8.1 或る 女
日 の 光 が とっぷり と 隠れて しまって 、 往来 の 灯 ばかり が 足 もと の たより と なる ころ 、 葉子 は 熱病 患者 の ように 濁り きった 頭 を もてあまして 、 車 に 揺られる たび ごと に 眉 を 痛々しく しかめ ながら 、 釘 店 に 帰って 来た 。 ・・
玄関 に は いろいろの 足 駄 や 靴 が ならべて あった が 、 流行 を 作ろう 、 少なくとも 流行 に 遅れ まい と いう はなやかな 心 を 誇る らしい 履物 と いって は 一 つ も 見当たら なかった 。 自分 の 草履 を 始末 し ながら 、 葉子 は すぐに 二 階 の 客間 の 模様 を 想像 して 、 自分 の ため に 親戚 や 知人 が 寄って 別れ を 惜しむ と いう その 席 に 顔 を 出す の が 、 自分 自身 を ばかに しきった こと の ように しか 思わ れ なかった 。 こんな くらい なら 定子 の 所 に でも いる ほう が よほど ましだった 。 こんな 事 の ある はずだった の を どうして また 忘れて いた もの だろう 。 どこ に いる の も いやだ 。 木部 の 家 を 出て 、 二度と は 帰る まい と 決心 した 時 の ような 心持ち で 、 拾い かけた 草履 を たたき に 戻そう と した その 途端 に 、・・
「 ねえさん もう いや …… いや 」・・
と いい ながら 、 身 を 震わして やにわに 胸 に 抱きついて 来て 、 乳 の 間 の くぼみ に 顔 を 埋め ながら 、 成人 の する ような 泣きじゃくり を して 、・・
「 もう 行っちゃ いやです と いう のに 」・・
と からく 言葉 を 続けた の は 貞 世 だった 。 葉子 は 石 の ように 立ちすくんで しまった 。 貞 世 は 朝 から ふきげんに なって だれ の いう 事 も 耳 に は 入れ ず に 、 自分 の 帰る の ばかり を 待ちこがれて いた に 違いない のだ 。 葉子 は 機械 的に 貞 世に 引っぱられて 階子 段 を のぼって 行った 。 ・・
階子 段 を のぼり きって 見る と 客間 は しんと して いて 、 五十川 女史 の 祈祷 の 声 だけ が おごそかに 聞こえて いた 。 葉子 と 貞 世 と は 恋人 の ように 抱き合い ながら 、 アーメン と いう 声 の 一座 の 人々 から あげられる の を 待って 室 に はいった 。 列 座 の 人々 は まだ 殊勝 らしく 頭 を うなだれて いる 中 に 、 正座 近く すえられた 古藤 だけ は 昂 然 と 目 を 見開いて 、 襖 を あけて 葉子 が しとやかに は いって 来る の を 見まもって いた 。 ・・
葉子 は 古藤 に ちょっと 目 で 挨拶 を して 置いて 、 貞 世 を 抱いた まま 末 座 に 膝 を ついて 、 一同 に 遅刻 の わび を しよう と して いる と 、 主人 座 に すわり込んで いる 叔父 が 、 わが 子 でも たしなめる ように 威儀 を 作って 、・・
「 なん たら おそい 事 じゃ 。 きょう は お前 の 送別 会 じゃ ぞい 。 …… 皆さん に いこう お 待た せ する が す まん から 、 今 五十川 さん に 祈祷 を お 頼み 申して 、 箸 を 取って いただこう と 思った ところ であった …… いったい どこ を ……」・・
面 と 向かって は 、 葉子 に 口 小言 一 つ いいきら ぬ 器量 なし の 叔父 が 、 場所 も おり も あろう に こんな 場合 に 見せびらかし を しよう と する 。 葉子 は そっち に 見向き も せ ず 、 叔父 の 言葉 を 全く 無視 した 態度 で 急に 晴れやかな 色 を 顔 に 浮かべ ながら 、・・
「 ようこそ 皆様 …… おそく なり まして 。 つい 行か なければ なら ない 所 が 二 つ 三 つ ありました もん です から ……」・・
と だれ に と も なく いって おいて 、 するする と 立ち上がって 、 釘 店 の 往来 に 向いた 大きな 窓 を 後ろ に した 自分 の 席 に 着いて 、 妹 の 愛子 と 自分 と の 間 に 割り込んで 来る 貞 世 の 頭 を なで ながら 、 自分 の 上 に ばかり 注が れる 満 座 の 視線 を 小 うるさ そうに 払いのけた 。 そして 片方 の 手 で だいぶ 乱れた 鬢 の ほつれ を かき上げて 、 葉子 の 視線 は 人 も な げ に 古藤 の ほう に 走った 。 ・・
「 しばらく でした の ね …… とうとう 明朝 に なり まして よ 。 木村 に 持って行く もの は 、 一緒に お 持ち に なって ? …… そう 」・・
