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野分 夏目漱石, 「十二」 野分 夏目漱石

「十二 」 野 分 夏目 漱石

十二

「 ちっと は 、 好 い 方 か ね 」 と 枕元 へ 坐る 。 六 畳 の 座敷 は 、 畳 が ほ け て 、 とんと 打ったら 夜 でも 埃 り が 見え そうだ 。 宮島 産 の 丸 盆 に 薬 瓶 と 験 温 器 が いっしょに 乗って いる 。 高柳 君 は 演説 を 聞いて 帰って から 、 とうとう 喀血 して しまった 。 「 今日 は だいぶ いい 」 と 床 の 上 に 起き 返って 後 から 掻 巻 を 背 の 半分 まで かけて いる 。 中野 君 は 大島 紬 の 袂 から 魯西亜 皮 ( ロシア が わ ) の 巻 莨入 を 出し かけた が 、 「 うん 、 煙草 を 飲んじゃ 、 わるかった ね 」 と また 袂 の なか へ 落す 。 「 な に 構わ ない 。 どうせ 煙草 ぐらい で 癒 りゃ し ない んだ から 」 と 憮然と して いる 。 「 そう で ない よ 。 初 が 肝心だ 。 今 の うち 養生 し ない と いけない 。 昨日 医者 へ 行って 聞いて 見た が 、 なに 心配 する ほど の 事 も ない 。 来 たかい 医者 は 」 「 今朝 来た 。 暖かに して いろ と 云った 」 「 うん 。 暖かに して いる が いい 。 この 室 は 少し 寒い ねえ 」 と 中野 君 は 侘 し 気 に 四方 を 見 廻した 。 「 あの 障子 なんか 、 宿 の 下 女 に でも 張ら したら よかろう 。 風 が 這 入って 寒い だろう 」 「 障子 だけ 張ったって ……」 「 転地 でも したら どう だい 」 「 医者 も そう 云 うんだ が 」 「 それ じゃ 、 行く が いい 。 今朝 そう 云った の か ね 」 「 うん 」 「 それ から 君 は 何と 答えた 」 「 何と 答えるったって 、 別に 答えよう も ない から ……」 「 行けば いい じゃ ない か 」 「 行けば いい だろう が 、 ただ は いか れ ない 」 高柳 君 は 元気 の ない 顔 を して 、 自分 の 膝頭 へ 眼 を 落した 。 瓦 斯双 子 ( ガス ふた こ ) の 端 から 鼠色 の フラネル が 二 寸 ばかり 食み出して いる 。 寸法 も 取ら ず 別々に 仕立てた もの だろう 。 「 それ は 心配 する 事 は ない 。 僕 が どうかする 」 高柳 君 は 潤 の ない 眼 を 膝 から 移して 、 中野 君 の 幸福な 顔 を 見た 。 この 顔 しだい で 返答 は きまる 。 「 僕 が どうかする よ 。 何 だって 、 そんな 眼 を して 見る んだ 」 高柳 君 は 自分 の 心 が 自分 の 両眼 から 、 外 を 覗いて いた のだ な と 急に 気 が ついた 。 「 君 に 金 を 借りる の か 」 「 借り ない でも いい さ ……」 「 貰う の か 」 「 どうでも いい さ 。 そんな 事 を 気 に 掛ける 必要 は ない 」 「 借りる の は いやだ 」 「 じゃ 借り なくって も いい さ 」 「 しかし 貰う 訳 に は 行か ない 」 「 六 ず か しい 男 だ ね 。 何 だって そんなに やかましく いう のだ い 。 学校 に いる 時分 は 、 よく 君 の 方 から 金 を 借 せ の 、 西洋 料理 を 奢 れ の と せびった じゃ ない か 」 「 学校 に いた 時分 は 病気 な ん ぞ ありゃ し なかった よ 」 「 平生 で すら 、 そう なら 病気 の 時 は なおさら だ 。 病気 の 時 に 友達 が 世話 を する の は 、 誰 から 云ったって おかしく は ない はずだ 」 「 そりゃ 世話 を する 方 から 云 えば そうだろう 」 「 じゃ 君 は 何 か 僕 に 対して 不平 な 事 で も ある の かい 」 「 不平 は ない さ ありがたい と 思って る くらい だ 」 「 それ じゃ 心 快く 僕 の 云 う 事 を 聞いて くれて も よかろう 。 自分 で 不愉快 の 眼鏡 を 掛けて 世の中 を 見て 、 見られる 僕ら まで を 不愉快に する 必要 は ない じゃ ない か 」 高柳 君 は しばらく 返事 を し ない 。 なるほど 自分 は 世の中 を 不愉快に する ため に 生きて る の かも 知れ ない 。 どこ へ 出て も 好か れた 事 が ない 。 どうせ 死ぬ のだ から 、 なまじ い 人 の 情 を 恩 に 着る の は かえって 心苦しい 。 世の中 を 不愉快に する くらい な 人間 ならば 、 中野 一 人 を 愉快に して やったって 五十 歩 百 歩 だ 。 世の中 を 不愉快に する くらい な 人間 なら 、 また 一 日 も 早く 死ぬ 方 が ましである 。 「 君 の 親切 を 無にして は 気の毒だ が 僕 は 転地 なんか 、 し たく ない んだ から 勘弁 して くれ 」 「 また そんな わからずや を 云 う 。 こう 云 う 病気 は 初期 が 大切だ よ 。 時期 を 失する と 取り返し が つか ない ぜ 」 「 もう 、 とうに 取り返し が つか ない んだ 」 と 山 の 上 から 飛び 下りた ような 事 を 云 う 。 「 それ が 病気 だ よ 。 病気 の せい で そう 悲観 する んだ 」 「 悲観 するって 希望 の ない もの は 悲観 する の は 当り前だ 。 君 は 必要 が ない から 悲観 し ない のだ 」 「 困った 男 だ なあ 」 と しばらく 匙 を 投げて 、 すい と 起って 障子 を あける 。 例の 梧桐 が 坊主 の 枝 を 真 直 に 空 に 向って 曝して いる 。 「 淋しい 庭 だ なあ 。 桐 が 裸 で 立って いる 」 「 この 間 まで 葉 が 着いて た んだ が 、 早い もの だ 。 裸 の 桐 に 月 が さす の を 見た 事 が ある かい 。 凄い 景色 だ 」 「 そう だろう 。 ―― しかし 寒い のに 夜 る 起きる の は よく ない ぜ 。 僕 は 冬 の 月 は 嫌だ 。 月 は 夏 が いい 。 夏 の いい 月夜 に 屋根 舟 に 乗って 、 隅田 川 から 綾瀬 の 方 へ 漕が して 行って 銀 扇 を 水 に 流して 遊んだら 面白い だろう 」 「 気楽 云って ら あ 。 銀 扇 を 流す た どう する ん だい 」 「 銀 泥 を 置いた 扇 を 何 本 も 舟 へ 乗せて 、 月 に 向って 投げる の さ 。 きらきら して 奇麗だろう 」 「 君 の 発明 かい 」 「 昔 し の 通 人 は そんな 風流 を して 遊んだ そうだ 」 「 贅沢な 奴 ら だ 」 「 君 の 机 の 上 に 原稿 が ある ね 。 やっぱり 地理 学 教授 法 か 」 「 地理 学 教授 法 は やめた さ 。 病気 に なって 、 あんな つまら ん もの が やれる もの か 」 「 じゃ 何 だい 」 「 久しく 書き かけて 、 それなり に して 置いた もの だ 」 「 あの 小説 か 。 君 の 一 代 の 傑作 か 。 いよいよ 完成 する つもりな の かい 」 「 病気 に なる と 、 なお やり たく なる 。 今 まで は ひまに なったら と 思って いた が 、 もう それ まで 待っちゃ いられ ない 。 死ぬ 前 に 是非 書き上げ ない と 気 が 済まない 」 「 死ぬ 前 は 過激な 言葉 だ 。 書く の は 賛成 だ が 、 あまり 凝る と かえって 身体 が わるく なる 」 「 わるく なって も 書けりゃ いい が 、 書け ない から 残念で たまらない 。 