|||

北風 だ から 、 右 へ 吹きつける んだ 」 「 樹 が 多い から 、 方角 が 分 ら ない 。 きたかぜ|||みぎ||ふきつける||き||おおい||ほうがく||ぶん|| Because it's a north wind, it blows to the right. "" Because there are many trees, I don't know the direction.

もう 少し 登ったら 見当 が つく だろう 」 しばらく は 雑木林 の 間 を 行く 。 |すこし|のぼったら|けんとう||||||ぞうきばやし||あいだ||いく

道 幅 は 三 尺 に 足ら ぬ 。 どう|はば||みっ|しゃく||たら|

いくら 仲 が 善くて も 並んで 歩 行く 訳 に は 行か ぬ 。 |なか||よくて||ならんで|ふ|いく|やく|||いか|

圭 さん は 大きな 足 を 悠々と 振って 先 へ 行く 。 けい|||おおきな|あし||ゆうゆうと|ふって|さき||いく Kei gently shakes his big legs and goes ahead.

碌 さん は 小さな 体 躯 を すぼめて 、 小 股 に 後 から 尾 いて 行く 。 ろく|||ちいさな|からだ|く|||しょう|また||あと||お||いく

尾 いて 行き ながら 、 圭 さん の 足跡 の 大きい の に 感心 して いる 。 お||いき||けい|||あしあと||おおきい|||かんしん||

感心 し ながら 歩行 いて 行く と 、 だんだん おくれて しまう 。 かんしん|||ほこう||いく||||

路 は 左右 に 曲折 して 爪先 上り だ から 、 三十 分 と 立た ぬ うち に 、 圭 さん の 影 を 見失った 。 じ||さゆう||きょくせつ||つまさき|のぼり|||さんじゅう|ぶん||たた||||けい|||かげ||みうしなった

樹 と 樹 の 間 を すかして 見て も 何にも 見え ぬ 。 き||き||あいだ|||みて||なんにも|みえ|

山 を 下りる 人 は 一 人 も ない 。 やま||おりる|じん||ひと|じん|| No one goes down the mountain.

上る もの に も 全く 出合わ ない 。 のぼる||||まったく|であわ|

ただ 所々 に 馬 の 足跡 が ある 。 |ところどころ||うま||あしあと||

たまに 草 鞋 の 切れ が 茨 に かかって いる 。 |くさ|わらじ||きれ||いばら|||

そのほか に 人 の 気色 は さらに ない 、 饂飩 腹 の 碌 さん は 少々 心細く なった 。 ||じん||けしき||||うどん|はら||ろく|||しょうしょう|こころぼそく| Other than that, there is no more humanity, and Mr. Igo, who is hungry, has become a little lonely.

きのう の 澄み切った 空 に 引き 易 えて 、 今朝 宿 を 立つ 時 から の 霧 模様 に は 少し 掛 念 も あった が 、 晴れ さえ すれば と 、 好い加減な 事 を 頼み に して 、 とうとう 阿蘇 の 社 まで は 漕ぎつけた 。 ||すみきった|から||ひき|やす||けさ|やど||たつ|じ|||きり|もよう|||すこし|かかり|ねん||||はれ||||いいかげんな|こと||たのみ||||あそ||しゃ|||こぎつけた

白木 の 宮 に 禰宜 の 鳴らす 柏手 が 、 森 閑 と 立つ 杉 の 梢 に 響いた 時 、 見上げる 空 から 、 ぽつり と 何やら 額 に 落ちた 。 しらき||みや||ねぎ||ならす|かしわで||しげる|ひま||たつ|すぎ||こずえ||ひびいた|じ|みあげる|から||||なにやら|がく||おちた

饂飩 を 煮る 湯気 が 障子 の 破れ から 、 吹いて 、 白く 右 へ 靡 いた 頃 から 、 午 過ぎ は 雨 か な と も 思わ れた 。 うどん||にる|ゆげ||しょうじ||やぶれ||ふいて|しろく|みぎ||び||ころ||うま|すぎ||あめ|||||おもわ| From the time when the steam that boiled the udon noodles blew from the tearing of the shoji and turned white to the right, it seemed that it was raining after noon.

雑木林 を 小 半 里 ほど 来たら 、 怪しい 空 が とうとう 持ち 切れ なく なった と 見えて 、 梢 に したたる 雨 の 音 が 、 さあ と 北 の 方 へ 走る 。 ぞうきばやし||しょう|はん|さと||きたら|あやしい|から|||もち|きれ||||みえて|こずえ|||あめ||おと||||きた||かた||はしる When I came a little half a mile through the thickets, I saw that the suspicious sky had finally run out, and the sound of rain dripping on the treetops ran northward.

あと から 、 すぐ 新しい 音 が 耳 を 掠 め て 、 翻 える 木 の 葉 と 共に また 北 の 方 へ 走る 。 |||あたらしい|おと||みみ||りゃく|||ひるがえ||き||は||ともに||きた||かた||はしる Soon after, a new sound grabbed my ears and ran north again with the fluttering leaves of the tree.

碌 さん は 首 を 縮めて 、 えっと 舌打ち を した 。 ろく|||くび||ちぢめて|えっ と|したうち|| Mr. Igo shook his neck and shook his tongue. 一 時間 ほど で 林 は 尽きる 。 ひと|じかん|||りん||つきる The forest runs out in about an hour.

尽きる と 云 わん より は 、 一度に 消える と 云 う 方 が 適当であろう 。 つきる||うん||||いちどに|きえる||うん||かた||てきとうであろう It would be more appropriate to say that it disappears all at once, rather than saying that it runs out.

ふり返る 、 後 は 知ら ず 、 貫いて 来た 一 筋道 の ほか は 、 東 も 西 も 茫々 たる 青 草 が 波 を 打って 幾 段 と なく 連なる 後 から 、 むくむく と 黒い 煙 り が 持ち上がって くる 。 ふりかえる|あと||しら||つらぬいて|きた|ひと|すじみち||||ひがし||にし||ぼうぼう||あお|くさ||なみ||うって|いく|だん|||つらなる|あと||||くろい|けむり|||もちあがって| Looking back, I didn't know the rest, and apart from the straight path that pierced through, the swelling and black smoke came up after the rugged green grass struck the waves in the east and west.

噴火 口 こそ 見え ない が 、 煙り の 出る の は 、 つい 鼻 の 先 である 。 ふんか|くち||みえ|||けむり||でる||||はな||さき| The crater is invisible, but the smoke comes out just at the tip of the nose.

林 が 尽きて 、 青い 原 を 半 丁 と 行か ぬ 所 に 、 大 入 道 の 圭 さん が 空 を 仰いで 立って いる 。 りん||つきて|あおい|はら||はん|ちょう||いか||しょ||だい|はい|どう||けい|||から||あおいで|たって| Kei-san of Onyudo is standing looking up at the sky, where the forest is exhausted and the blue field is not halfway.

蝙蝠 傘 は 畳んだ まま 、 帽子 さえ 、 被ら ず に 毬 栗 頭 を ぬっく と 草 から 上 へ 突き出して 地形 を 見 廻して いる 様子 だ 。 こうもり|かさ||たたんだ||ぼうし||かぶら|||いが|くり|あたま||ぬ っく||くさ||うえ||つきだして|ちけい||み|まわして||ようす| The bat umbrella seems to be looking around the terrain, with the bat umbrella still folded, and even the hat, without a hat, sticking out the chestnut head from the grass. 「 おうい 。

少し 待って くれ 」 「 おうい 。 すこし|まって|| Please wait a moment. "" Hey.

荒れて 来た ぞ 。 あれて|きた| It's getting rough.

荒れて 来た ぞう う 。 あれて|きた||

しっかり しろう 」 「 しっかり する から 、 少し 待って くれ え 」 と 碌 さん は 一生懸命に 草 の なか を 這い上がる 。 |||||すこし|まって||||ろく|||いっしょうけんめいに|くさ||||はいあがる "Let's be firm." "Because it will be firm, please wait for a while." Igo-san crawls up in the grass with all his might.

