45.2 或る 女
そのころ から 葉子 は しばしば 自殺 と いう 事 を 深く 考える ように なった 。 それ は 自分 でも 恐ろしい ほど だった 。 肉体 の 生命 を 絶つ 事 の できる ような 物 さえ 目 に 触れれば 、 葉子 の 心 は おびえ ながら も はっと 高鳴った 。 薬局 の 前 を 通る と ずらっと ならんだ 薬 びん が 誘惑 の ように 目 を 射た 。 看護 婦 が 帽子 を 髪 に とめる ため の 長い 帽子 ピン 、 天井 の 張って ない 湯 殿 の 梁 、 看護 婦 室 に 薄 赤い 色 を して 金 だ らい に たたえられた 昇 汞水 、 腐敗 した 牛乳 、 剃刀 、 鋏 、 夜ふけ など に 上野 の ほう から 聞こえて 来る 汽車 の 音 、 病室 から ながめられる 生理 学 教室 の 三 階 の 窓 、 密閉 さ れた 部屋 、 しごき 帯 、…… なんでも か でも が 自分 の 肉 を 喰 む 毒 蛇 の ごとく 鎌 首 を 立てて 自分 を 待ち伏せ して いる ように 思えた 。 ある 時 は それ ら を この上 なく 恐ろしく 、 ある 時 は また この上 なく 親しみ 深く ながめ やった 。 一 匹 の 蚊 に ささ れた 時 さえ それ が マラリヤ を 伝える 種類 である か ない か を 疑ったり した 。 ・・
「 もう 自分 は この 世の中 に 何の 用 が あろう 。 死 に さえ すれば それ で 事 は 済む のだ 。 この上 自身 も 苦しみ たく ない 。 他人 も 苦しめ たく ない 。 いやだ いやだ と 思い ながら 自分 と 他人 と を 苦しめて いる の が 堪えられ ない 。 眠り だ 。 長 い眠り だ 。 それ だけ の もの だ 」・・
と 貞 世 の 寝息 を うかがい ながら しっかり 思い込む ような 時 も あった が 、 同時に 倉地 が どこ か で 生きて いる の を 考える と 、 たちまち 燕 返し に 死 から 生 の ほう へ 、 苦しい 煩悩 の 生 の ほう へ 激しく 執着 して 行った 。 倉地 の 生きて る 間 に 死んで なる もの か …… それ は 死 より も 強い 誘惑 だった 。 意地 に かけて も 、 肉体 の すべて の 機関 が めちゃめちゃに なって も 、 それ でも 生きて いて 見せる 。 …… 葉子 は そして その どちら に も ほんとうの 決心 の つか ない 自分 に また 苦しま ねば なら なかった 。 ・・
すべて の もの を 愛して いる の か 憎んで いる の か わから なかった 。 貞 世に 対して で すら そう だった 。 葉子 は どうかする と 、 熱 に 浮かされて 見さかい の なくなって いる 貞 世 を 、 継母 が まま 子 を いびり 抜く ように 没 義道 に 取り扱った 。 そして 次の 瞬間 に は 後悔 しきって 、 愛子 の 前 でも 看護 婦 の 前 でも 構わ ず に おいおい と 泣 きくず おれた 。 ・・
貞 世 の 病状 は 悪く なる ばかりだった 。 ・・
ある 時 伝染 病室 の 医 長 が 来て 、 葉子 が 今 の まま で いて は とても 健康 が 続か ない から 、 思いきって 手術 を したら どう だ と 勧告 した 。 黙って 聞いて いた 葉子 は 、 すぐ 岡 の 差し入れ 口 だ と 邪推 して 取った 。 その 後ろ に は 愛子 が いる に 違いない 。 葉子 が 付いて いた ので は 貞 世 の 病気 は な おる どころ か 悪く なる ばかりだ ( それ は 葉子 も そう 思って いた 。 葉子 は 貞 世 を 全快 さ せて やりたい のだ 。 けれども どうしても いびら なければ いら れ ない のだ 。 それ は よく 葉子 自身 が 知っている と 思って いた )。 それ に は 葉子 を なんとか して 貞 世 から 離して おく の が 第 一 だ 。 そんな 相談 を 医 長 と した もの が いない はず が ない 。 ふむ 、…… うまい 事 を 考えた もの だ 。 その 復讐 は きっと して やる 。 根本 的に 病気 を なおして から して やる から 見て いる が いい 。 葉子 は 医 長 と の 対話 の 中 に 早くも こう 決心 した 。 そうして 思いのほか 手っ取り早く 手術 を 受けよう と 進んで 返答 した 。 ・・