昨夜 は 続き を 三十 枚 か いた 夢 を 見た 」 「 よっぽど 書きたい のだ と 見える ね 」 「 書きたい さ 。 これ でも 書か なくっちゃ 何の ため に 生れて 来た の か わから ない 。 それ が 書け ない とき まった 以上 は 穀潰 し 同然だ さ 。 だから 君 の 厄介に まで なって 、 転地 する が もの は ない んだ 」 「 それ で 転地 する の が いやな の か 」 「 まあ 、 そう さ 」 「 そう か 、 それ じゃ 分った 。 うん 、 そう 云 う つもりな の か 」 と 中野 君 は しばらく 考えて いた が 、 やがて 「 それ じゃ 、 君 は 無意味に 人 の 世話に なる の が 厭 なんだろう から 、 そこ の ところ を 有 意味 に し ようじゃ ない か 」 と 云 う 。 「 どう する んだ 」 「 君 の 目下 の 目的 は 、 かねて 腹案 の ある 述作 を 完成 しよう と 云 う のだろう 。 だから それ を 条件 に して 僕 が 転地 の 費用 を 担任 し ようじゃ ない か 。 逗子 でも 鎌倉 でも 、 熱海 でも 君 の 好 な 所 へ 往って 、 呑気 に 養生 する 。 ただ 人 の 金 を 使って 呑気 に 養生 する だけ で は 心 が 済まない 。 だから 療養 かたがた 気 が 向いた 時 に 続き を かくさ 。 そうして 身体 が よく なって 、 作 が 出来上ったら 帰って くる 。 僕 は 費用 を 担任 した 代り 君 に 一 大 傑作 を 世間 へ 出して 貰う 。 どう だい 。 それ なら 僕 の 主 意 も 立ち 、 君 の 望 も 叶う 。 一挙両得 じゃ ない か 」 高柳 君 は 膝頭 を 見詰めて 考えて いた 。 「 僕 が 君 の 所 へ 、 僕 の 作 を 持って行けば 、 僕 の 君 に 対する 責任 は 済む 訳 な んだ ね 」 「 そう さ 。 同時に 君 が 天下 に 対する 責任 の 一 分 が 済む ように なる の さ 」 「 じゃ 、 金 を 貰おう 。 貰いっ放し に 死んで しまう かも 知れ ない が ―― いい や 、 まあ 、 死ぬ まで 書いて 見よう ―― 死ぬ まで 書いたら 書け ない 事 も なかろう 」 「 死ぬ まで かいちゃ 大変だ 。 暖かい 相 州 辺 へ 行って 気 を 楽に して 、 時々 一 頁 二 頁 ずつ 書く ―― 僕 の 条件 に 期限 は ない んだ ぜ 、 君 」 「 うん 、 よし きっと 書いて 持って行く 。 君 の 金 を 使って 茫然と して いちゃ 済まない 」 「 そんな 済む の 済まない の と 考えて ちゃ いけない 」 「 うん 、 よし 分った 。 ともかくも 転地 しよう 。 明日 から 行こう 」 「 だいぶ 早い な 。 早い 方 が いい だろう 。 いくら 早くって も 構わ ない 。 用意 は ちゃんと 出来て る んだ から 」 と 懐中 から 七子 の 三 折れ の 紙 入 を 出して 、 中 から 一 束 の 紙幣 を つかみ 出す 。 「 ここ に 百 円 ある 。 あと は また 送る 。 これ だけ あったら 当分 は いい だろう 」 「 そんなに いる もの か 」 「 なに これ だけ 持って行く が いい 。 実は これ は 妻 の 発議 だ よ 。 妻 の 好意 だ と 思って 持って行って くれた まえ 」 「 それ じゃ 、 百 円 だけ 持って行く か 」 「 持って行く が いい と も 。 せっかく 包んで 来た んだ から 」 「 じゃ 、 置いて 行って くれた まえ 」 「 そこ で と 、 じゃ 明日 立つ ね 。 場所 か ? 場所 は どこ でも いい さ 。 君 の 気 の 向いた 所 が よかろう 。 向 へ 着いて から ちょっと 手紙 を 出して くれれば いい よ 。 ―― 護送 する ほど の 大 病人 で も ない から 僕 は 停車場 へ も 行か ない よ 。 ―― ほか に 用 は なかった か な 。 ―― なに 少し 急ぐ んだ 。 実は 今日 は 妻 を 連れて 親類 へ 行く 約束 が ある んで 、 待って る から 、 僕 は 失敬 し なくっちゃ なら ない 」 「 そう か 、 もう 帰る か 。 それ じゃ 奥さん に よろしく 」 中野 君 は 欣然 と して 帰って 行く 。 高柳 君 は 立って 、 着物 を 着 換えた 。 百 円 の 金 は 聞いた 事 が ある 。 が 見た の は これ が 始めて である 。 使う の は もちろん の 事 始めて である 。 かねて から 自分 を 代表 する ほど の 作物 を 何 か 書いて 見たい と 思う ていた 。 生活 難 の 合間 合間 に 一 頁 二 頁 と 筆 を 執った 事 は ある が 、 興 が 催す と 、 すぐ やめ ねば なら ぬ ほど 、 饑 は 寒 は 容赦 なく われ を 追う て くる 。 この 容子 で は 当分 仕事 らしい 仕事 は 出来 そう も ない 。 ただ 地理 学 教授 法 を 訳して 露 命 を 繋いで いる ようで は 馬車 馬 が 秣 を 食って 終日 馳 け あるく と 変り は な さ そうだ 。 おれ に は おれ が ある 。 この おれ を 出さ ないで ぶらぶら と 死んで しまう の は もったいない 。 のみ なら ず 親 の 手前 世間 の 手前 面目ない 。 人 から 土偶 の ように う とまれる の も 、 この おれ を 出す 機会 が なくて 、 鈍 根 に さえ 立派に 出来る 翻訳 の 下働き など で 日 を 暮らして いる から である 。 どうしても 無念だ 。 石 に 噛みついて も と 思う 矢先 に 道也 の 演説 を 聞いて 床 に ついた 。 医者 は 大胆に も 結核 の 初期 だ と 云 う 。 いよいよ 結核 なら 、 とても 助から ない 。 命 の ある うち に と また 旧 稿 に 向って 見た が 、 綯 る 縄 は 遅く 、 逃げる 泥棒 は 早い 。 何一つ 見 や げ も 置か ないで 、 消えて 行く か と 思う と 、 熱 さえ 余計に 出る 。 これ 一 つ 纏めれば 死んで も 言訳 は 立つ 。 立つ 言訳 を 作る に は 手当 も しなければ なら ん 。 今 の 百 円 は 他日 の 万 金 より も 貴い 。 百 円 を 懐 に して 室 の なか を 二 度 三 度 廻る 。 気分 も 爽 か に 胸 も 涼しい 。 たちまち 思い切った ように 帽 を 取って 師走 の 市 に 飛び出した 。 黄昏 の 神楽坂 を 上る と 、 もう 五 時 に 近い 。 気 の 早い 店 で は 、 はや 瓦 斯 ( ガス ) を 点じて いる 。 毘沙 門 の 提灯 は 年 内 に 張りかえ ぬ つもり か 、 色 が 褪 め て 暗い なか で 揺れて いる 。 門前 の 屋台 で 職人 が 手拭 を 半 襷 に とって 、 しきりに 寿司 を 握って いる 。 露店 の 三 馬 は 光る ほど に 色 が 寒い 。 黒 足袋 を 往来 へ 並べて 、 頬被り に 懐手 を した の が ある 。 あれ でも 足袋 は 売れる か しら ん 。 今川 焼 は 一 銭 に 三 つ で 婆さん の 自 製 に かかる 。 六 銭 五 厘 の 万年筆 は 安 過ぎる と 思う 。 世 は 様々だ 、 今 ここ を 通って いる おれ は 、 翌 の 朝 に なる と 、 もう 五六十 里 先 へ 飛んで 行く 。 と は 寿司 屋 の 職人 も 今川 焼 の 婆さん も 夢にも 知る まい 。 それ から 、 この 百 円 を 使い切る と 金 の 代り に 金 より 貴い ある もの を 懐 に して また 東京 へ 帰って 来る 。 と も 誰 も 思う もの は ある まい 。 世 は 様々である 。 道也 先生 に 逢って 、 実は これ これ だ と 云ったら 先生 は そう か と 微笑 する だろう 。 