ようやく 追いつく 碌 さん を 待ち受けて 、 「 おい 何 を ぐずぐず して いる んだ 」 と 圭 さん が 遣っつける 。 |おいつく|ろく|||まちうけて||なん|||||||けい|||つか っ つける Waiting for Mr. Igo to finally catch up, Kei says, "Hey, what are you waiting for?" 「 だから 饂飩 じゃ 駄目だ と 云った んだ 。 |うどん||だめだ||うん った| "That's why I said that udon is no good. ああ 苦しい 。 |くるしい

―― おい 君 の 顔 は どうした ん だ 。 |きみ||かお|||| ――Hey, what happened to your face?

真 黒 だ 」 「 そう か 、 君 の も 真 黒 だ 」 圭 さん は 、 無 雑 作 に 白地 の 浴衣 の 片 袖 で 、 頭から 顔 を 撫で 廻す 。 まこと|くろ||||きみ|||まこと|くろ||けい|||む|ざつ|さく||しろじ||ゆかた||かた|そで||あたまから|かお||なで|まわす "It's black." "Yes, you're also black." Kei casually strokes his face from his head with one sleeve of a white yukata.

碌 さん は 腰 から 、 ハンケチ を 出す 。 ろく|||こし||||だす Mr. Go puts out a handkerchief from his waist.

「 なるほど 、 拭く と 、 着物 が どす黒く なる 」 「 僕 の ハンケチ も 、 こんな だ 」 「 ひどい もの だ な 」 と 圭 さん は 雨 の なか に 坊主 頭 を 曝し ながら 、 空模様 を 見 廻す 。 |ふく||きもの||どすぐろく||ぼく|||||||||||けい|||あめ||||ぼうず|あたま||さらし||そらもよう||み|まわす

「 よ な だ 。

よなが 雨 に 溶けて 降って くるんだ 。 |あめ||とけて|ふって|

そら 、 その 薄 の 上 を 見た まえ 」 と 碌 さん が 指 を さす 。 ||うす||うえ||みた|||ろく|||ゆび||

長い 薄 の 葉 は 一面に 灰 を 浴びて 濡れ ながら 、 靡 く 。 ながい|うす||は||いちめんに|はい||あびて|ぬれ||び|

「 なるほど 」 「 困った な 、 こりゃ 」 「 なあ に 大丈夫だ 。 |こまった|||||だいじょうぶだ

つい そこ だ もの 。

あの 煙 り の 出る 所 を 目 当 に して 行けば 訳 は ない 」 「 訳 は な さ そうだ が 、 これ じゃ 路 が 分 ら ない ぜ 」 「 だ から 、 さっき から 、 待って いた の さ 。 |けむり|||でる|しょ||め|とう|||いけば|やく|||やく||||そう だ||||じ||ぶん||||||||まって|||

ここ を 左 り へ 行く か 、 右 へ 行く か と 云 う 、 ちょうど 股 の 所 な んだ 」 「 なるほど 、 両方 共 路 に なって る ね 。 ||ひだり|||いく||みぎ||いく|||うん|||また||しょ||||りょうほう|とも|じ||||

―― しかし 煙り の 見当 から 云 う と 、 左 り へ 曲がる 方 が よ さ そうだ 」 「 君 は そう 思う か 。 |けむり||けんとう||うん|||ひだり|||まがる|かた||||そう だ|きみ|||おもう|

僕 は 右 へ 行く つもりだ 」 「 どうして 」 「 どうしてって 、 右 の 方 に は 馬 の 足跡 が ある が 、 左 の 方 に は 少しも ない 」 「 そうかい 」 と 碌 さん は 、 身 躯 を 前 に 曲げ ながら 、 蔽 い かかる 草 を 押し 分けて 、 五六 歩 、 左 の 方 へ 進んだ が 、 すぐに 取って返して 、 「 駄目 の ようだ 。 ぼく||みぎ||いく|||どうして って|みぎ||かた|||うま||あしあと||||ひだり||かた|||すこしも||||ろく|||み|く||ぜん||まげ||へい|||くさ||おし|わけて|ごろく|ふ|ひだり||かた||すすんだ|||とってかえして|だめ|| 足跡 は 一 つ も 見当ら ない 」 と 云った 。 あしあと||ひと|||みあたら|||うん った 「 ない だろう 」 「 そっち に は あるか い 」 「 うん 。

たった 二 つ ある 」 「 二 つ ぎり かい 」 「 そう さ 。 |ふた|||ふた|||||

たった 二 つ だ 。 |ふた||

そら 、 ここ と ここ に 」 と 圭 さん は 繻子 張 の 蝙蝠 傘 の 先 で 、 かぶさる 薄 の 下 に 、 幽 か に 残る 馬 の 足跡 を 見せる 。 ||||||けい|||しゅす|ちょう||こうもり|かさ||さき|||うす||した||ゆう|||のこる|うま||あしあと||みせる

「 これ だけ かい 心細い な 」 「 な に 大丈夫だ 」 「 天 祐 じゃ ない か 、 君 の 天 祐 は あて に なら ない 事 夥 し いよ 」 「 なに これ が 天 祐 さ 」 と 圭 さん が 云 い 了 ら ぬ うち に 、 雨 を 捲 いて 颯 と おろす 一陣 の 風 が 、 碌 さん の 麦藁 帽 を 遠慮 なく 、 吹き 込めて 、 五六 間 先 まで 飛ばして 行く 。 |||こころぼそい||||だいじょうぶだ|てん|たすく||||きみ||てん|たすく||||||こと|か||||||てん|たすく|||けい|||うん||さとる|||||あめ||まく||さつ|||いちじん||かぜ||ろく|||むぎわら|ぼう||えんりょ||ふき|こめて|ごろく|あいだ|さき||とばして|いく

眼 に 余る 青 草 は 、 風 を 受けて 一度に 向 う へ 靡 いて 、 見る うち に 色 が 変る と 思う と 、 また 靡 き 返して もと の 態 に 戻る 。 がん||あまる|あお|くさ||かぜ||うけて|いちどに|むかい|||び||みる|||いろ||かわる||おもう|||び||かえして|||なり||もどる

「 痛快だ 。 つうかいだ

風 の 飛んで 行く 足跡 が 草 の 上 に 見える 。 かぜ||とんで|いく|あしあと||くさ||うえ||みえる

あれ を 見た まえ 」 と 圭 さん が 幾 重 と なく 起伏 する 青い 草 の 海 を 指す 。 ||みた|||けい|||いく|おも|||きふく||あおい|くさ||うみ||さす

「 痛快で も ない ぜ 。 つうかいで|||

帽子 が 飛 ん じ まった 」 「 帽子 が 飛んだ ? ぼうし||と||||ぼうし||とんだ

いい じゃ ない か 帽子 が 飛んだって 。 ||||ぼうし||とんだ って 取って くる さ 。 とって||

取って 来て やろう か 」 圭 さん は 、 いきなり 、 自分 の 帽子 の 上 へ 蝙蝠 傘 を 重し に 置いて 、 颯 と 、 薄 の 中 に 飛び込んだ 。 とって|きて|||けい||||じぶん||ぼうし||うえ||こうもり|かさ||おもし||おいて|さつ||うす||なか||とびこんだ

「 おい この 見当 か 」 「 もう 少し 左 り だ 」 圭 さん の 身 躯 は 次第に 青い もの の 中 に 、 深く はまって 行く 。 ||けんとう|||すこし|ひだり|||けい|||み|く||しだいに|あおい|||なか||ふかく||いく

しまい に は 首 だけ に なった 。 |||くび|||

あと に 残った 碌 さん は また 心配に なる 。 ||のこった|ろく||||しんぱいに|

「 おうい 。

大丈夫 か 」 「 何 だ あ 」 と 向 う の 首 から 声 が 出る 。 だいじょうぶ||なん||||むかい|||くび||こえ||でる

「 大丈夫 かよう 」 やがて 圭 さん の 首 が 見え なく なった 。 だいじょうぶ|||けい|||くび||みえ||

「 おうい 」 鼻 の 先 から 出る 黒煙 り は 鼠色 の 円柱 の 各 部 が 絶間 なく 蠕動 を 起し つつ ある ごとく 、 むくむく と 捲 き 上がって 、 半 空 から 大気 の 裡 に 溶け込んで 碌 さん の 頭 の 上 へ 容赦 なく 雨 と 共に 落ちて くる 。 |はな||さき||でる|こくえん|||ねずみいろ||えんちゅう||かく|ぶ||たえま||ぜんどう||おこし||||||まく||あがって|はん|から||たいき||り||とけこんで|ろく|||あたま||うえ||ようしゃ||あめ||ともに|おちて|

