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野分 夏目漱石, 「六」 野分 夏目漱石

「六 」 野 分 夏目 漱石

「 私 は 高柳 周作 と 申す も ので ……」 と 丁寧に 頭 を 下げた 。 高柳 君 が 丁寧に 頭 を 下げた 事 は 今 まで 何度 も ある 。 しかし この 時 の ように 快 よく 頭 を 下げた 事 は ない 。 教授 の 家 を 訪問 して も 、 翻訳 を 頼ま れる 人 に 面会 して も 、 その他 の 先輩 に 対して も 皆 丁寧に 頭 を さげる 。 せんだって 中野 の おやじ に 紹介 さ れた 時 など は いよいよ もって 丁寧に 頭 を さげ た 。 しかし 頭 を 下げる うち に いつでも 圧迫 を 感じて いる 。 位 地 、 年輩 、 服装 、 住居 が 睥睨 して 、 頭 を 下げ ぬ か 、 下げ ぬ か と 催促 されて や む を 得 ず 頓首 する のである 。 道也 先生 に 対して は 全く 趣 が 違う 。 先生 の 服装 は 中野 君 の 説明 した ごとく 、 自分 と 伯仲 の 間 に ある 。 先生 の 書斎 は 座敷 を かねる 点 に おいて 自分 の 室 と 同様である 。 先生 の 机 は 白木 なる の 点 に おいて 、 丸裸 なる の 点 に おいて 、 また もっとも 無 趣味 に 四角張った る 点 に おいて 自分 の 机 と 同様である 。 先生 の 顔 は 蒼 い 点 に おいて 瘠せた 点 に おいて 自分 と 同様である 。 すべて これら の 諸 点 に おいて 、 先生 と 弟 たり がたく 兄 たり がたき 間柄 に あり ながら 、 しかも 丁寧に 頭 を 下げる の は 、 逼 まられて 仕方 なし に 下げる ので は ない 。 仕方 ある に も かかわら ず 、 こっち の 好意 を もって 下げる のである 。 同類 に 対する 愛 憐 の 念 より 生ずる 真 正 の 御辞儀 である 。 世間 に 対する 御辞儀 は この 野郎 が と 心中 に 思い ながら も 、 公然 に は 反比例 に 丁寧 を 極め たる 虚偽 の 御辞儀 で あります と 断わりたい くらい に 思って 、 高柳 君 は 頭 を 下げた 。 道也 先生 は それ と 覚った か どう か 知ら ぬ 。 「 ああ 、 そう です か 、 私 が 白井 道也 で ……」 と つくろった 景色 も なく 云 う 。 高柳 君 に は この 挨拶 振り が 気 に 入った 。 両人 は しばらく の 間 黙って 控えて いる 。 道也 は 相手 の 来 意 が わから ぬ から 、 先方 の 切り出す の を 待つ の が 当然 と 考える 。 高柳 君 は 昔 し の 関係 を 残り なく 打ち 開けて 、 一刻 も 早く 同類 相 憐 む の 間柄 に なりたい 。 しかし あまり 突然である から 、 ちょっと 言い出し かねる 。 のみ なら ず 、 一昔 し 前 の 事 と は 申し ながら 、 自分 達 が いじめて 追い出した 先生 が 、 その ため に かく 零 落した ので は ある まい か と 思う と 、 何となく 気 が ひけて 云 い 切れ ない 。 高柳 君 は こんな ところ に なる と すこぶる 勇気 に 乏しい 。 謝罪 かたがた 尋ね は した が 、 いよいよ と 云 う 段 に なる と 少々 怖くて 罪 滅 し が 出来 かねる 。 心 に いろいろな 冒頭 を 作って 見た が 、 どれ も これ も きまり が わるい 。 「 だんだん 寒く なります ね 」 と 道也 先生 は 、 こっち の 了 簡 を 知ら ない から 、 超然 たる 時候 の 挨拶 を する 。 「 ええ 、 だいぶ 寒く なった ようで ……」 高柳 君 の 脳 中 の 冒頭 は これ で まるで 打ち 壊されて しまった 。 いっその事 自白 は この 次に しよう と いう 気 に なる 。 しかし 何だか 話して 行きたい 気 が する 。 「 先生 御 忙 が しい です か ……」 「 ええ 、 なかなか 忙 が しいん で 弱ります 。 貧乏 閑 なし で 」 高柳 君 は やり損なった と 思う 。 再び 出直さ ねば なら ん 。 「 少し 御 話 を 承りたい と 思って 上がった んです が ……」 「 は あ 、 何 か 雑誌 へ でも 御 載せ に なる んです か 」 あて は また はずれる 。 おれ の 態度 が どうしても 向 に は 酌み 取れ ない と 見える と 青年 は 心中 少し く 残念に 思った 。 「 いえ 、 そう じゃ ない ので ―― ただ ―― ただっちゃ 失礼です が 。 ―― 御邪魔 なら また 上がって も よろしゅう ございます が ……」 「 いえ 邪魔じゃ ありません 。 談話 と 云 う から ちょっと 聞いて 見た のです 。 ―― わたし の うち へ 話 なんか 聞き に くる もの は ありません よ 」 「 いいえ 」 と 青年 は 妙な 言葉 を もって 先生 の 辞 を 否定 した 。 「 あなた は 何の 学問 を なさる です か 」 「 文学 の 方 を ―― 今年 大学 を 出た ばかりです 」 「 は あ そうです か 。 では これ から 何 か お やり に なる んです ね 」 「 やれれば 、 やりたい のです が 、 暇 が なくって ……」 「 暇 は ないで す ね 。 わたし など も 暇 が なくって 困って います 。 しかし 暇 は かえって ない 方 が いい かも 知れ ない 。 何 です ね 。 暇 の ある もの は だいぶ いる ようだ が 、 余り 誰 も 何も やって いない ようじゃ ありません か 」 「 それ は 人 に 依り は しません か 」 と 高柳 君 は おれ が 暇 さえ あれば と 云 う ところ を 暗に ほのめかした 。 「 人 に も 依る でしょう 。 しかし 今 の 金持ち と 云 う もの は ……」 と 道也 は 句 を 半分 で 切って 、 机 の 上 を 見た 。 机 の 上 に は 二 寸 ほど の 厚 さ の 原稿 が のって いる 。 障子 に は 洗濯 した 足袋 の 影 が さす 。 「 金持ち は 駄目です 。 金 が なくって 困って る もの が ……」 「 金 が なくって 困って る もの は 、 困り なり に やれば いい のです 」 と 道也 先生 困って る 癖 に 太平な 事 を 云 う 。 高柳 君 は 少々 不満である 。 「 しかし 衣食 の ため に 勢力 を とられて しまって ……」 「 それ で いい のです よ 。 勢力 を とられて しまったら 、 ほか に 何にも し ないで 構わ ない のです 」 青年 は 唖然と して 、 道也 を 見た 。 道也 は 孔子 様 の ように 真面目である 。 馬鹿に されて る んじゃ たまらない と 高柳 君 は 思う 。 高柳 君 は 大抵 の 事 を 馬鹿に さ れた ように 聞き取る 男 である 。 「 先生 なら いい かも 知れません 」 と つる つる と 口 を 滑ら して 、 はっと 言い 過ぎた と 下 を 向いた 。 道也 は 何とも 思わ ない 。 「 わたし は 無論 いい 。 あなた だって 好 い です よ 」 と 相手 まで も 平気に 捲 き込もう と する 。 「 なぜ です か 」 と 二三 歩 逃げて 、 振り向き ながら 佇む 狐 の ように 探り を 入れた 。 「 だって 、 あなた は 文学 を やった と 云 われた じゃ ありません か 。 そう です か 」 「 ええ やりました 」 と 力 を 入れる 。 すべて 他の 点 に 関して は 断 乎 たる 返事 を する 資格 の ない 高柳 君 は 自己 の 本領 に おいて は 何 人 の 前 に 出て も ひるま ぬ つもりである 。 「 それ なら いい 訳 だ 。 それ なら それ で いい 訳 だ 」 と 道也 先生 は 繰り返して 云った 。 高柳 君 に は 何の 事か 少しも 分 ら ない 。 また 、 なぜ です と 突き 込む の も 、 何だか 伏兵 に 罹 る 気持 が して 厭 である 。 ちょっと 手 の つけよう が ない ので 、 黙って 相手 の 顔 を 見た 。 