あす 立ちます と 云ったら あるいは 驚 ろく だろう 。 一世一代 の 作 を 仕上げて かえる つもりだ と 云ったら さぞ 喜ぶ であろう 。 ―― 空想 は 空想 の 子 である 。 もっとも 繁殖 力 に 富む もの を 脳裏 に 植えつけた 高柳 君 は 、 病 の 身 に ある 事 を 忘れて 、 いつの間にか 先生 の 門口 に 立った 。 誰 か 来客 の ようである が 、 せっかく 来た の を と わざと 遠慮 を 抜いて 「 頼む 」 と 声 を かけて 見た 。 「 どなた 」 と 奥 から 云 うの は 先生 自身 である 。 「 私 です 。 高柳 ……」 「 は あ 、 御 這 入り 」 と 云った なり 、 出て くる 景色 も ない 。 高柳 君 は 玄関 から 客間 へ 通る 。 推察 の 通り 先客 が いた 。 市 楽 の 羽織 に 、 くすんだ 縞 もの を 着て 、 帯 の 紋 博多 だけ が いちじるしく 眼 立つ 。 額 の 狭い 頬 骨 の 高い 、 鈍 栗 眼 である 。 高柳 君 は 先生 に 挨拶 を 済ました 、 あと で 鈍 栗 に 黙礼 を した 。 「 どう しました 。 だいぶ 遅く 来ました ね 。 何 か 用 でも ……」 「 いいえ 、 ちょっと ―― 実は 御 暇乞 に 上がりました 」 「 御 暇乞 ? 田舎 の 中学 へ でも 赴任 する んです か 」 間 の 襖 を あけて 、 細 君 が 茶 を 持って 出る 。 高柳 君 と 御辞儀 の 交換 を して 居間 へ 退く 。 「 いえ 、 少し 転地 しよう か と 思い まして 」 「 それ じゃ 身体 でも 悪い んです ね 」 「 大した 事 も なかろう と 思います が 、 だんだん 勧める 人 も あります から 」 「 うん 。 わるけりゃ 、 行く が いい です と も 。 いつ ? あした ? そう です か 。 それ じゃ まあ 緩く り 話した まえ 。 ―― 今 ちょっと 用 談 を 済まして しまう から 」 と 道也 先生 は 鈍 栗 の 方 へ 向いた 。 「 それ で 、 どうも 御 気の毒だ が ―― 今 申す 通り の 事情 だ から 、 少し 待って くれません か 」 「 それ は 待って 上げたい のです 。 しかし 私 の 方 の 都合 も あり まして 」 「 だから 利子 を 上げれば いい でしょう 。 利子 だけ 取って 元金 は 春 まで 猶予 して くれません か 」 「 利子 は 今 まで でも 滞り なく ちょうだい して おります から 、 利子 さえ 取れれば 好 い 金 なら 、 いつまで でも 御 用立てて 置きたい のです が ……」 「 そう は いかんでしょう か 」 「 せっかく の 御 頼 だ から 、 出来れば 、 そう したい のです が ……」 「 いけません か 」 「 どうも まことに 御 気の毒で ……」 「 どうしても 、 いかんです か 」 「 どう あって も 百 円 だけ 拵えて いただか なくっちゃ なら ん ので 」 「 今夜 中 に です か 」 「 ええ 、 まあ 、 そう です な 。 昨日 が 期限 でした ね 」 「 期限 の 切れた の は 知って る です 。 それ を 忘れる ような 僕 じゃ ない 。 だから いろいろ 奔走 して 見た んだ が 、 どうも 出来 ない から 、 わざわざ 君 の 所 へ 使 を あげた のです 」 「 ええ 、 御 手紙 は たしかに 拝見 しました 。 何 か 御 著述 が ある そうで 、 それ を 本屋 の 方 へ 御 売渡し に なる まで 延期 の 御 申込 でした 」 「 さよう 」 「 ところが で すて 、 この 金 の 性質 が で すて ―― ただ 利子 を 生ま せる 目的 で ない もの です から ―― 実は 年 末 に は 是非 入用だ が と 念 を 押して 御 兄さん に 伺った くらい な のです 。 ところが 御 兄さん が 、 いや そりゃ 大丈夫 、 ほか の もの なら 知ら ない が 、 弟 に 限って けっして 、 そんな 不都合 は ない 。 受 合う 。 と おっしゃる もの です から 、 それ で 私 も 安心 して 御 用立て 申した ので ―― 今に なって 御 違約 で は はなはだ 迷惑 します 」 道也 先生 は 黙 然 と して いる 。 鈍 栗 は 煙草 を す ぱす ぱ 呑 む 。 「 先生 」 と 高柳 君 が 突然 横合 から 口 を 出した 。 「 ええ 」 と 道也 先生 は 、 こっち を 向く 。 別段 赤面 した 様子 も 見え ない 。 赤面 する くらい なら 用 談 中 と 云って 面会 を 謝絶 する はずである 。 「 御 話し 中 はなはだ 失礼です が 。 ちょっと 伺って も 、 よう ございましょう か 」 「 ええ 、 いい です 。 何 です か 」 「 先生 は 今 御 著作 を なさった と 承 わりました が 、 失礼です が 、 その 原稿 を 見せて いただく 訳 に は 行きます まい か 」 「 見る なら 御覧 、 待って る うち 、 読む のです か 」 高柳 君 は 黙って いる 。 道也 先生 は 立って 、 床の間 に 積みかさねた 書籍 の 間 から 、 厚 さ 三 寸 ほど の 原稿 を 取り出して 、 青年 に 渡し ながら 「 見て 御覧 」 と いう 。 表紙 に は 人格 論 と 楷書 で かいて ある 。 「 ありがとう 」 と 両手 に 受けた 青年 は 、 しばし この 人格 論 の 三 字 を しけ じ け と 眺めて いた が 、 やがて 眼 を 挙げて 鈍 栗 の 方 を 見た 。 「 君 、 この 原稿 を 百 円 に 買って 上げません か 」 「 エヘヘヘヘ 。 私 は 本屋 じゃ ありません 」 「 じゃ 買わ ないで すね 」 「 エヘヘヘ 御 冗談 を 」 「 先生 」 「 何 です か 」 「 この 原稿 を 百 円 で 私 に 譲って 下さい 」 「 その 原稿 ? ……」 「 安 過ぎる でしょう 。 何 万 円 だって 安 過ぎる の は 知っています 。 しかし 私 は 先生 の 弟子 だ から 百 円 に 負けて 譲って 下さい 」 道也 先生 は 茫然と して 青年 の 顔 を 見守って いる 。 「 是非 譲って 下さい 。 ―― 金 は ある んです 。 ―― ちゃんと ここ に 持って います 。 ―― 百 円 ちゃん と あります 」 高柳 君 は 懐 から 受取った まま の 金 包 を 取り出して 、 二 人 の 間 に 置いた 。 「 君 、 そんな 金 を 僕 が 君 から ……」 と 道也 先生 は 押し 返そう と する 。 「 いいえ 、 いい んです 。 好 い から 取って 下さい 。 ―― いや 間違った んです 。 是非 この 原稿 を 譲って 下さい 。 ―― 先生 私 は あなた の 、 弟子 です 。 ―― 越後 の 高田 で 先生 を いじめて 追い出した 弟子 の 一 人 です 。 ―― だ から 譲って 下さい 」 愕然たる 道也 先生 を 残して 、 高柳 君 は 暗き 夜 の 中 に 紛れ 去った 。 彼 は 自己 を 代表 す べき 作物 を 転地 先 より もたらし 帰る 代り に 、 より 偉大なる 人格 論 を 懐 に して 、 これ を わが 友 中野 君 に 致し 、 中野 君 と その 細 君 の 好意 に 酬 いん と する のである 。


「十二 」 野 分 夏目 漱石 じゅうに|の|ぶん|なつめ|そうせき 《十二》野分夏目漱石

十二 じゅうに