碌 さん は 悄然 と して 、 首 の 消えた 方角 を 見つめて いる 。 ろく|||しょうぜん|||くび||きえた|ほうがく||みつめて|

しばらく する と 、 まるで 見当 の 違った 半 丁 ほど 先 に 、 圭 さん の 首 が 忽然 と 現われた 。 ||||けんとう||ちがった|はん|ちょう||さき||けい|||くび||こつぜん||あらわれた

「 帽子 は ないぞう 」 「 帽子 は いら ない よう 。 ぼうし|||ぼうし||||

早く 帰って こうい 」 圭 さん は 坊主 頭 を 振り 立て ながら 、 薄 の 中 を 泳いで くる 。 はやく|かえって|こう い|けい|||ぼうず|あたま||ふり|たて||うす||なか||およいで|

「 おい 、 どこ へ 飛ばし たんだい 」 「 どこ だ か 、 相談 が 纏 ら ない うち に 飛ばし ち まったん だ 。 |||とばし|||||そうだん||まと|||||とばし|||

帽子 は いい が 、 歩 行く の は 厭 に なった よ 」 「 もう いやに なった の か 。 ぼうし||||ふ|いく|||いと||||||||

まだ ある かない じゃ ない か 」 「 あの 煙 と 、 この 雨 を 見る と 、 何だか 物 凄くって 、 あるく 元気 が なくなる ね 」 「 今 から 駄々 を 捏ねちゃ 仕方 が ない 。 |||||||けむり|||あめ||みる||なんだか|ぶつ|すごく って||げんき||||いま||だだ||こねちゃ|しかた|| ―― 壮快じゃ ない か 。 そうかいじゃ||

あの むくむく 煙 の 出て くる ところ は 」 「 その むくむく が 気味 が 悪 るい んだ 」 「 冗談 云っちゃ 、 いけない 。 ||けむり||でて|||||||きみ||あく|||じょうだん|うん っちゃ| あの 煙 の 傍 へ 行く んだ よ 。 |けむり||そば||いく||

そうして 、 あの 中 を 覗き込む んだ よ 」 「 考える と 全く 余計な 事 だ ね 。 ||なか||のぞきこむ|||かんがえる||まったく|よけいな|こと||

そうして 覗き込んだ 上 に 飛び込めば 世話 は ない 」 「 ともかくも あるこう 」 「 ハハハハ ともかくも か 。 |のぞきこんだ|うえ||とびこめば|せわ|||||||

君 が ともかくも と 云 い 出す と 、 つい 釣り 込ま れる よ 。 きみ||||うん||だす|||つり|こま||

さっき も ともかくも で 、 とうとう 饂飩 を 食っち まった 。 |||||うどん||しょく っち| これ で 赤痢 に でも 罹 かれば 全く ともかくも の 御蔭 だ 」 「 いい さ 、 僕 が 責任 を 持つ から 」 「 僕 の 病気 の 責任 を 持ったって 、 しようがない じゃ ない か 。 ||せきり|||り||まったく|||おかげ||||ぼく||せきにん||もつ||ぼく||びょうき||せきにん||もった って|||| 僕 の 代理 に 病気 に なれ も しまい 」 「 まあ 、 いい さ 。 ぼく||だいり||びょうき|||||||

僕 が 看病 を して 、 僕 が 伝染 して 、 本人 の 君 は 助ける ように して やる よ 」 「 そう か 、 それ じゃ 安心だ 。 ぼく||かんびょう|||ぼく||でんせん||ほんにん||きみ||たすける|||||||||あんしんだ

まあ 、 少々 あるく か な 」 「 そら 、 天気 も だいぶ よく なって 来た よ 。 |しょうしょう|||||てんき|||||きた|

やっぱり 天 祐 が ある んだ よ 」 「 ありがたい 仕 合せ だ 。 |てん|たすく||||||し|あわせ|

あるく 事 は あるく が 、 今夜 は 御馳走 を 食わせ なくっちゃ 、 いやだ ぜ 」 「 また 御馳走 か 。 |こと||||こんや||ごちそう||くわせ|||||ごちそう|

あるき さえ すれば きっと 食わせる よ 」 「 それ から ……」 「 まだ 何 か 注文 が ある の かい 」 「 うん 」 「 何 だい 」 「 君 の 経歴 を 聞か せる か 」 「 僕 の 経歴って 、 君 が 知って る 通り さ 」 「 僕 が 知って る 前 の さ 。 ||||くわせる|||||なん||ちゅうもん||||||なん||きみ||けいれき||きか|||ぼく||けいれき って|きみ||しって||とおり||ぼく||しって||ぜん|| 君 が 豆腐 屋 の 小僧 であった 時分 から ……」 「 小僧 じゃ ない ぜ 、 これ でも 豆腐 屋 の 伜 な んだ 」 「 その 伜 の 時 、 寒 磬寺 の 鉦 の 音 を 聞いて 、 急に 金持 が にくらしく なった 、 因縁 話し を さ 」 「 ハハハハ そんなに 聞き たければ 話す よ 。 きみ||とうふ|や||こぞう||じぶん||こぞう||||||とうふ|や||せがれ||||せがれ||じ|さむ|けいてら||しょう||おと||きいて|きゅうに|かねもち||||いんねん|はなし|||||きき||はなす|

その代り 剛 健 党 に なら なくちゃ いけない ぜ 。 そのかわり|かたし|けん|とう|||||

君 なん ざ あ 、 金持 の 悪党 を 相手 に した 事 が ない から 、 そんなに 呑気 な んだ 。 きみ||||かねもち||あくとう||あいて|||こと|||||のんき||

君 は ディッキンス の 両 都 物語り と 云 う 本 を 読んだ 事 が ある か 」 「 ない よ 。 きみ||||りょう|と|ものがたり||うん||ほん||よんだ|こと|||||

伊賀 の 水 月 は 読んだ が 、 ディッキンス は 読ま ない 」 「 それ だ から なお 貧民 に 同情 が 薄い んだ 。 いが||すい|つき||よんだ||||よま||||||ひんみん||どうじょう||うすい|

―― あの 本 の ね しまい の 方 に 、 御 医者 さん の 獄中 で かいた 日記 が ある が ね 。 |ほん|||||かた||ご|いしゃ|||ごくちゅう|||にっき||||

悲惨な もの だ よ 」 「 へえ 、 どんな もの だい 」 「 そりゃ 君 、 仏 国 の 革命 の 起る 前 に 、 貴族 が 暴 威 を 振って 細 民 を 苦しめた 事 が かいて ある んだ が 。 ひさんな|||||||||きみ|ふつ|くに||かくめい||おこる|ぜん||きぞく||あば|たけし||ふって|ほそ|たみ||くるしめた|こと|||||

―― それ も 今夜 僕 が 寝 ながら 話して やろう 」 「 うん 」 「 なあ に 仏 国 の 革命 なんて え の も 当然の 現象 さ 。 ||こんや|ぼく||ね||はなして|||||ふつ|くに||かくめい|||||とうぜんの|げんしょう|

あんなに 金持ち や 貴族 が 乱暴 を すりゃ 、 ああ なる の は 自然の 理 窟 だ から ね 。 |かねもち||きぞく||らんぼう|||||||しぜんの|り|いわや|||

ほら 、 あの 轟 々 鳴って 吹き出す の と 同じ 事 さ 」 と 圭 さん は 立ち 留まって 、 黒い 煙 の 方 を 見る 。 ||とどろき||なって|ふきだす|||おなじ|こと|||けい|||たち|とどまって|くろい|けむり||かた||みる

濛々 と 天地 を 鎖 す 秋雨 を 突き 抜いて 、 百 里 の 底 から 沸き 騰 る 濃い もの が 渦 を 捲 き 、 渦 を 捲 いて 、 幾 百 噸 ( トン ) の 量 と も 知れ ず 立ち上がる 。 もうもう||てんち||くさり||あきさめ||つき|ぬいて|ひゃく|さと||そこ||わき|とう||こい|||うず||まく||うず||まく||いく|ひゃく|とん|とん||りょう|||しれ||たちあがる

その 幾 百 噸 の 煙り の 一 分子 が ことごとく 震動 して 爆発 する か と 思 わる る ほど の 音 が 、 遠い 遠い 奥 の 方 から 、 濃い もの と 共に 頭 の 上 へ 躍り上がって 来る 。 |いく|ひゃく|とん||けむり||ひと|ぶんし|||しんどう||ばくはつ||||おも|||||おと||とおい|とおい|おく||かた||こい|||ともに|あたま||うえ||おどりあがって|くる