と 軽い 調子 で いった ので 、 五十川 女史 と 叔父 と が 切り出そう と した 言葉 は 、 物 の みごとに さえぎられて しまった 。 葉子 は 古藤 に それ だけ の 事 を いう と 、 今度 は 当の 敵 と も いう べき 五十川 女史 に 振り向いて 、・・
「 おば さま 、 きょう 途中 で それ は おかしな 事 が ありました の よ 。 こう な んです の 」・・
と いい ながら 男女 を あわせて 八 人 ほど 居ならんだ 親類 たち に ずっと 目 を 配って 、・・
「 車 で 駆け 通った んです から 前 も 後 も よく は わから ない んです けれども 、 大 時計 の かどの 所 を 広小路 に 出よう と したら 、 その かどにたいへんな 人だかり です の 。 なんだ と 思って 見て みます と ね 、 禁酒 会 の 大道 演説 で 、 大きな 旗 が 二三 本 立って いて 、 急ごしらえの テーブル に 突っ立って 、 夢中に なって 演説 して いる 人 が ある んです の 。 それ だけ なら 何も 別に 珍しい と いう 事 は ない んです けれども 、 その 演説 を して いる 人 が …… だれ だ と お 思い に なって …… 山脇 さん です の 」・・
一同 の 顔 に は 思わず 知ら ず 驚き の 色 が 現われて 、 葉子 の 言葉 に 耳 を そばだてて いた 。 先刻 しかつめらしい 顔 を した 叔父 は もう 白 痴 の ように 口 を あけた まま で 薄 笑い を もらし ながら 葉子 を 見つめて いた 。 ・・
「 それ が また ね 、 いつも の とおり に 金 時 の ように 首筋 まで まっ赤 です の 。 『 諸君 』 と か なんとか いって 大手 を 振り 立てて しゃべって いる の を 、 肝心の 禁酒 会員 たち は あっけ に 取られて 、 黙った まま 引きさがって 見て いる んです から 、 見物人 がわ いわい と おもしろがって たかって いる の も 全く もっともです わ 。 その うち に 、 あ 、 叔父さん 、 箸 を お つけ に なる ように 皆様 に おっしゃって ください まし 」・・
叔父 が あわてて 口 の 締まり を して 仏頂面 に 立ち返って 、 何 か いおう と する と 、 葉子 は また それ に は 頓着 なく 五十川 女史 の ほう に 向いて 、・・
「 あの 肩 の 凝り は すっかり お なおり に なり まして 」・・
と いった ので 、 五十川 女史 の 答えよう と する 言葉 と 、 叔父 の いい出そう と する 言葉 は 気まずく も 鉢合わせ に なって 、 二 人 は 所在な げ に 黙って しまった 。 座敷 は 、 底 の ほう に 気持ち の 悪い 暗 流 を 潜め ながら 造り 笑い を し 合って いる ような 不快な 気分 に 満たさ れた 。 葉子 は 「 さあ 来い 」 と 胸 の 中 で 身構え を して いた 。 五十川 女史 の そば に すわって 、 神経質 らしく 眉 を きらめか す 中 老 の 官吏 は 、 射る ような いまいまし げ な 眼光 を 時々 葉子 に 浴びせ かけて いた が 、 いたたまれない 様子 で ちょっと 居ずまい を なおす と 、 ぎくしゃく した 調子 で 口 を きった 。 ・・
「 葉子 さん 、 あなた も いよいよ 身 の かたまる 瀬戸ぎわ まで こぎ 付けた んだ が ……」・・
葉子 は すき を 見せたら 切り返す から と いわ ん ばかりな 緊張 した 、 同時に 物 を 物 と も し ない ふうで その 男 の 目 を 迎えた 。 ・・
「 何しろ わたし ども 早月 家 の 親類 に 取って は こんな めでたい 事 は まず ない 。 無い に は 無い が これ から が あなた に 頼み 所 だ 。 どうぞ 一 つ わたし ども の 顔 を 立てて 、 今度 こそ は 立派な 奥さん に なって お もらい したい が いかがです 。 木村 君 は わたし も よく 知っと る が 、 信仰 も 堅い し 、 仕事 も 珍しく はきはき できる し 、 若い に 似合わ ぬ 物 の わかった 仁 だ 。 こんな こと まで 比較 に 持ち出す の は どう か 知ら ない が 、 木部 氏 の ような 実行 力 の 伴わ ない 夢想 家 は 、 わたし など は 初め から 不 賛成 だった 。 今度 の はじたい 段 が 違う 。 葉子 さん が 木部 氏 の 所 から 逃げ 帰って 来た 時 に は 、 わたし も けしからん と いった 実は 一 人 だ が 、 今に なって 見る と 葉子 さん は さすが に 目 が 高かった 。 出て 来て おいて 誠に よかった 。 