顔 を 見て いる うち に 、 先方 で どう か 解決 して くれる だろう と 、 暗に 催促 の 意 を 籠 め て 見た のである 。 「 分 りました か 」 と 道也 先生 が 云 う 。 顔 を 見た の は やっぱり 何の 役 に も 立た なかった 。 「 どうも 」 と 折れ ざる を 得 ない 。 「 だって そうじゃ ありません か 。 ―― 文学 は ほか の 学問 と は 違う のです 」 と 道也 先生 は 凛 然 と 云 い 放った 。 「 は あ 」 と 高柳 君 は 覚え ず 応答 を した 。 「 ほか の 学問 は です ね 。 その 学問 や 、 その 学問 の 研究 を 阻害 する もの が 敵 である 。 たとえば 貧 と か 、 多忙 と か 、 圧迫 と か 、 不幸 と か 、 悲酸 な 事情 と か 、 不和 と か 、 喧嘩 と か です ね 。 これ が ある と 学問 が 出来 ない 。 だから なるべく これ を 避けて 時 と 心 の 余裕 を 得よう と する 。 文学 者 も 今 まで は やはり そう 云 う 了 簡 で いた のです 。 そう 云 う 了 簡 どころ で は ない 。 あらゆる 学問 の うち で 、 文学 者 が 一 番 呑気 な 閑日 月 が なくて は なら ん ように 思われて いた 。 おかしい の は 当人 自身 まで が その 気 で いた 。 しかし それ は 間違 です 。 文学 は 人生 そのもの である 。 苦痛 に あれ 、 困窮 に あれ 、 窮 愁 に あれ 、 凡そ 人生 の 行 路 に あたる もの は すなわち 文学 で 、 それ ら を 甞 め 得た もの が 文学 者 である 。 文学 者 と 云 うの は 原稿 紙 を 前 に 置いて 、 熟語 字典 を 参考 して 、 首 を ひねって いる ような 閑人 じゃ ありません 。 円熟 して 深 厚 な 趣味 を 体して 、 人間 の 万事 を 臆 面 なく 取り 捌 いたり 、 感得 したり する 普通 以上 の 吾々 を 指す のであります 。 その 取り 捌 き 方 や 感得 し 具合 を 紙 に 写した の が 文学 書 に なる のです 、 だから 書物 は 読ま ない でも 実際 その 事 に あたれば 立派な 文学 者 です 。 したがって ほか の 学問 が でき 得る 限り 研究 を 妨害 する 事物 を 避けて 、 しだいに 人 世に 遠 かる に 引き 易 えて 文学 者 は 進んで この 障害 の なか に 飛び込む のであります 」 「 なるほど 」 と 高柳 君 は 妙な 顔 を して 云った 。 「 あなた は 、 そう は 考えません か 」 そう 考える に も 、 考えぬ に も 生れて 始めて 聞いた 説 である 。 批評 的 の 返事 が 出る とき は 大抵 用意 の ある 場合 に 限る 。 不意 撃 に 応ずる 事 が 出来れば 不意 撃 で は ない 。 「 ふうん 」 と 云って 高柳 君 は 首 を 低 れた 。 文学 は 自己 の 本領 である 。 自己 の 本領 に ついて 、 他人 が 答弁 さえ 出来 ぬ ほど の 説 を 吐く ならば その 本領 は あまり 鞏固 な もの で は ない 。 道也 先生 さえ 、 こんな 見 すぼ らしい 家 に 住んで 、 こんな 、 きたな らしい 着物 を きて いる ならば 、 おれ は 当然 二十 円 五十 銭 の 月給 で 沢山だ と 思った 。 何だか 急に 広い 世界 へ 引き出さ れた ような 感じ が する 。 「 先生 は だいぶ 御 忙しい ようです が ……」 「 ええ 。 進んで 忙しい 中 へ 飛び込んで 、 人 から 見る と 酔 興 な 苦労 を します 。 ハハハハ 」 と 笑う 。 これ なら 苦労 が 苦労に たた ない 。 「 失礼 ながら 今 は どんな 事 を やって おいで で ……」 「 今 です か 、 ええ いろいろな 事 を やります よ 。 飯 を 食う 方 と 本領 の 方 と 両方 やろう と する から なかなか 骨 が 折れます 。 近頃 は 頼まれて よく 方々 へ 談話 の 筆記 に 行きます が ね 」 「 随分 御 面倒でしょう 」 「 面倒 と 云 いや 、 面倒です が ね 。 そう 面倒 と 云 う より むしろ 馬鹿 気 ています 。 まあ いい加減に 書いて は 来ます が 」 「 なかなか 面白い 事 を 云 うの が おりましょう 」 と 暗に 中野 春 台 の 事 を 釣り 出そう と する 。 「 面白い の 何のって 、 この 間 は うま 、 うま の 講釈 を 聞か さ れました 」 「 うま 、 うま です か ? 」 「 ええ 、 あの 小 供 が 食物 の 事 を うまう まと 云 いましょう 。 あれ の 来歴 です ね 。 その 人 の 説 に よる と 小 供 が 舌 が 回り 出して から 一 番 早く 出る 発音 が うまう ま だ そうです 。 それ で その 時分 は 何 を 見て もう ま うま 、 何 を 見 なくって も うまう まだ から つまり は 何にも つけ なくて も いい のだ そう だ が 、 そこ が 小 供 に 取って 一 番 大切な もの は 食物 だ から 、 とうとう 食物 の 方 で 、 うま うま を 専有 して しまった のだ そうです 。 そこ で 大人 も その 癖 が のこって 、 美味な もの を うまい と 云 う ように なった 。 だから 人生 の 煩 悶 は 要するに 元 へ 還って うま うま の 二 字 に 帰着 する と 云 う のです 。 何だか 寄席 へ でも 行った ようじゃ ない です か 」 「 馬鹿に して います ね 」 「 ええ 、 大抵 は 馬鹿に さ れ に 行く んです よ 」 「 しかし そんな つまらない 事 を 云 うって 失敬です ね 」 「 なに 、 失敬 だって いい で さあ 、 どうせ 、 分 ら ない んだ から 。 そう か と 思う と ね 。 非常に 真面目だ けれども なかなか 突飛な の が あって ね 。 この 間 は 猛烈な 恋愛 論 を 聞か さ れました 。 もっとも 若い 人 です が ね 」 「 中野 じゃ ありません か 」 「 君 、 知ってます か 。 ありゃ 熱心な もの だった 」 「 私 の 同級 生 です 」 「 ああ 、 そう です か 。 中野 春 台 と か 云 う 人 です ね 。 よっぽど 暇 が ある んでしょう 。 あんな 事 を 真面目に 考えて いる くらい だ から 」 「 金持ち です 」 「 うん 立派な 家 に います ね 。 君 は あの 男 と 親密な のです か 」 「 ええ 、 もと は ごく 親密でした 。 しかし どうも いかんです 。 近頃 は ―― 何だか ―― 未来 の 細 君 か 何 か 出来た んで 、 あんまり 交際 して くれ ない のです 」 「 いい でしょう 。 交際 し なくって も 。 損に も なり そう も ない 。 ハハハハハ 」 「 何だか しか し 、 こう 、 一 人 坊っち の ような 気 が して 淋しくって いけません 」 「 一 人 坊っち で 、 いい で さあ 」 と 道也 先生 また いい で さあ を 担ぎ出した 。 高柳 君 は もう 「 先生 なら いい でしょう 」 と 突き 込む 勇気 が 出 なかった 。 「 昔 から 何 か しよう と 思えば 大概 は 一 人 坊っち に なる もの です 。 そんな 一 人 の 友達 を たより に する ようじゃ 何も 出来ません 。 ことに よる と 親類 と も 仲違 に なる 事 が 出来て 来ます 。 妻 に まで 馬鹿に さ れる 事 が あります 。 しまい に 下 女 まで からかいます 」 「 私 は そんなに なったら 、 不愉快で 生きて いられ ない だろう と 思います 」 「 それ じゃ 、 文学 者 に は なれ ないで す 」 高柳 君 は だまって 下 を 向いた 。 「 わたし も 、 あなた ぐらい の 時 に は 、 ここ まで と は 考えて い なかった 。 しかし 世の中 の 事実 は 実際 ここ まで やって 来る んです 。 うそ じゃ ない 。 