「 ちっと は 、 好 い 方 か ね 」 と 枕元 へ 坐る 。 ち っと||よしみ||かた||||まくらもと||すわる 六 畳 の 座敷 は 、 畳 が ほ け て 、 とんと 打ったら 夜 でも 埃 り が 見え そうだ 。 むっ|たたみ||ざしき||たたみ||||||うったら|よ||ほこり|||みえ|そう だ 宮島 産 の 丸 盆 に 薬 瓶 と 験 温 器 が いっしょに 乗って いる 。 みやじま|さん||まる|ぼん||くすり|びん||げん|ぬる|うつわ|||のって| 高柳 君 は 演説 を 聞いて 帰って から 、 とうとう 喀血 して しまった 。 たかやなぎ|きみ||えんぜつ||きいて|かえって|||かっけつ|| 「 今日 は だいぶ いい 」 と 床 の 上 に 起き 返って 後 から 掻 巻 を 背 の 半分 まで かけて いる 。 きょう|||||とこ||うえ||おき|かえって|あと||か|かん||せ||はんぶん||| 中野 君 は 大島 紬 の 袂 から 魯西亜 皮 ( ロシア が わ ) の 巻 莨入 を 出し かけた が 、 「 うん 、 煙草 を 飲んじゃ 、 わるかった ね 」 と また 袂 の なか へ 落す 。 なかの|きみ||おおしま|つむぎ||たもと||ろしあ|かわ|ろしあ||||かん|たばこにゅう||だし||||たばこ||のんじゃ|||||たもと||||おとす 「 な に 構わ ない 。 ||かまわ| どうせ 煙草 ぐらい で 癒 りゃ し ない んだ から 」 と 憮然と して いる 。 |たばこ|||いや|||||||ぶぜんと|| 「 そう で ない よ 。 初 が 肝心だ 。 はつ||かんじんだ 今 の うち 養生 し ない と いけない 。 いま|||ようじょう|||| 昨日 医者 へ 行って 聞いて 見た が 、 なに 心配 する ほど の 事 も ない 。 きのう|いしゃ||おこなって|きいて|みた|||しんぱい||||こと|| 来 たかい 医者 は 」 「 今朝 来た 。 らい||いしゃ||けさ|きた 暖かに して いろ と 云った 」 「 うん 。 あたたかに||||うん った| 暖かに して いる が いい 。 あたたかに|||| この 室 は 少し 寒い ねえ 」 と 中野 君 は 侘 し 気 に 四方 を 見 廻した 。 |しつ||すこし|さむい|||なかの|きみ||た||き||しほう||み|まわした 「 あの 障子 なんか 、 宿 の 下 女 に でも 張ら したら よかろう 。 |しょうじ||やど||した|おんな|||はら|| 風 が 這 入って 寒い だろう 」 「 障子 だけ 張ったって ……」 「 転地 でも したら どう だい 」 「 医者 も そう 云 うんだ が 」 「 それ じゃ 、 行く が いい 。 かぜ||は|はいって|さむい||しょうじ||はった って|てんち|||||いしゃ|||うん|||||いく|| 今朝 そう 云った の か ね 」 「 うん 」 「 それ から 君 は 何と 答えた 」 「 何と 答えるったって 、 別に 答えよう も ない から ……」 「 行けば いい じゃ ない か 」 「 行けば いい だろう が 、 ただ は いか れ ない 」 高柳 君 は 元気 の ない 顔 を して 、 自分 の 膝頭 へ 眼 を 落した 。 けさ||うん った|||||||きみ||なんと|こたえた|なんと|こたえる った って|べつに|こたえよう||||いけば|||||いけば|||||||||たかやなぎ|きみ||げんき|||かお|||じぶん||ひざがしら||がん||おとした 瓦 斯双 子 ( ガス ふた こ ) の 端 から 鼠色 の フラネル が 二 寸 ばかり 食み出して いる 。 かわら|しそう|こ|がす||||はし||ねずみいろ||||ふた|すん||はみだして| 寸法 も 取ら ず 別々に 仕立てた もの だろう 。 すんぽう||とら||べつべつに|したてた|| 「 それ は 心配 する 事 は ない 。 ||しんぱい||こと|| 僕 が どうかする 」 高柳 君 は 潤 の ない 眼 を 膝 から 移して 、 中野 君 の 幸福な 顔 を 見た 。 ぼく||どうか する|たかやなぎ|きみ||じゅん|||がん||ひざ||うつして|なかの|きみ||こうふくな|かお||みた この 顔 しだい で 返答 は きまる 。 |かお|||へんとう|| 「 僕 が どうかする よ 。 ぼく||どうか する| 何 だって 、 そんな 眼 を して 見る んだ 」 高柳 君 は 自分 の 心 が 自分 の 両眼 から 、 外 を 覗いて いた のだ な と 急に 気 が ついた 。 なん|||がん|||みる||たかやなぎ|きみ||じぶん||こころ||じぶん||りょうがん||がい||のぞいて|||||きゅうに|き|| 「 君 に 金 を 借りる の か 」 「 借り ない でも いい さ ……」 「 貰う の か 」 「 どうでも いい さ 。 きみ||きむ||かりる|||かり|||||もらう||||| そんな 事 を 気 に 掛ける 必要 は ない 」 「 借りる の は いやだ 」 「 じゃ 借り なくって も いい さ 」 「 しかし 貰う 訳 に は 行か ない 」 「 六 ず か しい 男 だ ね 。 |こと||き||かける|ひつよう|||かりる|||||かり|なく って|||||もらう|やく|||いか||むっ||||おとこ|| 何 だって そんなに やかましく いう のだ い 。 なん|||||| 学校 に いる 時分 は 、 よく 君 の 方 から 金 を 借 せ の 、 西洋 料理 を 奢 れ の と せびった じゃ ない か 」 「 学校 に いた 時分 は 病気 な ん ぞ ありゃ し なかった よ 」 「 平生 で すら 、 そう なら 病気 の 時 は なおさら だ 。 がっこう|||じぶん|||きみ||かた||きむ||かり|||せいよう|りょうり||しゃ||||||||がっこう|||じぶん||びょうき||||||||へいぜい|||||びょうき||じ||| 病気 の 時 に 友達 が 世話 を する の は 、 誰 から 云ったって おかしく は ない はずだ 」 「 そりゃ 世話 を する 方 から 云 えば そうだろう 」 「 じゃ 君 は 何 か 僕 に 対して 不平 な 事 で も ある の かい 」 「 不平 は ない さ ありがたい と 思って る くらい だ 」 「 それ じゃ 心 快く 僕 の 云 う 事 を 聞いて くれて も よかろう 。 びょうき||じ||ともだち||せわ|||||だれ||うん った って||||||せわ|||かた||うん||そう だろう||きみ||なん||ぼく||たいして|ふへい||こと||||||ふへい||||||おもって||||||こころ|こころよく|ぼく||うん||こと||きいて||| 自分 で 不愉快 の 眼鏡 を 掛けて 世の中 を 見て 、 見られる 僕ら まで を 不愉快に する 必要 は ない じゃ ない か 」 高柳 君 は しばらく 返事 を し ない 。 じぶん||ふゆかい||めがね||かけて|よのなか||みて|み られる|ぼくら|||ふゆかいに||ひつよう||||||たかやなぎ|きみ|||へんじ||| なるほど 自分 は 世の中 を 不愉快に する ため に 生きて る の かも 知れ ない 。 |じぶん||よのなか||ふゆかいに||||いきて||||しれ| どこ へ 出て も 好か れた 事 が ない 。 ||でて||すか||こと|| どうせ 死ぬ のだ から 、 なまじ い 人 の 情 を 恩 に 着る の は かえって 心苦しい 。 |しぬ|||||じん||じょう||おん||きる||||こころぐるしい 世の中 を 不愉快に する くらい な 人間 ならば 、 中野 一 人 を 愉快に して やったって 五十 歩 百 歩 だ 。 よのなか||ふゆかいに||||にんげん||なかの|ひと|じん||ゆかいに||やった って|ごじゅう|ふ|ひゃく|ふ| 世の中 を 不愉快に する くらい な 人間 なら 、 また 一 日 も 早く 死ぬ 方 が ましである 。 よのなか||ふゆかいに||||にんげん|||ひと|ひ||はやく|しぬ|かた|| 「 君 の 親切 を 無にして は 気の毒だ が 僕 は 転地 なんか 、 し たく ない んだ から 勘弁 して くれ 」 「 また そんな わからずや を 云 う 。 