いまに 見なさ い 木村 と いう 仁 なりゃ 、 立派に 成功 して 、 第 一流 の 実業 家 に 成り 上がる に きまって いる 。 これ から は なんといっても 信用 と 金 だ 。 官界 に 出 ない の なら 、 どうしても 実業 界 に 行か なければ うそ だ 。 擲 身 報国 は 官吏 たる もの の 一 特権 だ が 、 木村 さん の ような まじめな 信者 に し こ たま 金 を 造って もらわ んじゃ 、 神 の 道 を 日本 に 伝え 広げる に して から が 容易な 事 じゃ ありません よ 。 あなた も 小さい 時 から 米国 に 渡って 新聞 記者 の 修業 を する と 口ぐせ の ように 妙な 事 を いった もん だ が ( ここ で 一座 の 人 は なんの 意味 も なく 高く 笑った 。 おそらくは あまり しかつめらしい 空気 を 打ち破って 、 なんとか そこ に 余裕 を つける つもり が 、 みんな に 起こった のだろう けれども 、 葉子 に とって は それ が そう は 響か なかった 。 その 心持ち は わかって も 、 そんな 事 で 葉子 の 心 を はぐらかそう と する 彼ら の 浅はか さ が ぐっと 癪 に さわった ) 新聞 記者 は ともかくも …… じゃ ない 、 そんな もの に なられて は 困り きる が ( ここ で 一座 は また わけ も なく ばからしく 笑った ) 米国 行き の 願い は たしかに かなった のだ 。 葉子 さん も 御 満足に 違いなかろう 。 あと の 事 は わたし ども が たしかに 引き受けた から 心配 は 無用に して 、 身 を しめて 妹 さん 方 の しめし に も なる ほど の 奮発 を 頼みます …… え ゝ と 、 財産 の ほう の 処分 は わたし と 田中 さん と で 間違い なく 固める し 、 愛子 さん と 貞 世 さん の お 世話 は 、 五十川 さん 、 あなた に お 願い し ようじゃ ありません か 、 御 迷惑です が 。 いかがでしょう 皆さん ( そう いって 彼 は 一座 を 見渡した 。 あらかじめ 申し合わせ が できて いた らしく 一同 は 待ち 設けた ように うなずいて 見せた ) どう じゃ ろう 葉子 さん 」・・
葉子 は 乞食 の 嘆願 を 聞く 女王 の ような 心持ち で 、○○ 局長 と いわ れる この 男 の いう 事 を 聞いて いた が 、 財産 の 事 など は どう で も いい と して 、 妹 たち の 事 が 話題 に 上る と ともに 、 五十川 女史 を 向こう に 回して 詰問 の ような 対話 を 始めた 。 なんといっても 五十川 女史 は その 晩 そこ に 集まった 人々 の 中 で は いちばん 年配 で も あった し 、 いちばん はばかられて いる の を 葉子 は 知っていた 。 五十川 女史 が 四角 を 思い出さ せる ような 頑丈な 骨組み で 、 がっしり と 正座 に 居直って 、 葉子 を 子供 あしらい に しよう と する の を 見て取る と 、 葉子 の 心 は 逸り 熱した 。 ・・
「 い ゝ え 、 わがままだ と ばかり お 思い に なって は 困ります 。 わたし は 御 承知 の ような 生まれ で ございます し 、 これ まで も たびたび 御 心配 かけて 来て おります から 、 人様 同様に 見て いただこう と は これっぱ かり も 思って は おりません 」・・
と いって 葉子 は 指 の 間 に なぶって いた 楊枝 を 老女 史 の 前 に ふい と 投げた 。 ・・
「 しかし 愛子 も 貞 世 も 妹 で ございます 。 現在 わたし の 妹 で ございます 。 口幅ったい と 思 し 召す かも しれません が 、 この 二 人 だけ は わたした とい 米国 に おり まして も 立派に 手 塩 に かけて 御覧 に いれます から 、 どう か お 構い なさら ず に くださ い まし 。 それ は 赤坂 学院 も 立派な 学校 に は 違い ございます まい 。 現在 私 も おば さま の お 世話で あす こ で 育てて いただいた のです から 、 悪く は 申した く は ございませ ん が 、 わたし の ような 人間 が 、 皆様 の お 気 に 入ら ない と すれば …… それ は 生まれつき も ございましょう と も 、 ございましょう けれども 、 わたし を 育て上げた の は あの 学校 で ございます から ねえ 。 何しろ 現在 いて 見た 上 で 、 わたし この 二 人 を あす こ に 入れる 気 に は なれません 。 女 と いう もの を あの 学校 で は いったい なんと 見て いる ので ご ざん す か しら ん ……」・・