苦しんだ の は 耶蘇 ( ヤソ ) や 孔子 ばかり で 、 吾々 文学 者 は その 苦しんだ 耶蘇 や 孔子 を 筆 の 先 で ほめて 、 自分 だけ は 呑気 に 暮して 行けば いい のだ など と 考えて る の は 偽 文学 者 です よ 。 そんな もの は 耶蘇 や 孔子 を ほめる 権利 は ない のです 」 高柳 君 は 今 こそ 苦しい が 、 もう 少し 立てば 喬木 に うつる 時節 が ある だろう と 、 苦しい うち に 絹糸 ほど な 細い 望み を 繋いで いた 。 その 絹糸 が 半分 ばかり 切れて 、 暗い 谷 から 上 へ 出る たより は 、 生きて いる うち は 容易に 来 そうに 思わ れ なく なった 。 「 高柳 さん 」 「 はい 」 「 世の中 は 苦しい もの です よ 」 「 苦しい です 」 「 知ってます か 」 と 道也 先生 は 淋し 気 に 笑った 。 「 知って る つもりです けれど 、 いつまでも こう 苦しくっちゃ ……」 「 やり 切れません か 。 あなた は 御 両親 が 御 在りか 」 「 母 だけ 田舎 に います 」 「 おっか さん だけ ? 」 「 ええ 」 「 御 母さん だけ でも あれば 結構だ 」 「 なかなか 結構で ない です 。 ―― 早く どうかして やら ない と 、 もう 年 を 取って います から 。 私 が 卒業 したら 、 どう か 出来る だろう と 思って た のです が ……」 「 さよう 、 近頃 の ように 卒業 生 が 殖 えちゃ 、 ちょっと 、 口 を 得る の が 困難です ね 。 ―― どう です 、 田舎 の 学校 へ 行く 気 は ない です か 」 「 時々 は 田舎 へ 行こう と も 思う んです が ……」 「 また いやに なる か ね 。 ―― そう さ 、 あまり 勧められ も し ない 。 私 も 田舎 の 学校 は だいぶ 経験 が ある が 」 「 先生 は ……」 と 言い かけた が 、 また 昔 の 事 を 云 い 出し にくく なった 。 「 ええ ? 」 と 道也 は 何も 知ら ぬ 気 である 。 「 先生 は ―― あの ―― 江 湖 雑誌 を 御 編 輯 に なる と 云 う 事 です が 、 本当に そう な んで 」 「 ええ 、 この 間 から 引き受けて やって います 」 「 今月 の 論説 に 解脱 と 拘泥 と 云 うの が ありました が 、 あの 憂世 子 と 云 うの は ……」 「 あれ は 、 わたし です 。 読みました か 」 「 ええ 、 大変 面白く 拝見 しました 。 そう 申しちゃ 失礼です が 、 あれ は 私 の 云 いたい 事 を 五六 段 高く して 、 表出 した ような もの で 、 利益 を 享 けた 上 に 痛快に 感じました 」 「 それ は ありがたい 。 それ じゃ 君 は 僕 の 知己 です ね 。 恐らく 天下 唯一 の 知己 かも 知れ ない 。 ハハハハ 」 「 そんな 事 は ない でしょう 」 と 高柳 君 は やや 真面目に 云った 。 「 そう です か 、 それ じゃ なお 結構だ 。 しかし 今 まで 僕 の 文章 を 見て ほめて くれた もの は 一 人 も ない 。 君 だけ です よ 」 「 これ から 皆 んな 賞 め る つもりです 」 「 ハハハハ そう 云 う 人 が せめて 百 人 も いて くれる と 、 わたし も 本望 だ が ―― 随分 頓珍 漢 な 事 が あります よ 。 この 間 なんか 妙な 男 が 尋ねて 来て ね 。 ……」 「 何 です か 」 「 なあ に 商人 です が ね 。 どこ から 聞いて 来た か 、 わたし に 、 あなた は 雑誌 を やって おいで だ そうだ が 文章 を 御 書き なさる だろう と 云 う のです 」 「 へえ 」 「 書く 事 は 書く と まあ 云った んです 。 すると ね その 男 が どうぞ 一 つ 、 眼 薬 の 広告 を かいて もらいたい と 云 うん です 」 「 馬鹿な 奴 です ね 」 「 その代り 雑誌 へ 眼 薬 の 広告 を 出す から 是非 一 つ 願いたいって ―― 何でも 点 明 水 と か 云 う 名 です が ね ……」 「 妙な 名 を つけて ――。 御 書き に なった んです か 」 「 いえ 、 とうとう 断わりました が ね 。 それ で まだ おかしい 事 が ある のです よ 。 その 薬屋 で 売出 し の 日 に 大きな 風船 を 揚げる んだ と 云 う のです 」 「 御 祝い の ため です か 」 「 いえ 、 やはり 広告 の ため に 。 ところが 風船 は 声 も 出さ ず に 高い 空 を 飛んで いる のだ から 、 仰向けば 誰 に でも 見える が 、 仰向か せ なくっちゃ いけない でしょう 」 「 へえ 、 なるほど 」 「 それ で わたし に その 、 仰向か せ の 役 を やって くれって 云 う のです 」 「 どう する のです 」 「 何 、 往来 を あるいて いて も 、 電車 へ 乗って いて も いい から 、 風船 を 見たら 、 おや 風船 だ 風船 だ 、 何でも ありゃ 点 明 水 の 広告 に 違いないって 何遍 も 何遍 も 云 う のだ そうです 」 「 ハハハ 随分 思い切って 人 を 馬鹿に した 依頼 です ね 」 「 おかしく も あり 馬鹿馬鹿しく も ある が 、 何も それ だけ の 事 を する に は わたし で なくて も よかろう 。 車 引 でも 雇えば 訳ない じゃ ない か と 聞いて 見た のです 。 すると その 男 が ね 。 いえ 、 車 引 な ん ぞ ばかり で は 信用 が な くって いけません 。 やっぱり 髭 でも 生やして もっともらしい 顔 を した 人 に 頼ま ない と 、 人 が だまさ れません から と 云 う のです 」 「 実に 失敬な 奴 です ね 。 全体 何物 でしょう 」 「 何物って やはり 普通の 人間 です よ 。 世の中 を だます ため に 人 を 雇い に 来た のです 。 呑気 な も の さ ハハハハ 」 「 どうも 驚 ろ いち まう 。 私 なら 撲 ぐって やる 」 「 そんな の を 撲った 日 に ゃ 片っ端から 撲 ら なくっちゃ あ なら ない 。 君 そう 怒る が 、 今 の 世の中 は そんな 男 ばかり で 出来て る んです よ 」 高柳 君 は まさか と 思った 。 障子 に さした 足袋 の 影 は いつしか 消えて 、 開け放った 一 枚 の 間 から 、 靴 刷 毛 の 端 が 見える 。 椽 は 泥 だらけ である 。 手 の 平 ほど な 庭 の 隅 に 一 株 の 菊 が 、 清らかに 先生 の 貧 を 照らして いる 。 自然 を どうでも いい と 思って いる 高柳 君 も この 菊 だけ は 美 くし い と 感じた 。 杉 垣 の 遥か 向 に 大きな 柿 の 木 が 見えて 、 空 の なか へ 五 分 珠 の 珊瑚 を かためて 嵌め込んだ ように 奇麗に 赤く 映る 。 鳴子 の 音 が して 烏 が ぱっと 飛んだ 。 「 閑静な 御 住居 です ね 」 「 ええ 。 蛸 寺 の 和尚 が 烏 を 追って いる んです 。 毎日 が らん がらん 云 わして 、 烏 ばかり 追って いる 。 ああ 云 う 生涯 も 閑静で いい な 」 「 大変 たくさん 柿 が 生って います ね 」 「 渋 柿 です よ 。 あの 和尚 は 何 が 惜しくて 、 ああ 渋 柿 の 番 ばかり する の か な 。 ―― 君 妙な 咳 を 時々 する が 、 身体 は 丈夫です か 。 だいぶ 瘠せて る ようじゃ ありません か 。 そう 瘠せて ちゃ いか ん 。 身体 が 資本 だ から 」 「 しかし 先生 だって 随分 瘠せて いらっしゃる じゃ ありません か 」 「 わたし ? わたし は 瘠せて いる 。 瘠せて は いる が 大丈夫 」


「六 」 野 分 夏目 漱石 むっ|の|ぶん|なつめ|そうせき Roku" Nobe Natsume Soseki