きみ||しんせつ||むにして||きのどくだ||ぼく||てんち|||||||かんべん|||||||うん| こう 云 う 病気 は 初期 が 大切だ よ 。 |うん||びょうき||しょき||たいせつだ| 時期 を 失する と 取り返し が つか ない ぜ 」 「 もう 、 とうに 取り返し が つか ない んだ 」 と 山 の 上 から 飛び 下りた ような 事 を 云 う 。 じき||しっする||とりかえし|||||||とりかえし||||||やま||うえ||とび|おりた||こと||うん| 「 それ が 病気 だ よ 。 ||びょうき|| 病気 の せい で そう 悲観 する んだ 」 「 悲観 するって 希望 の ない もの は 悲観 する の は 当り前だ 。 びょうき|||||ひかん|||ひかん|する って|きぼう|||||ひかん||||あたりまえだ 君 は 必要 が ない から 悲観 し ない のだ 」 「 困った 男 だ なあ 」 と しばらく 匙 を 投げて 、 すい と 起って 障子 を あける 。 きみ||ひつよう||||ひかん||||こまった|おとこ|||||さじ||なげて|||おこって|しょうじ|| 例の 梧桐 が 坊主 の 枝 を 真 直 に 空 に 向って 曝して いる 。 れいの|ごきり||ぼうず||えだ||まこと|なお||から||むかい って|さらして| 「 淋しい 庭 だ なあ 。 さびしい|にわ|| 桐 が 裸 で 立って いる 」 「 この 間 まで 葉 が 着いて た んだ が 、 早い もの だ 。 きり||はだか||たって|||あいだ||は||ついて||||はやい|| 裸 の 桐 に 月 が さす の を 見た 事 が ある かい 。 はだか||きり||つき|||||みた|こと||| 凄い 景色 だ 」 「 そう だろう 。 すごい|けしき||| ―― しかし 寒い のに 夜 る 起きる の は よく ない ぜ 。 |さむい||よ||おきる||||| 僕 は 冬 の 月 は 嫌だ 。 ぼく||ふゆ||つき||いやだ 月 は 夏 が いい 。 つき||なつ|| 夏 の いい 月夜 に 屋根 舟 に 乗って 、 隅田 川 から 綾瀬 の 方 へ 漕が して 行って 銀 扇 を 水 に 流して 遊んだら 面白い だろう 」 「 気楽 云って ら あ 。 なつ|||つきよ||やね|ふね||のって|すみた|かわ||あやせ||かた||こが||おこなって|ぎん|おうぎ||すい||ながして|あそんだら|おもしろい||きらく|うん って|| 銀 扇 を 流す た どう する ん だい 」 「 銀 泥 を 置いた 扇 を 何 本 も 舟 へ 乗せて 、 月 に 向って 投げる の さ 。 ぎん|おうぎ||ながす||||||ぎん|どろ||おいた|おうぎ||なん|ほん||ふね||のせて|つき||むかい って|なげる|| きらきら して 奇麗だろう 」 「 君 の 発明 かい 」 「 昔 し の 通 人 は そんな 風流 を して 遊んだ そうだ 」 「 贅沢な 奴 ら だ 」 「 君 の 机 の 上 に 原稿 が ある ね 。 ||きれいだろう|きみ||はつめい||むかし|||つう|じん|||ふうりゅう|||あそんだ|そう だ|ぜいたくな|やつ|||きみ||つくえ||うえ||げんこう||| やっぱり 地理 学 教授 法 か 」 「 地理 学 教授 法 は やめた さ 。 |ちり|まな|きょうじゅ|ほう||ちり|まな|きょうじゅ|ほう||| 病気 に なって 、 あんな つまら ん もの が やれる もの か 」 「 じゃ 何 だい 」 「 久しく 書き かけて 、 それなり に して 置いた もの だ 」 「 あの 小説 か 。 びょうき||||||||||||なん||ひさしく|かき|||||おいた||||しょうせつ| 君 の 一 代 の 傑作 か 。 きみ||ひと|だい||けっさく| いよいよ 完成 する つもりな の かい 」 「 病気 に なる と 、 なお やり たく なる 。 |かんせい|||||びょうき||||||| 今 まで は ひまに なったら と 思って いた が 、 もう それ まで 待っちゃ いられ ない 。 いま||||||おもって||||||まっちゃ|いら れ| 死ぬ 前 に 是非 書き上げ ない と 気 が 済まない 」 「 死ぬ 前 は 過激な 言葉 だ 。 しぬ|ぜん||ぜひ|かきあげ|||き||すまない|しぬ|ぜん||かげきな|ことば| 書く の は 賛成 だ が 、 あまり 凝る と かえって 身体 が わるく なる 」 「 わるく なって も 書けりゃ いい が 、 書け ない から 残念で たまらない 。 かく|||さんせい||||こる|||からだ|||||||かけりゃ|||かけ|||ざんねんで| 昨夜 は 続き を 三十 枚 か いた 夢 を 見た 」 「 よっぽど 書きたい のだ と 見える ね 」 「 書きたい さ 。 さくや||つづき||さんじゅう|まい|||ゆめ||みた||かき たい|||みえる||かき たい| これ でも 書か なくっちゃ 何の ため に 生れて 来た の か わから ない 。 ||かか||なんの|||うまれて|きた|||| それ が 書け ない とき まった 以上 は 穀潰 し 同然だ さ 。 ||かけ||||いじょう||こくつぶす||どうぜんだ| だから 君 の 厄介に まで なって 、 転地 する が もの は ない んだ 」 「 それ で 転地 する の が いやな の か 」 「 まあ 、 そう さ 」 「 そう か 、 それ じゃ 分った 。 |きみ||やっかいに|||てんち|||||||||てんち||||||||||||||ぶん った うん 、 そう 云 う つもりな の か 」 と 中野 君 は しばらく 考えて いた が 、 やがて 「 それ じゃ 、 君 は 無意味に 人 の 世話に なる の が 厭 なんだろう から 、 そこ の ところ を 有 意味 に し ようじゃ ない か 」 と 云 う 。 ||うん||||||なかの|きみ|||かんがえて||||||きみ||むいみに|じん||せわに||||いと|||||||ゆう|いみ|||||||うん| 「 どう する んだ 」 「 君 の 目下 の 目的 は 、 かねて 腹案 の ある 述作 を 完成 しよう と 云 う のだろう 。 |||きみ||もっか||もくてき|||ふくあん|||じゅつさく||かんせい|||うん|| だから それ を 条件 に して 僕 が 転地 の 費用 を 担任 し ようじゃ ない か 。 |||じょうけん|||ぼく||てんち||ひよう||たんにん|||| 逗子 でも 鎌倉 でも 、 熱海 でも 君 の 好 な 所 へ 往って 、 呑気 に 養生 する 。 ずし||かまくら||あたみ||きみ||よしみ||しょ||おう って|のんき||ようじょう| ただ 人 の 金 を 使って 呑気 に 養生 する だけ で は 心 が 済まない 。 |じん||きむ||つかって|のんき||ようじょう|||||こころ||すまない だから 療養 かたがた 気 が 向いた 時 に 続き を かくさ 。 |りょうよう||き||むいた|じ||つづき|| そうして 身体 が よく なって 、 作 が 出来上ったら 帰って くる 。 |からだ||||さく||できあがったら|かえって| 僕 は 費用 を 担任 した 代り 君 に 一 大 傑作 を 世間 へ 出して 貰う 。 ぼく||ひよう||たんにん||かわり|きみ||ひと|だい|けっさく||せけん||だして|もらう どう だい 。 それ なら 僕 の 主 意 も 立ち 、 君 の 望 も 叶う 。 ||ぼく||おも|い||たち|きみ||のぞみ||かなう 一挙両得 じゃ ない か 」 高柳 君 は 膝頭 を 見詰めて 考えて いた 。 いっきょりょうとく||||たかやなぎ|きみ||ひざがしら||みつめて|かんがえて| 「 僕 が 君 の 所 へ 、 僕 の 作 を 持って行けば 、 僕 の 君 に 対する 責任 は 済む 訳 な んだ ね 」 「 そう さ 。 