雨 と 風 の なか に 、 毛虫 の ような 眉 を 攅 め て 、 余念 も なく 眺めて いた 、 圭 さん が 、 非常な 落ちついた 調子 で 、 「 雄大だろう 、 君 」 と 云った 。 あめ||かぜ||||けむし|||まゆ||さん|||よねん|||ながめて||けい|||ひじょうな|おちついた|ちょうし||ゆうだいだろう|きみ||うん った 「 全く 雄大だ 」 と 碌 さん も 真面目で 答えた 。 まったく|ゆうだいだ||ろく|||まじめで|こたえた

「 恐ろしい くらい だ 」 しばらく 時 を きって 、 碌 さん が 付け加えた 言葉 は これ である 。 おそろしい||||じ|||ろく|||つけくわえた|ことば|||

「 僕 の 精神 は あれ だ よ 」 と 圭 さん が 云 う 。 ぼく||せいしん||||||けい|||うん|

「 革命 か 」 「 うん 。 かくめい||

文明 の 革命 さ 」 「 文明 の 革命 と は 」 「 血 を 流さ ない の さ 」 「 刀 を 使わ なければ 、 何 を 使う のだ い 」 圭 さん は 、 何にも 云 わ ず に 、 平手 で 、 自分 の 坊主 頭 を ぴし ゃぴ しゃ と 二 返 叩いた 。 ぶんめい||かくめい||ぶんめい||かくめい|||ち||ながさ||||かたな||つかわ||なん||つかう|||けい|||なんにも|うん||||ひらて||じぶん||ぼうず|あたま||||||ふた|かえ|たたいた

「 頭 か 」 「 うん 。 あたま||

相手 も 頭 で くる から 、 こっち も 頭 で 行く んだ 」 「 相手 は 誰 だい 」 「 金 力 や 威力 で 、 たより の ない 同胞 を 苦しめる 奴 ら さ 」 「 うん 」 「 社会 の 悪徳 を 公然 商売 に して いる 奴 ら さ 」 「 うん 」 「 商売 なら 、 衣食 の ため と 云 う 言い訳 も 立つ 」 「 うん 」 「 社会 の 悪徳 を 公然 道楽 に して いる 奴 ら は 、 どうしても 叩きつけ なければ なら ん 」 「 うん 」 「 君 も やれ 」 「 うん 、 やる 」 圭 さん は 、 のっそ り と 踵 を めぐらした 。 あいて||あたま||||||あたま||いく||あいて||だれ||きむ|ちから||いりょく|||||どうほう||くるしめる|やつ||||しゃかい||あくとく||こうぜん|しょうばい||||やつ||||しょうばい||いしょく||||うん||いいわけ||たつ||しゃかい||あくとく||こうぜん|どうらく||||やつ||||たたきつけ|||||きみ|||||けい|||の っそ|||かかと|| 碌 さん は 黙 然 と して 尾 いて 行く 。 ろく|||もく|ぜん|||お||いく

空 に ある もの は 、 煙り と 、 雨 と 、 風 と 雲 である 。 から|||||けむり||あめ||かぜ||くも|

地 に ある もの は 青い 薄 と 、 女郎花 と 、 所々 に わびしく 交 る 桔梗 のみ である 。 ち|||||あおい|うす||おみなえし||ところどころ|||こう||ききょう||

二 人 は 煢々 と して 無人の 境 を 行く 。 ふた|じん||けい々|||ぶにんの|さかい||いく

薄 の 高 さ は 、 腰 を 没する ほど に 延びて 、 左右 から 、 幅 、 尺 足らず の 路 を 蔽 うて いる 。 うす||たか|||こし||ぼっする|||のびて|さゆう||はば|しゃく|たら ず||じ||へい||

身 を 横 に して も 、 草 に 触れ ず に 進む 訳 に は 行か ぬ 。 み||よこ||||くさ||ふれ|||すすむ|やく|||いか|

触れれば 雨 に 濡れた 灰 が つく 。 ふれれば|あめ||ぬれた|はい||

圭 さん も 碌 さん も 、 白地 の 浴衣 に 、 白 の 股引 に 、 足袋 と 脚 絆 だけ を 紺 に して 、 濡れた 薄 を が さ つか せて 行く 。 けい|||ろく|||しろじ||ゆかた||しろ||ももひき||たび||あし|きずな|||こん|||ぬれた|うす||||||いく

腰 から 下 は どぶ 鼠 の ように 染まった 。 こし||した|||ねずみ|||そまった

腰 から 上 と いえ ども 、 降る 雨 に 誘われて 着く 、 よ な を 、 一面に 浴びた から 、 ほとんど 下水 へ 落ち込んだ と 同様の 始末 である 。 こし||うえ||||ふる|あめ||さそわ れて|つく||||いちめんに|あびた|||げすい||おちこんだ||どうようの|しまつ| ただ さえ 、 うねり 、 くねって いる 路 だ から 、 草 が な くって も 、 どこ へ どう 続いて いる か 見極め の つく もの で は ない 。 |||||じ|||くさ||||||||つづいて|||みきわめ||||||

草 を かぶれば なおさら である 。 くさ||||

地 に 残る 馬 の 足跡 さえ 、 ようやく 見つけた くらい だ から 、 あと の 始末 は 無論 天 に 任せて 、 あるいて いる と 云 わ ねば なら ぬ 。 ち||のこる|うま||あしあと|||みつけた||||||しまつ||むろん|てん||まかせて||||うん||||

最初の うち こそ 、 立ち 登る 煙り を 正面 に 見て 進んだ 路 は 、 いつの間に やら 、 折れ曲って 、 次第に 横 から よ な を 受 くる ように なった 。 さいしょの|||たち|のぼる|けむり||しょうめん||みて|すすんだ|じ||いつのまに||おれまがって|しだいに|よこ|||||じゅ|||

横 に 眺める 噴火 口 が 今度 は 自然に 後ろ の 方 に 見え だした 時 、 圭 さん は ぴたり と 足 を 留めた 。 よこ||ながめる|ふんか|くち||こんど||しぜんに|うしろ||かた||みえ||じ|けい|||||あし||とどめた

「 どうも 路 が 違う ようだ ね 」 「 うん 」 と 碌 さん は 恨めしい 顔 を して 、 同じく 立ち 留った 。 |じ||ちがう|||||ろく|||うらめしい|かお|||おなじく|たち|りゅう った 「 何だか 、 情 ない 顔 を して いる ね 。 なんだか|じょう||かお||||

苦しい かい 」 「 実際 情けない んだ 」 「 どこ か 痛む かい 」 「 豆 が 一面に 出来て 、 たまらない 」 「 困った な 。 くるしい||じっさい|なさけない||||いたむ||まめ||いちめんに|できて||こまった|

よっぽど 痛い かい 。 |いたい|

僕 の 肩 へ つら まったら 、 どう だ ね 。 ぼく||かた||||||

少し は 歩 行き 好 い かも 知れ ない 」 「 うん 」 と 碌 さん は 気 の ない 返事 を した まま 動か ない 。 すこし||ふ|いき|よしみ|||しれ||||ろく|||き|||へんじ||||うごか|

「 宿 へ ついたら 、 僕 が 面白い 話 を する よ 」 「 全体 いつ 宿 へ つく ん だい 」 「 五 時 に は 湯 元 へ 着く 予定 なんだ が 、 どうも 、 あの 煙り は 妙だ よ 。 やど|||ぼく||おもしろい|はなし||||ぜんたい||やど|||||いつ|じ|||ゆ|もと||つく|よてい|||||けむり||みょうだ|

右 へ 行って も 、 左 り へ 行って も 、 鼻 の 先 に ある ばかりで 、 遠く も なら なければ 、 近く も なら ない 」 「 上り たて から 鼻 の 先 に ある ぜ 」 「 そう さ な 。 みぎ||おこなって||ひだり|||おこなって||はな||さき||||とおく||||ちかく||||のぼり|||はな||さき||||||