「 私 は 高柳 周作 と 申す も ので ……」 と 丁寧に 頭 を 下げた 。 わたくし||たかやなぎ|しゅうさく||もうす||||ていねいに|あたま||さげた 高柳 君 が 丁寧に 頭 を 下げた 事 は 今 まで 何度 も ある 。 たかやなぎ|きみ||ていねいに|あたま||さげた|こと||いま||なんど|| しかし この 時 の ように 快 よく 頭 を 下げた 事 は ない 。 ||じ|||こころよ||あたま||さげた|こと|| 教授 の 家 を 訪問 して も 、 翻訳 を 頼ま れる 人 に 面会 して も 、 その他 の 先輩 に 対して も 皆 丁寧に 頭 を さげる 。 きょうじゅ||いえ||ほうもん|||ほんやく||たのま||じん||めんかい|||そのほか||せんぱい||たいして||みな|ていねいに|あたま|| せんだって 中野 の おやじ に 紹介 さ れた 時 など は いよいよ もって 丁寧に 頭 を さげ た 。 |なかの||||しょうかい|||じ|||||ていねいに|あたま||| しかし 頭 を 下げる うち に いつでも 圧迫 を 感じて いる 。 |あたま||さげる||||あっぱく||かんじて| 位 地 、 年輩 、 服装 、 住居 が 睥睨 して 、 頭 を 下げ ぬ か 、 下げ ぬ か と 催促 されて や む を 得 ず 頓首 する のである 。 くらい|ち|ねんぱい|ふくそう|じゅうきょ||へいげい||あたま||さげ|||さげ||||さいそく|さ れて||||とく||とんくび|| 道也 先生 に 対して は 全く 趣 が 違う 。 みちや|せんせい||たいして||まったく|おもむき||ちがう 先生 の 服装 は 中野 君 の 説明 した ごとく 、 自分 と 伯仲 の 間 に ある 。 せんせい||ふくそう||なかの|きみ||せつめい|||じぶん||はくちゅう||あいだ|| 先生 の 書斎 は 座敷 を かねる 点 に おいて 自分 の 室 と 同様である 。 せんせい||しょさい||ざしき|||てん|||じぶん||しつ||どうようである 先生 の 机 は 白木 なる の 点 に おいて 、 丸裸 なる の 点 に おいて 、 また もっとも 無 趣味 に 四角張った る 点 に おいて 自分 の 机 と 同様である 。 せんせい||つくえ||しらき|||てん|||まるはだか|||てん|||||む|しゅみ||しかくばった||てん|||じぶん||つくえ||どうようである 先生 の 顔 は 蒼 い 点 に おいて 瘠せた 点 に おいて 自分 と 同様である 。 せんせい||かお||あお||てん|||やせた|てん|||じぶん||どうようである すべて これら の 諸 点 に おいて 、 先生 と 弟 たり がたく 兄 たり がたき 間柄 に あり ながら 、 しかも 丁寧に 頭 を 下げる の は 、 逼 まられて 仕方 なし に 下げる ので は ない 。 |これ ら||しょ|てん|||せんせい||おとうと|||あに|||あいだがら|||||ていねいに|あたま||さげる|||ひつ|ま られて|しかた|||さげる||| 仕方 ある に も かかわら ず 、 こっち の 好意 を もって 下げる のである 。 しかた||||||||こうい|||さげる| 同類 に 対する 愛 憐 の 念 より 生ずる 真 正 の 御辞儀 である 。 どうるい||たいする|あい|れん||ねん||しょうずる|まこと|せい||おじぎ| 世間 に 対する 御辞儀 は この 野郎 が と 心中 に 思い ながら も 、 公然 に は 反比例 に 丁寧 を 極め たる 虚偽 の 御辞儀 で あります と 断わりたい くらい に 思って 、 高柳 君 は 頭 を 下げた 。 せけん||たいする|おじぎ|||やろう|||しんじゅう||おもい|||こうぜん|||はんぴれい||ていねい||きわめ||きょぎ||おじぎ||あり ます||ことわり たい|||おもって|たかやなぎ|きみ||あたま||さげた 道也 先生 は それ と 覚った か どう か 知ら ぬ 。 みちや|せんせい||||あきら った||||しら| 「 ああ 、 そう です か 、 私 が 白井 道也 で ……」 と つくろった 景色 も なく 云 う 。 ||||わたくし||しらい|みちや||||けしき|||うん| 高柳 君 に は この 挨拶 振り が 気 に 入った 。 たかやなぎ|きみ||||あいさつ|ふり||き||はいった 両人 は しばらく の 間 黙って 控えて いる 。 りょうにん||||あいだ|だまって|ひかえて| 道也 は 相手 の 来 意 が わから ぬ から 、 先方 の 切り出す の を 待つ の が 当然 と 考える 。 みちや||あいて||らい|い|||||せんぽう||きりだす|||まつ|||とうぜん||かんがえる 高柳 君 は 昔 し の 関係 を 残り なく 打ち 開けて 、 一刻 も 早く 同類 相 憐 む の 間柄 に なりたい 。 たかやなぎ|きみ||むかし|||かんけい||のこり||うち|あけて|いっこく||はやく|どうるい|そう|れん|||あいだがら||なり たい しかし あまり 突然である から 、 ちょっと 言い出し かねる 。 ||とつぜんである|||いいだし| のみ なら ず 、 一昔 し 前 の 事 と は 申し ながら 、 自分 達 が いじめて 追い出した 先生 が 、 その ため に かく 零 落した ので は ある まい か と 思う と 、 何となく 気 が ひけて 云 い 切れ ない 。 |||ひとむかし||ぜん||こと|||もうし||じぶん|さとる|||おいだした|せんせい||||||ぜろ|おとした|||||||おもう||なんとなく|き|||うん||きれ| 高柳 君 は こんな ところ に なる と すこぶる 勇気 に 乏しい 。 たかやなぎ|きみ||||||||ゆうき||とぼしい 謝罪 かたがた 尋ね は した が 、 いよいよ と 云 う 段 に なる と 少々 怖くて 罪 滅 し が 出来 かねる 。 しゃざい||たずね||||||うん||だん||||しょうしょう|こわくて|ざい|めつ|||でき| 心 に いろいろな 冒頭 を 作って 見た が 、 どれ も これ も きまり が わるい 。 こころ|||ぼうとう||つくって|みた|||||||| 「 だんだん 寒く なります ね 」 と 道也 先生 は 、 こっち の 了 簡 を 知ら ない から 、 超然 たる 時候 の 挨拶 を する 。 |さむく|なり ます|||みちや|せんせい||||さとる|かん||しら|||ちょうぜん||じこう||あいさつ|| 「 ええ 、 だいぶ 寒く なった ようで ……」 高柳 君 の 脳 中 の 冒頭 は これ で まるで 打ち 壊されて しまった 。 ||さむく|||たかやなぎ|きみ||のう|なか||ぼうとう|||||うち|こわさ れて| いっその事 自白 は この 次に しよう と いう 気 に なる 。 いっそのこと|じはく|||つぎに||||き|| しかし 何だか 話して 行きたい 気 が する 。 |なんだか|はなして|いき たい|き|| 「 先生 御 忙 が しい です か ……」 「 ええ 、 なかなか 忙 が しいん で 弱ります 。 せんせい|ご|ぼう|||||||ぼう||||よわり ます 貧乏 閑 なし で 」 高柳 君 は やり損なった と 思う 。 びんぼう|ひま|||たかやなぎ|きみ||やりそこなった||おもう 再び 出直さ ねば なら ん 。 ふたたび|でなおさ||| 「 少し 御 話 を 承りたい と 思って 上がった んです が ……」 「 は あ 、 何 か 雑誌 へ でも 御 載せ に なる んです か 」 あて は また はずれる 。 すこし|ご|はなし||うけたまわり たい||おもって|あがった|||||なん||ざっし|||ご|のせ|||||||| おれ の 態度 が どうしても 向 に は 酌み 取れ ない と 見える と 青年 は 心中 少し く 残念に 思った 。 ||たいど|||むかい|||くみ|とれ|||みえる||せいねん||しんじゅう|すこし||ざんねんに|おもった 「 いえ 、 そう じゃ ない ので ―― ただ ―― ただっちゃ 失礼です が 。 ||||||ただ っちゃ|しつれいです| ―― 御邪魔 なら また 上がって も よろしゅう ございます が ……」 「 いえ 邪魔じゃ ありません 。 おじゃま|||あがって||||||じゃまじゃ|あり ませ ん 談話 と 云 う から ちょっと 聞いて 見た のです 。 だんわ||うん||||きいて|みた| ―― わたし の うち へ 話 なんか 聞き に くる もの は ありません よ 」 「 いいえ 」 と 青年 は 妙な 言葉 を もって 先生 の 辞 を 否定 した 。 ||||はなし||きき|||||あり ませ ん||||せいねん||みょうな|ことば|||せんせい||じ||ひてい| 「 あなた は 何の 学問 を なさる です か 」 「 文学 の 方 を ―― 今年 大学 を 出た ばかりです 」 「 は あ そうです か 。 ||なんの|がくもん|||||ぶんがく||かた||ことし|だいがく||でた||||そう です| では これ から 何 か お やり に なる んです ね 」 「 やれれば 、 やりたい のです が 、 暇 が なくって ……」 「 暇 は ないで す ね 。 |||なん|||||||||やり たい|||いとま||なく って|いとま|||| わたし など も 暇 が なくって 困って います 。 |||いとま||なく って|こまって|い ます しかし 暇 は かえって ない 方 が いい かも 知れ ない 。 |いとま||||かた||||しれ| 何 です ね 。 なん|| 暇 の ある もの は だいぶ いる ようだ が 、 余り 誰 も 何も やって いない ようじゃ ありません か 」 「 それ は 人 に 依り は しません か 」 と 高柳 君 は おれ が 暇 さえ あれば と 云 う ところ を 暗に ほのめかした 。 いとま|||||||||あまり|だれ||なにも||||あり ませ ん||||じん||より||し ませ ん|||たかやなぎ|きみ||||いとま||||うん||||あんに| 「 人 に も 依る でしょう 。 じん|||よる| しかし 今 の 金持ち と 云 う もの は ……」 と 道也 は 句 を 半分 で 切って 、 机 の 上 を 見た 。 |いま||かねもち||うん|||||みちや||く||はんぶん||きって|つくえ||うえ||みた 机 の 上 に は 二 寸 ほど の 厚 さ の 原稿 が のって いる 。 つくえ||うえ|||ふた|すん|||こう|||げんこう||| 障子 に は 洗濯 した 足袋 の 影 が さす 。 しょうじ|||せんたく||たび||かげ|| 「 金持ち は 駄目です 。 かねもち||だめです 金 が なくって 困って る もの が ……」 「 金 が なくって 困って る もの は 、 困り なり に やれば いい のです 」 と 道也 先生 困って る 癖 に 太平な 事 を 云 う 。 きむ||なく って|こまって||||きむ||なく って|こまって||||こまり|||||||みちや|せんせい|こまって||くせ||たいへいな|こと||うん| 高柳 君 は 少々 不満である 。 たかやなぎ|きみ||しょうしょう|ふまんである 「 しかし 衣食 の ため に 勢力 を とられて しまって ……」 「 それ で いい のです よ 。 |いしょく||||せいりょく||とら れて|||||| 勢力 を とられて しまったら 、 ほか に 何にも し ないで 構わ ない のです 」 青年 は 唖然と して 、 道也 を 見た 。 せいりょく||とら れて||||なんにも|||かまわ|||せいねん||あぜんと||みちや||みた 道也 は 孔子 様 の ように 真面目である 。 みちや||こうし|さま|||まじめである 馬鹿に されて る んじゃ たまらない と 高柳 君 は 思う 。 ばかに|さ れて|||||たかやなぎ|きみ||おもう 高柳 君 は 大抵 の 事 を 馬鹿に さ れた ように 聞き取る 男 である 。 たかやなぎ|きみ||たいてい||こと||ばかに||||ききとる|おとこ| 「 先生 なら いい かも 知れません 」 と つる つる と 口 を 滑ら して 、 はっと 言い 過ぎた と 下 を 向いた 。 せんせい||||しれ ませ ん|||||くち||すべら|||いい|すぎた||した||むいた 道也 は 何とも 思わ ない 。 みちや||なんとも|おもわ| 「 わたし は 無論 いい 。 ||むろん| あなた だって 好 い です よ 」 と 相手 まで も 平気に 捲 き込もう と する 。 ||よしみ|||||あいて|||へいきに|まく|きこもう|| 「 なぜ です か 」 と 二三 歩 逃げて 、 振り向き ながら 佇む 狐 の ように 探り を 入れた 。 ||||ふみ|ふ|にげて|ふりむき||たたずむ|きつね|||さぐり||いれた 「 だって 、 あなた は 文学 を やった と 云 われた じゃ ありません か 。 |||ぶんがく||||うん|||あり ませ ん| そう です か 」 「 ええ やりました 」 と 力 を 入れる 。 ||||やり ました||ちから||いれる すべて 他の 点 に 関して は 断 乎 たる 返事 を する 資格 の ない 高柳 君 は 自己 の 本領 に おいて は 何 人 の 前 に 出て も ひるま ぬ つもりである 。 |たの|てん||かんして||だん|こ||へんじ|||しかく|||たかやなぎ|きみ||じこ||ほんりょう||||なん|じん||ぜん||でて|||| 「 それ なら いい 訳 だ 。 |||やく| それ なら それ で いい 訳 だ 」 と 道也 先生 は 繰り返して 云った 。 |||||やく|||みちや|せんせい||くりかえして|うん った 高柳 君 に は 何の 事か 少しも 分 ら ない 。 たかやなぎ|きみ|||なんの|ことか|すこしも|ぶん|| また 、 なぜ です と 突き 込む の も 、 何だか 伏兵 に 罹 る 気持 が して 厭 である 。 ||||つき|こむ|||なんだか|ふくへい||り||きもち|||いと| ちょっと 手 の つけよう が ない ので 、 黙って 相手 の 顔 を 見た 。 |て||||||だまって|あいて||かお||みた 顔 を 見て いる うち に 、 先方 で どう か 解決 して くれる だろう と 、 暗に 催促 の 意 を 籠 め て 見た のである 。 かお||みて||||せんぽう||||かいけつ|||||あんに|さいそく||い||かご|||みた| 「 分 りました か 」 と 道也 先生 が 云 う 。 ぶん|り ました|||みちや|せんせい||うん| 顔 を 見た の は やっぱり 何の 役 に も 立た なかった 。 かお||みた||||なんの|やく|||たた| 「 どうも 」 と 折れ ざる を 得 ない 。 ||おれ|||とく| 「 だって そうじゃ ありません か 。 |そう じゃ|あり ませ ん| ―― 文学 は ほか の 学問 と は 違う のです 」 と 道也 先生 は 凛 然 と 云 い 放った 。 ぶんがく||||がくもん|||ちがう|||みちや|せんせい||りん|ぜん||うん||はなった 「 は あ 」 と 高柳 君 は 覚え ず 応答 を した 。 |||たかやなぎ|きみ||おぼえ||おうとう|| 「 ほか の 学問 は です ね 。 ||がくもん||| その 学問 や 、 その 学問 の 研究 を 阻害 する もの が 敵 である 。 |がくもん|||がくもん||けんきゅう||そがい||||てき| たとえば 貧 と か 、 多忙 と か 、 圧迫 と か 、 不幸 と か 、 悲酸 な 事情 と か 、 不和 と か 、 喧嘩 と か です ね 。 |ひん|||たぼう|||あっぱく|||ふこう|||ひさん||じじょう|||ふわ|||けんか|||| これ が ある と 学問 が 出来 ない 。 ||||がくもん||でき| だから なるべく これ を 避けて 時 と 心 の 余裕 を 得よう と する 。 ||||さけて|じ||こころ||よゆう||えよう|| 文学 者 も 今 まで は やはり そう 云 う 了 簡 で いた のです 。 ぶんがく|もの||いま|||||うん||さとる|かん||| そう 云 う 了 簡 どころ で は ない 。 |うん||さとる|かん|||| あらゆる 学問 の うち で 、 文学 者 が 一 番 呑気 な 閑日 月 が なくて は なら ん ように 思われて いた 。 |がくもん||||ぶんがく|もの||ひと|ばん|のんき||ひまにち|つき|||||||おもわ れて| おかしい の は 当人 自身 まで が その 気 で いた 。 |||とうにん|じしん||||き|| しかし それ は 間違 です 。 |||まちが| 文学 は 人生 そのもの である 。 ぶんがく||じんせい|その もの| 苦痛 に あれ 、 困窮 に あれ 、 窮 愁 に あれ 、 凡そ 人生 の 行 路 に あたる もの は すなわち 文学 で 、 それ ら を 甞 め 得た もの が 文学 者 である 。 