婦人 科 の 室 は 伝染 病室 と は ずっと 離れた 所 に 近ごろ 新築 さ れた 建て 物 の 中 に あった 。 七 月 の なかば に 葉子 は そこ に 入院 する 事 に なった が 、 その 前 に 岡 と 古藤 と に 依頼 して 、 自分 の 身 ぢか に ある 貴重 品 から 、 倉地 の 下宿 に 運んで ある 衣類 まで を 処分 して もらわ なければ なら なかった 。 金 の 出所 は 全く とだえて しまって いた から 。 岡 が しきりと 融通 しよう と 申し出た の も すげなく 断わった 。 弟 同様 の 少年 から 金 まで 融通 して もらう の は どうしても 葉子 の プライド が 承知 し なかった 。 ・・
葉子 は 特等 を 選んで 日当たり の いい 広々 と した 部屋 に はいった 。 そこ は 伝染 病室 と は 比べもの に も なら ない くらい 新式 の 設備 の 整った 居心地 の いい 所 だった 。 窓 の 前 の 庭 は まだ 掘り くり返した まま で 赤土 の 上 に 草 も 生えて い なかった けれども 、 広い 廊下 の 冷ややかな 空気 は 涼しく 病室 に 通りぬけた 。 葉子 は 六 月 の 末 以来 始めて 寝床 の 上 に 安 々 と からだ を 横たえた 。 疲労 が 回復 する まで しばらく の 間 手術 は 見合わせる と いう ので 葉子 は 毎日 一 度 ずつ 内 診 を して もらう だけ で する 事 も なく 日 を 過ごした 。 ・・
しかし 葉子 の 精神 は 興奮 する ばかりだった 。 一 人 に なって 暇に なって みる と 、 自分 の 心身 が どれほど 破壊 されて いる か が 自分 ながら 恐ろしい くらい 感ぜられた 。 よく こんな ありさま で 今 まで 通して 来た と 驚く ばかりだった 。 寝 台 の 上 に 臥 て みる と 二度と 起きて 歩く 勇気 も なく 、 また 実際 でき も し なかった 。 ただ 鈍痛 と のみ 思って いた 痛み は 、 どっち に 臥 返って みて も 我慢 の でき ない ほど な 激痛 に なって いて 、 気 が 狂う ように 頭 は 重く うずいた 。 我慢 に も 貞 世 を 見舞う など と いう 事 は でき なかった 。 ・・
こうして 臥 ながら に も 葉子 は 断片 的に いろいろな 事 を 考えた 。 自分 の 手 もと に ある 金 の 事 を まず 思案 して みた 。 倉地 から 受け取った 金 の 残り と 、 調度 類 を 売り払って もらって できた まとまった 金 と が 何も か に も これ から 姉妹 三 人 を 養って 行く ただ 一 つ の 資本 だった 。 その 金 が 使い 尽くさ れた 後 に は 今 の ところ 、 何 を どう する と いう 目途 は 露 ほど も なかった 。 葉子 は ふだん の 葉子 に 似合わ ず それ が 気 に なり 出して しかたがなかった 。 特等 室 なぞ に はいり込んだ 事 が 後悔 さ れる ばかりだった 。 と いって 今に なって 等級 の 下がった 病室 に 移して もらう など と は 葉子 と して は 思い も よら なかった 。 ・・