もう 少し この 路 を 行って 見 ようじゃ ない か 」 「 うん 」 「 それとも 、 少し 休む か 」 「 うん 」 「 どうも 、 急に 元気 が なくなった ね 」 「 全く 饂飩 の 御蔭 だ よ 」 「 ハハハハ 。 |すこし||じ||おこなって|み||||||すこし|やすむ||||きゅうに|げんき||||まったく|うどん||おかげ|||

その代り 宿 へ 着く と 僕 が 話し の 御馳走 を する よ 」 「 話し も 聞き たく なく なった 」 「 それ じゃ また ビール で ない 恵比寿 でも 飲む さ 」 「 ふ ふん 。 そのかわり|やど||つく||ぼく||はなし||ごちそう||||はなし||きき|||||||びーる|||えびす||のむ|||

この 様子 じゃ 、 とても 宿 へ 着け そう も ない ぜ 」 「 なに 、 大丈夫だ よ 」 「 だって 、 もう 暗く なって 来た ぜ 」 「 どれ 」 と 圭 さん は 懐中 時計 を 出す 。 |ようす|||やど||つけ||||||だいじょうぶだ||||くらく||きた||||けい|||かいちゅう|とけい||だす

「 四 時 五 分 前 だ 。 よっ|じ|いつ|ぶん|ぜん|

暗い の は 天気 の せい だ 。 くらい|||てんき|||

しかし こう 方角 が 変って 来る と 少し 困る な 。 ||ほうがく||かわって|くる||すこし|こまる|

山 へ 登って から 、 もう 二三 里 は あるいた ね 」 「 豆 の 様子 じゃ 、 十 里 くらい あるいて る よ 」 「 ハハハハ 。 やま||のぼって|||ふみ|さと||||まめ||ようす||じゅう|さと|||||

あの 煙 り が 前 に 見えた んだ が 、 もう ずっと 、 後ろ に なって しまった 。 |けむり|||ぜん||みえた|||||うしろ|||

すると 我々 は 熊本 の 方 へ 二三 里 近付いた 訳 か ね 」 「 つまり 山 から それ だけ 遠ざかった 訳 さ 」 「 そう 云 えば そう さ 。 |われわれ||くまもと||かた||ふみ|さと|ちかづいた|やく||||やま||||とおざかった|やく|||うん|||

―― 君 、 あの 煙 り の 横 の 方 から また 新しい 煙 が 見え だした ぜ 。 きみ||けむり|||よこ||かた|||あたらしい|けむり||みえ||

あれ が 多分 、 新しい 噴火 口 な んだろう 。 ||たぶん|あたらしい|ふんか|くち||

あの むくむく 出る ところ を 見る と 、 つい 、 そこ に ある ようだ が な 。 ||でる|||みる||||||||

どうして 行か れ ない だろう 。 |いか|||

何でも この 山 の つい 裏 に 違いない んだ が 、 路 が ない から 困る 」 「 路 が あったって 駄目だ よ 」 「 どうも 雲 だ か 、 煙り だ か 非常に 濃く 、 頭 の 上 へ やってくる 。 なんでも||やま|||うら||ちがいない|||じ||||こまる|じ||あった って|だめだ|||くも|||けむり|||ひじょうに|こく|あたま||うえ|| 壮 んな もの だ 。 そう|||

ねえ 、 君 」 「 うん 」 「 どう だい 、 こんな 凄い 景色 は とても 、 こう 云 う 時 で なけりゃ 見られ ない ぜ 。 |きみ|||||すごい|けしき||||うん||じ|||み られ|| うん 、 非常に 黒い もの が 降って 来る 。 |ひじょうに|くろい|||ふって|くる

君 あたま が 大変だ 。 きみ|||たいへんだ

僕 の 帽子 を 貸して やろう 。 ぼく||ぼうし||かして|

―― こう 被って ね 。 |おおって|

それ から 手拭 が ある だろう 。 ||てぬぐい|||

飛ぶ と いけない から 、 上 から 結わ い つける んだ 。 とぶ||||うえ||ゆわ|||

―― 僕 が しばって やろう 。 ぼく|||

―― 傘 は 、 畳む が いい 。 かさ||たたむ||

どうせ 風 に 逆らう ぎり だ 。 |かぜ||さからう||

そうして 杖 に つく さ 。 |つえ|||

杖 が 出来る と 、 少し は 歩 行ける だろう 」 「 少し は 歩行 きよく なった 。 つえ||できる||すこし||ふ|いける||すこし||ほこう||

―― 雨 も 風 も だんだん 強く なる ようだ ね 」 「 そう さ 、 さっき は 少し 晴れ そうだった が な 。 あめ||かぜ|||つよく||||||||すこし|はれ|そう だった||

雨 や 風 は 大丈夫だ が 、 足 は 痛む か ね 」 「 痛い さ 。 あめ||かぜ||だいじょうぶだ||あし||いたむ|||いたい|

登る とき は 豆 が 三 つ ばかりだった が 、 一面に なった んだ もの 」 「 晩 に ね 、 僕 が 、 煙草 の 吸殻 を 飯 粒 で 練って 、 膏薬 を 製って やろう 」 「 宿 へ つけば 、 どう で も なる んだ が ……」 「 あるいて る うち が 難 義 か 」 「 うん 」 「 困った な 。 のぼる|||まめ||みっ||||いちめんに||||ばん|||ぼく||たばこ||すいがら||めし|つぶ||ねって|こうやく||せい って||やど|||||||||||||なん|ただし|||こまった| ―― どこ か 高い 所 へ 登る と 、 人 の 通る 路 が 見える んだ が な 。 ||たかい|しょ||のぼる||じん||とおる|じ||みえる|||

―― うん 、 あす こ に 高い 草山 が 見える だろう 」 「 あの 右 の 方 かい 」 「 ああ 。 ||||たかい|くさやま||みえる|||みぎ||かた||

あの 上 へ 登ったら 、 噴火 孔 が 一 と 眼 に 見える に 違 ない 。 |うえ||のぼったら|ふんか|あな||ひと||がん||みえる||ちが|

そう したら 、 路 が 分 る よ 」 「 分 るって 、 あす こ へ 行く まで に 日 が 暮れて しまう よ 」 「 待ち たまえ ちょっと 時計 を 見る から 。 ||じ||ぶん|||ぶん|る って||||いく|||ひ||くれて|||まち|||とけい||みる| 四 時 八 分 だ 。 よっ|じ|やっ|ぶん|

まだ 暮れ やしない 。 |くれ|

君 ここ に 待って いた まえ 。 きみ|||まって||

僕 が ちょっと 物見 を して くる から 」 「 待って る が 、 帰り に 路 が 分 ら なくなる と 、 それ こそ 大変だ ぜ 。 ぼく|||ものみ|||||まって|||かえり||じ||ぶん||||||たいへんだ|

二 人 離れ離れに なっち まう よ 」 「 大丈夫だ 。 ふた|じん|はなればなれに|な っち|||だいじょうぶだ どうしたって 死ぬ 気遣 は ない んだ 。 どうした って|しぬ|きづか||| どうかしたら 大きな 声 を 出して 呼ぶ よ 」 「 うん 。 |おおきな|こえ||だして|よぶ||

呼んで くれた まえ 」 圭 さん は 雲 と 煙 の 這い 廻る なか へ 、 猛然と して 進んで 行く 。 よんで|||けい|||くも||けむり||はい|まわる|||もうぜんと||すすんで|いく

碌 さん は 心細く も ただ 一 人 薄 の なか に 立って 、 頼み に する 友 の 後 姿 を 見送って いる 。 ろく|||こころぼそく|||ひと|じん|うす||||たって|たのみ|||とも||あと|すがた||みおくって|

しばらく する うち に 圭 さん の 影 は 草 の なか に 消えた 。 ||||けい|||かげ||くさ||||きえた

大きな 山 は 五 分 に 一 度 ぐらい ずつ 時 を きって 、 普段 より は 烈 しく 轟 と なる 。 おおきな|やま||いつ|ぶん||ひと|たび|||じ|||ふだん|||れつ||とどろき||

その折 は 雨 も 煙り も 一度に 揺れて 、 余勢 が 横なぐり に 、 悄然 と 立つ 碌 さん の 体 躯 へ 突き当る ように 思わ れる 。 そのおり||あめ||けむり||いちどに|ゆれて|よせい||よこなぐり||しょうぜん||たつ|ろく|||からだ|く||つきあたる||おもわ|

