ソードアート ・オンライン 2 アインクラッド (2)
祈り つつ 、陽炎 の よう に 揺らいで いる 転送 ゾーン に 足 を 踏み入れた。 一瞬 の めまい に 似た 感覚 の あと 、眼前 に 広がった の は ──当然の よう に 、今 まで と 何ら 変わら ぬ 深い 森 だった。 木立 の 奥 は 夕闇 に 沈み 、森 を 包んで いる はずの 草原 は かけら も 見え ない。
げん なり し つつ 、再び 歩き 出そう と した 時──。 肩 の 上 で ピナ が さっと 頭 を もたげ 、一声 鋭く 、き ゅるっ! と 鳴いた。 警戒 音 だ。 シリカ は すばやく 腰 から 愛用 の 短 剣 を 抜き 、ピナ の 見据える 方向 へ 身構えた。
数 秒 後 、苔 むした 巨木 の 陰 から 、低い 唸り 声 が 聞こえて きた。 視線 を 集中 する と 、黄色い カーソル が 表示 さ れる。 複数 だ。 二 ……、いや 、三 匹。 モンスター の 名前 は 《ドランクエイプ 》、迷い の 森 で 出現 する 中 で は 最強 クラス の 猿人 だ。 シリカ は 唇 を 嚙 ん だ。
と は 言え──。
レベル 的に は 、それ ほど の 危地 と いう わけで も なかった。
シリカ たち 中層 クラス の プレイヤー が フィールド に 出る 場合 、出現 モンスター に 対して 充分 すぎる ほど の 安全 マージン を 取る の が 通例 である。 目安 的に は 、ソロ で 五 匹 の モンスター に 囲まれた 場合 でも 、回復 手段 無し で 勝てる 程度 以上 、と いう こと に なる。
なぜなら 、最 前線 で ゲーム クリア 目指して 戦う トップ 剣士 たち と は 違い 、中層 プレイヤー が 冒険 を 行う 理由 は 、一つには 日々 の 生活 に 必要な お 金 を 得る ため 、二 つ 目 は 中層 クラス に 留まる ため の 最低 限 の 経験 値 稼ぎ 、三 つ 目 に ぶっちゃ け 退屈しのぎ 、と いった ところ だから だ。 どれ も 、現実 の 死 を 賭ける ほど の 目的 と は 到底 言い難い。 実際 《はじまり の 街 》に は 、死 の 可能 性 を わずかで も 増やす こと を 忌避 した プレイヤー たち が 千人 以上 も 残って いる。
しかしながら 、そこそこ の 食事 を し 、宿屋 の ベッド で 寝る ため に は 定期 的 な 収入 が 必要だ し 、何より プレイヤー の 平均 的 レベル 圏 内 に おさまり 続けて いない と 不安に なって しまう の が MMO プレイヤー の 宿 痾 と いう こと も あって 、ゲーム 開始 から 一 年 半 近く が 経過 した 現在 で は 、ボリューム ゾーン を 形成 する プレイヤー たち は 充分 以上 の マージン を 取った 上 で フィールド に 出かけ 、それなり に 冒険 を 楽しむ よう に なって きて いた。
それゆえ──。 三十五 層 最強 クラス の ドランクエイプ 三 匹 と いえ ども 、竜 使い シリカ の 敵 で は ない 、はずだった。
疲労 した 精神 に 鞭 を 入れて 、シリカ は 短 剣 を 構えた。 肩 から ピナ が ふわり と 飛び上がり 、こちら も 臨戦 態勢 を 取る。
木立 の 奥 から 現れた の は 、全身 を 暗 赤色 の 毛皮 に 包んだ 大柄な 猿人 たち だった。 右手 に 粗末な 棍棒 を 握り 、左手 に は 瓢 簞 に ヒモ を つけた ような 壺 を 下げて いる。
猿人 が 棍棒 を 振り上げ 、犬歯 を むき 出して 雄 叫び を 上げて いる 最中 に 、先手 必勝 と ばかり に シリカ は 先頭 の 一 匹 に 向かって 地 を 蹴った。 短 剣 スキル の 中級 突進 技 《ラピッドバイト 》を 命中 させて 大きく HP を 削り 、そのまま 短 剣 の 身上 である 高速 連続 技 に 持ち込んで 圧倒 する。
ドランクエイプ が 使用 する の は 低 レベル の メイススキル で 、一撃 の 威力 は そこそこ 大きい もの の 攻撃 スピード も 連続 技 の 段 数 も 大した こと は ない。 シリカ は 連 撃 を 的確に 浴びせて は 素早く 飛び退って 敵 の 反撃 を かわし 、また 踏み込む と いう ヒットアンドアウェイ を 繰り返して たちまち 一 匹 目 の HP バー を 減らして いった。 ピナ も 時折 しゃ ぼん 玉 の ような ブレス を 吐き 、猿 の 目 を 幻惑 する。
四 度 目 の アタック で 連続 技 《ファッドエッジ 》を 放ち 、最初の 猿人 に とどめ を 刺そう と した 寸前。