ぼく||きみ||しょ||ぼく||さく||もっていけば|ぼく||きみ||たいする|せきにん||すむ|やく||||| 同時に 君 が 天下 に 対する 責任 の 一 分 が 済む ように なる の さ 」 「 じゃ 、 金 を 貰おう 。 どうじに|きみ||てんか||たいする|せきにん||ひと|ぶん||すむ||||||きむ||もらおう 貰いっ放し に 死んで しまう かも 知れ ない が ―― いい や 、 まあ 、 死ぬ まで 書いて 見よう ―― 死ぬ まで 書いたら 書け ない 事 も なかろう 」 「 死ぬ まで かいちゃ 大変だ 。 もらい っぱなし||しんで|||しれ||||||しぬ||かいて|みよう|しぬ||かいたら|かけ||こと|||しぬ|||たいへんだ 暖かい 相 州 辺 へ 行って 気 を 楽に して 、 時々 一 頁 二 頁 ずつ 書く ―― 僕 の 条件 に 期限 は ない んだ ぜ 、 君 」 「 うん 、 よし きっと 書いて 持って行く 。 あたたかい|そう|しゅう|ほとり||おこなって|き||らくに||ときどき|ひと|ぺーじ|ふた|ぺーじ||かく|ぼく||じょうけん||きげん|||||きみ||||かいて|もっていく 君 の 金 を 使って 茫然と して いちゃ 済まない 」 「 そんな 済む の 済まない の と 考えて ちゃ いけない 」 「 うん 、 よし 分った 。 きみ||きむ||つかって|ぼうぜんと|||すまない||すむ||すまない|||かんがえて|||||ぶん った ともかくも 転地 しよう 。 |てんち| 明日 から 行こう 」 「 だいぶ 早い な 。 あした||いこう||はやい| 早い 方 が いい だろう 。 はやい|かた||| いくら 早くって も 構わ ない 。 |はやく って||かまわ| 用意 は ちゃんと 出来て る んだ から 」 と 懐中 から 七子 の 三 折れ の 紙 入 を 出して 、 中 から 一 束 の 紙幣 を つかみ 出す 。 ようい|||できて|||||かいちゅう||ななこ||みっ|おれ||かみ|はい||だして|なか||ひと|たば||しへい|||だす 「 ここ に 百 円 ある 。 ||ひゃく|えん| あと は また 送る 。 |||おくる これ だけ あったら 当分 は いい だろう 」 「 そんなに いる もの か 」 「 なに これ だけ 持って行く が いい 。 |||とうぶん|||||||||||もっていく|| 実は これ は 妻 の 発議 だ よ 。 じつは|||つま||はつぎ|| 妻 の 好意 だ と 思って 持って行って くれた まえ 」 「 それ じゃ 、 百 円 だけ 持って行く か 」 「 持って行く が いい と も 。 つま||こうい|||おもって|もっていって|||||ひゃく|えん||もっていく||もっていく|||| せっかく 包んで 来た んだ から 」 「 じゃ 、 置いて 行って くれた まえ 」 「 そこ で と 、 じゃ 明日 立つ ね 。 |つつんで|きた||||おいて|おこなって|||||||あした|たつ| 場所 か ? ばしょ| 場所 は どこ でも いい さ 。 ばしょ||||| 君 の 気 の 向いた 所 が よかろう 。 きみ||き||むいた|しょ|| 向 へ 着いて から ちょっと 手紙 を 出して くれれば いい よ 。 むかい||ついて|||てがみ||だして||| ―― 護送 する ほど の 大 病人 で も ない から 僕 は 停車場 へ も 行か ない よ 。 ごそう||||だい|びょうにん|||||ぼく||ていしゃば|||いか|| ―― ほか に 用 は なかった か な 。 ||よう|||| ―― なに 少し 急ぐ んだ 。 |すこし|いそぐ| 実は 今日 は 妻 を 連れて 親類 へ 行く 約束 が ある んで 、 待って る から 、 僕 は 失敬 し なくっちゃ なら ない 」 「 そう か 、 もう 帰る か 。 じつは|きょう||つま||つれて|しんるい||いく|やくそく||||まって|||ぼく||しっけい||||||||かえる| それ じゃ 奥さん に よろしく 」 中野 君 は 欣然 と して 帰って 行く 。 ||おくさん|||なかの|きみ||きんぜん|||かえって|いく 高柳 君 は 立って 、 着物 を 着 換えた 。 たかやなぎ|きみ||たって|きもの||ちゃく|かえた 百 円 の 金 は 聞いた 事 が ある 。 ひゃく|えん||きむ||きいた|こと|| が 見た の は これ が 始めて である 。 |みた|||||はじめて| 使う の は もちろん の 事 始めて である 。 つかう|||||こと|はじめて| かねて から 自分 を 代表 する ほど の 作物 を 何 か 書いて 見たい と 思う ていた 。 ||じぶん||だいひょう||||さくもつ||なん||かいて|み たい||おもう| 生活 難 の 合間 合間 に 一 頁 二 頁 と 筆 を 執った 事 は ある が 、 興 が 催す と 、 すぐ やめ ねば なら ぬ ほど 、 饑 は 寒 は 容赦 なく われ を 追う て くる 。 せいかつ|なん||あいま|あいま||ひと|ぺーじ|ふた|ぺーじ||ふで||とった|こと||||きょう||もよおす||||||||き||さむ||ようしゃ||||おう|| この 容子 で は 当分 仕事 らしい 仕事 は 出来 そう も ない 。 |ようこ|||とうぶん|しごと||しごと||でき||| ただ 地理 学 教授 法 を 訳して 露 命 を 繋いで いる ようで は 馬車 馬 が 秣 を 食って 終日 馳 け あるく と 変り は な さ そうだ 。 |ちり|まな|きょうじゅ|ほう||やくして|ろ|いのち||つないで||||ばしゃ|うま||まつ||くって|しゅうじつ|ち||||かわり||||そう だ おれ に は おれ が ある 。 この おれ を 出さ ないで ぶらぶら と 死んで しまう の は もったいない 。 |||ださ||||しんで|||| のみ なら ず 親 の 手前 世間 の 手前 面目ない 。 |||おや||てまえ|せけん||てまえ|めんぼくない 人 から 土偶 の ように う とまれる の も 、 この おれ を 出す 機会 が なくて 、 鈍 根 に さえ 立派に 出来る 翻訳 の 下働き など で 日 を 暮らして いる から である 。 じん||どぐう||||||||||だす|きかい|||どん|ね|||りっぱに|できる|ほんやく||したばたらき|||ひ||くらして||| どうしても 無念だ 。 |むねんだ 石 に 噛みついて も と 思う 矢先 に 道也 の 演説 を 聞いて 床 に ついた 。 いし||かみついて|||おもう|やさき||みちや||えんぜつ||きいて|とこ|| 医者 は 大胆に も 結核 の 初期 だ と 云 う 。 いしゃ||だいたんに||けっかく||しょき|||うん| いよいよ 結核 なら 、 とても 助から ない 。 |けっかく|||たすから| 命 の ある うち に と また 旧 稿 に 向って 見た が 、 綯 る 縄 は 遅く 、 逃げる 泥棒 は 早い 。 いのち|||||||きゅう|こう||むかい って|みた||な||なわ||おそく|にげる|どろぼう||はやい 何一つ 見 や げ も 置か ないで 、 消えて 行く か と 思う と 、 熱 さえ 余計に 出る 。 なにひとつ|み||||おか||きえて|いく|||おもう||ねつ||よけいに|でる これ 一 つ 纏めれば 死んで も 言訳 は 立つ 。 |ひと||まとめれば|しんで||いいわけ||たつ 立つ 言訳 を 作る に は 手当 も しなければ なら ん 。 たつ|いいわけ||つくる|||てあて||し なければ|| 今 の 百 円 は 他日 の 万 金 より も 貴い 。 いま||ひゃく|えん||たじつ||よろず|きむ|||とうとい 百 円 を 懐 に して 室 の なか を 二 度 三 度 廻る 。 