草 は 眼 を 走ら す 限り を 尽くして ことごとく 煙り の なか に 靡 く 上 を 、 さあ さあ と 雨 が 走って 行く 。 くさ||がん||はしら||かぎり||つくして||けむり||||び||うえ|||||あめ||はしって|いく

草 と 雨 の 間 を 大きな 雲 が 遠慮 も なく 這い 廻 わる 。 くさ||あめ||あいだ||おおきな|くも||えんりょ|||はい|まわ|

碌 さん は向う の 草山 を 見つめ ながら 、 顫 えて いる 。 ろく||はむかう||くさやま||みつめ||せん||

よ な の しずく は 、 碌 さん の 下 腹 まで 浸 み 透 る 。 |||||ろく|||した|はら||ひた||とおる|

毒々しい 黒煙 り が 長い 渦 を 七 巻 まいて 、 むく り と 空 を 突く 途端 に 、 碌 さん の 踏む 足 の 底 が 、 地震 の ように 撼 いた と 思った 。 どくどくしい|こくえん|||ながい|うず||なな|かん|||||から||つく|とたん||ろく|||ふむ|あし||そこ||じしん|||かん|||おもった

あと は 、 山鳴り が 比較的 静まった 。 ||やまなり||ひかくてき|しずまった

すると 地面 の 下 の 方 で 、 「 お おおい 」 と 呼ぶ 声 が する 。 |じめん||した||かた|||||よぶ|こえ||

碌 さん は 両手 を 、 耳 の 後ろ に 宛てた 。 ろく|||りょうて||みみ||うしろ||あてた

「 お おおい 」 たしかに 呼んで いる 。 |||よんで|

不思議な 事 に その 声 が 妙に 足 の 下 から 湧いて 出る 。 ふしぎな|こと|||こえ||みょうに|あし||した||わいて|でる

「 お おおい 」 碌 さん は 思わず 、 声 を しる べに 、 飛び出した 。 ||ろく|||おもわず|こえ||||とびだした

「 お おおい 」 と 癇 の 高い 声 を 、 肺 の 縮む ほど 絞り出す と 、 太い 声 が 、 草 の 下 から 、 「 お おおい 」 と 応える 。 |||かん||たかい|こえ||はい||ちぢむ||しぼりだす||ふとい|こえ||くさ||した|||||こたえる

圭 さん に 違 ない 。 けい|||ちが|

碌 さん は 胸 まで 来る 薄 を むやみに 押し 分けて 、 ず ん ず ん 声 の する 方 に 進んで 行く 。 ろく|||むね||くる|うす|||おし|わけて|||||こえ|||かた||すすんで|いく

「 お おおい 」 「 お おおい 。

どこ だ 」 「 お おおい 。

ここ だ 」 「 どこ だ ああ 」 「 ここ だ ああ 。

むやみに くる と あぶない ぞう 。

落ちる ぞう 」 「 どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 ここ へ 落ちた んだ ああ 。 おちる||||おちた|||||おちた||

気 を つけろ う 」 「 気 は つける が 、 どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 落ちる と 、 足 の 豆 が 痛い ぞう う 」 「 大丈夫だ ああ 。 き||||き||||||おちた|||おちる||あし||まめ||いたい|||だいじょうぶだ|

どこ へ 落ちた んだ ああ 」 「 ここ だ あ 、 もう それ から 先 へ 出る んじゃ ない よう 。 ||おちた|||||||||さき||でる|||

おれ が そっち へ 行く から 、 そこ で 待って いる んだ よう 」 圭 さん の 胴 間 声 は 地面 の なか を 通って 、 だんだん 近づいて 来る 。 ||||いく||||まって||||けい|||どう|あいだ|こえ||じめん||||かよって||ちかづいて|くる

「 おい 、 落ちた よ 」 「 どこ へ 落ち たんだい 」 「 見え ない か 」 「 見え ない 」 「 それ じゃ 、 もう 少し 前 へ 出た 」 「 おや 、 何 だい 、 こりゃ 」 「 草 の なか に 、 こんな もの が ある から 剣 呑 だ 」 「 どうして 、 こんな 谷 が ある んだろう 」 「 火 熔石 の 流れた あと だ よ 。 |おちた||||おち||みえ|||みえ|||||すこし|ぜん||でた||なん|||くさ|||||||||けん|どん||||たに||||ひ|よういし||ながれた|||

見た まえ 、 なか は 茶色 で 草 が 一 本 も 生えて いない 」 「 なるほど 、 厄介な もの が ある んだ ね 。 みた||||ちゃいろ||くさ||ひと|ほん||はえて|||やっかいな||||| 君 、 上がれる かい 」 「 上がれる もの か 。 きみ|あがれる||あがれる||

高 さ が 二 間 ばかり ある よ 」 「 弱った な 。 たか|||ふた|あいだ||||よわった|

どう しよう 」 「 僕 の 頭 が 見える かい 」 「 毬 栗 の 片割れ が 少し 見える 」 「 君 ね 」 「 ええ 」 「 薄 の 上 へ 腹這 に なって 、 顔 だけ 谷 の 上 へ 乗り出して 見た まえ 」 「 よし 、 今 顔 を 出す から 待って いた まえ よ 」 「 うん 、 待って る 、 ここ だ よ 」 と 圭 さん は 蝙蝠 傘 で 、 崖 の 腹 を とんとん 叩く 。 ||ぼく||あたま||みえる||いが|くり||かたわれ||すこし|みえる|きみ|||うす||うえ||はらばい|||かお||たに||うえ||のりだして|みた|||いま|かお||だす||まって|||||まって||||||けい|||こうもり|かさ||がけ||はら|||たたく

碌 さん は 見当 を 見 計って 、 ぐしゃ り と 濡れ 薄 の 上 へ 腹 を つけて 恐る恐る 首 だけ を 溝 の 上 へ 出して 、 「 おい 」 「 おい 。 ろく|||けんとう||み|はかって||||ぬれ|うす||うえ||はら|||おそるおそる|くび|||みぞ||うえ||だして||

どう だ 。

豆 は 痛む か ね 」 「 豆 なん ざ どうでも いい から 、 早く 上がって くれた まえ 」 「 ハハハハ 大丈夫だ よ 。 まめ||いたむ|||まめ||||||はやく|あがって||||だいじょうぶだ|

下 の 方 が 風 が あたら なくって 、 かえって 楽だ ぜ 」 「 楽 だって 、 もう 日 が 暮れる よ 、 早く 上がら ない と 」 「 君 」 「 ええ 」 「 ハンケチ は ない か 」 「 ある 。 した||かた||かぜ|||なく って||らくだ||がく|||ひ||くれる||はやく|あがら|||きみ|||||| 何 に する ん だい 」 「 落ちる 時 に 蹴 爪 ずい て 生爪 を 剥がした 」 「 生爪 を ? なん|||||おちる|じ||け|つめ|||なまづめ||はがした|なまづめ|

痛む かい 」 「 少し 痛む 」 「 あるける かい 」 「 あるける と も 。 いたむ||すこし|いたむ|||||

ハンケチ が ある なら 抛 げ て くれた まえ 」 「 裂いて やろう か 」 「 なに 、 僕 が 裂く から 丸めて 抛 げ て くれた まえ 。 ||||なげう|||||さいて||||ぼく||さく||まるめて|なげう||||

風 で 飛ぶ と 、 いけない から 、 堅く 丸めて 落す んだ よ 」 「 じく じく 濡れて る から 、 大丈夫だ 。 かぜ||とぶ||||かたく|まるめて|おとす|||||ぬれて|||だいじょうぶだ

飛ぶ 気遣 は ない 。 とぶ|きづか||

いい か 、 抛 げ る ぜ 、 そら 」 「 だいぶ 暗く なって 来た ね 。 ||なげう||||||くらく||きた|

煙 は 相 変ら ず 出て いる かい 」 「 うん 。 けむり||そう|かわら||でて|||

空中 一面 の 煙 だ 」 「 いやに 鳴る じゃ ない か 」 「 さっき より 、 烈 しく なった ようだ 。 くうちゅう|いちめん||けむり|||なる||||||れつ|||

―― ハンケチ は 裂ける かい 」 「 うん 、 裂けた よ 。 ||さける|||さけた|

繃帯 は もう でき上がった 」 「 大丈夫 かい 。 ほうたい|||できあがった|だいじょうぶ|

血 が 出 やしない か 」 「 足袋 の 上 へ 雨 と いっしょに 煮 染んで る 」 「 痛 そうだ ね 」 「 なあ に 、 痛い たって 。 ち||だ|||たび||うえ||あめ|||に|しんで||つう|そう だ||||いたい|