一瞬 の 間 を ついて 、目標 の 右 後方 から 新たな 敵 が 前面 に スイッチ して きた。 シリカ は やむなく 標的 を 変更 し 、二 匹 目 の HP を 削り に かかった。 最初の 猿 は 後方 に 退き 、何やら 左手 の 壺 を 呷って いる──。
と 、視界 の 端で 一 匹 目 の ドランクエイプ の HP バー を チェック して いた シリカ を 驚愕 させる 現象 が 起こった。 バー が かなり の 速度 で 回復 して いく のだ。 どうやら 壺 に は 、何らか の 回復 剤 が 入って いる らしい。
ドランクエイプ と は 以前 に も この 三十五 層 で 戦闘 した こと が あり 、その 時 は 二 匹 を 労せ ず に 蹴散らした。 スイッチ させる 余裕 すら 与え なかった ので 、よもや こんな 特殊 能力 を 持って いる と は 気付か なかった。 シリカ は 歯 嚙 み を し つつ 、二 匹 目 を 確実に 仕留める こと に 全力 を 傾ける。
だが。 猛攻 の 末 に 二 匹 目 の バー を レッド 領域 に まで 減少 さ せ 、とどめ の 強 攻撃 を 見舞う べく 距離 を 取った 瞬間 、またしても 横合い から 無理やり 割り込まれた。 三 匹 目 の ドランクエイプ だ。 見る と 、最初の 猿 は もう ほとんど HP を フル 回復 させて しまって いる。
これ で は キリ が ない。 口 の 奥 に 、焦り の 味 が じわじわ と 広がって いく。
シリカ は 、そもそも ソロ で モンスター と 戦った 経験 が ほとんど なかった。 レベル 的 な 安全 マージン と いう の は あくまで 数値 の 話 であって 、プレイヤー 自身 の スキル は また 別の 問題 だ。 想定 外 の 事態 に 際して 、シリカ の 中 に 生まれた 焦り は 徐々に パニック の 色彩 を 帯び 始める。 徐々に ミス アタック が 増加 し 、それ は 同時に 敵 の 反撃 も 呼ぶ。
三 匹 目 の ドランクエイプ の HP バー を 、どうにか 半分 ほど 減らした 時。 連続 技 に 連続 技 を 繫 げ よう と 深追い し すぎた シリカ の 硬直 時間 を 見逃さ ず 、とうとう 猿人 の 一撃 が クリティカル で 命中 した。
棍棒 は 木 を 削った だけ の 粗末な もの だった が 、重量 ゆえ の 基本 ダメージ と ドランクエイプ の 筋力 補正 に よって 、シリカ の HP は 思い も よら ぬ 量 、三 割 近く も 減少 した。 背中 に 冷たい もの が 走る。
回復 ポーション の 手持ち が 尽きて いる こと も 、シリカ の 動揺 を 大きく した。 ピナ が 回復 ブレス で 回復 させて くれる HP は 一 割 程度 、しかも そう 頻繁に 使える もの で は ない。 それ を 計算 に いれて も 、あと 三 回 同じ ダメージ を 受ける と ──死んで しまう。
死。 その 可能 性 が 脳裏 を 横切った 途端 、シリカ は 竦んで しまった。 腕 が 上がら ない。 脚 が 動か ない。
今 まで 、彼女 に とって 戦闘 と いう の は 、スリル は あって も リアルな 危険 と は 遠い もの だった。 その 延長 線上 に 、本当の 《死 》が 待って いる なんて 思い も し なかった──。
雄 叫び を 上げ 、再び 棍棒 を 高く 振り上げる ドランクエイプ の 前 で 目 を 見開いて 硬直 し ながら 、シリカ は 初めて SAO に おける 対 モンスター 戦 の 何たる か を 悟って いた。 ゲーム であって も 遊び で は ない 、その 矛盾 した 真実 を。
鈍い 唸り と ともに 降り 下ろされた 棍棒 が 、棒立ち に なった シリカ を 襲った。 強烈な 衝撃 に 耐え 切れ ず 、地面 に 倒れて しまう。 HP バー が ぐ いっと 減少 し 、黄色い 注意 域 へ と 突入 する。
もう 、何も 考えられ なかった。 走って 逃げる。 転移 結晶 を 使う。 取り 得る 選択肢 は まだ あった のに 、シリカ は 呆然と 三 たび 振り上げられる 棍棒 を 見つめる こと しか でき なかった。
粗雑な 武器 が 赤い 光 を 放ち 、反射 的に 眼 を 閉じよう と した 、その 寸前。
空中 で 、棍棒 の 前 に 飛び込んだ 小さな 影 が あった。 重苦しい 衝撃 音。 エフェクト 光 と ともに 水色 の 羽毛 が ぱっと 散り 、同時に ささやかな HP バー が 左 端 まで 減少 した。