くつう|||こんきゅう|||きゅう|しゅう|||およそ|じんせい||ぎょう|じ||||||ぶんがく|||||しょう||えた|||ぶんがく|もの| 文学 者 と 云 うの は 原稿 紙 を 前 に 置いて 、 熟語 字典 を 参考 して 、 首 を ひねって いる ような 閑人 じゃ ありません 。 ぶんがく|もの||うん|||げんこう|かみ||ぜん||おいて|じゅくご|じてん||さんこう||くび|||||かんじん||あり ませ ん 円熟 して 深 厚 な 趣味 を 体して 、 人間 の 万事 を 臆 面 なく 取り 捌 いたり 、 感得 したり する 普通 以上 の 吾々 を 指す のであります 。 えんじゅく||ふか|こう||しゅみ||たいして|にんげん||ばんじ||おく|おもて||とり|はち||かんとく|||ふつう|いじょう||われ々||さす|のであり ます その 取り 捌 き 方 や 感得 し 具合 を 紙 に 写した の が 文学 書 に なる のです 、 だから 書物 は 読ま ない でも 実際 その 事 に あたれば 立派な 文学 者 です 。 |とり|はち||かた||かんとく||ぐあい||かみ||うつした|||ぶんがく|しょ|||||しょもつ||よま|||じっさい||こと|||りっぱな|ぶんがく|もの| したがって ほか の 学問 が でき 得る 限り 研究 を 妨害 する 事物 を 避けて 、 しだいに 人 世に 遠 かる に 引き 易 えて 文学 者 は 進んで この 障害 の なか に 飛び込む のであります 」 「 なるほど 」 と 高柳 君 は 妙な 顔 を して 云った 。 |||がくもん|||える|かぎり|けんきゅう||ぼうがい||じぶつ||さけて||じん|よに|とお|||ひき|やす||ぶんがく|もの||すすんで||しょうがい||||とびこむ|のであり ます|||たかやなぎ|きみ||みょうな|かお|||うん った 「 あなた は 、 そう は 考えません か 」 そう 考える に も 、 考えぬ に も 生れて 始めて 聞いた 説 である 。 ||||かんがえ ませ ん|||かんがえる|||かんがえぬ|||うまれて|はじめて|きいた|せつ| 批評 的 の 返事 が 出る とき は 大抵 用意 の ある 場合 に 限る 。 ひひょう|てき||へんじ||でる|||たいてい|ようい|||ばあい||かぎる 不意 撃 に 応ずる 事 が 出来れば 不意 撃 で は ない 。 ふい|う||おうずる|こと||できれば|ふい|う||| 「 ふうん 」 と 云って 高柳 君 は 首 を 低 れた 。 ||うん って|たかやなぎ|きみ||くび||てい| 文学 は 自己 の 本領 である 。 ぶんがく||じこ||ほんりょう| 自己 の 本領 に ついて 、 他人 が 答弁 さえ 出来 ぬ ほど の 説 を 吐く ならば その 本領 は あまり 鞏固 な もの で は ない 。 じこ||ほんりょう|||たにん||とうべん||でき||||せつ||はく|||ほんりょう|||きょうこ||||| 道也 先生 さえ 、 こんな 見 すぼ らしい 家 に 住んで 、 こんな 、 きたな らしい 着物 を きて いる ならば 、 おれ は 当然 二十 円 五十 銭 の 月給 で 沢山だ と 思った 。 みちや|せんせい|||み|||いえ||すんで||||きもの|||||||とうぜん|にじゅう|えん|ごじゅう|せん||げっきゅう||たくさんだ||おもった 何だか 急に 広い 世界 へ 引き出さ れた ような 感じ が する 。 なんだか|きゅうに|ひろい|せかい||ひきださ|||かんじ|| 「 先生 は だいぶ 御 忙しい ようです が ……」 「 ええ 。 せんせい|||ご|いそがしい||| 進んで 忙しい 中 へ 飛び込んで 、 人 から 見る と 酔 興 な 苦労 を します 。 すすんで|いそがしい|なか||とびこんで|じん||みる||よ|きょう||くろう||し ます ハハハハ 」 と 笑う 。 ||わらう これ なら 苦労 が 苦労に たた ない 。 ||くろう||くろうに|| 「 失礼 ながら 今 は どんな 事 を やって おいで で ……」 「 今 です か 、 ええ いろいろな 事 を やります よ 。 しつれい||いま|||こと|||||いま|||||こと||やり ます| 飯 を 食う 方 と 本領 の 方 と 両方 やろう と する から なかなか 骨 が 折れます 。 めし||くう|かた||ほんりょう||かた||りょうほう||||||こつ||おれ ます 近頃 は 頼まれて よく 方々 へ 談話 の 筆記 に 行きます が ね 」 「 随分 御 面倒でしょう 」 「 面倒 と 云 いや 、 面倒です が ね 。 ちかごろ||たのま れて||ほうぼう||だんわ||ひっき||いき ます|||ずいぶん|ご|めんどうでしょう|めんどう||うん||めんどうです|| そう 面倒 と 云 う より むしろ 馬鹿 気 ています 。 |めんどう||うん||||ばか|き|てい ます まあ いい加減に 書いて は 来ます が 」 「 なかなか 面白い 事 を 云 うの が おりましょう 」 と 暗に 中野 春 台 の 事 を 釣り 出そう と する 。 |いいかげんに|かいて||き ます|||おもしろい|こと||うん|||おり ましょう||あんに|なかの|はる|だい||こと||つり|だそう|| 「 面白い の 何のって 、 この 間 は うま 、 うま の 講釈 を 聞か さ れました 」 「 うま 、 うま です か ? おもしろい||なんの って||あいだ|||||こうしゃく||きか||れ ました|||| 」 「 ええ 、 あの 小 供 が 食物 の 事 を うまう まと 云 いましょう 。 ||しょう|とも||しょくもつ||こと||||うん|い ましょう あれ の 来歴 です ね 。 ||らいれき|| その 人 の 説 に よる と 小 供 が 舌 が 回り 出して から 一 番 早く 出る 発音 が うまう ま だ そうです 。 |じん||せつ||||しょう|とも||した||まわり|だして||ひと|ばん|はやく|でる|はつおん|||||そう です それ で その 時分 は 何 を 見て もう ま うま 、 何 を 見 なくって も うまう まだ から つまり は 何にも つけ なくて も いい のだ そう だ が 、 そこ が 小 供 に 取って 一 番 大切な もの は 食物 だ から 、 とうとう 食物 の 方 で 、 うま うま を 専有 して しまった のだ そうです 。 |||じぶん||なん||みて||||なん||み|なく って|||||||なんにも|||||||||||しょう|とも||とって|ひと|ばん|たいせつな|||しょくもつ||||しょくもつ||かた|||||せんゆう||||そう です そこ で 大人 も その 癖 が のこって 、 美味な もの を うまい と 云 う ように なった 。 ||おとな|||くせ|||びみな|||||うん||| だから 人生 の 煩 悶 は 要するに 元 へ 還って うま うま の 二 字 に 帰着 する と 云 う のです 。 |じんせい||わずら|もん||ようするに|もと||かえって||||ふた|あざ||きちゃく|||うん|| 何だか 寄席 へ でも 行った ようじゃ ない です か 」 「 馬鹿に して います ね 」 「 ええ 、 大抵 は 馬鹿に さ れ に 行く んです よ 」 「 しかし そんな つまらない 事 を 云 うって 失敬です ね 」 「 なに 、 失敬 だって いい で さあ 、 どうせ 、 分 ら ない んだ から 。 なんだか|よせ|||おこなった|||||ばかに||い ます|||たいてい||ばかに||||いく||||||こと||うん||しっけいです|||しっけい||||||ぶん|||| そう か と 思う と ね 。 |||おもう|| 非常に 真面目だ けれども なかなか 突飛な の が あって ね 。 ひじょうに|まじめだ|||とっぴな|||| この 間 は 猛烈な 恋愛 論 を 聞か さ れました 。 |あいだ||もうれつな|れんあい|ろん||きか||れ ました もっとも 若い 人 です が ね 」 「 中野 じゃ ありません か 」 「 君 、 知ってます か 。 |わかい|じん||||なかの||あり ませ ん||きみ|しって ます| ありゃ 熱心な もの だった 」 「 私 の 同級 生 です 」 「 ああ 、 そう です か 。 |ねっしんな|||わたくし||どうきゅう|せい||||| 中野 春 台 と か 云 う 人 です ね 。 なかの|はる|だい|||うん||じん|| よっぽど 暇 が ある んでしょう 。 |いとま||| あんな 事 を 真面目に 考えて いる くらい だ から 」 「 金持ち です 」 「 うん 立派な 家 に います ね 。 |こと||まじめに|かんがえて|||||かねもち|||りっぱな|いえ||い ます| 君 は あの 男 と 親密な のです か 」 「 ええ 、 もと は ごく 親密でした 。 きみ|||おとこ||しんみつな|||||||しんみつでした しかし どうも いかんです 。 近頃 は ―― 何だか ―― 未来 の 細 君 か 何 か 出来た んで 、 あんまり 交際 して くれ ない のです 」 「 いい でしょう 。 ちかごろ||なんだか|みらい||ほそ|きみ||なん||できた|||こうさい|||||| 交際 し なくって も 。 こうさい||なく って| 損に も なり そう も ない 。 そんに||||| ハハハハハ 」 「 何だか しか し 、 こう 、 一 人 坊っち の ような 気 が して 淋しくって いけません 」 「 一 人 坊っち で 、 いい で さあ 」 と 道也 先生 また いい で さあ を 担ぎ出した 。 |なんだか||||ひと|じん|ぼう っち|||き|||さびしく って|いけ ませ ん|ひと|じん|ぼう っち||||||みちや|せんせい||||||かつぎだした 高柳 君 は もう 「 先生 なら いい でしょう 」 と 突き 込む 勇気 が 出 なかった 。 たかやなぎ|きみ|||せんせい|||||つき|こむ|ゆうき||だ| 「 昔 から 何 か しよう と 思えば 大概 は 一 人 坊っち に なる もの です 。 むかし||なん||||おもえば|たいがい||ひと|じん|ぼう っち|||| そんな 一 人 の 友達 を たより に する ようじゃ 何も 出来ません 。 |ひと|じん||ともだち||||||なにも|でき ませ ん ことに よる と 親類 と も 仲違 に なる 事 が 出来て 来ます 。 |||しんるい|||なかたがい|||こと||できて|き ます 妻 に まで 馬鹿に さ れる 事 が あります 。 つま|||ばかに|||こと||あり ます しまい に 下 女 まで からかいます 」 「 私 は そんなに なったら 、 不愉快で 生きて いられ ない だろう と 思います 」 「 それ じゃ 、 文学 者 に は なれ ないで す 」 高柳 君 は だまって 下 を 向いた 。 ||した|おんな||からかい ます|わたくし||||ふゆかいで|いきて|いら れ||||おもい ます|||ぶんがく|もの||||||たかやなぎ|きみ|||した||むいた 「 わたし も 、 あなた ぐらい の 時 に は 、 ここ まで と は 考えて い なかった 。 |||||じ|||||||かんがえて|| しかし 世の中 の 事実 は 実際 ここ まで やって 来る んです 。 |よのなか||じじつ||じっさい||||くる| うそ じゃ ない 。 苦しんだ の は 耶蘇 ( ヤソ ) や 孔子 ばかり で 、 吾々 文学 者 は その 苦しんだ 耶蘇 や 孔子 を 筆 の 先 で ほめて 、 自分 だけ は 呑気 に 暮して 行けば いい のだ など と 考えて る の は 偽 文学 者 です よ 。 くるしんだ|||やそ|||こうし|||われ々|ぶんがく|もの|||くるしんだ|やそ||こうし||ふで||さき|||じぶん|||のんき||くらして|いけば|||||かんがえて||||ぎ|ぶんがく|もの|| そんな もの は 耶蘇 や 孔子 を ほめる 権利 は ない のです 」 高柳 君 は 今 こそ 苦しい が 、 もう 少し 立てば 喬木 に うつる 時節 が ある だろう と 、 苦しい うち に 絹糸 ほど な 細い 望み を 繋いで いた 。 |||やそ||こうし|||けんり||||たかやなぎ|きみ||いま||くるしい|||すこし|たてば|たかぎ|||じせつ|||||くるしい|||きぬいと|||ほそい|のぞみ||つないで| その 絹糸 が 半分 ばかり 切れて 、 暗い 谷 から 上 へ 出る たより は 、 生きて いる うち は 容易に 来 そうに 思わ れ なく なった 。 |きぬいと||はんぶん||きれて|くらい|たに||うえ||でる|||いきて||||よういに|らい|そう に|おもわ||| 「 高柳 さん 」 「 はい 」 「 世の中 は 苦しい もの です よ 」 「 苦しい です 」 「 知ってます か 」 と 道也 先生 は 淋し 気 に 笑った 。 たかやなぎ|||よのなか||くるしい||||くるしい||しって ます|||みちや|せんせい||さびし|き||わらった 「 知って る つもりです けれど 、 いつまでも こう 苦しくっちゃ ……」 「 やり 切れません か 。 しって||||||くるしくっちゃ||きれ ませ ん| あなた は 御 両親 が 御 在りか 」 「 母 だけ 田舎 に います 」 「 おっか さん だけ ? ||ご|りょうしん||ご|ありか|はは||いなか||い ます|お っか|| 」 「 ええ 」 「 御 母さん だけ でも あれば 結構だ 」 「 なかなか 結構で ない です 。 |ご|かあさん||||けっこうだ||けっこうで|| ―― 早く どうかして やら ない と 、 もう 年 を 取って います から 。 はやく||||||とし||とって|い ます| 私 が 卒業 したら 、 どう か 出来る だろう と 思って た のです が ……」 「 さよう 、 近頃 の ように 卒業 生 が 殖 えちゃ 、 ちょっと 、 口 を 得る の が 困難です ね 。 わたくし||そつぎょう||||できる|||おもって|||||ちかごろ|||そつぎょう|せい||しょく|||くち||える|||こんなんです| ―― どう です 、 田舎 の 学校 へ 行く 気 は ない です か 」 「 時々 は 田舎 へ 行こう と も 思う んです が ……」 「 また いやに なる か ね 。 ||いなか||がっこう||いく|き|||||ときどき||いなか||いこう|||おもう||||||| ―― そう さ 、 あまり 勧められ も し ない 。 |||すすめ られ||| 私 も 田舎 の 学校 は だいぶ 経験 が ある が 」 「 先生 は ……」 と 言い かけた が 、 また 昔 の 事 を 云 い 出し にくく なった 。 わたくし||いなか||がっこう|||けいけん||||せんせい|||いい||||むかし||こと||うん||だし|| 「 ええ ? 」 と 道也 は 何も 知ら ぬ 気 である 。 |みちや||なにも|しら||き| 「 先生 は ―― あの ―― 江 湖 雑誌 を 御 編 輯 に なる と 云 う 事 です が 、 本当に そう な んで 」 「 ええ 、 この 間 から 引き受けて やって います 」 「 今月 の 論説 に 解脱 と 拘泥 と 云 うの が ありました が 、 あの 憂世 子 と 云 うの は ……」 「 あれ は 、 わたし です 。 せんせい|||こう|こ|ざっし||ご|へん|しゅう||||うん||こと|||ほんとうに||||||あいだ||ひきうけて||い ます|こんげつ||ろんせつ||げだつ||こうでい||うん|||あり ました|||ゆうよ|こ||うん|||||| 読みました か 」 「 ええ 、 大変 面白く 拝見 しました 。 よみ ました|||たいへん|おもしろく|はいけん|し ました そう 申しちゃ 失礼です が 、 あれ は 私 の 云 いたい 事 を 五六 段 高く して 、 表出 した ような もの で 、 利益 を 享 けた 上 に 痛快に 感じました 」 「 それ は ありがたい 。 |もうしちゃ|しつれいです||||わたくし||うん|い たい|こと||ごろく|だん|たかく||ひょうしゅつ|||||りえき||あきら||うえ||つうかいに|かんじ ました||| それ じゃ 君 は 僕 の 知己 です ね 。 ||きみ||ぼく||ちき|| 恐らく 天下 唯一 の 知己 かも 知れ ない 。 おそらく|てんか|ゆいいつ||ちき||しれ| ハハハハ 」 「 そんな 事 は ない でしょう 」 と 高柳 君 は やや 真面目に 云った 。 ||こと|||||たかやなぎ|きみ|||まじめに|うん った 「 そう です か 、 それ じゃ なお 結構だ 。 ||||||けっこうだ しかし 今 まで 僕 の 文章 を 見て ほめて くれた もの は 一 人 も ない 。 |いま||ぼく||ぶんしょう||みて|||||ひと|じん|| 君 だけ です よ 」 「 これ から 皆 んな 賞 め る つもりです 」 「 ハハハハ そう 云 う 人 が せめて 百 人 も いて くれる と 、 わたし も 本望 だ が ―― 随分 頓珍 漢 な 事 が あります よ 。 きみ||||||みな||しょう||||||うん||じん|||ひゃく|じん|||||||ほんもう|||ずいぶん|とんちん|かん||こと||あり ます| この 間 なんか 妙な 男 が 尋ねて 来て ね 。 |あいだ||みょうな|おとこ||たずねて|きて| ……」 「 何 です か 」 「 なあ に 商人 です が ね 。 なん|||||しょうにん||| どこ から 聞いて 来た か 、 わたし に 、 あなた は 雑誌 を やって おいで だ そうだ が 文章 を 御 書き なさる だろう と 云 う のです 」 「 へえ 」 「 書く 事 は 書く と まあ 云った んです 。 ||きいて|きた||||||ざっし|||||そう だ||ぶんしょう||ご|かき||||うん||||かく|こと||かく|||うん った| すると ね その 男 が どうぞ 一 つ 、 眼 薬 の 広告 を かいて もらいたい と 云 うん です 」 「 馬鹿な 奴 です ね 」 「 その代り 雑誌 へ 眼 薬 の 広告 を 出す から 是非 一 つ 願いたいって ―― 何でも 点 明 水 と か 云 う 名 です が ね ……」 「 妙な 名 を つけて ――。 |||おとこ|||ひと||がん|くすり||こうこく|||もらい たい||うん|||ばかな|やつ|||そのかわり|ざっし||がん|くすり||こうこく||だす||ぜひ|ひと||ねがい たい って|なんでも|てん|あき|すい|||うん||な||||みょうな|な|| 御 書き に なった んです か 」 「 いえ 、 とうとう 断わりました が ね 。 ご|かき|||||||ことわり ました|| それ で まだ おかしい 事 が ある のです よ 。 ||||こと|||| その 薬屋 で 売出 し の 日 に 大きな 風船 を 揚げる んだ と 云 う のです 」 「 御 祝い の ため です か 」 「 いえ 、 やはり 広告 の ため に 。 |くすりや||うりだし|||ひ||おおきな|ふうせん||あげる|||うん|||ご|いわい|||||||こうこく||| ところが 風船 は 声 も 出さ ず に 高い 空 を 飛んで いる のだ から 、 仰向けば 誰 に でも 見える が 、 仰向か せ なくっちゃ いけない でしょう 」 「 へえ 、 なるほど 」 「 それ で わたし に その 、 仰向か せ の 役 を やって くれって 云 う のです 」 「 どう する のです 」 「 何 、 往来 を あるいて いて も 、 電車 へ 乗って いて も いい から 、 風船 を 見たら 、 おや 風船 だ 風船 だ 、 何でも ありゃ 点 明 水 の 広告 に 違いないって 何遍 も 何遍 も 云 う のだ そうです 」 「 ハハハ 随分 思い切って 人 を 馬鹿に した 依頼 です ね 」 「 おかしく も あり 馬鹿馬鹿しく も ある が 、 何も それ だけ の 事 を する に は わたし で なくて も よかろう 。 |ふうせん||こえ||ださ|||たかい|から||とんで||||あおむけば|だれ|||みえる||あおむか||||||||||||あおむか|||やく|||くれ って|うん||||||なん|おうらい|||||でんしゃ||のって|||||ふうせん||みたら||ふうせん||ふうせん||なんでも||てん|あき|すい||こうこく||ちがいない って|なんべん||なんべん||うん|||そう です||ずいぶん|おもいきって|じん||ばかに||いらい||||||ばかばかしく||||なにも||||こと||||||||| 車 引 でも 雇えば 訳ない じゃ ない か と 聞いて 見た のです 。 くるま|ひ||やとえば|わけない|||||きいて|みた| すると その 男 が ね 。 ||おとこ|| いえ 、 車 引 な ん ぞ ばかり で は 信用 が な くって いけません 。 |くるま|ひ|||||||しんよう||||いけ ませ ん やっぱり 髭 でも 生やして もっともらしい 顔 を した 人 に 頼ま ない と 、 人 が だまさ れません から と 云 う のです 」 「 実に 失敬な 奴 です ね 。 |ひげ||はやして||かお|||じん||たのま|||じん|||れ ませ ん|||うん|||じつに|しっけいな|やつ|| 全体 何物 でしょう 」 「 何物って やはり 普通の 人間 です よ 。 ぜんたい|なにもの||なにもの って||ふつうの|にんげん|| 世の中 を だます ため に 人 を 雇い に 来た のです 。 よのなか|||||じん||やとい||きた| 呑気 な も の さ ハハハハ 」 「 どうも 驚 ろ いち まう 。 のんき|||||||おどろ||| 私 なら 撲 ぐって やる 」 「 そんな の を 撲った 日 に ゃ 片っ端から 撲 ら なくっちゃ あ なら ない 。 わたくし||ぼく|ぐ って|||||ぼく った|ひ|||かたっぱしから|ぼく||||| 君 そう 怒る が 、 今 の 世の中 は そんな 男 ばかり で 出来て る んです よ 」 高柳 君 は まさか と 思った 。 きみ||いかる||いま||よのなか|||おとこ|||できて||||たかやなぎ|きみ||||おもった 障子 に さした 足袋 の 影 は いつしか 消えて 、 開け放った 一 枚 の 間 から 、 靴 刷 毛 の 端 が 見える 。 しょうじ|||たび||かげ|||きえて|あけはなった|ひと|まい||あいだ||くつ|す|け||はし||みえる 椽 は 泥 だらけ である 。 たるき||どろ|| 手 の 平 ほど な 庭 の 隅 に 一 株 の 菊 が 、 清らかに 先生 の 貧 を 照らして いる 。 て||ひら|||にわ||すみ||ひと|かぶ||きく||きよらかに|せんせい||ひん||てらして| 自然 を どうでも いい と 思って いる 高柳 君 も この 菊 だけ は 美 くし い と 感じた 。 しぜん|||||おもって||たかやなぎ|きみ|||きく|||び||||かんじた 杉 垣 の 遥か 向 に 大きな 柿 の 木 が 見えて 、 空 の なか へ 五 分 珠 の 珊瑚 を かためて 嵌め込んだ ように 奇麗に 赤く 映る 。 すぎ|かき||はるか|むかい||おおきな|かき||き||みえて|から||||いつ|ぶん|しゅ||さんご|||はめこんだ||きれいに|あかく|うつる 鳴子 の 音 が して 烏 が ぱっと 飛んだ 。 なるこ||おと|||からす|||とんだ 「 閑静な 御 住居 です ね 」 「 ええ 。 かんせいな|ご|じゅうきょ||| 蛸 寺 の 和尚 が 烏 を 追って いる んです 。 たこ|てら||おしょう||からす||おって|| 毎日 が らん がらん 云 わして 、 烏 ばかり 追って いる 。 まいにち||||うん||からす||おって| ああ 云 う 生涯 も 閑静で いい な 」 「 大変 たくさん 柿 が 生って います ね 」 「 渋 柿 です よ 。 |うん||しょうがい||かんせいで|||たいへん||かき||せい って|い ます||しぶ|かき|| あの 和尚 は 何 が 惜しくて 、 ああ 渋 柿 の 番 ばかり する の か な 。 |おしょう||なん||おしくて||しぶ|かき||ばん||||| ―― 君 妙な 咳 を 時々 する が 、 身体 は 丈夫です か 。 きみ|みょうな|せき||ときどき|||からだ||じょうぶです| だいぶ 瘠せて る ようじゃ ありません か 。 |やせて|||あり ませ ん| そう 瘠せて ちゃ いか ん 。 |やせて||| 身体 が 資本 だ から 」 「 しかし 先生 だって 随分 瘠せて いらっしゃる じゃ ありません か 」 「 わたし ? からだ||しほん||||せんせい||ずいぶん|やせて|||あり ませ ん|| わたし は 瘠せて いる 。 ||やせて| 瘠せて は いる が 大丈夫 」 やせて||||だいじょうぶ