痛い の は 生きて る 証拠 だ 」 「 僕 は 腹 が 痛く なった 」 「 濡れた 草 の 上 に 腹 を つけて いる から だ 。 いたい|||いきて||しょうこ||ぼく||はら||いたく||ぬれた|くさ||うえ||はら|||||

もう いい から 、 立ち たまえ 」 「 立つ と 君 の 顔 が 見え なく なる 」 「 困る な 。 |||たち||たつ||きみ||かお||みえ|||こまる|

君 いっその事 に 、 ここ へ 飛び込ま ない か 」 「 飛び込んで 、 どう する ん だい 」 「 飛び 込め ない かい 」 「 飛び 込め ない 事 も ない が ―― 飛び込んで 、 どう する ん だい 」 「 いっしょに あるく の さ 」 「 そうして どこ へ 行く つもりだ い 」 「 どうせ 、 噴火 口 から 山 の 麓 まで 流れた 岩 の あと な んだ から 、 この 穴 の 中 を あるいて いたら 、 どこ か へ 出る だろう 」 「 だって 」 「 だって 厭 か 。 きみ|いっそのこと||||とびこま|||とびこんで|||||とび|こめ|||とび|こめ||こと||||とびこんで||||||||||||いく||||ふんか|くち||やま||ふもと||ながれた|いわ|||||||あな||なか|||||||でる||||いと|

厭 じゃ 仕方 が ない 」 「 厭 じゃ ない が ―― それ より 君 が 上がれる と 好 いんだ が な 。 いと||しかた|||いと||||||きみ||あがれる||よしみ|||

君 どうかして 上がって 見 ない か 」 「 それ じゃ 、 君 は この 穴 の 縁 を 伝って 歩 行く さ 。 きみ||あがって|み|||||きみ|||あな||えん||つたって|ふ|いく|

僕 は 穴 の 下 を あるく から 。 ぼく||あな||した|||

そう したら 、 上下 で 話 が 出来る から いい だろう 」 「 縁 に ゃ 路 は ありゃ し ない 」 「 草 ばかり かい 」 「 うん 。 ||じょうげ||はなし||できる||||えん|||じ|||||くさ|||

草 が ね ……」 「 うん 」 「 胸 くらい まで 生えて いる 」 「 ともかくも 僕 は 上がれ ない よ 」 「 上がれ ないって 、 それ じゃ 仕方 が ない な ―― おい 。 くさ||||むね|||はえて|||ぼく||あがれ|||あがれ|ない って|||しかた|||| ―― おい 。

―― おいって 云 う の におい 。 おい って|うん||| なぜ 黙って る んだ 」 「 ええ 」 「 大丈夫 かい 」 「 何 が 」 「 口 は 利 ける かい 」 「 利 ける さ 」 「 それ じゃ 、 なぜ 黙って る んだ 」 「 ちょっと 考えて いた 」 「 何 を 」 「 穴 から 出る 工夫 を さ 」 「 全体 何 だって 、 そんな 所 へ 落ち たんだい 」 「 早く 君 に 安心 さ せよう と 思って 、 草山 ばかり 見つめて いた もん だ から 、 つい 足元 が 御 留守 に なって 、 落ちて しまった 」 「 それ じゃ 、 僕 の ため に 落ちた ような もの だ 。 |だまって||||だいじょうぶ||なん||くち||り|||り||||||だまって||||かんがえて||なん||あな||でる|くふう|||ぜんたい|なん|||しょ||おち||はやく|きみ||あんしん||||おもって|くさやま||みつめて||||||あしもと||ご|るす|||おちて||||ぼく||||おちた|||

気の毒だ な 、 どうかして 上がって 貰え ない か な 、 君 」 「 そう さ な 。 きのどくだ|||あがって|もらえ||||きみ|||

―― なに 僕 は 構わ ない よ 。 |ぼく||かまわ||

それ より か 。

君 、 早く 立ち たまえ 。 きみ|はやく|たち|

そう 草 で 腹 を 冷やしちゃ 毒 だ 」 「 腹 なんか どう で も いい さ 」 「 痛む んだろう 」 「 痛む 事 は 痛む さ 」 「 だ から 、 ともかくも 立ち たまえ 。 |くさ||はら||ひやしちゃ|どく||はら|||||||いたむ||いたむ|こと||いたむ|||||たち|

その うち 僕 が ここ で 出る 工夫 を 考えて 置く から 」 「 考えたら 、 呼ぶ んだ ぜ 。 ||ぼく||||でる|くふう||かんがえて|おく||かんがえたら|よぶ||

僕 も 考える から 」 「 よし 」 会話 は しばらく 途切れる 。 ぼく||かんがえる|||かいわ|||とぎれる

草 の 中 に 立って 碌 さん が 覚 束 なく 四方 を 見渡す と 、 向 う の 草山 へ ぶつかった 黒 雲 が 、 峰 の 半 腹 で 、 どっと 崩れて 海 の ように 濁った もの が 頭 を 去る 五六 尺 の 所 まで 押し寄せて くる 。 くさ||なか||たって|ろく|||あきら|たば||しほう||みわたす||むかい|||くさやま|||くろ|くも||みね||はん|はら|||くずれて|うみ|||にごった|||あたま||さる|ごろく|しゃく||しょ||おしよせて|

時計 は もう 五 時 に 近い 。 とけい|||いつ|じ||ちかい

山 の なかば は ただ さえ 薄暗く なる 時分 だ 。 やま||||||うすぐらく||じぶん|

ひ ゅう ひ ゅう と 絶間 なく 吹き 卸 ろ す 風 は 、 吹く たび に 、 黒い 夜 を 遠い 国 から 持ってくる 。 |||||たえま||ふき|おろし|||かぜ||ふく|||くろい|よ||とおい|くに||もってくる

刻々 と 逼 る 暮 色 の なか に 、 嵐 は 卍 に 吹き すさむ 。 こくこく||ひつ||くら|いろ||||あらし||まんじ||ふき|

噴火 孔 から 吹き出す 幾 万 斛 の 煙り は 卍 の なか に 万 遍 なく 捲 き込まれて 、 嵐 の 世界 を 尽くして 、 どす黒く 漲り 渡る 。 ふんか|あな||ふきだす|いく|よろず|こく||けむり||まんじ||||よろず|へん||まく|きこま れて|あらし||せかい||つくして|どすぐろく|みなぎり|わたる 「 おい 。

いるか 」 「 いる 。

何 か 考えついた かい 」 「 いい や 。 なん||かんがえついた|||

山 の 模様 は どう だい 」 「 だんだん 荒れる ばかりだ よ 」 「 今日 は 何 日 だっけ か ね 」 「 今日 は 九 月 二 日 さ 」 「 こと に よる と 二百十 日 かも 知れ ない ね 」 会話 は また 切れる 。 やま||もよう|||||あれる|||きょう||なん|ひ|だ っけ|||きょう||ここの|つき|ふた|ひ||||||にひゃくじゅう|ひ||しれ|||かいわ|||きれる 二百十 日 の 風 と 雨 と 煙り は 満 目 の 草 を 埋め尽くして 、 一 丁 先 は 靡 く 姿 さえ 、 判然と 見え ぬ ように なった 。 にひゃくじゅう|ひ||かぜ||あめ||けむり||まん|め||くさ||うずめつくして|ひと|ちょう|さき||び||すがた||はんぜんと|みえ|||

「 もう 日 が 暮れる よ 。 |ひ||くれる|

おい 。

いる かい 」 谷 の 中 の 人 は 二百十 日 の 風 に 吹き 浚 われた もの か 、 うんと も 、 す ん と も 返事 が ない 。 ||たに||なか||じん||にひゃくじゅう|ひ||かぜ||ふき|しゅん||||||||||へんじ||

阿蘇 の 御 山 は 割れる ばかりに ごうう と 鳴る 。 あそ||ご|やま||われる||||なる

碌 さん は 青く なって 、 また 草 の 上 へ 棒 の ように 腹這 に なった 。 ろく|||あおく|||くさ||うえ||ぼう|||はらばい||

「 お おおい 。

おら ん の か 」 「 お おおい 。

こっち だ 」 薄暗い 谷底 を 半 町 ばかり 登った 所 に 、 ぼんやり と 白い 者 が 動いて いる 。 ||うすぐらい|たにそこ||はん|まち||のぼった|しょ||||しろい|もの||うごいて|