地面 に 叩きつけられた ピナ は 、首 を 上げ 、つぶらな 青い 瞳 で シリカ を 見つめた。 一声 、小さく 「き ゅる ……」と 鳴いて ──直後 、きらきら した ポリゴン の 欠 片 を 振りまき ながら 砕け 散った。 長い 尾 羽 が 一 枚 ふわり と 宙 を 舞い 、地面 に 落ちた。
シリカ の 中 で 、音 を 立てて 何 か が 切れた。 全身 を 縛って いた 見えない 糸 が 消滅 した。 悲しみ より 先 に 、怒り を 感じた。 たかが 一撃 食らった だけ で パニック を 起こし 、動け なく なって しまった 自分 へ の 怒り。 そして それ 以前 に 、ささいな ケンカ で へそ を 曲げ 、単独 で 森 を 突破 できる と 思い上がった 、愚かな 自分 へ の 怒り を。
シリカ は 俊 敏 な 動き で 飛び退 り 、モンスター の 追撃 を かわす と 、叫び声 を 上げ ながら 敵 に 猛然と 襲い掛かった。 右手 の 短 剣 を 閃 か せ 、猿人 の 体 に 次々 と 叩き込む。
仲間 の 体力 が 減った と 見る や 、再び 割り込もう と して きた 最初 の ドランクエイプ の 棍棒 を 、シリカ は 避け ず に 左手 で 受けた。 直撃 ほど で は ない が HP バー が 減少 する。 しかし それ を 無視 し 、あくまで 三 匹 目 、ピナ を 殺した 敵 を 追う。
小さな 体 を 活 かして 懐 に 飛び込み 、全身 の 力 を 込めて 短 剣 を 猿人 の 胸 に 撃ち込んだ。 クリティカルヒット の 派手な エフェクト と 同時に 、敵 の HP が 消滅 した。 悲鳴。 直後 に 破砕 音。
爆散 する オブジェクト の 破片 の 中 、シリカ は 振り返る と 、無言 で 新たな 目標 へ と 突撃 した。 ゲージ は すでに 赤い 危険 域 に 突入 して いた が 、それ すら も もう 意識 し なかった。 狭 窄 した 視界 の 中 に 、殺す べき 敵 の 姿 だけ が 大きく 広がった。
死 の 恐怖 すら も 忘れ 、振り下ろさ れる 棍棒 の 真 下 に 無謀な 突撃 を 強行 しよう と した 時。
二 匹 並んだ ドランクエイプ を 、その 背後 から 横 一 文字 に 純白の 光 が 薙いだ。
一瞬 で 、猿 たち の 体 が 上下 に 分断 さ れ 、次々 と 絶叫 と 破壊 音 を 振りまき ながら 砕け 散った。
呆然と 立ち尽くした シリカ は 、オブジェクト 片 が 蒸発 して いく その 後ろ に 、一人 の 男性 プレイヤー が 立って いる の を 見た。 黒 髪 に 黒い コート。 背 は それ ほど 高くない が 、男 の 全身 から は 強烈な 威圧 感 が 放出 されて いる よう に 思えた。 本能 的 な 恐怖 を 覚え 、シリカ は わずかに 後 ず さった。 二人 の 目 が 合った。
相手 の 瞳 は 、しかし 穏やかで 、夜 の 闇 の よう に 深かった。 男 は 右手 に 握った 片手 剣 を 背中 の 鞘 に チン 、と 音 を 立てて 収め 、口 を 開いた。
「……すまなかった。 君 の 友達 、助けられ なかった……」
その 声 を 聴いた 途端 、シリカ の 全身 から 力 が 抜けた。 堪えよう も なく 、次々 と 涙 が 溢れて きた。 短 剣 が 手 から 滑り落ち 、地面 に 転がった の も 気づか ず 、シリカ は 視線 を 地面 の 上 の 水色 の 羽根 に 移す と 、その 前 に がくり と 跪いた。
熱く 渦巻いて いた 怒り が 消え去る と 同時に 、とてつもなく 深い 悲しみ と 喪失 感 が 胸 の 奥 に 湧き上がって きた。 それ は 涙 に 形 を 変え 、頰 を とめど なく 流れ 落ちて いく。
使い 魔 の AI に は 、自ら モンスター に 襲い掛かる と いう 行動 パターン は 存在 しない はずだ。 だから あの 時 、振り下ろさ れる 棍棒 の 前 に 飛び込んだ の は ピナ 自身 の 意思 、一 年間 に わたって 共に 暮らして きた シリカ と の 友情 の 証 である と 言えた。
嗚咽 を 洩らし ながら 、両手 を 地面 に つき 、シリカ は 言葉 を 絞り出した。
「お 願い だ よ ……あたし を 独り に し ないで よ ……ピナ……」
水色 の 羽根 は 、しかし 、何の いら え も 返さ なかった。
2
「……すまなかった」
再び 、黒衣 の 男 の 声 が した。 シリカ は 必死に 涙 を 収め 、首 を 振った。
「……いいえ ……あたし が ……バカだった ん です……。 ありがとう ございます ……助けて くれて……」
嗚咽 を 堪え ながら 、どうにか それ だけ を 口 に する。
男 は ゆっくり 歩み寄って くる と 、シリカ の 前 に 跪き 、再び 遠慮がちな 声 を 発した。