葉子 は ぜいたくな 寝 台 の 上 に 横 に なって 、 羽根 枕 に 深々と 頭 を 沈めて 、 氷嚢 を 額 に あてがい ながら 、 かんかん と 赤土 に さして いる 真夏 の 日 の 光 を 、 広々 と 取った 窓 を 通して ながめ やった 。 そうして 物心 ついて から の 自分 の 過去 を 針 で 揉み 込む ような 頭 の 中 で ずっと 見渡す ように 考え たどって みた 。 そんな 過去 が 自分 の もの な の か 、 そう 疑って 見 ねば なら ぬ ほど に それ は はるかに も かけ 隔たった 事 だった 。 父母 ―― ことに 父 の なめる ような 寵愛 の 下 に 何一つ 苦労 を 知ら ず に 清い 美しい 童 女 と して すら すら と 育った あの 時分 が やはり 自分 の 過去 な のだろう か 。 木部 と の 恋 に 酔い ふけって 、 国分寺 の 櫟 の 林 の 中 で 、 その 胸 に 自分 の 頭 を 託して 、 木部 の いう 一 語 一 語 を 美 酒 の ように 飲みほした あの 少女 は やはり 自分 な のだろう か 。 女 の 誇り と いう 誇り を 一身 に 集めた ような 美貌 と 才能 の 持ち主 と して 、 女 たち から は 羨望 の 的 と なり 、 男 たち から は 嘆 美 の 祭壇 と さ れた あの 青春 の 女性 は やはり この 自分 な のだろう か 。 誤解 の 中 に も 攻撃 の 中 に も 昂 然 と 首 を もたげて 、 自分 は 今 の 日本 に 生まれて 来 べき 女 で は なかった のだ 。 不幸に も 時 と 所 と を 間違えて 天上 から 送ら れた 王女 である と まで 自分 に 対する 矜誇 に 満ちて いた 、 あの 妖婉 な 女性 は ま ごう かた なく 自分 な のだろう か 。 絵 島 丸 の 中 で 味わい 尽くし なめ 尽くした 歓楽 と 陶酔 と の 限り は 、 始めて 世に 生まれ 出た 生きがい を しみじみ と 感じた 誇り が な しばらく は 今 の 自分 と 結びつけて いい 過去 の 一 つ な のだろう か …… 日 は かんかん と 赤土 の 上 に 照りつけて いた 。 油蝉 の 声 は 御殿 の 池 を めぐる 鬱蒼たる 木立 ち の ほう から し み入る ように 聞こえて いた 。 近い 病室 で は 軽 病 の 患者 が 集まって 、 何 か みだら らしい 雑談 に 笑い 興じて いる 声 が 聞こえて 来た 。 それ は 実際 な の か 夢 な の か 。 それ ら の すべて は 腹立たしい 事 な の か 、 哀しい 事 な の か 、 笑い 捨 つ べき 事 な の か 、 嘆き 恨ま ねば なら ぬ 事 な の か 。 …… 喜怒哀楽 の どれ か 一 つ だけ で は 表わし 得 ない 、 不思議に 交錯 した 感情 が 、 葉子 の 目 から とめど なく 涙 を 誘い出した 。 あんな 世界 が こんな 世界 に 変わって しまった 。 そうだ 貞 世 が 生死 の 境 に さまよって いる の は まちがい よう の ない 事実 だ 。 自分 の 健康 が 衰え 果てた の も 間違い の ない 出来事 だ 。 もし 毎日 貞 世 を 見舞う 事 が できる のならば このまま ここ に いる の も いい 。 しかし 自分 の からだ の 自由 さえ 今 は きか なく なった 。 手術 を 受ければ どうせ 当分 は 身動き も でき ない のだ 。 岡 や 愛子 …… そこ まで 来る と 葉子 は 夢 の 中 に いる 女 で は なかった 。 まざまざ と した 煩悩 が 勃然 と して その 歯 が み した 物 すごい 鎌 首 を きっと もたげる のだった 。 それ も よし 。 近く いて も 看視 の きか ない の を 利用 した くば 思う さま 利用 する が いい 。 倉地 と 三 人 で 勝手な 陰謀 を 企てる が いい 。 どうせ 看視 の きか ない もの なら 、 自分 は 貞 世 の ため に どこ か 第 二流 か 第 三流 の 病院 に 移ろう 。 そして いくら でも 貞 世 の ほう を 安楽に して やろう 。 葉子 は 貞 世 から 離れる と いちずに その あわれ さ が 身 に しみて こう 思った 。 ・・
葉子 は ふと つや の 事 を 思い出した 。 つや は 看護 婦 に なって 京 橋 あたり の 病院 に いる と 双 鶴 館 から いって 来た の を 思い出した 。 愛子 を 呼び寄せて 電話 で さがさ せよう と 決心 した 。