手招き を して いる らしい 。 てまねき||||

「 なぜ 、 そんな 所 へ 行った んだ ああ 」 「 ここ から 上がる んだ ああ 」 「 上がれる の か ああ 」 「 上がれる から 、 早く 来 おおい 」 碌 さん は 腹 の 痛い の も 、 足 の 豆 も 忘れて 、 脱 兎 の 勢 で 飛び出した 。 ||しょ||おこなった|||||あがる|||あがれる||||あがれる||はやく|らい||ろく|||はら||いたい|||あし||まめ||わすれて|だつ|うさぎ||ぜい||とびだした

「 おい 。

ここ いらか 」 「 そこ だ 。

そこ へ 、 ちょっと 、 首 を 出して 見てくれ 」 「 こう か 。 |||くび||だして|みてくれ||

―― なるほど 、 こりゃ 大変 浅い 。 ||たいへん|あさい

これ なら 、 僕 が 蝙蝠 傘 を 上 から 出したら 、 それ へ 、 取っ捕ら まって 上がれる だろう 」 「 傘 だけ じゃ 駄目だ 。 ||ぼく||こうもり|かさ||うえ||だしたら|||と っ とら||あがれる||かさ|||だめだ 君 、 気の毒だ が ね 」 「 うん 。 きみ|きのどくだ|||

ちっとも 気の毒じゃ ない 。 |きのどくじゃ|

どう する んだ 」 「 兵 児 帯 を 解いて 、 その先 を 傘 の 柄 へ 結びつけて ―― 君 の 傘 の 柄 は 曲って る だろう 」 「 曲って る と も 。 |||つわもの|じ|おび||といて|そのさき||かさ||え||むすびつけて|きみ||かさ||え||まがって|||まがって|||

大いに 曲って る 」 「 その 曲って る 方 へ 結びつけて くれ ない か 」 「 結びつける と も 。 おおいに|まがって|||まがって||かた||むすびつけて||||むすびつける||

すぐ 結びつけて やる 」 「 結びつけたら 、 その 帯 の 端 を 上 から ぶら下げて くれた まえ 」 「 ぶら下げる と も 。 |むすびつけて||むすびつけたら||おび||はし||うえ||ぶらさげて|||ぶらさげる||

訳 は ない 。 やく||

大丈夫だ から 待って いた まえ 。 だいじょうぶだ||まって||

―― そう ら 、 長い の が 天 竺 から 、 ぶら下がったろう 」 「 君 、 しっかり 傘 を 握って い なくっちゃ いけない ぜ 。 ||ながい|||てん|じく||ぶらさがったろう|きみ||かさ||にぎって||||

僕 の 身体 は 十七 貫 六百 目 ある んだ から 」 「 何 貫 目 あったって 大丈夫だ 、 安心 して 上がり たまえ 」 「 いい かい 」 「 いい と も 」 「 そら 上がる ぜ 。 ぼく||からだ||じゅうしち|つらぬ|ろくひゃく|め||||なん|つらぬ|め|あった って|だいじょうぶだ|あんしん||あがり||||||||あがる| ―― いや 、 いけない 。

そう 、 ず り 下がって 来て は ……」 「 今度 は 大丈夫だ 。 |||さがって|きて||こんど||だいじょうぶだ

今 の は 試して 見た だけ だ 。 いま|||ためして|みた||

さあ 上がった 。 |あがった

大丈夫だ よ 」 「 君 が 滑 べ る と 、 二 人 共 落ちて しまう ぜ 」 「 だ から 大丈夫だ よ 。 だいじょうぶだ||きみ||すべ||||ふた|じん|とも|おちて|||||だいじょうぶだ|

今 の は 傘 の 持ち よう が わるかった んだ 」 「 君 、 薄 の 根 へ 足 を かけて 持ち 応えて いた まえ 。 いま|||かさ||もち|||||きみ|うす||ね||あし|||もち|こたえて||

―― あんまり 前 の 方 で 蹈 ん 張る と 、 崖 が 崩れて 、 足 が 滑 べ る よ 」 「 よし 、 大丈夫 。 |ぜん||かた||とう||はる||がけ||くずれて|あし||すべ|||||だいじょうぶ

さあ 上がった 」 「 足 を 踏ん張った かい 。 |あがった|あし||ふんばった|

どうも 今度 も あぶない ようだ な 」 「 おい 」 「 何 だい 」 「 君 は 僕 が 力 が ない と 思って 、 大 に 心配 する が ね 」 「 うん 」 「 僕 だって 一人前 の 人間 だ よ 」 「 無論 さ 」 「 無論 なら 安心 して 、 僕 に 信頼 したら よかろう 。 |こんど||||||なん||きみ||ぼく||ちから||||おもって|だい||しんぱい|||||ぼく||いちにんまえ||にんげん|||むろん||むろん||あんしん||ぼく||しんらい||

からだ は 小さい が 、 朋友 を 一 人 谷底 から 救い出す ぐらい の 事 は 出来る つもりだ 」 「 じゃ 上がる よ 。 ||ちいさい||ともとも||ひと|じん|たにそこ||すくいだす|||こと||できる|||あがる|

そらっ……」 「 そらっ…… もう 少し だ 」 豆 で 一面に 腫れ上がった 両足 を 、 うんと 薄 の 根 に 踏ん張った 碌 さん は 、 素肌 を 二百十 日 の 雨 に 曝した まま 、 海老 の ように 腰 を 曲げて 、 一生懸命に 、 傘 の 柄 に かじりついて いる 。 そら っ|そら っ||すこし||まめ||いちめんに|はれあがった|りょうあし|||うす||ね||ふんばった|ろく|||すはだ||にひゃくじゅう|ひ||あめ||さらした||えび|||こし||まげて|いっしょうけんめいに|かさ||え||| 麦藁 帽子 を 手拭 で 縛りつけた 頭 の 下 から 、 真 赤 に いきんだ 顔 が 、 八 分 通り 阿蘇 卸 ろし に 吹きつけられて 、 喰 い 締めた 反っ歯 の 上 に は よなが 容赦 なく 降って くる 。 むぎわら|ぼうし||てぬぐい||しばりつけた|あたま||した||まこと|あか|||かお||やっ|ぶん|とおり|あそ|おろし|||ふきつけ られて|しょく||しめた|はん っ は||うえ||||ようしゃ||ふって| 毛 繻子 張り 八 間 の 蝙蝠 の 柄 に は 、 幸い 太い 瘤 だらけ の 頑丈な 自然 木 が 、 付けて ある から 、 折れる 気遣 は まず ある まい 。 け|しゅす|はり|やっ|あいだ||こうもり||え|||さいわい|ふとい|こぶ|||がんじょうな|しぜん|き||つけて|||おれる|きづか||||

その 自然 木 の 彎曲 した 一端 に 、 鳴海 絞り の 兵 児 帯 が 、 薩摩 の 強 弓 に 新しく 張った 弦 の ごとく ぴんと 薄 を 押し 分けて 、 先 は 谷 の 中 に かくれて いる 。 |しぜん|き||わんきょく||いったん||なるみ|しぼり||つわもの|じ|おび||さつま||つよ|ゆみ||あたらしく|はった|げん||||うす||おし|わけて|さき||たに||なか|||

その 隠れて いる あたり から 、 しばらく する と 大きな 毬 栗 頭 が ぬっと 現われた 。 |かくれて|||||||おおきな|いが|くり|あたま||ぬ っと|あらわれた やっと 云 う 掛声 と 共に 両手 が 崖 の 縁 に かかる が 早い か 、 大 入 道 の 腰 から 上 は 、 斜めに 尻 に 挿した 蝙蝠 傘 と 共に 谷 から 上 へ 出た 。 |うん||かけごえ||ともに|りょうて||がけ||えん||||はやい||だい|はい|どう||こし||うえ||ななめに|しり||さした|こうもり|かさ||ともに|たに||うえ||でた

同時に 碌 さん は 、 ど さん と 仰向き に なって 、 薄 の 底 に 倒れた 。 どうじに|ろく||||||あおむき|||うす||そこ||たおれた