ひゃく|えん||ふところ|||しつ||||ふた|たび|みっ|たび|まわる 気分 も 爽 か に 胸 も 涼しい 。 きぶん||そう|||むね||すずしい たちまち 思い切った ように 帽 を 取って 師走 の 市 に 飛び出した 。 |おもいきった||ぼう||とって|しわす||し||とびだした 黄昏 の 神楽坂 を 上る と 、 もう 五 時 に 近い 。 たそがれ||かぐらざか||のぼる|||いつ|じ||ちかい 気 の 早い 店 で は 、 はや 瓦 斯 ( ガス ) を 点じて いる 。 き||はやい|てん||||かわら|し|がす||てんじて| 毘沙 門 の 提灯 は 年 内 に 張りかえ ぬ つもり か 、 色 が 褪 め て 暗い なか で 揺れて いる 。 びさ|もん||ちょうちん||とし|うち||はりかえ||||いろ||たい|||くらい|||ゆれて| 門前 の 屋台 で 職人 が 手拭 を 半 襷 に とって 、 しきりに 寿司 を 握って いる 。 もんぜん||やたい||しょくにん||てぬぐい||はん|たすき||||すし||にぎって| 露店 の 三 馬 は 光る ほど に 色 が 寒い 。 ろてん||みっ|うま||ひかる|||いろ||さむい 黒 足袋 を 往来 へ 並べて 、 頬被り に 懐手 を した の が ある 。 くろ|たび||おうらい||ならべて|ほおかぶり||ふところで||||| あれ でも 足袋 は 売れる か しら ん 。 ||たび||うれる||| 今川 焼 は 一 銭 に 三 つ で 婆さん の 自 製 に かかる 。 いまかわ|や||ひと|せん||みっ|||ばあさん||じ|せい|| 六 銭 五 厘 の 万年筆 は 安 過ぎる と 思う 。 むっ|せん|いつ|りん||まんねんひつ||やす|すぎる||おもう 世 は 様々だ 、 今 ここ を 通って いる おれ は 、 翌 の 朝 に なる と 、 もう 五六十 里 先 へ 飛んで 行く 。 よ||さまざまだ|いま|||かよって||||よく||あさ|||||ごろくじゅう|さと|さき||とんで|いく と は 寿司 屋 の 職人 も 今川 焼 の 婆さん も 夢にも 知る まい 。 ||すし|や||しょくにん||いまかわ|や||ばあさん||ゆめにも|しる| それ から 、 この 百 円 を 使い切る と 金 の 代り に 金 より 貴い ある もの を 懐 に して また 東京 へ 帰って 来る 。 |||ひゃく|えん||つかいきる||きむ||かわり||きむ||とうとい||||ふところ||||とうきょう||かえって|くる と も 誰 も 思う もの は ある まい 。 ||だれ||おもう|||| 世 は 様々である 。 よ||さまざまである 道也 先生 に 逢って 、 実は これ これ だ と 云ったら 先生 は そう か と 微笑 する だろう 。 みちや|せんせい||あって|じつは|||||うん ったら|せんせい|||||びしょう|| あす 立ちます と 云ったら あるいは 驚 ろく だろう 。 |たち ます||うん ったら||おどろ|| 一世一代 の 作 を 仕上げて かえる つもりだ と 云ったら さぞ 喜ぶ であろう 。 いっせいちだい||さく||しあげて||||うん ったら||よろこぶ| ―― 空想 は 空想 の 子 である 。 くうそう||くうそう||こ| もっとも 繁殖 力 に 富む もの を 脳裏 に 植えつけた 高柳 君 は 、 病 の 身 に ある 事 を 忘れて 、 いつの間にか 先生 の 門口 に 立った 。 |はんしょく|ちから||とむ|||のうり||うえつけた|たかやなぎ|きみ||びょう||み|||こと||わすれて|いつのまにか|せんせい||かどぐち||たった 誰 か 来客 の ようである が 、 せっかく 来た の を と わざと 遠慮 を 抜いて 「 頼む 」 と 声 を かけて 見た 。 だれ||らいきゃく|||||きた|||||えんりょ||ぬいて|たのむ||こえ|||みた 「 どなた 」 と 奥 から 云 うの は 先生 自身 である 。 ||おく||うん|||せんせい|じしん| 「 私 です 。 わたくし| 高柳 ……」 「 は あ 、 御 這 入り 」 と 云った なり 、 出て くる 景色 も ない 。 たかやなぎ|||ご|は|はいり||うん った||でて||けしき|| 高柳 君 は 玄関 から 客間 へ 通る 。 たかやなぎ|きみ||げんかん||きゃくま||とおる 推察 の 通り 先客 が いた 。 すいさつ||とおり|せんきゃく|| 市 楽 の 羽織 に 、 くすんだ 縞 もの を 着て 、 帯 の 紋 博多 だけ が いちじるしく 眼 立つ 。 し|がく||はおり|||しま|||きて|おび||もん|はかた||||がん|たつ 額 の 狭い 頬 骨 の 高い 、 鈍 栗 眼 である 。 がく||せまい|ほお|こつ||たかい|どん|くり|がん| 高柳 君 は 先生 に 挨拶 を 済ました 、 あと で 鈍 栗 に 黙礼 を した 。 たかやなぎ|きみ||せんせい||あいさつ||すました|||どん|くり||もくれい|| 「 どう しました 。 |し ました だいぶ 遅く 来ました ね 。 |おそく|き ました| 何 か 用 でも ……」 「 いいえ 、 ちょっと ―― 実は 御 暇乞 に 上がりました 」 「 御 暇乞 ? なん||よう||||じつは|ご|いとまごい||あがり ました|ご|いとまごい 田舎 の 中学 へ でも 赴任 する んです か 」 間 の 襖 を あけて 、 細 君 が 茶 を 持って 出る 。 いなか||ちゅうがく|||ふにん||||あいだ||ふすま|||ほそ|きみ||ちゃ||もって|でる 高柳 君 と 御辞儀 の 交換 を して 居間 へ 退く 。 たかやなぎ|きみ||おじぎ||こうかん|||いま||しりぞく 「 いえ 、 少し 転地 しよう か と 思い まして 」 「 それ じゃ 身体 でも 悪い んです ね 」 「 大した 事 も なかろう と 思います が 、 だんだん 勧める 人 も あります から 」 「 うん 。 |すこし|てんち||||おもい||||からだ||わるい|||たいした|こと||||おもい ます|||すすめる|じん||あり ます|| わるけりゃ 、 行く が いい です と も 。 |いく||||| いつ ? あした ? そう です か 。 それ じゃ まあ 緩く り 話した まえ 。 |||ゆるく||はなした| ―― 今 ちょっと 用 談 を 済まして しまう から 」 と 道也 先生 は 鈍 栗 の 方 へ 向いた 。 いま||よう|だん||すまして||||みちや|せんせい||どん|くり||かた||むいた 「 それ で 、 どうも 御 気の毒だ が ―― 今 申す 通り の 事情 だ から 、 少し 待って くれません か 」 「 それ は 待って 上げたい のです 。 |||ご|きのどくだ||いま|もうす|とおり||じじょう|||すこし|まって|くれ ませ ん||||まって|あげ たい| しかし 私 の 方 の 都合 も あり まして 」 「 だから 利子 を 上げれば いい でしょう 。 |わたくし||かた||つごう|||||りし||あげれば|| 利子 だけ 取って 元金 は 春 まで 猶予 して くれません か 」 「 利子 は 今 まで でも 滞り なく ちょうだい して おります から 、 利子 さえ 取れれば 好 い 金 なら 、 いつまで でも 御 用立てて 置きたい のです が ……」 「 そう は いかんでしょう か 」 「 せっかく の 御 頼 だ から 、 出来れば 、 そう したい のです が ……」 「 いけません か 」 「 どうも まことに 御 気の毒で ……」 「 どうしても 、 いかんです か 」 「 どう あって も 百 円 だけ 拵えて いただか なくっちゃ なら ん ので 」 「 今夜 中 に です か 」 「 ええ 、 まあ 、 そう です な 。 