Section 031 - Kokoro - Soseki Project
十六
私 の 行った の は まだ 灯 の 点く か 点かない 暮れ方 であった が 、几帳面な 先生 は もう 宅 に いなかった 。 「時間 に 後れる と 悪い って 、つい 今しがた 出掛けました 」と いった 奥さん は 、私 を 先生 の 書斎 へ 案内 した 。 書斎 に は 洋 机 と 椅子 の 外 に 、沢山の 書物 が 美しい 背 皮 を 並べて 、硝子 越 に 電燈 の 光 で 照らされて いた 。 奥さん は 火鉢 の 前 に 敷いた 座蒲団 の 上 へ 私 を 坐らせて 、「ちっと そこ い らに ある 本 でも 読んで いて 下さい 」と 断って 出て 行った 。 私 は ちょうど 主人 の 帰り を 待ち受ける 客 の ような 気 が して 済まなかった 。 私 は 畏まった まま 烟草 を 飲んで いた 。 奥さん が 茶の間 で 何か 下女 に 話している 声 が 聞こえた 。 書斎 は 茶の間 の 縁側 を 突き当って 折れ曲った 角 に ある ので 、棟 の 位置 から いう と 、座敷 より も かえって 掛け離れた 静かさ を 領していた 。 ひとしきり で 奥さん の 話し声 が 已む と 、後 は しんと した 。 私 は 泥棒 を 待ち受ける ような 心 持 で 、凝 と し ながら 気 を どこ か に 配った 。
三十 分 ほど する と 、奥さん が また 書斎 の 入口 へ 顔 を 出した 。 「おや 」と いって 、軽く 驚いた 時 の 眼 を 私 に 向けた 。 そうして 客 に 来た 人 の ように 鹿 爪 らしく 控えている 私 を おかし そうに 見た 。
「それ じゃ 窮屈 でしょう 」
「いえ 、窮屈 じゃ ありません 」 「でも 退屈 でしょう 」
「 いいえ 。 泥棒 が 来る か と 思って 緊張 して いる から 退屈で も ありません 」 奥さん は 手 に 紅茶 茶碗 を 持った まま 、笑い ながら そこ に 立って いた 。
「ここ は 隅っこ だ から 番 を する に は 好く ありません ね 」と 私 が いった 。 「じゃ 失礼 です が もっと 真中 へ 出て 来て 頂戴 。 ご 退屈 だろう と 思って 、お茶 を 入れて 持って 来た んです が 、茶の間 で 宜しければ あちら で 上げます から 」