りし||とって|がんきん||はる||ゆうよ||くれ ませ ん||りし||いま|||とどこおり||||おり ます||りし||とれれば|よしみ||きむ||||ご|ようだてて|おき たい|||||||||ご|たの|||できれば||し たい|||いけ ませ ん||||ご|きのどくで|||||||ひゃく|えん||こしらえて||||||こんや|なか|||||||| 昨日 が 期限 でした ね 」 「 期限 の 切れた の は 知って る です 。 きのう||きげん|||きげん||きれた|||しって|| それ を 忘れる ような 僕 じゃ ない 。 ||わすれる||ぼく|| だから いろいろ 奔走 して 見た んだ が 、 どうも 出来 ない から 、 わざわざ 君 の 所 へ 使 を あげた のです 」 「 ええ 、 御 手紙 は たしかに 拝見 しました 。 ||ほんそう||みた||||でき||||きみ||しょ||つか|||||ご|てがみ|||はいけん|し ました 何 か 御 著述 が ある そうで 、 それ を 本屋 の 方 へ 御 売渡し に なる まで 延期 の 御 申込 でした 」 「 さよう 」 「 ところが で すて 、 この 金 の 性質 が で すて ―― ただ 利子 を 生ま せる 目的 で ない もの です から ―― 実は 年 末 に は 是非 入用だ が と 念 を 押して 御 兄さん に 伺った くらい な のです 。 なん||ご|ちょじゅつ|||そう で|||ほんや||かた||ご|うりわたし||||えんき||ご|もうしこみ|||||||きむ||せいしつ|||||りし||うま||もくてき||||||じつは|とし|すえ|||ぜひ|いりようだ|||ねん||おして|ご|にいさん||うかがった||| ところが 御 兄さん が 、 いや そりゃ 大丈夫 、 ほか の もの なら 知ら ない が 、 弟 に 限って けっして 、 そんな 不都合 は ない 。 |ご|にいさん||||だいじょうぶ|||||しら|||おとうと||かぎって|||ふつごう|| 受 合う 。 じゅ|あう と おっしゃる もの です から 、 それ で 私 も 安心 して 御 用立て 申した ので ―― 今に なって 御 違約 で は はなはだ 迷惑 します 」 道也 先生 は 黙 然 と して いる 。 |||||||わたくし||あんしん||ご|ようだて|もうした||いまに||ご|いやく||||めいわく|し ます|みちや|せんせい||もく|ぜん||| 鈍 栗 は 煙草 を す ぱす ぱ 呑 む 。 どん|くり||たばこ|||||どん| 「 先生 」 と 高柳 君 が 突然 横合 から 口 を 出した 。 せんせい||たかやなぎ|きみ||とつぜん|よこあい||くち||だした 「 ええ 」 と 道也 先生 は 、 こっち を 向く 。 ||みちや|せんせい||||むく 別段 赤面 した 様子 も 見え ない 。 べつだん|せきめん||ようす||みえ| 赤面 する くらい なら 用 談 中 と 云って 面会 を 謝絶 する はずである 。 せきめん||||よう|だん|なか||うん って|めんかい||しゃぜつ|| 「 御 話し 中 はなはだ 失礼です が 。 ご|はなし|なか||しつれいです| ちょっと 伺って も 、 よう ございましょう か 」 「 ええ 、 いい です 。 |うかがって||||||| 何 です か 」 「 先生 は 今 御 著作 を なさった と 承 わりました が 、 失礼です が 、 その 原稿 を 見せて いただく 訳 に は 行きます まい か 」 「 見る なら 御覧 、 待って る うち 、 読む のです か 」 高柳 君 は 黙って いる 。 なん|||せんせい||いま|ご|ちょさく||||うけたまわ|わり ました||しつれいです|||げんこう||みせて||やく|||いき ます|||みる||ごらん|まって|||よむ|||たかやなぎ|きみ||だまって| 道也 先生 は 立って 、 床の間 に 積みかさねた 書籍 の 間 から 、 厚 さ 三 寸 ほど の 原稿 を 取り出して 、 青年 に 渡し ながら 「 見て 御覧 」 と いう 。 みちや|せんせい||たって|とこのま||つみかさねた|しょせき||あいだ||こう||みっ|すん|||げんこう||とりだして|せいねん||わたし||みて|ごらん|| 表紙 に は 人格 論 と 楷書 で かいて ある 。 ひょうし|||じんかく|ろん||かいしょ||| 「 ありがとう 」 と 両手 に 受けた 青年 は 、 しばし この 人格 論 の 三 字 を しけ じ け と 眺めて いた が 、 やがて 眼 を 挙げて 鈍 栗 の 方 を 見た 。 ||りょうて||うけた|せいねん||||じんかく|ろん||みっ|あざ||||||ながめて||||がん||あげて|どん|くり||かた||みた 「 君 、 この 原稿 を 百 円 に 買って 上げません か 」 「 エヘヘヘヘ 。 きみ||げんこう||ひゃく|えん||かって|あげ ませ ん|| 私 は 本屋 じゃ ありません 」 「 じゃ 買わ ないで すね 」 「 エヘヘヘ 御 冗談 を 」 「 先生 」 「 何 です か 」 「 この 原稿 を 百 円 で 私 に 譲って 下さい 」 「 その 原稿 ? わたくし||ほんや||あり ませ ん||かわ||||ご|じょうだん||せんせい|なん||||げんこう||ひゃく|えん||わたくし||ゆずって|ください||げんこう ……」 「 安 過ぎる でしょう 。 やす|すぎる| 何 万 円 だって 安 過ぎる の は 知っています 。 なん|よろず|えん||やす|すぎる|||しってい ます しかし 私 は 先生 の 弟子 だ から 百 円 に 負けて 譲って 下さい 」 道也 先生 は 茫然と して 青年 の 顔 を 見守って いる 。 |わたくし||せんせい||でし|||ひゃく|えん||まけて|ゆずって|ください|みちや|せんせい||ぼうぜんと||せいねん||かお||みまもって| 「 是非 譲って 下さい 。 ぜひ|ゆずって|ください ―― 金 は ある んです 。 きむ||| ―― ちゃんと ここ に 持って います 。 |||もって|い ます ―― 百 円 ちゃん と あります 」 高柳 君 は 懐 から 受取った まま の 金 包 を 取り出して 、 二 人 の 間 に 置いた 。 ひゃく|えん|||あり ます|たかやなぎ|きみ||ふところ||うけとった|||きむ|つつ||とりだして|ふた|じん||あいだ||おいた 「 君 、 そんな 金 を 僕 が 君 から ……」 と 道也 先生 は 押し 返そう と する 。 きみ||きむ||ぼく||きみ|||みちや|せんせい||おし|かえそう|| 「 いいえ 、 いい んです 。 好 い から 取って 下さい 。 よしみ|||とって|ください ―― いや 間違った んです 。 |まちがった| 是非 この 原稿 を 譲って 下さい 。 ぜひ||げんこう||ゆずって|ください ―― 先生 私 は あなた の 、 弟子 です 。 せんせい|わたくし||||でし| ―― 越後 の 高田 で 先生 を いじめて 追い出した 弟子 の 一 人 です 。 えちご||たかた||せんせい|||おいだした|でし||ひと|じん| ―― だ から 譲って 下さい 」 愕然たる 道也 先生 を 残して 、 高柳 君 は 暗き 夜 の 中 に 紛れ 去った 。 ||ゆずって|ください|がくぜんたる|みちや|せんせい||のこして|たかやなぎ|きみ||くらき|よ||なか||まぎれ|さった 彼 は 自己 を 代表 す べき 作物 を 転地 先 より もたらし 帰る 代り に 、 より 偉大なる 人格 論 を 懐 に して 、 これ を わが 友 中野 君 に 致し 、 中野 君 と その 細 君 の 好意 に 酬 いん と する のである 。 かれ||じこ||だいひょう|||さくもつ||てんち|さき|||かえる|かわり|||いだいなる|じんかく|ろん||ふところ||||||とも|なかの|きみ||いたし|なかの|きみ|||ほそ|きみ||こうい||しゅう||||